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加藤寛治と飛行機献納運動〜料亭小松の物語

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さて、日露戦争の立役者ともいえる何人かの海軍軍人と、横須賀にある
料亭小松のかかわりについてお話ししましたが、あの加藤寛治も
当然小松の常連で、女将を「おっかさん」と呼んで親しく付き合っていました。

日露戦争のことを少し知っている人でこの名前を聞いたことがない、
という人はまずいますまい。
加藤寛治は日露戦争で戦功を立てただけでなく、大正から昭和の
日本海軍における「キーパーソン」ともいえる重要な働きをした軍人です。

小松の女将の養女は加藤と兵学校24期の士官と結婚したのですが、
その結婚に際し同級生の加藤は何かと骨を折ってやったという縁もありました。



先日見学した旧横須賀鎮守府の歴代長官の写真の中に
中将時代の加藤寛治の名前があります。(大正13〜15年)

当時の小松は長官官舎と同じ田戸台にあり、歩いて帰ることができました。
加藤中将は朝帰りを子供(家族で住んでたんですね)に見られてはいけないと、
一旦副官と一緒に副官宅に寄り、そこで時間を潰してから帰宅していたそうです。

副官に子供がいてそこで朝帰りを見られる心配はなかったのかとか、
副官の(独身でなければですが)奥さんは迷惑ではなかったのかとか、
いろいろ考えてしまいますが、 当時は副官の官舎が近所にあり、
お互いの官舎は抜け道で行き来できたのでした。

横須賀鎮守府長官当時の加藤中将は、あの長官庁舎に四斗樽のお酒を置いて
若い士官を庁舎に招いては皆で飲むというような面もあったようです。

ウィキペディアには、日露戦争時代「三笠」の砲術長であった頃の加藤について

各砲塔単独による射撃を、檣楼上の弾着観測員からの報告に基いて
砲術長が統制する方式に改め、遠距離砲戦における命中率向上に貢献した

としか書かれていませんが、小松の女将は「三笠」の信号兵曹だった
特進少佐から

「三笠」戦闘中、後部の大砲一門が敵の砲弾によって吹き飛ばされた。
その報告を受けても砲術長であった加藤は平然としながら撃ち方待てを命じ、
悠々とその中で照尺(敵艦までの距離)を測り直して「撃て」の号令を出し、
このことが東郷長官をいたく感心させた。

という逸話を聞き及んでいます。
戦後、記念艦となっていた「三笠」は連合軍の遊興施設にされ、
「キャバレー・トーゴー」「バー・カトウ」があったという噂が流れました。
どちらも風評に過ぎなかったのですが、ここで注目すべきは、連合軍的には
東郷と並んで「カトウ」にそれだけのネームバリューがあったということです。

今では想像つきませんが、加藤寛治は戦前の日本では
「第二の東郷」と呼ばれていたくらいだったのです。

加藤寛治の戦後評は猪突猛進型の猛将というふうに落ち着いているようですが、
実際彼は兵学校主席卒の秀才で、博識・理論的でありながら実戦においても
肝の据わった勇猛果敢な指揮を行い、かつ外国勤務が多く、英仏米など
諸外国からの勲章も受けたこともあるというスーパー軍人でありました。

ロンドン軍縮条約をめぐっては条約派と対立する立場だったことで
おそらく戦後、彼の評価はそれほど高くないのではないか、
とわたしは実は勝手に考えているのですが、このときの賛成派を善、
反対派を悪とする後世の歴史観にはいささか異論を唱えるものです。


ご存知のようにワシントンで1921年(大正10)に行われた軍縮会議で
日本は自国防衛のために対英米7割を主張しましたが、この意見は
全権首席随員であった加藤大将の主張そのものでした。
結果、それは受け入れられず5:5:3となったわけですが、
加藤大将は事後にこのような文を発表しています。

「会議に臨むにあたって我が国の軍備に対する研究と準備は
決してずさんなものではなかったが、國民の十分な理解がなく
従って世論の後援が足りなかったのは残念だった」 

これをタイプしながら、現在の安保法にも同じことが言えるとふと思いました。

現在「国民の十分な理解がない」のは、まともに審議に応じず、
対案を出さず、「戦争法案」などというレッテルを貼って、
国民をポピュリズムで煽ろうとする一部野党と、反政府の点からしか報道をせず
まるで政治結社のようになってしまった各マスコミが足を引っ張って、
日本を取り巻く現状を含めて理解させまいとしている面があるせいなので、
このころの「理解がない」とは全く性質を異にするものではありますが。


ワシントン会議の9年後、ロンドンで再び軍縮会議が行われました。
このとき総理大臣だった濱口雄幸(おさち)は日露戦争後の財政再建を謳っていたため、
軍縮にはたいへん積極的でした。

この会議で全権団は、海軍軍令部の「対英米7割」というラインを携えていきながら、
対6割に抑えられるという結果となりました。

この会議にまつわる統帥権干犯問題という言葉をお聞きになったことがあるでしょう。

統帥権とは明治憲法における天皇の指揮権のことを言いますが、
特に規定がなければ国務大臣が輔弼することとなっていました。
それは憲法に明記されておらず、また、慣習的に軍令(作戦・用兵に関する統帥事務)
については国務大臣ではなく、統帥部(陸軍:参謀総長。海軍:軍令部総長)
が補翼することになっていたのです。

条約は国の責任者によって批准されるものであり、その批准権は天皇にありましたが、
ときの濱口内閣は議会で多数決によりこれを承認し、天皇に上奏して裁可を仰ぎ
批准するという「裏技」にでたのです。

このとき濱口首相が軍令部の、簡単に言うと「口を封じるため」、
対米6割で条約を飲ませるために統帥権を「干犯した」というのが
このときの海軍の言い分でした。


後世の歴史は、このことを「加藤寛治など強硬派が軍拡を主張」
「明治憲法のこの欠陥が、日本を軍国主義化を助長した」などと記し、
あたかもこのころの艦隊派が軍国主義であり、反対派が平和主義であったかのように
わかりやすく善と悪で片付ける傾向にあります。

加藤寛治大将がこのときに東郷元帥を担いで(実際は親密だったので相談したくらい)
これを井上大将が「東郷元帥は平和なときに口を出すとろくなことにならない」
などと非難したため、これをもって東郷元帥は晩節を汚したという者すらありました。

とんでもない!

とわたしは改めてここで声を大にしていっておきたいと思います。
この一連の出来事を先入観を交えずに眺めてみると、そこには戦後の
「軍国主義は悪」「軍拡は悪」という価値観が深く影響を及ぼしているのに気づきます。


加藤大将が憂えていたの単に兵器の割合を減らされていざとなったときの
防御が不安になるということだけではありません。
そこで危惧されたのは国際間のパワーバランスの崩れだったのです。
ロンドン条約の前に、加藤大将は全権顧問安保清種大将にこんな手紙を出しました。

「ここまで背水の陣を敷いて強硬かつ理義公明正大な主張をして
それを譲歩することになったら、それはすなわち
米国の瀬踏みに落第したのと同じことになる。
そうなると、彼らはいよいよ日本をあからさまに蔑視し、
満州問題についても高圧的態度にでるようになるだろう。
これはもはや海軍だけ問題はなく、国家の威信信用問題である」 

そして、濱口首相に対してはもし条約を向こうのいうまま飲んだら

「作戦計画を立てることが困難で国防上不安になるので、
統帥権を受け入れるくらいならむしろ決裂が望ましい」

と強調しています。
これらの一連の加藤大将の意見を読んでみると、対米7割の固守も
決して「軍国主義」「覇権主義」などという見地からではなく、
厳しい事実認識の上に立った自国防衛のための切望であったとしか思えません。


このロンドン条約によって日本はより厳しい条件を押し付けられました。
艦隊戦が主流であった当時、海軍が厳密な研究によってはじき出した比率を
なんとか死守したいというのを一言で軍国主義と決めつけるのは、
あたかも現代日本の左派が、

「防衛費を増やせば戦争になる、安保法案を改正すれば徴兵制になる」

と言っているのと同じようなことなのではないでしょうか。


加藤寛治大将は条約が批准されたのち、軍令部長を辞任しました。
濱口首相はその後、右翼青年に東京駅で襲撃され、その傷が元で死去。

条約の批准後、鳩山一郎や犬飼毅ら野党が与党を攻撃するために
国会で統帥権を持ちだして問題を大きくしたため、その後議会は
なにかというと統帥権を主張する軍部の動きを押さえられなくなります。

要するに議会が統帥権を政争の道具にして争い、その結果、
自分(議会)の実権が弱まる=自分の首を絞めるに至るという
なんとも皮肉な結果を生んだとも言えます。


話題を変えましょう。

小松と加藤寛治、いや山本コマツと加藤の親交は、当時全国的な動きとなった
民間の遊興業者の飛行機献納運動に発展しています。
加藤はある日(ワシントン会議の後)女将に向かってこんなことを言いました。

「おっかさん、これからの戦争は優秀な飛行機をたくさん持ってる方が勝つ。
日本はイギリスやアメリカの奴らに、軍艦は5・5・3に押し付けられたけど、
いざ鎌倉というときに航空隊がしっかりしていれば引けを取らない。
ただ残念なのは、飛行機を建造しようとすると、
戦争のことを知らない政治家がなんのかんのと反対する。
民間からも建造費を出してくれなければどうにもならんよ」

これを聞いたコマツは、そんなに飛行機が大事なのなら、
全国に呼びかけて献納しようと思い立ち、同業者に声をかけました。
当初運動は決して順調ではなかったのですが、全国料理業者大会が
行われたとき、77歳でありながら単身乗り込み、皆に向かって
飛行機の必要性と献納をしようと演説をぶったのです。

この作戦に満場一致の賛成が寄せられ、それからというもの、
横須賀を中心に飛行機が、料亭や待合、芸者の組合などによる団体にはじまり
全国の民間団体から陸海軍に寄付されることになりました。
一度ここでも、歌舞伎座で行われた芸者の組合による献納飛行機の授与式に
出席した海軍大尉の話を書いたことがあります。

舞台の上に上がってみると、歌舞伎座の席上は一面に脂粉の香り漂う
お姐さんで埋め尽くされていて大いに戸惑った、というような(笑)

皆さんも一度くらいは飛行機が献納されている式典の写真、
また機体に「報国号」「愛国号」と書かれた機体をご覧になったことがあるでしょう。
「報国号」が海軍、「愛国号」が陸軍に献納された飛行機です。

陸軍献納飛行機命名式案内状

海軍報国号リスト

海軍報国号のリストを見ると、どんな団体から献納されてどんな名前がついたか、
それを見ているだけで大変興味深いのですが、面白いので抜粋してみると、

ニッケ号(日本毛織株式会社従業員)

三越号、高島屋号、明治生命号、伊勢丹号

新潟号、兵庫号、鹿児島号、沖縄号(県民)日向号(宮崎県民)

中学生号(全国中学校職員生徒)女学生号(全国女学生)

横浜号、川崎号(各市民)大銀座号(銀座連合町会)

神谷号(神谷さん)文明号(文明さん)

福助号、丸善号、近鉄快速号、三和号(銀行)大林号

相撲号(力士の組合)池坊号(華道)、銭高号

日本盲人号、日本楽器号、

第1〜30日本号(朝日新聞による呼びかけ)

忠南号(朝鮮忠清南道 愛国機献納期成会 鄭僑源)

・・・・

飛行機献納運動はその飛行機に出資団体や個人の名がつけられたため、
企業宣伝にもなったので運動の広がりが早かったとも言えます。


それにしても驚くのですが、朝日新聞が呼びかけて献納飛行機30機ですか・・・。
しかも名前が「日本号」ねえ。

一番最後はどうも朝鮮在住の朝鮮人の資産家だったみたいですね。
過酷な植民支配とやらを受け、文化抹殺を受け迫害されていた支配民が、
支配国の軍隊に飛行機を献納するため、そのための団体まで作って
しかも現地で資金を集めたということになりますが、これ本当でしょうか。


という嫌味はともかく(笑)、このようにリストアップされている
海軍への献納飛行機だけで1000機はあるわけで、それもこれも小松の女将に
加藤寛治が酒の席でふと漏らした一言が発端だったとすれば、
これだけの一大ブームを引き起こすことのできた小松の女将は、
海軍軍人に慕われただけでなく、人の心を動かすカリスマ性も
備えた女傑であったらしいということがわかります。


続く。
 


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