第二術科学校内にある資料室は基本一般公開なので、
多分申し込んだら誰でも見学できるとは思うのですが、
施設の性質上構内に誰でも入れるわけではないので、
見学したい方は2術がオープンスクールなどで公開されるときに
横須賀から出ている「海上シャトル便」 で行ってみるのもいいですね。
このときに案内してくれた自衛官が、確か近々公開の機会があるので
ぜひ来てください、とバスの中でいい、それに対して参加者が
「ホームページで見られますか」
と聞いたら確かにはいと返事があったと思うのですが、2術のHPには
全くそれらしいお知らせはありません。
うーん・・何かの間違いだったのかな。
ガラスケースの中の資料を写すのに一生懸命になって、
資料館全体の写真を撮るのを忘れたので、リーフレットから転載。
このように、6,500点あまりの展示物が見やすく展示されています。
この日の団体は防衛関係だったのである意味当然かとも思いますが、
こういう一行の中には必ず一定数いる「アマチュア軍事評論家」が、
この日も特に日露戦争の資料のあるケースを中心にして、活発に、
質問というより日頃蓄積した知識の披露に興じる一幕がありました。
別にこの方々のことを言うのではありませんが、自衛隊の公開イベントで、
自衛官に一番疎まれるのが、実は「知識披露型」なのだそうです。
●護衛艦は90度以上傾斜(横倒し)しても復元するよう設計されている。
何度なのかは機密だが、一般公開でこれを自衛官に質問し、
自衛官が返答に窮していると、『150度だ!勉強しろ!』と怒鳴って立ち去る
(ちなみにこれは間違いらしい)
●護衛艦の出港時、艦の周波数に合わせ『無事航海を祈る』という信号を送ってくる。
そして『次の行先は○○と推測される。航海途中、○○沖で溺者救助訓練、
対航空戦の訓練を行うと思うが、艦長の指揮ぶりを見ている』
などと、艦内通信を傍受して、ひけらかすような内容の信号を送ってくる。
●独自に考えた尖閣・竹島奪還のオペレーションを一般見学の際、
約1時間にわたって幹部自衛官に一方的に披露する。
これらは論外としても、暇に任せて仕入れたオタ知識を披露したところで、
大抵の自衛官は感心どころか、内心迷惑がっているかもしれないってことです。
S-10のSが「掃海」のSであることを、広報の自衛官が知らなかったので
つい勝ち誇ってしまったわたしに言う資格はないと言う説もありますが。
さて、知識披露型になるかどうかは別にして、戦史、とくに海軍史、
その中でも日露戦争の知識を、司馬遼太郎の著書から得るタイプがいます。
熱心に読み込むあまり、司馬史観もそっくり受け入れてしまうような読者です。
わたしはこの団体では超若輩なので、というか写真を撮るのに忙しく、
グループの議論に参加せず、遠巻きに耳だけで聞いていたのですが、
どうもこの日の参加者に、そういう司馬ファンの方がおられたようです。
「司馬遼太郎が書いてたんだけど、知らない?」
「・・知りません」(自衛官)
「このときにあれではこうなってたんだけど、何々はなんとかだったんでしょ」
「・・知りません」(自衛官)
という気まずいやりとりが二回繰り返されてからのち、
話の切れ目をとらえた自衛官が柔らかい口調で、しかしキッパリと
「司馬遼太郎は自分の好き嫌いを元にかなり史実を改変して書いていますから。
『坂の上の雲』なども自分が評価しない人物のことは無茶苦茶書いてますし、
あれは小説としてはいいですが、あまり鵜呑みにされない方がいいかと思います」
と一団に向かっていい切ったとき、わたしは思わず彼に惚れたね。(比喩的表現)
ええ、もしかしたらこの自衛官は、主人公の秋山真之を良く書くために
有馬良橘を必要以上に貶めたり、自分の思想をさりげなく盛り込むために
秋山をPTSDの腑抜けに書いた司馬遼太郎の悪行?を暴いた当ブログの記事を
読んだことがあるのではないか?と思ったくらい、激しく同意しましたよ。
いくらちゃんと勉強をされているといっても、資料館の解説を行う自衛官が、
重箱の隅をつつくような知識や司馬の創作まで知らなくて当然です。
そもそも自衛官相手に解説を始めずにはいられない知識豊富な方が相手では、
はっきりいってきりがないと、彼らもあきらめているでしょう。
先ほどの記事によると、こんな時に自衛官は内心どう思っても決して逆らわず、
「よくご存知ですねと褒め気持ちよくさせてあしらう」のだそうです。
武器装備や軍事知識について自衛官と話をしている時にこの台詞が出たら、
もしかしたら相手を辟易させているのかも、とちょっと自分を振り返ってみましょう。
まあ、この記事の自衛官が皆本物という証拠もないんですけどね。
市ヶ谷の記念館にも同じようなガラス写真を見ましたが、
ここで陛下のお立ちになっているのは土を盛った「台」です。
これは昭和10年11月13日、鹿児島県宮崎の都城飛行場で撮られたもので、
特別大演習が終了したあとの記念写真です。
これほどたくさんいても何が何でも全員で写真を撮るのが日本軍。
後ろの人は顔なんか全くわからないのに、それでも撮るか。
この写真には歴史にその名を残す多くの軍人が写っています。
一部ですが、アップしてみました。
前列右から朝香宮殿下、高松宮殿下、(その左後ろ大西滝治郎)
その左前大隈峯夫大将、昭和天皇陛下、二人おいて李 垠(イウン)殿下(歩兵大佐)。
他にも阿南惟幾、南次郎、山下奉文、荒木貞夫、梅津美治郎、南次郎、
真崎甚三郎らが一堂に揃っているという貴重な写真です。
日露戦争後の「凱旋写真」のようです。
東郷元帥と山本権兵衛が並んでいますね。
山本と東郷の間、後ろのヒゲが加藤友三郎、東郷の左が上村彦之丞、
その隣が伊集院五郎、加藤寛治(美保関事件の責任を問われた人)。
海軍について詳しければ知っている名前はこんなところかもしれませんが、
この写真、他に注目すべき人物が二人います。
写真の中列右から3番目に江頭安太郎海軍中将がいます。
同じ列の左から3番目にいるのが山谷他人海軍大将。
この二人の娘息子が結婚して生まれたのが、雅子皇太子妃殿下の母親。
という「それがどーした」な豆知識がわざわざ家系図で記されていました。
ところで、この資料室に入ってすぐ右手の壁に、クエストのように
「芥川龍之介を探せ!」
とキャプションのつけられた二葉の集合写真が掲げてありました。
その一つがこれ。
大正7年11月に撮られた、海軍機関学校27期卒業生の記念写真です。
もう一つの写真は大正6年のものでした。
文豪、芥川龍之介は若き日に海軍機関学校で英語を教えていたことがあるのです。
ちゃんと写真を撮るのを忘れたのでこれもリーフレットからの転載ですが、
これが当時芥川が講義していた英語の教科書。
海軍の学校でつかう教科書らしく「A BATTLESHIP IN ACTION」というタイトルです。
芥川がここで教鞭をとっていたのは、彼が東京帝大を卒業したあとの
大正15(1916)年で、そのときは汐入駅の近くに下宿していたそうです。
機関学校で芥川は8時から15時まで、当初12時間英語を教え、月給は60円、
のち130円まであがったといいます。
大正末期の60円は35,000、130円は7,5000円くらいなので、まあ安月給です。
このころ既にいくつかの作品を発表して作家への道を歩みだした芥川にとって、
東京の文壇仲間から離れて教師をすることは
「不愉快な二重生活だった」
ということです。
彼のような人間にとっては、時間の束縛と建前の生活が一番辛かったようですね。
そもそも彼は自分でも
「教えるのが大嫌いで生徒の顔を見るとうんざりする」
などと手紙に書いているのですから。
「芥川の作品って何かご存知ですか」
と案内の自衛官が誰にともなく尋ねると、そこにいた一人が
「我輩は猫である!」
と答えたのですが、彼は間違えた人に恥を掻かせまいと気を遣ってか、
「蜘蛛の糸とか羅生門とか・・あまりこれっていう有名な作品はないかもしれませんが」
とフォローしていました。(いいやつだ。)
「杜子春」は教科書にも載っていたし、「鼻」「邪宗門」「奉教人の死」
などを子供時代なんども読んだわたしには異論ありまくりでしたが。
(特に”舞踏会”の話の終わりかたが大好きでした)
芥川の作品のうち「蜜柑」は機関学校教職時代の出来事であり、
「堀川安吉」という主人公を登場させる機関学校時代の生活を書いた一連の
「安吉もの」(”あばばばば”など)を書いていますが、芥川は
機関学校の教職はあくまでも「つなぎ」というか、生活のためと思っていたようです。
芥川自身の人事は、前任の英語教師が大本教に入信するために辞職し、
その後釜として東大の英文学者が推薦したという経緯によるものでした。
で、この「芥川を探せ!」にわたしもチャレンジしてみました。
「イケメンです」というヒントだけで正解がなかったのですが(笑)
後列右から二人目、外国人教師の右後ろがそうだと思います。
こちらの写真でも同じ外国人教師の右後ろが芥川だと思われます。
(というか、周りのメンバーは全く同じ配列ですよね)
不愉快と言っているだけあって、気のせいかどちらの写真も憮然としているような。
ちなみに、冒頭写真にはどれが芥川か説明がついていました。
でも、わざわざ答えを書かなくても皆さんもお分かりですよね。
芥川は思想的に左翼で、特に軍的なものを嫌っていたようです。
軍人の階級争いを「幼稚園児のお遊戯みたいだ」などと酷評し、検閲され、
さらに嫌うといった具合でした。
しかし、機関学校の教職を引き受けたということは海軍に対しては
好意的に見ていたということでもあります。
のみならず、陸軍幼年学校のいかにも陸軍的なやり方に不満をもらしていた
フランス語教師の豊島与志雄(のちにフランス文学の翻訳者として有名になる)
を、「海軍の方がいい」と海軍機関学校に引き抜いたということもあります。
あの内田百(けんは門構えに月)も同じく幼年学校の教師であったところ、
芥川の引きで機関学校のドイツ語教師になっています。(多分理由は同じ)
また、当ブログ「甲板士官のお仕事」という項でも書いたことがありますが、
芥川は昭和2年、海軍を舞台にしたにした三編のショートストーリーを書いています。
三つの窓
「鼠」 鼠上陸をするため禁を犯して鼠を”輸入”した下士官を許してやる話
「三人」 人前で罰を与えた下士官がそれを恥として縊死してしまったという話
「一等戦闘艦××」 芥川風味で書かれた「艦これ」(ただし人称は男)
戦艦の名称「××」と「△△」は、最初実名でその後検閲されたのかもしれません。
芥川と海軍の縁はこれだけではありません。
機関学校奉職中に結婚した友人の姉の娘、文子の父は、日露戦争で戦死した
塚本善五郎(最終少佐)という海軍軍人でした。
これは海軍機関学校とは関係なく偶然だったようです。
塚本善五郎は旅順港閉塞作戦の時に「初瀬」の艦長でしたが、
ロシア海軍の機雷に触雷して名誉の戦死を遂げています。
芥川が文子と結婚したのは、この15年もあとのことになります。
芥川龍之介は海軍機関学校で教えていた頃から10年後の1927年(昭和2)、
健康状態を悪化させ、致死量の睡眠薬を飲んで自殺しました。
享年37歳。
機関学校の職を「不愉快」と評した芥川でしたが、少なくともこのころ、
芥川が未来を信じ、将来への希望を抱いていたことは確かです。
たとえそれが、成功してここから抜け出すというものであったとしても。
海軍機関学校生徒を前に教鞭をとる毎日は、この剃刀のような感性を持つ
天才にとってさぞ煩わしいものであったでしょうが、後年苛まれ、
それに彼が命ごと飲み込まれる「ぼんやりした不安」を思えば、
これが芥川の最後の平穏な時期だったのかもしれないという気もします。
続く。