世に二・二六事件を扱った映画は数あれど、五・一五事件を単体で描いたものは
今のところありません。
ここでも取り上げたことのある映画「重臣と青年将校 陸海軍流血史」は
相田中尉の永田軍令部長暗殺事件に始まって陸海軍の青年将校たちの
謀議が映画の半分くらいを占めており、その関係で五・一五事件も取り上げましたが、
それは、わたしの見たところ
「五・一五事件に関わった海軍軍人は一人も死刑にならなかった」
ことが二・二六事件の蹶起将校たちにきっかけを与えた」
ということを説明するために扱っているという感じでした。
どんな媒体を見ても、五・一五よりも二・二六の方が事件の質が重大であったため、
五・一五そのものについて詳しく述べていないものが多いのです。
というわけで、今日はちょうど5月15日。
84年前の今日起こった五・一五事件についてお話ししてみようと思います。
この日のことを犬養毅の孫娘である犬養道子氏は、著書「花々と星々と」で
犬養家はその日銀座のエーワン(8丁目にあった)で食事をし、
祖父に届けるためにコンソメと軽い一品を注文した。
「おじいちゃま」は「バタ臭いものの大嫌いなばあさん」が出かけているので助かる、
と楽しみにしていた。
というように(今手元にないので)書いています。
事件は、海軍中尉古賀清志以下6名の海軍士官が中心となり、
これに陸軍士官学校生徒11名が加わり、さらにこれに民間の
右翼急進派である愛郷塾が加わって起こしたテロ事件でした。
犬養首相のいる首相官邸を襲撃したのは三上卓、山岸宏海軍中尉以下士官4名、
そして士官候補生が5名、計9名。
筆頭に立ったのが中尉であり、候補生がいたというところに改めて驚愕します。
このときの彼らのテロ行動を箇条書きにしてみます。
●首相官邸で犬養毅を暗殺
●牧野内大臣宅襲撃 警備の巡査が負傷
●警視庁の総監室に手榴弾を投げるも届かず
●政友会本部襲撃 日曜のため誰もいず
●日本銀行、三菱銀行、変電所を襲撃するもほとんど成果なし
彼らの目的は陸海軍人と同時に蹶起して帝都を混乱、暗黒化し、
それに乗じて革命を起こすことでしたが、一番大きな結果は
犬養首相が死亡したということだけにとどまりました。
さて、それでは彼らがこのような挙に及んだ理由とはなんでしょうか。
この直接の原因ではなく遠因というべきが軍縮会議に伴う統帥権干犯問題です。
このときの干犯問題については、もう少し先に、加藤寛治大将のこと触れつつ
私見を述べてみたいと思っていますが、ここで簡単に言うと、
第1回の軍縮会議、ワシントン会議に続き、ロンドン会議では
兵力が米英に対して5・5・3と、当初海軍が切望していた対英米7割を下回り、
しかもそれを批准するのに、軍縮したい当時の濱口雄幸政権は
事前に海軍軍令部長の同意を得ることなく、天皇陛下の批准権を使って
つまり海軍にしてみれば統帥権のあった海軍の頭越しに条約を妥結してしまった。
ということになります。
海軍省ではそれもやむなしという空気だったのですが、
加藤寛治を軍令部長とする海軍軍令部はおさまりません。
対米6割の結果と、潜水艦のトン数が足りないとしてこれに反対し
再交渉することを強く主張しました。
ここで問題となった統帥権の干犯の問題を見てみます。
問題は明治憲法の統帥権が慣例的に
「軍事作戦は、海軍では海軍軍令部長(後に軍令部総長と改称)が輔弼し、
彼らが帷幄上奏(いあくじょうそう)し天皇の裁可を経る」
ということになっていたのに、政府がそれを無視したということになります。
ここですごく不思議なことがあります。
統帥権干犯を国会で取り上げ問題化したのは、
当時野党の親玉だった政友会の犬養毅でした。
このとき犬養は鳩山一郎とともに政府を、
「軍令部の反対する兵力量では国防の安全は期待できない。
さらにその締結は統帥権干犯である」
といって攻撃しているのです。
ということは、この時点では犬養は海軍の側に立っていて、
海軍の主張を後押ししていたということになるのです。
それならなぜ犬養は五一五事件で海軍将校に暗殺されたのでしょうか。
このころ犬養はもう76歳で首相どころか政界からの引退を考えていました。
つまり、この後のことなどなにも考えず、とにかく政府を攻撃するために
この件を利用していたとしか思えないのです。
わたしは犬養道子氏の本の影響もあって、犬養毅という人物を、
「憲政の神様」
と称えられ、満州から軍を引き揚げさせようとした穏健派、
清貧に甘んじ決して利を求めなかった高潔な人物であり高邁な政治家、
と思っていたのですが、この件を調べていて、
「は?」
と思わず声に出して言ってしまいました。
犬養の思想からいうと、軍縮はむしろ大歓迎という立場だったはず。
これ、どういうことだと思います?
そう、国会で攻撃するために反対のための反対をしていただけなんですねー。
もし条約提携時、犬養が首相で政府与党の立場であったなら、
その結果を統帥権干犯は勿論、どんな手を使っても批准していたでしょう。
それを、政府与党がやったので、野党として非難していたってことなのです。
いまの野党などそれしかしていませんが、とにかく「政策よりも、政局」。
犬養毅は、自分が与党になったら確実に自分に返ってくるブーメランを
野党の親玉としてこのとき臆面もなく投げていたということになります。
半分引退した野党党首として失うものは何もないので、もっというなら
自分の発言に責任を持つ必要もないので、言いたい放題言っていたら、
なんと!
「世間は犬養の引退を許さず、岡山の支持者たちは勝手に犬養を立候補させ
衆議院選挙で当選させ続けた」
↓
「政友会の総裁も嫌がるのを無理に担がれた」
↓
「若槻内閣解散後、昭和天皇に頼まれて首相を引き受けざるを得なくなった」←いまここ
という経緯であれよあれよと自分が首相になってしまいました。
つまり、五一五事件で自分が暗殺されることになったのは、
自分が野党時代に投げたあまりにも大きなブーメランが、
首相の座に着いてから返ってきて刺さったということではなかったのか。
とわたしはあくまでも控えめに言ってみます。(赤字だけど)
さて、とにかく、濱口内閣は犬養の起こした論議の末、右翼勢力が
東京駅で首相を襲撃するという事態に至り、潰れてしまいます。
いわば犬養毅の目的はこの時点で達成したということになります。
そして犬養内閣が成立しました。
このとき、海軍は統帥権干犯問題で自分たちの側に立って
政府をさんざん攻撃した犬養首相に、おそらく大きな期待を寄せたはずです。
ところがなんだか様子が違います。
満州問題では軍の要求を拒否し、自分の人脈で外交問題を解決しようとしたり、
そして軍の青年将校の振舞いに深い憂慮を抱いていたため、
陸軍元帥に陳情の手紙を書いたり、天皇に上奏して、
問題の青年将校ら30人程度を免官させようとしたり・・・。
このことは事前に軍に筒抜けとなり、軍は統帥権を侵害するものと憤激しました。
自分が政争の道具とした統帥権干犯を、今度は自分が問われたのです。
軍、ことに海軍から見ると、犬養首相は
「野党のときは味方のふりをしていたが政権を取って変節した」
裏切り者、ということになります。
これこそが五一五事件で襲撃される直接の理由となったのでした。
さて、本日タイトルにした草刈英治海軍少佐の切腹事件についてですが、
これは、まさにロンドン軍縮会議の批准を巡って犬養が野党党首として
与党を攻撃していた真っ最中の1930年5月20日に起こりました。
草刈少佐は海軍兵学校41期。
卒業時は125名中5位の恩賜の短剣で秀才でした。
一高を目指していたところ、帰郷してきた兵学校生徒の制服を見て
その短剣姿に憧れ、兵学校に志望を変更しています。
軍縮条約の受け入れに反対していた草刈は軍縮会議全権の一人で、
帰国の途にある海軍大臣・財部彪が乗車していた東海道線車中で切腹しました。
草刈は腹を真一文字に切った状態で発見され、病院でも
「刀は武士の魂である」と叫び、短刀を離そうとせず、看取った憲兵分隊長は
「実に美事なる御最期でありました」
と駆けつけた同級生に語ったとされます。
切腹の理由として、
「財部の暗殺を企図したが果たせなかったため」
「財部海相の暗殺を決意したが、それもまた統帥権干犯になるのではと悩み、
暗殺を実行できず自決を選んだ」(松本清張説)
「ノイローゼだった」
などが取りざたされましたが、同級生たちはノイローゼ説に対して強く反発し、
これを述べた軍令部次長に抗議し、謝らせるという騒ぎになりました。
草刈の自決は結果『軍縮条約に対する死の抗議』として大きく報じられます。
そして、
「自由主義者の奸策に斃れた草刈少佐の死を忘れるな」
との叫びが、青年将校や国家主義者の間に高まってゆき、これが
2年後の五・一五事件の計画に結びついていくのです。
さて、そしてここではもう一つ、五・一五事件の首謀者の裁判の経過について
お話ししておこうと思います。
1930年、7月24日から行われた横須賀鎮守府での海軍側軍法会議の
(陸軍側は第一師団で行われた)求刑論告において、10名の被告人中、
死刑3名、無期禁固3名、禁固6年3名、禁固3年1名
が求刑されました。
この求刑に例によって海軍の青年士官たちは憤激し、彼らは一斉に
「論告反対」を叫んで行動を起こしました。
クラス会やクラス代表者連合協議会などが開かれ、主犯と同期(56期)の
清水鉄男中尉は、ある会合でこのように述べたとされます。
「西暦1921年、アメリカの策略は、平和の美名に名をかりて、
ついにかのワシントン条約を作り上げたのでありました。
日本の世論は、英米二カ国の野心の塊であったこの外交上の大芝居を
やすやすと上映せしめ、アメリカの野望の第一歩を笑顔を持って迎えたのでありました。
日夜研鑽、武を練り、技を磨きつつあった私達の眼前に移った
国内の有様は果たして如何でありましたか。
時弊に凝って、ついに恐るべき議会中心主義となって表れ、不戦条約となって
その正体を暴露し、ついに亡国的ロンドン条約は締結されたのでした。
ついに国難来る!」
このように条約締結の結果に激怒している海軍軍人たちが、
ことを起こした身内の減刑を願うのはいわば当たり前のことですが、
おどろいたことに、求刑論告のあったその日から、国民の間でも
決起した陸海軍軍人たちに対する減刑嘆願運動が盛んにおこなわれました。
このとき国民が海軍の青年将校たちに同情した理由は、
「当時の政党政治の腐敗に対する反感から」(wiki)
とされており、このときに発表された海軍側弁護団の嘆願書の数は
なんと69万余通に及んだということです。
これら海軍の動きや世論の影響を受けたのか、判決は減刑され、
死刑とされた3名のうち2名が「禁固15年」、1名が「禁固13年」とし、
残りは全員10年以下とされ、陸軍側は全員が「禁固4年」でした。
そしてその結果を世論のほとんどが歓迎しました。
陸海軍はもちろんほどんどの国民が「花も実もある名判決」と称えたのです。
のちにこの判決を下した裁判長の高須四郎大将は、
「死刑者を出すことで海軍内に決定的な亀裂が生じる事を避けたかっただけだ」
と死刑にしなかった理由を述べています。
殉教者を出すことが扇動となり若い海軍軍人が蜂起する可能性もあったので、
これは致し方なかったのかなと同情するのですが、高須大将本人は
このときの「温情判決」が二・二六事件の引き金になったというのちの批判を
死ぬまで気に病んでいたという家族の証言があります。
このときの海軍側の弁護団に、東京裁判で主任弁護人を務めた清瀬一郎博士がいました。
彼らを行動に駆り立てたものは二・二六事件のときと同じく、
政党、財閥、特権階級(いまでいう上級国民)の腐敗堕落であり、
それと対照的に疲弊していた農村の実情というベースがあり、
ロンドン条約の受諾を”売国”としたことにあり、つまりそれはとりもなおさず
国民もまた同じように考えていた、ということでもあるのです。
あの戦争を「軍部の独走」で全て片付けてしまう後世の評価がありますが、
この件に見られるように、軍独裁でもなかった日本がそうなるには、
国民の世論の後押し無くしては何事も動くものではなかったのです。
戦後のドイツがなんでもかんでもナチスのせいにしているけれど、
ナチスを熱狂的に支持したのは他ならぬドイツ国民だったではないか、
と言われているのを思い出していただければいいかと思います。
というわけで、五・一五事件について少し語ってみました。
今回この事件を自分なりに整理してみて、わたしは、犬養毅が
現在の民進党の馬鹿共と同じことをやっていたことに気づいてしまい、
「憲政の神様」のイメージを壊されてちょっとしたショックを受けております。
政権を取る前と取る後でいうことを180度ひっくり返す政治家なんて、
政治家ではなく「政治屋」じゃないか、などと厳しいことを思ってしまいますが、
草刈少佐の自死がやはり関係者にとって条約反対の象徴とされたように、
人は不慮の死に遭った人物を偶像化せずにはいられないものなので、
暗殺された犬養毅の評価が底上げされたとしても仕方ないことなのかもしれません。
・・・とまとめるつもりで始めたんじゃないけど、まいいか(笑)