さて、ボランティアガイドに案内されてみる横須賀の街。
そこここにある歴史のよすがを見て歩くツァーですが、
ある意味このレベル?の「遺跡」であれば、都心のように
作りかえられてしまったようなところでなければ、どんな県のどんな地方にも
残っているものではないかと思われました。
横須賀市のえらいところは、そういう、地元の人なら見慣れて
何の関心も持たないであろう歴史的遺跡を、あらためてこのように取り上げ、
ツァーを企画するというところです。
このように紹介されなければ一生知ることのない「小さな歴史」を、
砂浜でガラスのかけらを拾うように拾い上げるという試みは、
たとえ重大なことでなくても少なくとも忘れないで未来に残すことになります。
そしてこの試みのために、横須賀観光局はガイドのボランティアを
常に募集しております。
この日のツァー説明の紙とともに「ガイド応募用紙」が挟まれており、
担当のガイドさんが「この程度ならわたしでもできそう、と思ったらぜひ」
と募集していることをアナウンスしていたので知ったのですが。
坂道を登りながらガイドさんの近くを歩いていて聞いたのですが、
ボランティアのガイドは、1年間の研修を受けないといけないそうです。
何時に講習会が行われるのかは知りませんが、少なくとも仕事があるとダメでしょう。
というわけで、勢いガイドはリタイアした人ばかりになってしまうのですが、
そうなると今度は高齢化で人がどんどん辞めていき、
慢性的に足りない状態なんだそうです。
参加費は300円なので、ガイドにも交通費くらいは出るのでしょうが、
いっそもう少し集めてギャラを出せればもう少し人が来るような気もします。
さて、日蓮上人が3週間座っていた「お穴様」から、次は中央公園へ。
中央公園、別名「砲台山」というそうです。
というのも、ここには昔旧陸軍の米が浜演習砲台があったからで。
今では小綺麗に白いフェンスなど立ててしまっていますが、
この向こうには土塁が広がり、掩蔽壕が二つ並んでいます。
ガイドさんが子供の頃は、何もしていなかったので穴に入って遊んでいたとか。
去年の観艦式の帰りに見た海堡をテーマに、東京湾防衛について書きましたが、
ここもまた東京湾要塞の一つとして、明治24(1891)年に砲台演習場となりました。
ここに据えられていた砲台は以下のとおり。
28センチ榴弾砲台 6門 明治24年据付完成
24センチ加農砲台 2門 明治24年据付完成
旅順要塞攻撃にはここから運ばれた28センチ榴弾砲が使われました。
昭和2年、田戸にあった演習砲台が関東大震災で破損したため、
その代わりに 二十八センチ榴弾砲4門の演習砲台として改築されています。
未だに石積みの残る砲台跡。
土塁の上に上がってみたところです。
かつてはもっと高いレンガの壁に囲まれていたそうです。
演習場として使われていたものの、戦争になったときにも
ここは演習砲台だったので、結局ここからは一発の実弾を
発車することもなく、昭和20年に取り払われました。
このときにガイドさんが
「空襲のときには実弾を撃っていない」
というと、参加者の一人がなぜかバカにしたように
「どうせ一発も当たらなかったんだろう」
みたいなことを言うので、わたしが内心ムッとしていると、
「ここではないけどB29が来たときには結構な数高角砲で落としてます」
と言ってくれたのでほっとしました。
この年代(団塊の世代)には、何も知らず調べず、戦後の「日本はダメだった」
論調に簡単に賛同して意味もなく昔の日本人を見下したような発言をする人がいます。
判で押したように彼らは日本が一方的に侵略戦争をしたなどと信じていて、
ついでに戦後日本に戦争がなかったのは9条のおかげ、などと思っているのも
この世代に多いことが「シールズ」のデモの年齢層をみてもおわかりでしょう。
ところでこの画面の右側に立っているさびた鉄の柱、
これも昔からあるのでしょうか。
時間があればそこここを細かに見学して歩きたいと思いました。
そして、そんな団塊の世代が元気だった頃、
(ガイドさん曰く、横須賀にお金があった頃)作られた
得体の知れないオブジェ。
人をイラッとさせる不安定なシェイプは、いかにもアーティストの
意味ありげで実は自己満足なだけの”創造の残渣”そのものと言った態です。
(言いすぎてごめんなさいなんていうもんか)
わたしがこれを気に入らないのは不格好なシェイプだけでなく、
全体に配された四角の升目いたるところにプリントされている文字。
「核兵器廃絶、平和都市宣言」
これが、耳なし芳一のお経の文句みたいにいくつもいくつも。
核兵器廃絶も平和都市もそうあるべきだとは思うけど、一言。
まず、そういうことは核を持っている国に向かって言ってくれるかな。
無慈悲な国の核は神奈川に落とされるとイルミナティカードも予言しているし(笑)
いくら平和都市宣言したって、核を持ってる国は照準外してくれないと思うな。
耳なし芳一みたいに核兵器廃絶とそこらに書けば核弾頭は外れてくれるとか?
あ、今思いついた!
9条で日本が核の攻撃を受けないと思っている人って、9条を
芳一の体に書かれた魔除けの経文みたいに思っているのでは・・・。
ツァーガイドは全くスルーして通り過ぎたのですが、
この中央公園のガイド案内にはこの戦没者慰霊塔が載っています。
船の形のようだなあと思ったらやっぱり船の舳先を象っていて、
中には横須賀市内の日清、日露、第一次、第二次世界大戦での
戦病死者の遺影約3600枚が納められているのだそうです。
塔の内側に金属の銘板が埋め込まれていて、その銘文は
「日本が 世界の夜明けに目覚めてから 今日の栄光をかちえるまで
多くの戦争において 国のため尊い命を捧げられた
諸霊よ 横須賀市民は 諸霊の遺族とともに この地を定め塔をたて
熱いまごころをもって み霊を慰めたてまつる
昭和四十四年三月誌す 横須賀市長 長野 正義」
平和都市宣言・核廃絶より、ずっと意味があると思うのはわたしだけでしょうか。
海上にぼんやりとかかっているのは黄砂ってやつなんでしょうか。
かつては海だったところに林立するビル越しに猿島が見えます。
アップしてみました。
砂浜に建物があるのが見えます。
ベントン・W・デッカーは、最初の横須賀アメリカ海軍基地司令官でした。
つまり最初の横須賀鎮守府庁舎のアメリカ人住人ということになります。
最初に日本に着任したときには少佐だったそうですが、
英語のデータによると最終的にはリア・アドミラルまでいったようです。
なぜデッカー少将の像があるかというと、横須賀市にとっては
戦後横須賀の復興の恩人であるとされている人物だからだそうです。
この碑にはこのような碑文があります。
頌徳
ベントン・W・デッカー司令官は、横須賀米国海軍基地司令官として、
大戦後混沌たる昭和二十一年四月着任せられ、爾来四ヶ年に亘り本市経済の復興に
絶大な同情と好意とを以て吾々市民を指導された偉大なる恩人である。
軍港を失った本市を民主的な経済都市として更生させるために
新しい商工会議所、婦人会、赤十字会、福祉委員会等の設立を促され、
更に本市の文化、教育、救済等凡ゆる社会的事業にも適格な指導精神を指示せられ、
殊に新規転換工業の育成に対しては最大の援助を与へられ、本市諸産業が
今日の復興を見るに至ったことは偏えに同司令官の有難き徳政の賜であって
吾々は哀心深い感銘と敬意とを表するものである。
玆に同司令官の頌徳を永く偲びつつ今後不断の努力を続けるため
玆に巨匠川村吾蔵氏畢生の力作になる記念胸像を建立した次第である。
昭和二十四年十一月
社団法人横須賀商工会議所
昭和24年というとデッカーが任務を終えて帰国したときでしょう。
穿った見方をするわけではありませんが、アメリカが日本をどのように占領するか、
横須賀にどのような占領政策を布くかは一海軍少佐の胸先三寸で決まることでは全くなく、
デッカー少将は司令官としてGHQの意向に添って任務を行っていたにすぎません。
アメリカ海軍軍人として星条旗に忠節を誓ったからには
戦争で手に入った日本の一地方の統治にアメリカ全権として邁進するのは
いわば当然の義務だったといえます。
もちろん、デッカー司令官本人の人徳というものが当時の日本人を感服せしめ、
このような碑を退任早々(昭和24年)わざわざ建てるに至ったの事実でしょうけど。
ここでわたしは「マッカーサー神社」のことを思い浮かべずに入られません。
日本が戦争に負け、昨日までの敵であるアメリカに占領されるとなったとき、
日本人のほとんどは絶望に打ちひしがれ、
「男は苦役、女は皆手篭めにされるそうだ」
という流言飛語が飛び交いました。
ところが、横田基地にマッカーサーが降り立ち、アメリカ軍が進駐してきても
少なくともおおむね彼らは友好的で、聞いていたような乱暴狼藉もなく、
それどころか子供にチョコレートを投げたりする陽気で明るいその気質が
人々をまず安心させただけでなく、本国からは日本にふんだんに物資が投入され、
経済の復興も彼らの援助によって目に見える形で推進されます。
かてて加えて、東京裁判でアメリカは日本国民に「悪いのは軍部」
「あなたたちは騙されていた」と刷り込みショーをおこない、ラジオ番組
「真実はかうだ」などで戦時中の内情の暴露をして、
敗戦に遣る瀬無い思いをしていた日本人の怒りを「日本の軍国主義」に向けました。
敗戦国の貧しい日本人にふんだんに物資を与えてくれるアメリカ人。
「昨日の敵は今日の友」という言葉を日露戦争以来尊ぶ日本人にとって
占領軍が自分たちの救世主のように映ってもそれは当然だったでしょう。
このデッカー司令官も職務に忠実に、誠意を持って当たったがため、
横須賀の日本人に救世主のように慕われたようです。
何しろ当時の日本にはマッカーサーの熱烈な信奉者があふれ、
「マッカーサー神社」を作ろうという話がでるくらいだったのです。
デッカー司令官は確かに横須賀の経済復興に多大な力を発揮したのでしょう。
たった3年の任期のあと離任するにあたって日本人が像まで作るからには、
時々は本国とぶつかってまで横須賀のために尽くしてくれた、というのも
あながち過大評価でもなかったのだろうとは思います。
しかし、それなら現在、このアメリカ軍人の名前が少なくともあの
アーレイ・バーク提督ほど人々の記憶にも、横須賀市の歴史にも残っていないのは
いったいなぜなのでしょうか。
ベントン・W・デッカーは帰国後本を出版しています。
「RETURN OF THE BLACK SHIPS」(黒船再来航)
読んだわけではないのでなんとも評価できないのですが、
この日本語訳を出版したらしい団体の紹介によると
ペリーの黒船から日本人は、民主主義を受取らなかったために無益な戦争に走ったが、
今度こそ、日本が民主主義になってもらうため、われわれは再びやってきたのだという
タイトルなのです。 民主主義については、未知であり、無知の日本人に、さまざまな
指導と努力で、短期間に見本を示していった実践の記なのです。
・・・おいおいおいおい(脱力)
そもそも黒船って日本に民主主義をもたらしに来たのかい?
あれは当時の世界の植民地獲得競争に乗り遅れていた米国が、
アジアでの覇権を握るため日本を無理やり開国させて市場を獲得することと、
捕鯨船の太平洋航路の拠点を獲得するためだったというのが定説なんですが。
そもそもこの紹介、この短い文章の中に三回も民主主義を繰り返しておりますが、
これを書いた人も、そしてデッカー少将も、
「日本が黒船から民主主義を学ばなかったから戦争になった」
と心から信じているとしたら、真実の歴史に対して
「未知であり無知」であるのはそちらだと言わざるを得ません。
そもそも民主主義とはなんだ!
とまるでどこぞの偏差値28集団のようなことを言わないといけないのですが(笑)
その基本が議会制民主主義であり、その根拠が選挙制度のあるなしだと仮定すると、
日本は遥か昔、西暦700年頃から選挙制度を取っていますし、
近代の選挙制度は1878年ペリー来航から25年後、明治政府の発足後11年で
制限選挙ではありましたが、政治に取り入れられています。
この人たちのいう「戦前の日本が民主主義でなかった」というのは
いかなる根拠によるものなのでしょうか。
前にも言いましたが日本は天皇という存在があったため独裁政治になったことがなく、
さらに制限選挙がどうこうというのなら、アメリカはデッカーが日本にいた当時ですら、
黒人に公民権はなく、参政権は与えられていませんでした。
お前らごときが日本に上から目線で「民主主義を与える」などとは
ちゃんちゃらおかしくておへそがお茶を沸かすわ!(独り言です)
概して当時の進駐軍はほとんどが
「日本を民主化する」
という態度で占領政策を行っていたのも確かです。
大方が日本人を対等な人間としてみていなかった当時の戦勝国の人間の中では
デッカー少将は甚だ高潔でフェアな人物であったようで、
わずか3年の司令官の任期で戦後日本人の心を鷲掴みにし、
おそらく離任するときには最大の敬意を払われ日本を後にしたのでしょう。
横須賀の司令官を以って軍を退役したデッカー少将は、アメリカで本を出し、
アジアでの珍しい体験をあちこちで講演して回っていたようです。
演題「アジアにおける我々の未来 わたしが日本で学んだこと」
ベントン・デッカー少将講演会
ところで、マッカーサーが「死なず消えゆくのみ」という言葉を残して帰国後、
彼が日本を「わたしの国」と呼んでいたり、例の「日本は12歳」発言によって、
日本人のマッカーサー崇拝はあっさり冷めました。
実はマッカーサーはこのとき、「日本の戦争は自衛だった」というあの発言を始め、
「勝利した国家が敗戦国を占領するという考え方が良い結果を生むことはない」
「交戦終了後は懲罰的意味合いや、特定の人物に恨みを持ち込むべきでない」
「広島・長崎の原爆は虐殺は残酷極まるものだった」
と語った聴聞会での一説に「欧米が45歳なら日本は12歳」と述べたのです。
実はマッカーサーはそのあと、
「学びの段階に新しい思考形式を取り入れるのも柔軟だ。
日本人は新しい思考に対して弾力に富み、受容力がある」
と続けているので、これは日本のこれからの将来性を期待し、
硬直性のある欧米と比べて褒める意味で使ったとも考えられます。
しかし、多くの日本人は例によって「12歳」だけの部分を切り取った
報道しか耳にせず、非難に便乗してマッカーサーを嫌悪しました。
同じく、現在の横須賀の街で、この銅像以外に当時の熱い
「デッカー崇拝」を思わせるものはすでにどこにも残っていません。
聞けばこの胸像も、かつては横須賀のメインストリートにあったそうですが、
いつの間にかここに移されて今日に至るのだそうです。
日本人は大国アメリカを震撼させるほど勇敢に戦い、自分の命すら捨てて
国のために戦ったのに、敗戦後はアメリカ人が驚くくらい従順で、
マッカーサーとGHQの治世を賞賛すらしました。
この変わり身の早さは逆もまた真なりであったことを、この、
恩人であったはずのデッカー司令官の扱いにも見るような気がします。
さすがにデッカー少将が民主主義を日本に教えたとは全く思いませんけど。
続く。