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開戦から海軍甲事件まで~料亭小松の物語

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「海軍おばさん」として母のように海軍軍人に慕われた
 山本コマツが明治年間に開業した料亭「小松」。

小松の歴史には、日清・日露戦争の戦勝で繁栄を極めた時期があれば
不況で店をたたんでいた時期もあるというくらい時代の波がありましたが、
大東亜戦争中、小松はこの戦争をどう見ていたのでしょうか。


昭和16年12月8日、帝国海軍航空隊が真珠湾を奇襲し、日米は開戦しました。

海軍軍人が繁く立ち寄っていた「海軍料亭」小松においても
この動きは全く事前に察知されることなく、女将もその養女である若女将も、
誰からもその気配すらかんじることもないまま、報道によってそれを知り

「一体どうなるのかしら?」と頭が混乱した(山本直枝さん談)

 ということです。
ただ、後にして思えば、例年12月になると連合艦隊が後期の訓練を終えて
続々と入港してくるものなのに、その年はその気配が全くないのが
不審といえば不審に思われるということもあったそうです。

海軍軍人に寄り添うように営業を続けてきた小松にしてこうですから、
あとこのような密かな変化に思い当たったとすれば、横須賀地元の
船舶関係者くらいだったでしょうか。

真珠湾への攻撃に備えて、連合艦隊は9月末から内海西部に集まり
訓練開始しています。(それまでの期間は乗員交代と戦備作業)
山本五十六長官は10月9日、「長門」艦上において、図上演習に先立ち

「聯合艦隊集合に際し各級指揮官に訓示」

という訓示によって司令官の決意を述べました。

この訓練について戦史叢書は以下のように記述します。

その後集合した各艦は特別訓練と呼称してもう空練を開始したが
工廠の稼働能力などの関係から一部鑑定は軍港で整備を続け、
整備を終えたものからボツボツと訓練地に集まってくるという有様。
従って関係者の必死の努力にもかかわらず、艦隊術力の回復ははかどらず、
各艦の足並みも一向に揃わなかったので、結局戦隊、艦隊としての
まとまった訓練はほとんどできなかった。

こんな状況であったから、連合艦隊はようやく10月31日と11月1日に
ほぼ全兵力による総合訓練を行うことができましたが、結局
術力は回復しないままだったようです。

この時の宇垣参謀長の日記「戦藻録」から抜粋してみます。

10月21日 

早朝出航
秋晴れの良い天気に潜水艦飛行機の襲撃訓練を実地し薄暮帰港す
やはり出動訓練は効果大にして愉快である \(^o^)/
佐伯湾錨地において見張り訓練の目標艦として潜行中の伊66潜は
横合いから入港中の伊7潜に衝突せられ前者は艦橋前方圧潰
後者はメーンタンクに損傷を被れり Σ(゚д゚;) ヌオォ!?

なんという事故の多き事ぞ  (-゛-メ)

10月24日

伊61戦の沈没遭難(九州で衝突沈没、上とはまた別の事故)に対し
長官は別府行きを止めて現場と佐鎮に行くと云われる
誠にありがたい意思である  ( ̄∇ ̄ノノ"パチパチパチ!!

この心ありて始めて部下は上長のために喜んで死ねるのだ (T_T)

10月28日

士官幹部の大移動と下士官兵20%の転出に伴う50%の配置変更により
戦力は著しく低下せる事を如実に認めざるを得ず  (`×´) プンプン!!

まことに遺憾千万なるも今後格段の努力を強要して万全を期する他なし

10月31日

7時半出航
所在の聯合艦隊兵力を挙げて応用訓練を土佐沖にて実地す
朝から昼へ 昼から夜へ第5次まで場面場面の戦術訓練、
けだし1日のうち命いくらありても足らざるべし

基礎的なるもやるだけやはり効果あるなり( ̄ー ̄)(ー_ー)( ̄ー ̄)(ー_-)

11月1日

風強し 午後10時出動

昨日来の応用訓練、野戦訓練などを行う
前者においては強風のため相当波をかぶり相当のできなりしも
後者は月明かりの大部隊野戦としては突撃時「珍無類」 (・_・?)
のものとなれり
同じ型をやるにしても天象地象などそのときの模様に合致するごとく
指導するの精神なかるべからず

11月4日

本日多数飛行機の来襲あり
碇泊艦攻撃はだいぶ上達せるものと認め得る ( ̄Λ ̄)ゞ
 

この訓練期間、事故とかいろいろあったようで、気を揉みながらも
訓練を「愉快」などといっていたりして興味深いですね。
なお顔文字はおせっかいながら宇垣参謀長の心情をビジュアルでわかりやすく表してみました。

この日誌にもある11月1日には攻撃を含む国策要項が御前会議で承認されています。
とにかくこれで見てもわかるように、訓練の期間はいつも通りでも、
その後11月13日に聯合艦隊の最後の打ち合わせが行われ、12月7日に向けて
聯合艦隊が総掛かりになっていたわけで、主力艦隊はもちろん、重巡を主体とする
第二艦隊は南方に展開していたわけですから、さぞかし横須賀は閑散として
小松の人々が不審に思っても当然のことであったと思われます。

しかし開戦してからは艦艇の修理や補給は乗員の休養も兼ねていたので
基本的に母港に寄港するという原則に変化はなく、したがって
横須賀の艦艇の出入り(=小松に立ち寄る士官の数)には変化はなかったようです。



ところで戦史叢書を読んでいて南雲忠一長官が途上ふと漏らした一言に
ちょっとウケてしまったので、それを書いておきます。

「参謀長(草鹿)、君はどう思うかね。
僕はエライことを引き受けてしまった。
僕がもう少し気を強くして、きっぱり断ればよかったと思うが、
一体出るには出たがうまくいくかしら」

「うまくいくかしら」に南雲長官の不安が集約されていますが、
なんか可愛らしい物言いをする人だったのですね。


さて、開戦してからは日本は、というより海軍は連勝で、
形勢不利を一気に押し返すためにアメリカは真珠湾の報復をうたった
ドーリットル空襲で「ガツンと一発」やってきました。
昭和17年の4月18日のことです。

日本側にはこの空襲は全く予期しなかったことで、その衝撃たるや

「まるで青天の霹靂のごとく日本本土上空に現れた」

と軍令部の福留繁中将が書き残した通りでした。
つまりアメリカの作戦はこれほどに功を奏したということです。

この空襲における最大の被害地は横須賀であったと言ってもいいでしょう。
小松の芸者さんがこのとき横須賀に飛来したB-25を目撃しています。

「浦賀水道の方から一機、すっと入ってきたのを見て、
こわくて木の陰に隠れてました」

この飛行機はエドワード・E・マックエロイ中尉を機長とする13番機で、
房総半島の南部を横断して横須賀に侵入しています。

13番機は1300頃、記念艦「三笠」の上空から爆撃を開始し、
3発目の爆弾が、横須賀軍港第4ドックで潜水母艦から空母へと改装中だった
「大鯨」(龍鳳)に命中し、「大鯨」では火災が発生しています。

このときにやはり目撃していた若女将の直江夫人は

「高いところを飛行機が飛んでいるので、練習でもしているのかしら、
とおもっていたら、うち一機が急に低空飛行に移って突っ込んできました。
すぐに高射砲が応酬しましたけど、当たりませんでしたね」

と言っています。
13番機は海軍の中枢である横須賀鎮守府を爆撃し、
対空砲火の中を悠々と離脱することに成功した「殊勲機」でした。

この後、横須賀の海軍艦は13番機を認め、大砲を撃ち、
さらには敵空母を房総沖に求めて哨戒を続けましたが、
ドーリットル攻撃隊は当初の予定通り、攻撃が済んだ後は
全機とっとと中国大陸に向かっており、これははっきりいって
まったく無駄で無意味な行動であったと言えましょう。

まあ、それくらい海軍は動揺したということなのだと思いますが。

ドーリットル空襲による被害、ことに「大鯨」の損傷は秘匿され、
海軍内でも当時まったく知らない人が多くいたとされます。
軍港横須賀では機密保持の点で大変厳格で、写真撮影は一切禁止されていました。

ところが、ミッドウェー作戦のときにはどういうわけか、
道行く人までがこれを知っていて、

「海軍さん、今度ミッドウェーでやるそうですね。頑張って下さい」

などと声をかけられて軍人が呆然とするなどといったことがありました。
これはいかなることかというと、一言で言うと

「初戦の勝利による気の緩み」

に尽きたようです。
横須賀市稲岡町、現在の米海軍基地内の丘の中腹にあった水交社では
ミッドウェー攻撃に向かう海軍士官が集まって、連日談論風発、
「我ら行くところに敵なし」といった風に気勢をあげていたようですが、
それも後世を知る我々から見るとなんとも虚しさを感じずにはいられません。

まあもっとも、アメリカ側が日本の作戦行動を読んでいたのは
巷の噂から情報を得たわけではなく、電文が解読されていたためなので、
もしここで海軍の皆さんが真珠湾のときのように口を固くして、
”勝って兜の緒を締めよ”という東郷元帥の教えの通りに気を引き締め、
訓練を黙々と繰り返していたとしても、結果は同じだったということになります。

だからよく「ミッドウェーは初戦の勝利による驕りで負けた」
というようなこともききますが、それは微妙に当たらないと思います。


ミッドウェーに進出する件こそそういった雰囲気の中でいつの間にか
だだ漏れ状態になりましたが、「海軍甲事件」、山本五十六長官が
戦死したのは4月17日、公表された5月21日までの一ヶ月あまり、
それを国民が知ることは全くありませんでした。

この極秘期間、小松では横須賀鎮守府の面々が会食を行った後
その席で使った杯を一つ残らず持ち帰ったということがありました。

山本五十六の後任には横須賀鎮守府長官だった古賀峯一が選ばれ、
古賀大将はすぐさま山本の遺骨を引き取るためにトラックに飛んだのです。
後から思えば、小松から借りて行った杯は、古賀大将の送別会、
人目に触れずおそらく横須賀鎮守府庁舎でひっそりと行われた席で
無事を祈ってあげるのに使われたのでしょう。

古賀大将が山本五十六の遺骨を迎えに行った「武蔵」には、護衛として
戦艦「金剛」「榛名」、空母「隼鷹」「飛鷹」、重巡洋艦「利根」「筑摩」
らが付き添いました。
万が一、途上遺骨を乗せた「武蔵」が敵の攻撃を受けた時には
彼女ら護衛は我が身を呈してでも旗艦を守るつもりだったに違いありません。

「武蔵」にはそれまで山本大将の長官公室があり、そのデスクからは
関係者と家族に宛てた遺書と遺髪が発見されました。
遺骨は日本に戻る1ヶ月弱の航海中ずっとその長官公室に安置されており、
山本の後任となった古賀もそこで起居していたということになります。

その古賀は、このほぼ一年後、「甲事件」と対をなす「乙事件」において
パラオからダバオに向かう飛行機が行方不明になり殉職を遂げました。

料亭小松の創始者である女将の山本コマツは、くしくも山本長官戦死の
前日である昭和18年4月17日、96歳の長寿を全うして世を去りました。

彼女にとって何より幸せだったのは、彼女が山本五十六の戦死も、
日本の敗戦も知らないまま逝ったことであったでしょう。


ただ、あの世の入り口をくぐろうとしてそこでばったり五十六に出会い、
大いに驚愕するということがあったかもしれませんが。


続く。




 


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