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海軍の名残り~軍港の街舞鶴を訪ねて

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もう去年のことになりますが、シルバーウィークの舞鶴訪問記、続きです。

港巡りの船を降りた後、わたしたちは赤れんが街に向かいました。
横浜に「赤れんが倉庫」というのがあって、どうも「倉庫」と呼んでしまいますが、
こちらでは「赤れんがパーク」と称するようです。
ホームページにが「赤パー」と大きく書いており、どうもこう呼んで欲しそうですが、
海軍海自用語以外はなんでも略せばいいってもんじゃねえ、と考えるわたしとしては
断固「赤パー」の普及には与しないと断言するものです。

ここには海軍カレーの店もあるということで、(というかここしか食べるところはない)
お昼ご飯に向かいました。



赤煉瓦の建物は当時のままに残されており、
このあたりのように中を改造して現在レストランや博物館になっている棟と、
当時のまま全く手付かずの部分があります。

今見えている建物は左から「2号館」「3号館」。

 

奥に見えるのが5号館となります。
それでは1号館はどこかというと、「赤れんが博物館」のことのようです。

2号館は舞鶴市政記念館、3号は「まいづる智慧蔵」、4号は「赤れんが工房」、
そして5号はイベントホールとなっており、この日は中から音楽が聞こえていました。



ここは2号館「智慧蔵」の中。
内部で当時のまま残されているのはれんがの部分だけ。
屋根は内側から補強工事がなされているようです。
窓のステンドグラスも改装時に施工したものでしょうか。

ここにはインフォメーションと、向かいにレストランがあります。
連休のせいで激混みだったので、30分は待つと言われたのですが、
ここしかないので名前を書いて待つことにしました。



2階に展示場があるのに気付きました。
というか、こんな大きな垂れ幕があったら誰でも気付きますがな。

「日本のいちばん長い日」のロケが行われたということで、何か展示があるようです。
これは行くしかない。
が、疲れているのか残りの二人は「行ってらっしゃーい」と腰を上げず。

わたし一人で二階に上がりました。



鈴木貫太郎を演じる山崎努さんが着たタキシード、
迫水久常の堤真一さんが着ていた国民服が展示されていました。



ロケ地の紹介です。
迫水が御前会議のために花押署名を求めるシーン。

これは、この赤れんがパークの一角で撮られました。
海軍仮庁舎という設定です。



ここに来る直前に案内してもらって見たばかりの東郷邸の書斎です。
東郷中将が座って庭を眺めていたという窓際の机に座り、トランプを並べる鈴木首相。

この庭についても先日お話ししましたが、迫水と鈴木がこの庭で
陸軍大臣指名を巡って話し合うシーンもありました。

実際の鈴木首相の邸宅がこうだったと言われても、
きっとそうだっただろうなと思える東郷邸です。

ところで余談ですが、先日横須賀音楽隊のコンサートにご一緒した
兵学校卒の建築家、Sさんは、戦後、この迫水氏に直々の推薦を受けて
ロータリーだかライオンズだか、そういうクラブに入ったということでした。

「お知り合いだったんですか」

と聞くと、全く面識がなかったのだが、迫水氏がクラブを立ち上げるのに
発起人になって人集めもやっており、同じ東大卒だったからではないかということでした。
このような終戦直前から終戦後にかけて歴史の現場に立っていた人物の名前を
意外なところできいて、感慨深かったわたしです。



鈴木首相らが御文庫(戦争中皇居内に作られた防空壕)の地下通路を通り、
最高戦争指導者会議に向かうシーン。


舞鶴の北吸浄水場第一配水池跡で撮影されました。
これも海軍に縁があって、明治34年、舞鶴鎮守府の開庁に向けて、
軍港内の諸施設と艦艇用の飲料水を確保するために作ったものです。

ここに水が貯えられていたってことなんでしょうか。
今回見逃しましたが、是非一度実際に見てみたいです。




出演者のサイン色紙・・・・なんですが、サインそのものはともかく、
「赤れんがパーク様へ」の字が・・・・・。
一番ましなのが堤真一かな。(小声)

そして、山崎努は左手で書いたのか?



赤れんが倉庫群でこれまで行われた映画のロケ。

「夜汽車」「エイジアンブルー」「バルトの楽園」「男たちの大和」「坂の上の雲」「寒椿」・・。





郷土出身の偉大なアスリートの遺品コーナー。
大江季雄はベルリンオリンピックの棒高跳びで三位になった選手です。



ブロンズ像。



肖像画。
舞鶴の大病院の次男で、長兄が医院を継いでおり、本人は
慶応義塾大学に進んでそこで棒高跳びを始めました。 

彼に棒高跳びを指導したのが、早稲田出身の西田修平。 



有名な「友情のメダル」で、二位の西田と三位の大江が半分ずつメダルを割り、
このように(これはレプリカ)継ぎ合わせたものを作りました。

わたしは小さい時、この話を読んで、

「なんで二位と三位が決まったのでそんなことするの?
三位の人はともかく、二位の人は損じゃない」

と今でもきっとそう思うであろうことを思ったわけですが、真実はこうです。

1位がドイツの選手に決まったあと、残った三人のうち一人がバーを落とし、
西田・大江が決着をつけないまま競技は終わりました。

運営は西田が2位であるとしたのですが、西田がこれを不服とし、
表彰式で大江を2位の台に上げ自らは3位の台に立っています。


ここで、二人が争ったのが「自分が上」ではなく「相手が上」
であったというのが、高潔で無私な当時の日本人らしいと思わされます。

帰国後に銀メダルを持ち帰った大江の兄が間違いに気付き、
西田の元に銀メダルを持って行ったのだそうですが、悩んだ西田が
知人の経営する宝石店で2つを切ってつなぎ合わせ、
「友情のメダル」が誕生したのです。



敬礼をする1位のメドウス選手(アメリカ)。
大江選手も西田選手も背が高く垢抜けしてイケメンです。

オリンピックが終わってから、4年後、大江選手は陸軍に召集され
フィリピン・ルソンでの戦闘で戦死しました。

メダルを西田のところに持って行ったのは大江選手の兄であったということですが、
もしかしたらこのとき大江選手はもう戦死していたのでしょうか。



さて、舞鶴は軍港として発展した街です。



軍港ゆえ、臨港鉄道も敷設されました。
写真上は駆逐艦「海風」(白露型)の進水式。

「海風」は舞鶴工廠で昭和16年(1936) 進水式を行いました。
スラバヤ海作戦、第二次ソロモン作戦など、南方で戦い、
1943年(昭和19)、潜水艦「ガーフィッシュ」の攻撃を受けて戦没しました。

 

左上の「鎮守府復活」というのは、一時舞鶴は「鎮守府」ではなく「要港部」とされ、
最高司令長官も「要港部司令」となっていたのですが、それが昭和14年に
もう一度鎮守府に格上げされたことを言っているのでしょうか。

しかし、写真を見ると、掛け替えている看板は「舞鶴工廠」。
これは、鎮守府復活のときではなく、その3年前、海軍工作部が
「舞鶴工廠」に格上げされたときのものではないかと思われます。



戦後、舞鶴が引き揚げ港として稼働していたときの写真。
引き揚げ記念館については、また記念館を訪れ改めてお話しする日もありましょう。



舞鶴港の軍艦の進水式記念に製作されたはがき。
右から時計回りに、駆逐艦「敷浪」、「大潮」、「初雪」。
「初雪」の進水式パンフは呉で見たことあるぞ。



どちらも駆逐艦「霞」進水記念。
昭和12年の進水なのですが、右側の風景になにやら不穏な戦火が・・。



駆逐艦「島風」進水記念。

これらのハガキはいずれも「艦隊これくしょん~艦これ~」の
特別展示が行われたときに収集されてきたものだそうで。




こちら、海軍工廠の女工さんたち。
割烹着で仕事していたんですね。
鎮守府時代、「海軍工廠」だった大正10年(1922)の写真です。



海軍工廠工員の徽章。
右の鳥は今でも舞鶴の市章に使われている鶴です。



こちらも海軍工廠の徽章。
この説明で知ったのですが、英語では「海軍工廠」をナーバル・シップヤードというようです。

右から海軍書記用、筆生(筆者を手がける人)用、徴用工員用。



日立造船が寄贈した海軍工廠時代の弁当箱。

軍港の街、舞鶴は、未だに街のそこここに海軍の街であった名残を残しています。
次に訪れた時にはそれらを求めて自分の足で散策してみたいものです。


 


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