Quantcast
Channel: ネイビーブルーに恋をして
Viewing all 2815 articles
Browse latest View live

海軍兵学校同期会~最後の兵学校生徒

$
0
0

「良かったら一度遊びに来なさい」

江田島で行われた海軍兵学校の同期会のツァーで第一術科学校見学の後、
呉の観光ポイントを時間つぶしのために回り道したバスが空港に着いて、
三々五々ロビーに向かうとき、隣を歩いていたS氏がわたしに唐突に声をかけました。

「本当ですか!」

今回のツァーにお誘いくださった我々の同行者は、わたしのことを

「この方は大変海軍への興味をお持ちでして」

とS氏に紹介してくださり、そのときS氏は

「そうですか、それは嬉しいですね」

とにっこり微笑んだ、ということを以前お話ししたわけですが、
このエリス中尉に社交辞令は通用しない、とブログ読者であればもうすでにお察しの通り、
この時のお誘いを真に受けて、わたしたちは帰って来てからすぐS氏に連絡を取り、
ご自宅に遊びに行ってまいりました。

世田谷の、若者に人気のある雑踏から少し離れた住宅地域。
そこにSさんが一人暮らしをしている古いマンションはありました。

築30年の「マンションブームの走り」くらいに建てられたと思しき
マンションの蛍光灯で照らされた廊下からドアを開けたとき、
わたしはついわあ素敵、などとはしゃいでしまいました。

そこはまるで別世界。

元海軍軍人で戦後はその業界では名前が知られたスペシャリスト。
こんな方ですから、やはりお住まいも80歳半ばのご老人が独居、というイメージとは全く違う、
まるでモデルルームのような洗練された空間だったのです。

今は仕事を引退して住んでいるだけですが、現役の時にはここが仕事場だっただけあって、
外に出ている生活じみたものは全くなし。
そもそも玄関も三和土もない部屋はドアを開けたら靴のまま奥まで普通に歩いて行ってしまいます。

「靴を脱がなくてもいいと、皆気楽に来てくれるんですよ」

そうかもしれません。
特に、今日はお宅に上がるのだから脱ぎやすい靴、そして靴を脱いでもおかしくない装い、
などと考えてその日の衣装を選んできたわたしは、S氏の次の言葉に驚愕しました。

「特に女の人は、ハイヒールなど履いていると脱ぐのが嫌でしょう」

パンプスを脱いでコーディネイトが台無しになる、
という密かな苦痛を理解できる女性すら決して多くはないこの日本で、
「靴を脱いで楽にしてください」と勧められることはあっても、
このようなことに言及する男性などリアルで見たことがなかったからです。



最初に見たときにも只者ではないと思ったわたしのカンは、少し知ってみると大当たりであったことがわかりました。
やはり、Sさんは只者ではなかったのです。



Sさんに紹介されたときに最初に聞かされたのが、ご尊父は海軍中将で、
戦艦「長門」の艦長を務めていたことがあった、ということ。
ご存知のように戦艦の艦長というのは大体任期が1年ですから、
「長門」の艦長は米軍に接収され水爆実験の的となるまでの最後の艦長、
米海軍のW・J・ホイップル大佐を含め32人もいるわけです。

S氏の父上であったS中将も、他にいくつもの軍艦艦長や、陸戦隊司令など
要職を数多く経ているにもかかわらず、そのなかで「長門艦長」というのは
彼の海軍人生において最も誇りとするところの配置だったのでしょうし、
息子のS氏にとってもやはりそうだったのだと思われます。

戦艦「大和」の艦長を命じられた有賀幸作が、海兵団にいる息子に

「大和艦長 有賀幸作」

と軍機ガン無視で書いてしまうくらいそれが嬉しかった、という話からも、
名だたる艦の主になるというのは、海軍軍人として本懐というべきものだったのですね。

S中将は息子によく

「海軍で最も楽しいのは兵学校の1号(最上級生)と艦長だ」

と言っていたとのことです。
そういえば井上成美大将も、後日、

「一番愉快だったのは『比叡』艦長の時だった」

と語り、海軍省軍務局時代にも部屋には『比叡』の絵を飾っていた由。
まあ、そういうことをすでに当ブログにおいて書いたことのあるわたしは、
その話を聞くや、

「連合艦隊の司令長官、というのもその一つという説がありますが」

と差し出がましく口を挟ませていただくと、

「そうかもしれないが・・時代にもよるんじゃないかな」

とにかく、艦長になるのは大佐のときですが、昇進してその後
それこそ井上成美のように軍令部などに配置されたが最後、
次は司令長官に昇りつめるまでは色々と巻き込まれたり
板挟みになったり責任ばかりが重く権力があるわけでもない、
非常に宮仕え的な海軍生活になるわけですから、一国一城の主であり、
船の中では絶対の権限を持つ艦長が男として楽しくないわけがありません。
(女であってもたぶん・・・)


S氏はお若い頃、ハンティング、狩猟を趣味にしておられたのですが、
海外に(4大陸制覇したらしい)銃を持ち出すのは手続きが大変で、
特に飛行機に載せるときの名目は「機長預かり」ということになるのだそうです。
もし機長がそれを拒否したらその飛行機には銃は積めません。
つまりそれほど飛行機における機長の権限は大きい、ということなのですが、

「船も同じですよ。船長や艦長の権限は大きい。
一蓮托生で失われかねない乗員全員の命を預かるわけですから」

民間でもそうですから、軍艦の艦長の権力がいかに絶大だったかということです。

さて、S氏は何か「長門」にまつわる思い出があるのでしょうか。

「ありますよ。
僕は小さかったけどはっきり覚えてるんですが、
親父が艦長だった時長門の中で食事をしたことがある」

なんと!

戦艦「長門」のディナーを食べたことのある人と、今面と向かってわたしはお話ししているのだわ。

「白いテーブルクロスがかかっていて、座っているテーブルの後ろに、
水兵さんが、左手にナプキンをかけて直立してるんですよ。
そして、その水兵さんが一皿一皿フランス料理をサーブするんです。
びっくりしたね。帝国海軍というところはこんな洒落たことをするのかと」

この話を聞いてしばらくたってから、ふと気になって、
その時Sさんがおいくつだったのか調べてみると、なんと4歳。

4歳の時の記憶なんて、誰にだってそうたくさんはないと思うのですが、
4歳児がフランス料理や水兵さんのサーブに驚き、
80数年経ってもそのことをはっきり覚えているというのは
Sさんにとってこの時の食事がよほど強烈な印象だったと見えます。

もう一つついでに。

わたしはSさんの年齢を3歳は若く勘違いしていたことをこの時知りました。
背筋はまっすぐ、今だに煙草を嗜み、おしゃれで、ボケるどころか耳も遠くなく、
人の話も完璧に聞き取って的確に返事を返してくるスーパー88歳。
やはり「只者ではなかった」と舌をまく思いでした。

若い時はさぞや優秀な切れ者だったのだろうと思うわけですが、
実は遊んでばかりで中学受験で東京のナンバースクール(一中、二中など)に入れず、
さらに麻布中学から兵学校を受けるも「4修」はならず、東大生のカテキョをつけていたそうです。

そのときSさんの家庭教師だった東大生は、戦後応召から帰ってきて、
Sさんの妹さんと結婚し「弟」となったそうで、

「僕に教えに来ている間、妹に目をつけてたんだよ」

この方(Sさんの義弟)はその後政界に出て、政務次官まで務めたそうです。

さて、そのSさんが、2号になったときに、501分隊の先任、つまり、
序列で全てが決まる江田島ではそれだけで「学年で5番」とわかる配置を任されました。

「1年の間倶楽部に一度も行かずに勉強をした」

成果だったそうです。
それほど頑張る気になった理由は、父上のS中将が、

「俺はアウトバットザラスト、ビリから2番目だった」

と常日頃いい、(卒業時にはクラスの半ばまで盛り返した)
軍人になるならハンモックナンバーが良くないとダメだ、と息子に言って聞かせたからでした。

二人の息子のうち兄をすでに兵学校に入学させていた父親としては、
次男は軍人にしたくなかったようです。

「戦争も始まっていたし、二人とも死なれちゃかなわんと思ったんだろうね。
技術者になれ、といわれたこともあった」

「どうして海軍に入ったんですか」

「海軍しか見えてなかったから」

S氏の部屋で見せてもらったアルバムには、兵学校生だった兄が
兵学校の休暇で帰ってきたときに撮ったらしい家族写真がありました。

そこに写る海軍兵学校の夏の真っ白な軍装姿の兄、都会の学校とはいえ、
兵学校のそれと比べると明らかに見劣りする、もっさりした制服姿の弟。

S氏は兵学校を受けた動機についてそれ以上のことは言いませんでしたが、
その写真を見た瞬間、スマートな兄の兵学校生徒姿が弟の憧れに
おそらく火をつけ、結果同じ道を選んだのだとわたしは直感しました。

内心反対していた父親は次男の兵学校進学をそれ以上止めず、ただ

「兵学校に入るなら勉強しろ」

とだけ言ったのだそうです。
自分が軍人である以上、決して本音はいえなかったこともあるでしょう。 

わたしはSさんに招待された時、その手土産代りに、兄上が
零戦の飛行隊長として戦死した時の行動調書と、部隊の編成表を
目黒の防衛庁戦史資料室で探し出し、コピーを持参しました。

戦争中のこのような資料を、必ずしもすべての人が歓迎するとは限らず、

「軍というものが嫌いで、同期会でも軍歌を歌ったことがない」

というSさんが、そのことをどう受け止めるか心配もありましたが、
実際には大変喜んでいただけたようです。

写真コピーで原本の黄ばんだ色さえ明瞭に映し出された行動調書の
兄の名前の上に「中尉」と書かれているのを見て、Sさんは


「中尉になってたのか・・・少尉だと思っていた」

とつぶやきました。
中尉で戦死したなら、おそらく最終階級は大尉のはずだと思います。
とわたしは言いかけて言葉を飲み込みました。

そんなことはおそらくSさんにとってどうでもいいことだからです。


S氏は兄だったS中尉の戦死を終戦まで知りませんでした。
戦後、父親は海軍の関係者からそのことを聞かされて知り、
家にはただ「英霊」と書かれた紙が入った骨箱が送られてきました。
長男の死を知った夜、父親の元海軍中将は部屋で一人、朝まで泣き続けていたとSさんは語りました。

「母親はあきらめられなかったんだろうね。
わざわざ九州まで行って、戦闘の行われた付近を訪ねて歩き、
息子の最後を知る者がいないか聞いて回ったらしい。
でも、何もわからずに帰ってきた」

つまり、それから何十年かののち、わたしが、なぜか数年前に
まるで何かの啓示を受けたように海軍の世界にのめり込みだしたこのわたしが、
こうやって最後の状況がわかる資料を探し出すまで、

「こんなことは調べてみようとも思いつかなかった」

Sさんは感謝の言葉とともにまたこんなことを言いました。

「母親はこういうことも一切知らないで死んでしまったんですよ」

そして、この風変わりな趣味を持つ女性(エリス中尉)にSさんは依頼をしました。

「3号が終了した時のハンモックナンバーを見てみたい」 

それを受けてわたしは国会図書館、防衛庁戦史資料室などに通い、
名簿という名簿を皆探したのですが、その結果はまた別の日に話すとして、
冒頭の不思議な広告は、その過程で偶然見つけた「お宝情報」です。

ある昭和の年代に編纂された海軍兵学校名簿の1ページで、広告主は

「海軍が特別に海に落ちてもいいような素材を開発して作った
特殊な布地を再現したので、それで作る兵学校制服とスーツ」

を宣伝しているのですが、モデルもご本人。
失礼ながら兵学校の制服が全然兵学校のものに見えないのが残念な体型でいらっしゃいますが、
何しろこの方、その「特殊な素材」を資料をもとに、往時の職人を探し出し開発したと・・・
なかなかの発明家でいらっしゃいます。

・・・・・発明家。

といえば?
そう、ドクター中松ですね。(そうなのか?)
名簿を検索している途中であるページにあった制服姿に
ふと心を奪われ、図書館にコピーを頼んでそれが家に郵送されてきてから
初めてこの広告主が若き日のドクター中松であることに気がつきました。

よく見れば名前の後に「77期マ15」とあります。
なんと、慌ててドクター中松の経歴を調べたところ、海軍兵学校舞鶴分校、
すなわち統合前でいう「海軍機関学校卒」であることがわかりました。


ついでにこの人、マハトマ・ガンディー賞とかイグ・ノーベル賞を
受賞していることも初めて知ってしまいました。

兵学校の後、戦後旧制高校からやり直して東大工学部に進学、
これはまさにSさんと同じコースであったことになります。


しかし、戦後の多士済々が兵学校からこんなにも輩出されてたんですね。
ただ、Sさんに言わせると

「兵学校の卒業生からはあまり評判は良くなかったみたい」

何をやったドクター中松(笑)

ところで、上の宣伝のスーツか兵学校生徒制服をもし作りたかったら、
会社の口座にお金を振り込むことになっているのですが、
皆さん、その振込先名義を見てください。

東京都民銀行 口座名義「大日本帝國海軍」

・・・・・・・・・・。

続く。
 


2015年度 東京音楽隊定期演奏会 前半

$
0
0

先週末の関東地方は異常とも言える寒さと風に見舞われました。
東北地方では雪と強風で飛行機が欠航し、なんでも仙台空港では
某韓流コンサートに行けなくなったファンがANAのデスクで
「号泣・罵倒・絶叫」
しながら臨時便を掛け合ったというほのぼのニュースがありましたが、
(ANAの皆さん、心の底から対応お疲れさまでした&同情します)
わたしもこの日車で移動していて、風に飛ばされた布団が4号新宿線の下道路沿いの
ガードレールに引っかかっているというシュールな光景を目撃しました。

しかし前日のバレンタインデーで恋の始まりの予感を感じたり、
さらなる愛を深め合ったカップルにとって「少~しも寒くないわ」な日であったように、
この日東京オペラシティで行われた東京音楽隊の第54回定期演奏会を聴いた人々は、
寒風も少しも寒くないくらい、温まった心で帰路についたはずです・・・

・・・・と、自分でも嫌になるくらいありがちな書き出しとなりましたが、
少なくともわたしはそうでした。もちろんバレンタインデーのせいではありませんが。
というわけで、コンサートの模様を今年もご報告いたします。




東京音楽隊の定演を聴くのは二回目となります。
前回はすみだトリフォニーホールで行われた1年半くらい前のものですが、
それから今までの間に何回も定演は行われているのを知りました。
2014年の12月12日、つまり1ヶ月前の定演が「第51回」だったのに今回は「第54回」。

このペースでいうと10日に一回は定期演奏会をやっていると言うことになります。

定期的にやるから定期演奏会なんだろ?と思われるかもしれませんが、
このペースはまるでN響並み(N響定演は月三回2プロずつ)。
もしかしたらこれほど頻度が上がったのは自衛隊の「最終兵器」である三宅由佳莉三曹
(冒頭写真右)の知名度と人気を反映してのことではないかと思われました。

写真はコンサート終了後、客より先にロビーに出て、左側の音楽隊長手塚2佐とともに
この日の聴衆に挨拶をする三宅三曹。
自衛隊のコンサートとはとても思えません・・・・と一瞬考えましたが、
考えたら終了後に出演者がこんな風にロビーで愛想を振りまくコンサートは、
今まで1~2度しか見たことがありませんし、
自衛隊の定演でも三宅三曹出現前は、まずなかったことなのでは・・・。


さて、この日のチケットは東京音楽隊より直接送っていただいたのですが、
開演の3時間前に座席券と引き換えするというものでした。
東京オペラシティなら、しかも独奏ではなくブラスオーケストラの演奏なら、
後ろの方で聴いた方が音響的にいいのはわかっていましたが、わたしには当日
どうしても早く行って前の方の席、少なくとも一階の席を取る必要があったのです。

というのは、これは偶然なのですが、昨日のログでお話しした兵学校76期の、
「長門」艦長だった海軍中将の息子という方をお誘いしていたためです。
88歳とご高齢の方にホールの階段を登らせるわけにはいきませんからね。



といっても、会場は日本の生んだ偉大な作曲家、武満徹を記念した
「タケミツ・メモリアル」というくらいで、音響はもちろんのこと、
建築家である76期氏が目を輝かせて「この建築は素晴らしいねえ」と
絶賛したくらいの超近代的なホールですので、当然エレベーターくらいはあるのですが、
まあ自衛隊イベントは並ぶのが基本、という考えが染み付いているわたしは
この日も交換時間の1時間前にナチュラルに並んでチケットをゲットしました。



早くから並んでいる人のために、ガラス張りの外側に向けてこのモニターが置かれ、
自衛隊の広報ビデオ(三宅さん出演のもの)が流されていました。
さすがは気配りの自衛隊。
大抵の人たちはおしゃべりをしたり、デバイスや文庫本を見ながら時間をつぶしていましたが、
たとえ音は聴こえないとしても、こういう目に見える変化があるとないでは大違い。
演奏会が始まってからはモニターは奥に移動していました。

並んで立っていると、自衛官たちが時々整理のためそこここを歩くのですが、
わたしはその中に呉音楽隊長のお姿を見つけたので、声をかけました。

「呉ではどうもありがとうございました」
「今日はわざわざ・・・?」

隊長が「わざわざ」と言ったわけは、わたしが「某地球防衛協会顧問」という肩書きで
呉音楽隊を訪問したので、某地方に在住の人間だと思っているためかもしれません。

「呉で兵学校の皆さんと呉音の演奏を聴かせていただきましたが、
今日はあの日いらしていた76期の方をお連れしたのです」

「それはそれは・・・楽しんでくださいね」

「音楽隊長が代わってからお聞きするのは初めてなので、楽しみです」

「新隊長、スキンヘッドなんですよ~」


なんというかこの方らしい(お会いするのは3度目ですが)コメントでした(笑)
呉からわざわざいらしていたのは会場整理のための応援(『裏方です』)だそうです。
自衛隊のコンサートはこのように音楽隊の相互の協力で行われるものなのですね。

さて、座席券交換時間が来たらあとはあっという間に順番は来て、
しかも早くから並んだ甲斐あって前過ぎず後ろ過ぎずの完璧な席、
しかも通路側2席というありがたい場所です。

心安らかにあとは有り余る時間でゆっくりとランチをいただき、気力は十分。
開場時間ちょうどに76期のS氏と待ち合わせて入場の時、
自衛隊音楽隊の演奏会は初めてというS氏に

「ビッグバンド風のジャズも聴けるはずですよ」

と勝手に予告したのですが、これはあとで全く外れであることが判明しました。
このあたりが自衛隊音楽隊そのもののレパートリーの広さの証明でもあるのですが、
どうやらプログラムは定期演奏会ごとにテーマをガラリと変え、
同じようなものにならないようにバラエティをもたせている模様。

わたしが前回聞いたのは、前半は自衛隊ピアニストの太田沙和子2曹による
ピアノコンチェルト、後半はジャズトランペッターをゲストに迎えての
ジャズ風のプログラムでしたが、この日はガラリと雰囲気を変え、

「行進曲と民族音楽」

というのがテーマになっていたのでした。
行進曲は東京音楽隊に限らず自衛隊音楽隊が最も得意とする分野で、
正面切ってそれを主題に据えてきたというのは、後から中の人に聞いたところによると、

「新隊長の手塚裕之2佐のカラー」

であるということでした。
しかし全編行進曲ではプログラム的にも如何なものか、ということで(多分)
民族主義を打ち出したロシアの5人組から2曲、あるいみ「日本の民族音楽」
の範疇である自衛隊委託作品、という構成になっていました。

まず、コンサートのオープニングは

1、双頭の鷲の旗のもとに(J.F.ワーグナー)

双頭の鷲とはオーストリア・ハンガリー帝国のシンボルで、
軍楽隊長が作曲しました。
日本ではすっかり運動会の曲と認識されております(´・ω・`)

続いても勇壮な行進曲で、わたしも聴くのは初めてだった

2、戦闘用意! Klar zum Gefecht!(H.L.ブランケンブルグ)

この曲はほとんど無名で、日本国内で演奏しているのは自衛隊だけという希少さ。
もしかしたら自衛隊が発掘してきた曲なんじゃないかと思ったり・・。
ちなみに題名も「戦闘用意」だったり「戦闘準備完了」だったり、
準備できたんかできてないのかどっちやねん!と突っ込みたくなるような二つが
いろんな国で翻訳されているうちに生まれてきてしまったようです。

原題だと「戦闘用意」でいいと思うんですがねえ。

さて、わたしは実はしょっぱなでこのような「軍靴の足音」っぽい曲が続き、
音楽関係者として面白いと思いつつも隣が気になって仕方ありませんでした。
というのは、S氏というのは、音楽には造詣が深く、個人的には

「ピアニストが好きで一時結婚していたこともある」(^^;;

という方でありながら、いやだからなのか、徹底したリベラリストの観点から

「音楽は怖いんです。それで鼓舞されて国民は戦争にも突き進んでしまう」

という、それどこのナチス党とワーグナー(”双頭の鷲に”の方じゃありません)、
みたいな考えを、戦後69年間頑として持ち続けてきた人。
こういう人が一番苦手なのが「戦闘用意!」(だか準備)みたいな曲である、
というのをわたしは隣にいてビンビンと感じ取ってしまったからでした。

なぜか始まりの時には拍手しても、これらの曲が終わってから、Sさんの手は上に上がりません。
あー、もしかしたらSさんドン引きしておられる?
お年を召されて極力体を動かすことを節約していたのかとも思いましたが、
どうやらそうではなく、拍手するしないはSさんの興不興を表していたとわかったのは
その次のプログラムが終わった後でした。

3、「ソルヴェイグの歌」歌劇「ペール・ギュント」より



この曲は東京音楽隊の誇る最終兵器、歌手の三宅三曹によって歌われました。
三宅さんはこの日最初から司会進行を務めながらアンコールを含めて三曲、
喉を披露してくれましたが、この曲は原語、すなわちノルウェー語での歌唱です。

東京音楽隊がノルウェーで行われた軍楽隊の祭典であるミリタリー・タトゥー
に出場した時、彼女が着物を着て「ふるさと」を歌った映像は
ここでも紹介させていただきましたが、そのノルウェー語での歌、
なんでも発音をノルウェー大使館のノルウェー人にチェックしてもらい、

「ノルウェー人が歌っているとしか思えない」

と褒めてもらった、と本人は嬉しそうにコメントして、さらなる拍手を受けていました。

わたしもこの歌は彼女にとても合っていると思いましたし、
どちらかというとミュージカル風の歌唱タイプだと思っていた三宅三曹が、
このようなクラシックの小品を格調高く、かつ完璧な音程で歌い上げているのを聞いて
人気の陰で彼女が慢心せず、研鑽を積んで着実に実力をつけていると感じました。

そして問題の隣のS氏ですが、「ソルヴェイグの歌」の後、惜しみない拍手を(笑)
・・・わかりやすい。わかりやすすぎるよSさん。


この時も思ったのですが、三宅さんという人は万人に好かれるオーラを持っています。
歌手というのは得てして傲慢で自己主張の強すぎる人が多く、(一般論ですよ)
むしろそんな強い性格でないとやっていけない世界なだけに、どんな歌手にも
「この人だけは敵にしたくない」と思わずにいられないようなアクの強さを感じるものなのですが、
そういった歌手とは全く立場も立ち位置も違う歌手とはいえ、三宅三曹には
逆に聞いていてニコニコと自然に微笑みが浮かんでくるような・・・・。
いわば「本人の人柄の良さ」が際立つのです。

自衛隊の歌手を採用するという話になったとき、さぞ多くの歌手がオーディションを
受けたのだと思われますが、自衛隊の「顔」として彼女を選んだ当時の選考委員は
歌の実力より、もしかしたらこの万人に好かれる清潔さと可愛らしさ、
そして人間の伸びしろみたいなものを見抜いたのかもしれない、とわたしは思いました。

歌が終わった時、隣の女性がため息をついて

「はあー・・・きれい!」

と感極まったようにつぶやきましたが、そういうことです(笑)

一時テレビなどの媒体への露出が増えてわたしが懸念を感じていた頃、当ブログでも
何人かの読者が

「自衛隊には彼女を守ってあげてほしい」

と苦言を呈していたことがありますが、少なくともこの日、彼女自身に
注目に慣れた嫌味さはもちろん、潰されたり圧迫されているような様子は微塵もなく、
実に上手く「育ててもらっている」なあと感じてわたしは嬉しく思いました。

冒頭の写真はもうすでに出来かけていた人垣の合間から撮った(のでブレた)のですが、
このあと人垣はものすごいことになり、わたしが会場を後にする頃には
本人が見えなくなるくらい周りに人を集めていました。

おそらく手塚隊長が一人で立っていてもこうはならなかったでしょう。当たり前か。



というわけで、全くプログラムを紹介できなかったので明日に続く(笑)














 

海上自衛隊東京音楽隊 第54回定期演奏会 後半

$
0
0



8、團伊玖磨(福田滋 編曲):「キスカ・マーチ」

2月15日、東京オペラシティで行われた東京音楽隊定演の鑑賞記二日目です。

昨日のエントリをアップしてから教えていただいたことが幾つかあるので
まずそのことをご報告しておくと、わたしが開演前にお会いした呉音楽隊長は、
「元呉音楽隊長」であったことが判明しました。
なんと、移動があって現在は東京音楽隊の教育課におられるとのこと。
ついこの間まで呉にいたのに今は東京在住ですか・・・。
転勤が普通の自衛隊といえ、音楽隊でも移動があるとは知りませんでした。

それから、N響並みに定期公演が多い!と驚いたのですが、わたしが
前回聞かせていただいたのは「定例公演」であったことがわかりました。
東京音楽隊にとって定演は

防衛大臣直轄部隊としての訓練検閲の受閲

という位置付けであり(さすがは軍楽隊!)、やはり年一回のものなのだそうです。

それでは誰の観閲(おっと検閲ですね)を受けるのかというと海幕長なのですが、
今回は、先日起こった鹿屋の練習機事故によって殉職した隊員たちの喪に服するという意味で
海幕長が欠席したため、海幕総務副部長による検閲(という名目の鑑賞)を受けたということです。

さて。 


前回のあらすじ

わたしがコンサートにお誘いしてこの日隣に座っていた元海軍兵学校生徒のS氏は、
徹底したアンチミリ(タリー)で、この日もミリっぽい曲に拍手しなかったが、
三宅三曹の歌った「ソルヴェイグの歌」には拍手していた。


というわけで、後半に演奏された映画「キスカ 太平洋奇跡の作戦」の主題曲
「キスカ・マーチ」のとき、わたしは身を固くしていたのですが(笑)、
個人的に團伊玖磨のこの曲は好きですし、何と言ってもこの映画については

アメリカ軍の戦った敵

という題で漫画まで描いたくらい入れ込んで解説した映画。
(いまだに人気ページだし) 
Sさんの反応を気にしなければもっと楽しめたのにと残念です。
決してSさんのせいではないんですが。

ところでこの日、会場でジャーナリストの笹幸恵さんにお会いしました。
本日のプログラムは彼女的に大変好みだったらしい、とお連れの方がおっしゃっていたのですが、
特にこの「キスカマーチ」がポイントだったんじゃないかな(笑)となんとなく思った次第です。


4、デンマークとロシアの歌による奇想曲 サン=サーンス

 
 

全プログラム中わたしが一番意欲的だと思ったのがこの曲でした。
音楽関係者でもなければほとんどの方が聴いたことがないというくらい
マイナーな小品ですが、となりのSさんが一番感銘を受けたらしいのが実はこれでした。
Sさんはピアニストが好きなので()、ピアノ、フルート、オーボエ、クラリネット、
という変則的なピアノ4重奏で、ピアノの比率が非常に高いことがポイントだったのでしょう。



サン=サーンスは民族派ではありませんが、曲の題材にデンマークとロシア
(ロシアに嫁いできたデンマークの王女に献呈されたため)の旋律が使われたため、
プログラムに使用したようです。

わたしはもともとサン=サーンスのオーボエソナタやホルンソナタなど、
管楽器の小品が好きで、特にオーボエソナタはiPodにも入れているくらいですが、
この曲は旋律に「サン=サーンス節」が色濃く出ているとあらためて感じました。

一般のオーケストラでも時々団員が協奏曲でソロを取らせてもらえますが、
今回のこの選曲もおそらく優秀な隊員にソロで演奏させるという目的があったと思われます。

4人のソリストの演奏は、サン=サーンスの管楽器曲特有の「フランス的軽さ」
というか、洒脱さとまではいきませんでしたが、典雅にまとめられ好演でした。

終わってからアナウンスで名前を紹介されたのですが、
プログラムには記名がなかったのが、少し気の毒な気がしました。
これは三宅三曹の場合もそうで、どんなに目立っていても個人名を書かないのが
自衛隊音楽隊の基本姿勢のようです。


5、ルスランとリュドミラ 序曲 グリンカ




もともと管弦楽曲なので、吹奏楽のバージョンを貼ろうと思ったのですが、
中学生の演奏しかなかったので、最もこの日の演奏に似たテンポで
演奏されユーフォニアムとチューバの合奏バージョンを持ってきました。

始まった時おもわず「速っ」と心の中でつぶやいたくらい速かったです(笑)
それを全員管楽器の楽団がやるのですから、司会の三宅さんが

「超絶技巧による演奏をお聞きください」

とわざわざ言ったのもよくわかります。
各自のテクニックの確かさが発揮され、この日のプログラムの中でも特に印象的でした。

6、「わが祖国」より「モルダウ」 スメタナ




民族音楽といえばスメタナ、スメタナといえば民族音楽。
ことにこの「わが祖国」はどんぴしゃりのテーマでそのものです。
本日のメインプログラムはこれではなかったか?と思うほどの気合の入りようでした。

勿論ブラスバンドで聴くのは初めてですが、このブラスバージョンは
決して珍しいものではないらしく、幾つものバージョンがYouTubeでも見つかりました。


そして後半。

7、行進曲「興亜」橋本国彦


帝国海軍軍楽隊の演奏による

橋本国彦というのは、わたしが以前「太平洋の翼」という映画の時に取り上げた
「大東亜戦争海軍の歌」の作曲者です。

「見よ檣頭(しょうとう)に思い出の 
Z旗高く翻(ひるがえ)る 
時こそ来たれ令一下 
ああ十二月八日朝 
星条旗まず破れたり 
巨艦裂けたり沈みたり」

というあれですね。
で、この「興亜」となんとなく似てるんだ。旋律の癖が。
というか同じ人なので当然なのですがね。

このときご一緒だったSさんは、前にもお話ししましたが、兵学校で同期だった
「憧れのハワイ航路」「艦隊勤務」の作曲者、江口夜詩の息子と親友だったというので、
わたしはここにも書いた

「憧れのハワイ航路の前奏に、朝だ夜明けだと続けても全く違和感がない」

という説をこの日恐る恐る言ってみたところ、笑われました。
ちなみにこの手の曲は最も「軍歌嫌い」のSさんの琴線にネガティブな意味で触れるものらしく
終わった後には拍手どころかピクッとも反応をなさいませんでした(^◇^;)


9、南鳥島の光 坂井格

自衛隊委嘱作品。
この題名から、戦前の「興亜」みたいな曲かと怯えたのですが
(いや、わたしは好きなんですよ。わたし自身はね)そうではなく、本日初演でした。

レアアースで注目されている南鳥島に防衛のために駐留してこの時にも任務に就いている、
自衛隊員への応援の意味を込めて書いた曲だそうです。
会場には作曲者が来ていて、終わった後紹介されていました。

10、吹奏楽のための舟歌 伊藤泰英



こちらは少し昔の委嘱作品で、「金比羅船ふね」のメロディがいきなり冒頭に取り入れられています。
この曲を依頼したのは呉音楽隊。

もう少し先にアップ予定のエントリに、掃海隊の慰霊式の話があるのですが、
呉地方総監が執行者となってその慰霊式を行うのが、慰霊碑のある金刀比羅宮なのです。

この曲は聴きなれたメロディもあって受け入れられやすいらしく、
Sさんも「あれは面白かったですねえ」と感心していました。
以前横須賀地方隊の演奏で聴いて感心した「ぐるりよざ」と同じ作曲家だそうです。
道理で。

11、この道 山田耕筰

北原白秋の詩は、札幌での想い出が述べられています。
これを三宅三曹が独唱しました。
あえて苦言を呈させて貰えば、三宅さんの声は低音に響きがなく”鳴らない”のが難点。
そのせいで歌詞がほとんど客席まで聞こえてこなかったのが、残念といえば残念です。
(厳しくてごめんね(_ _;))


 12、火の伝説 櫛田てつ之扶(てつのすけ、てつは月編に失う)

 

 
委嘱作品ではなく、「民族音楽的観点」から選ばれた曲のようです。
京都を舞台に行われる、「八坂神社の大晦日の火縄」「大文字の火」「時代祭の篝火」
・・・つまり、火の祭事、神事を描写しながら人々の営みと関わる「火」を
主題に歌った叙事詩のような作品です。

音楽的構成からも決して安易なものではなく、演奏者の意欲が感じられる選曲でした。


アンコール 早春賦

アンコールでは三宅三曹が最後にもう一度歌ってくれました。
昨日の冒頭にも書いた通り、この日は大変厳しい寒さでしたが、
この曲で一足先に春を感じてもらおうという計らいです。

三宅さんは歌い終わった後、客席と、楽団に向かっても挨拶していましたが、
そのときの音楽隊員、特に女性隊員の表情を見ていると
(わたしはこんな瞬間に”何かがあるなら”特に女性の顔に表れるものがあると思っているので)
やっぱり彼女は皆に好かれているんだなと今回も確信した次第です。

そして、一番最後に

行進曲「軍艦」 瀬戸口藤吉


わたしはこの曲で手拍子をする風潮が嫌いです(笑)

この曲が海軍軍楽隊で生まれて以来、どういうときに演奏されてきたかということを考えると、
手拍子で調子を取るような曲ではないし、少なくともわたしはそうするべきではないと思っています。
海上自衛隊の演奏会が必ずこの曲で終わるということを、ロビーに揚げられた自衛艦旗と共に
たいへん重く考えているという、ごくごく個人的なこだわりに過ぎないのですが。


「早春賦」のあと、最後に指揮台に立った手塚2佐は少々不審に感じられるほど
長い時間瞑目してから、初めてタクトを振り下ろして「軍艦」の演奏を始めました。
おそらくですがこの長い時間にも同じような理由があるとわたしは感じました。




ところで同行したSさんは、この日演奏された「キスカ・マーチ」が主題歌の映画、
「キスカ 太平洋奇跡の作戦」を観ていないだけでなく、
「キスカ作戦」そのものをまったく知りませんでした。

そこでわたしは講談師よろしく、アッツ島の玉砕に始まり微に入り細に入り、
キスカ作戦についてもと海軍軍人に説明する羽目になったのです(笑)
一通り喋り終わった後、Sさんは

「本当によく知ってるねえ」

と言いましたが、その後またこう付け加えました。

「僕は本当にそういうのを見るのも聞くのも避けていてね。
兵学校の集まりでも皆が軍歌を歌いだしたら逃げたりしていた」

それに対し、わたしはためらいつつこう言いました。

「わたしもSさんのように戦争を体験していたら、おそらく
同じように戦争を語ることも関わるものを見聞きするのも避けていたかもしれません。
語りたくないという方がいても、それはもっともなことだと思います。
事実、そんな方が戦後たくさんいて、家族にも何も語らないまま死んでいきました。
でもわたしはその時を知らないからこそ、尚更知らねばならないと思うんです」


行進曲「軍艦」が始まると同時に、会場では一斉に手拍子が始まりました。
しかし、少なくとも周りでは唯一わたしと隣の席のSさんだけが、
全く違う理由ではありましたが、手を上げずにただその調べをただ聴いていたのです。



終わり




移動中のTOから送られてきたこの日の富士山。
怖いくらい澄み切った空を切り取るような富士の稜線が美しい。



 





 

映画「KANO 1931 海の向こうの甲子園」~”嘉義についたら起こしてくれ”

$
0
0

以前、予告編をここでアップしたことのある

「KANO 1931 海の向こうの甲子園」

を観てきました。

日清戦争の後の下関条約によって日本が清国より割譲したのが1895年。
この時から台湾の日本による支配が始まりました。
条約によって正式に割譲されたのですから決して「武力支配」ではありませんが、
台湾に対してなぜか「支配してすまないと思う」日本人が今現在もいるようです。

わたしにいわせると、すむもすまないも条約だろ?の一言で終わる話ですし、
そもそもこんなことを言う人に限って条約のことを知らなかったりします。

おそらく割譲後に起きた台湾人の抵抗運動と、それを武力で日本政府が抑えたことで、
日本が台湾を武力で押さえつけて支配したと思い込んでいるのでしょう。

蜂起したのは決して台湾の「一般人」ましてや「良民」ではなかった、という、
(つまり現地を牛耳ってそこから利益を得ていた地元ヤクザのようなもの)
なぜか語られない実態を考慮せずに、支配の構図だけを見て結論を出しているのです。

が、(笑)このことについては
以前後後藤新平について書いた項で縷々お話ししましたので、今日は割愛します。

このお話は、そういった騒乱がひと段落したころの1931年の台湾を舞台に、
ダメダメチームだった嘉義農林高校ナインの前にある日突如現れた
凄腕監督と、 選手たちの歩んだ「甲子園への道」を描きます。

ストーリーは、史実の通り、嘉義農林がその年の甲子園で準優勝するまでで、
彼らが地元で一度も勝てなかった相手を下して以降、
監督の厳しい指導のもと、球児たちが力をつけて強くなっていく過程がコアとなっている、
つまり単純なものですが、だからこそ見ていて裏切られることのない爽快感があります。


そして、この映画は、わたしの好きな映画の条件、すなわち

「男たちが」「皆で何か一つのことをやり遂げる」「実話ベースの物語」

を満たしています。
わたしがこの最初に自分のこの傾向に気づいたのは「炎のランナー」でした。
「炎のランナー」でパリ・オリンピックに出場した実在のアスリートが主人公だったように、
当映画は野球で、実際に戦後日本の球界で活躍した選手が何人かいます。

しかも、わたしが訪れたことのある台南が舞台であり、これも実際に訪れた、
八田ダムを作った嘉南大洲の父、技術者八田與一が出てくるというではありませんか。

台湾という国には、金美齢さんとの出会いもあって個人的に大変な親近感を持っていますし、
地震の後の支援によって「雨天の友」であることがわかった今となっては
日本と台湾は「相思相愛」の国同士といってもいいくらいの「ラブラブ」
(金美齢さんが自分と安倍総理とのことをこう言っていた)でもあると思っています。


かつて台湾が「日本」であったころ、そこで「普通の」人々はどう生きていたのか。
そのとき日本は台湾をどう遇したのか。
そんなことが実話ベースのストーリーから読み取れるかもしれないという期待をもって
この映画を見てみました。

というわけで。

野球好きはもちろん、野球に興味のない人にもぜひ見ていただきたい映画です。
皆さん、まだお住まいの地方で上映をしていたら、ぜひ映画館で観てください。
DVDでも決して後悔しないと思いますが、特に甲子園球場での試合のシーンは、
大スクリーンで観るのがオススメです。


さて、というわけで今日はまだ見ていない方のためにストーリーについては触れませんが、
この映画に登場した実在の人物についてです。


 

監督 近藤兵太郎

早稲田大学卒。
コーチとして出身校の松山商業をベスト8へと導く。
台湾の嘉義農林高校で簿記を教えていたが、3年後野球部の監督となり、
その年、1931年の甲子園大会で嘉義農林を準優勝まで導いた。


松山商業時代の教え子に、東京巨人軍、大阪/阪神タイガースの監督であった藤本定義、 
大洋ホエールズの監督を務めた森茂雄などがいます。

近藤監督を演じる永瀬正敏が好演です。
永瀬の演技は台湾でも絶賛され、6部門で台湾の映画賞にノミネートされましたが、
審査員に反日スピーチで有名なジョアン・チェンがいたせいで(と言われている)
無冠に終わりました。

まあ、中国にとっては実に面白くないストーリーでしょうね(笑)




呉明捷( ご・めいしょう)中央


本編の主人公。
ピッチャーで4番打者、甲子園では完全試合、全試合完投を成し遂げ、
その圧倒的な投球から「麒麟児」とよばれた。

映画ではスラリと背の高いハンサムな曹佑寧くんが演じていますが、
この写真を見る限り、当時の呉選手に似ています。
監督のウェイ・ダーションは

「呉明捷と蘇正生がこの映画のポイントなので、似た俳優を選んだ」

と言っています。
ただし、

 

30年後にはこうなってしまったようで(T_T)
(近藤監督は右から2番目、呉明捷は一番左)

この映画で呉選手を演じた俳優のツァオ・ヨウニンは実は俳優ではなく、大学野球の選手。
キャストは一般公募されたのですが、条件が

「野球歴5年以上」。

確かに、野球をするシーンが皆、さまになっているせいで、
この映画には説得力というか引き込む力があります。
彼は一年間大学を休学して撮影に臨んだそうで、学校に戻った今では大人気で
追っかけのファンが彼の出る大学野球を観に押しかけるのだとか。 

 


呉波(呉昌征・石井昌征)

映画で、近藤監督に無視されても

「手伝わせてください」

と頼み込んで、グラウンドの整備をしたり球拾いをしたりする少年がいます。
嘉義農林の生徒ではありませんが、野球部に憧れ、絶対に生徒になる、と決めて
入学するまで毎日ボールボーイのようなことをしていたこの少年は、
その後嘉義農林の選手として甲子園に出場することができました。

そして21歳で東京巨人軍に入団。
俊足、強肩の外野手として活躍し、「人間機関車」と呼ばれる名選手になりました。

1942年、43年には2年連続首位打者となり、その後阪神でプレー。
他の選手が

「外野からあれだけ正確なバックホームができるなら投手もできるだろう」

といったことから(おいおい(⌒-⌒; ))投手としても登板するようになります。
そして戦後初のノーヒットノーランを達成しました。
登板のない日は打者として1番・センターを務めていたという怪物でした。

巨人と阪神、ライバル球団のどちらもで主力選手として活躍した例は珍しく、
巨人対阪神のOB戦では川上哲治や藤村富美男など両軍の選手たちから

「君はこっちだ」

とからかわれていたそうです。
そして、1995年、本人が亡くなって8年後に、彼の名は野球殿堂入りしました。

戦争が始まった時、呉は阪神タイガースにいましたが、プロ野球は中断となり、
甲子園球場のグラウンドは芋畑にされていました。
そこで昔取った杵柄(笑)、呉はかつて嘉義農林学校に学んでいた経験から、
耕作指導員として(甲子園の土の)土壌改良に取り組んだそうです。

かつての憧れの甲子園で、将来芋を作ることに学校時代の勉強が役に立つとは
本人は夢にも思ってもいなかったに違いありません。

映画で呉波少年を演じているのは台南市出身のウェイ・チーアン。
ローラーブレードの選手で、プロデューサーの甥だそうです。





蘇正生(そ しょうせい)

映画では、テニス部の彼がラケットで流れ球を打ち返したことで、
近藤監督にその肩を買われて野球部入りをします。

近藤監督は実際、監督に就任してから台湾全島を歩き回り、
有望な選手を探し出して嘉義農林にスカウトするということをしています。
コーチの仕方ももちろん良かったのですが、それだけでは
就任した年に甲子園で準優勝することはできなかったでしょう。

蘇選手は卒業後横浜専門学校(現:神奈川大学)でプレイした後、
台湾の野球発展に尽くし、

「台湾野球界の国宝」

と呼ばれていたそうです。
本作品製作にあたってはまだ存命だった(2008年に死去)ため、
映画スタッフが聞き取ったエピソードが取り入れられました。


錠者博美 (札幌商業高校投手)


この映画は甲子園大会から13年後の1944年から始まります。
台湾を通過して戦地に赴く汽車に乗り込んでいく帝国陸軍の軍人たち。
その中に、甲子園で嘉義農林と戦った札幌商業高校の投手であった
錠者博美選手の13年後の姿があります、

陸軍大尉として台湾経由でフィリピン戦線にこれから向かう彼は、
汽車に乗り込んだとき、こう言って眠りにつくのです。

「嘉義についたら起こしてくれ」

この言葉は、台湾を経由する日本兵の一種の「流行り言葉」であったと言われています。
敗戦色が濃厚となった大東亜戦争末期、生きて帰れないかもしれないという状況で
台湾を通過していく日本兵、あの1931年の甲子園を覚えている日本兵たちは、
どんな状況下でも、決して諦めなかった、あの嘉義農林の球児たちを育んだ土地を一目見たい
と願ったということらしいのです。

そしてその通り、錠者選手、いや今では錠者大尉は、一人嘉義の町を歩き、
今では人気のなくなったかつての嘉義農林のグラウンドに立つのでした。

錠者博美という選手は実際に札幌商業高校の選手でしたが、フィリピン戦線ではなく、
中国大陸に出征し、終戦まで生き延びたものの、戦後はイルクーツクの収容所に収監され、
そこで亡くなっています。

マー・ジーシアン監督は、日本兵の間で交わされた「嘉義についたら起こしてくれ」
という言葉を映画に取り入れるために、錠者博美を日本兵の象徴として描いたのでしょう。


そして1931年に甲子園に出場した日本人選手のうち、傷ついた手で投げ続ける呉投手に

「打たせればいい、俺たちが絶対にとってみせる」

という「鉄壁のトライアングル」、セカンドの河原信男、ライトの福島又男は、
どちらも招集されて出征し、戦死しています。


甲子園に来た嘉義農林ナインに、嫌な質問をする記者がいます。

「漢人、満人、日本人、そんな寄せ集めで野球ができるの?」

実に嫌な言い方で、ちょっとした映画の「憎まれ役」といったところ。

「漢人は打撃が強く、満人は足が速い、日本人は守備に長けていて最高のチームだ」

と近藤監督に言い返されて、試合では大敗したらコケにしてやろうと
手ぐすね引きつつ観戦するのですが、彼らの活躍に次第にファンになり、最後には

「天下の嘉農」

というタイトルで記事を書くに至ります。
この「天下の嘉農」は何を隠そう、あの菊池寛が大阪朝日新聞に寄稿した観戦記の中で

「僕はすっかり嘉農びいきになってしまった 」

と絶賛したことから、各新聞が嘉義農林のキャッチフレーズにした言葉でした。
嘉義農林の活躍は当時一種の社会現象となるほど騒がれたため、13年経った後に、
このときの熱狂を、戦地に向かうため台湾を通過する日本人たちが思い出したとしても
全く不思議ではなかったということになります。


八田與一

さて、そしてこの映画で出番は少なくても強烈な印象を放っているのが、
大沢たかお演じる烏山島ダムを作った八田與一でした。

映画では烏山島ダム完成の放水の様子が再現されています。
実際に放水が最初に行われたところを見たわたしには全く完璧に再現されていると思われました。
もしかしたら本当に烏山島ダムで撮られたのかと思ったくらいです。


それから、この映画をすでに見られたという方、甲子園出場が決まった後に
嘉義の町で行われたパレードで部員の一人、

上松耕一(プユマ族出身、本名:アジワツ、台湾名:陳耕元)

が目を止める「お嬢様」がいたのを覚えておられますか?

彼女は蔡招招という嘉義女子中学の学生で、後に上松の妻になったそうです。
上松選手はスカウトされてきて、甲子園出場の時には史上最年長の27歳だったので、
おそらく実際に結婚した時には彼女と13~4歳は年の差があったと思われます。
 




ところでわたしは台南に旅行をした時、台南駅前のシャングリラホテルの
コンシェルジュである若い女性と観光案内の件で話をしていて、
烏山島ダムを作った技術者が八田與一という日本人であることをいうと、
彼女はこの地方の出身ではないのか(台南地方の出身者は学校で習う)
日本人がダムを作ったという話は初めて聞いた、と語りました。

「そうだったんですか」

と興味深そうに言っていましたが、この映画は台湾で大ヒットしたので、
もしかしたら彼女は映画を見て、このときの会話を思い出したかもしれません。



それでは最後に、1931年全国高校野球選手権大会の試合結果を貼っておきます。



 

【試合結果】

 

1回戦

 

中京商 4x - 3 早稲田実

 

広陵中 4 - 1 和歌山商

 

秋田中 6 - 0 千葉中

 

平安中 6 - 5 八尾中

 

小倉工 6 - 0 敦賀商

 

長野商 2 - 1 大分商

 

 

 

2回戦

 

中京商 19 - 1 秋田中

 

広陵中 6x - 5 平安中

 

松山商 3 - 0 第一神港商

 

桐生中 2 - 0 福岡中

 

嘉義農林 3 - 0 神奈川商工

 

(札幌商 4 - 2 大連商)(4回1死1塁降雨ノーゲーム)

 

札幌商 10x - 9 大連商

 

小倉工 5 - 2 長野商

 

大社中 12 - 11 京城商

 

 

 

準々決勝

 

中京商 5 - 3 広陵中

 

松山商 3 - 0 桐生中

 

嘉義農林 19 - 7 札幌商

 

小倉工 22 - 4 大社中

 

 

 

準決勝

 

中京商 3 - 1 松山商

 

嘉義農林 10 - 2 小倉工

 

 

 

決勝

 

中京商 4 - 0 嘉義農林

 

チーム

1

2

3

4

5

6

7

8

9

R

嘉義農林

0

0

0

0

0

0

0

0

0

0

中京商

0

0

2

2

0

0

0

0

x

4

1.      嘉 : 呉 - 東

2.      中 : 吉田 - 桜井

3.      [審判](球)梅田(塁)鶴田・水上・川久保

 

海自ヘリ事故の報道と塗り換えられた陸自最強伝説+おまけ

$
0
0


最近起こった自衛隊関係のニュースについてです。
まず、2月14日に墜落がわかった海自のヘリの記事から。

不明ヘリ発見、3人心肺停止=宮崎の山中に墜落―海自


(産経新聞12日記事)

12日午前、鹿児島県の海上自衛隊鹿屋基地所属のヘリコプター1機が
訓練飛行中に行方不明になった。ヘリには隊員ら3人が搭乗。
鹿児島県上空での交信を最後に行方が分からなくなったといい、
海自と空自の航空機が付近を捜索している。

防衛省によると、ヘリはOH6DA。
4人乗りの小型ヘリで、パイロット養成の練習機として配備されており、
海自の学生ら3人が乗っていた。

ヘリは同日午前9時19分に鹿屋基地を離陸。
同11時5分に鹿児島県伊佐市付近での無線交信を最後に行方が分からなくなったという。
ヘリの燃料は同日午後0時20分ごろまで飛行が可能だったといい、
防衛省は不時着したか、遭難した可能性もあるとみて付近を捜索している。

同日午前の鹿児島県上空は雨雲で視界が悪かったという。

(朝日新聞13日記事)

海上自衛隊鹿屋航空基地(鹿児島県鹿屋市)を12日に離陸後、
鹿児島・宮崎県境付近で行方不明になっていた同基地所属の訓練用ヘリコプターOH―6DAの機体が、
13日午前9時20分ごろ、大破した状態で宮崎県えびの市の山中で見つかった。
搭乗していた3人は、搬送先の病院で死亡が確認された。

自衛隊によると、ヘリが見つかったのは鹿児島県境に近いえびの市内竪のJR真幸駅の北東。
第211教育航空隊所属で、3等海佐の山本忠浩機長(39)と40代の3等海佐の男性教官、
20代の2等海曹が搭乗していた。

海自によると、2等海曹は機体の外で、他の2人は機体の下敷きになった状態で見つかった。

ヘリは12日午前9時19分、鹿屋基地を離陸。鹿児島県伊佐市付近まで北上後、
同県出水市付近で折り返し、基地に戻る予定だった。
だが鹿児島空港事務所などによると、同11時前後に空港の管制官との間で
「天気が悪いので迂回して鹿屋へ帰る。(宮崎県の)えびの、小林、都城を経由する」
とのやりとりがあった。
同11時5分ごろ、伊佐市上空付近を飛んでいる、と鹿屋基地と交信したのを最後に連絡が途絶えた。


第一報では「海自の学生ら3人」となっていましたが、
その後「機長・教官・学生」であることが明らかになりました。
日曜日に行われた東京音楽隊の定期演奏会に検閲予定だった武居海幕長は、
自体を鑑みて出席を取りやめたということです。

海幕長は17日に記者会見を行っており、その席でこのヘリコプターが2013年、
機体後部の回転翼に動力を伝える部品が破断し、修理していたと明らかにし、
「これらのことも踏まえ、事故原因を調査している」と述べました。

破断したのは「テールドライブシャフト」と呼ばれる軸状の部品で、
地上での回転翼の動作試験中に折れたそうですが、すぐに部品を交換し、
以降は同様の不具合は起きていないということです。

現時点で事故原因は究明できていません。

さて、そこでお約束のように「付近住民の不安」を拾ってきた社あり。 

(毎日新聞・2月13日) 

「どこかに不時着してくれていたら」。希望を打ち砕く光景だった。
12日に鹿児島・宮崎県境の上空で消息を絶った海上自衛隊の小型ヘリ。
一夜明けて捜索にあたっていた自衛隊が、宮崎県えびの市の山中でヘリ機体を見つけた。
機体とともに搭乗していた自衛官3人も心肺停止状態で見つかった。
「無事を信じていたのに」。
夜明けとともに捜索にあたった関係者は、うつむいた。

海自などは周囲が明るくなり始めた午前7時ごろから、捜索を再開した。
現場付近の住民から「雷とは違う大きな音がした」と情報が寄せられた
JR肥薩線真幸駅(宮崎県えびの市)付近を重点的に捜索。
宮崎県警約60人と合同で、上空からはヘリコプターなど5機、
陸上からは500人態勢で機体や搭乗員の行方を捜していた。

捜索開始から約2時間半後の午前9時20分過ぎ「機体一部を発見」との知らせが入り、
周辺は一気に慌ただしくなった。
真幸駅近くの前線本部では地図を広げた隊員らが無線交信に追われ、
既に山中に入っていた隊員らに、現場とみられる滝下山(標高785メートル)
山頂付近に向かうよう指示が出された。
報道陣に囲まれた広報担当者は間もなく
「3人が確認された。未確認だが、脈がない」と沈痛な表情で漏らした。

行方不明機が所属する海上自衛隊鹿屋航空基地でも仲間の安否を気遣い、
険しい表情を浮かべる自衛官らが慌ただしく行き来した。
早朝から報道関係者の対応にも追われ、断片的に入る情報にいら立つ関係者も。
何度も詰め寄る報道陣に「後輩が乗っていた。私も知りたいんだ」と言い返す自衛官もいた。

大がかりな捜索に、近隣の住民も不安を募らせた。千葉シヅ子さん(77)は
「低い高度でヘリコプターが飛んでいたので、怖いとは思っていた」と表情を曇らせた。
別の70代女性は「こんな近くに落ちていたとは」と顔をこわ張らせた。
【重春次男、杣谷健太】


まずは殉職された3人の隊員の皆様のご冥福をお祈りいたします。

働き盛りの幹部二人とまだまだこれからの若い練習生の死。
いつも危険と隣合わせの任務とはいえ、ご家族はじめ周りはどんなにか無念であることでしょう。
2曹は航空学生で採用され、回転翼の過程に進んだところで、
まだウィングマークを取っていない段階であったのかもしれません。

この記事でわたしの「センサー」にかかった部分を赤文字にしてみました。
早速ですが先日の「おおすみ」事故におけるマスコミ対応に通じる
「煽り」みたいなものを感じますね。

「苛立つ関係者」「言い返す自衛官」

これらからは言外に「事故を起こしておいてその当事者のくせに」という非難が含まれています。
だいたいこういうときに自衛官が群がるマスコミに対して

「私も知りたいんだ」

なんて社会派ドラマの登場人物みたいな言葉使いをすると思いますか?
そして「近隣の住民が不安」という、マスコミお得意のイメージ操作。
まるでヘリが住宅地の真ん中に落ちたような書き方ですが、現場は「山中」。
最寄りの「真幸駅」とやらもグーグルマップで調べてみれば無人駅で、駅前には店らしきものもない、
つまり「付近住民が怖いと顔を強張らせたり不安を募らせる」要素は”あまり”ありません。

おそらく、毎日の記者二人は付近の民家に片っ端から突撃し、高齢の女性を選び、

「すぐそこに落ちたんですよ。おたくも危なかったですね」

などといって、おばあちゃんたちの

「そりゃ怖いねえ」

 という一言を取ってきて、ついでに顔を強張らせたことにしたに違いありません。
たぶんね。
ヘリの墜落といえば、報道ヘリが起こした事故は結構あって、


1984年、朝日放送と毎日新聞のヘリが空中衝突(住宅街に墜落)3人死亡

2004年、信越放送のヘリが送電線に接触して墜落、4人死亡

2007年、静岡でNHKのヘリが貯水池脇に墜落、1人死亡

2008年、青森朝日放送のヘリが海に墜落、4名死亡


これらの事故の時に、報道陣は近隣住民にインタビューしたんでしょうか。
そして、近隣住民の不安の声をお届けしたんでしょうか。
京都の市街地の上空で8機のヘリがニアミスしたということがあったとき、
下で見ている住民が文字通り顔を強張らせていた件はどう記事にしたんでしょうか。

全くこういうダブルスタンダードの報道には怒りを覚えずにいられません。
おい毎日、おめーのことだ!


続いては、第一空挺団の事故ニュースです。

(十勝新聞2月13日)

パラシュート十分開かず 隊員にけがなし 陸自降下訓練


【鹿追】11日午前9時15分ごろ、鹿追乳牛育成牧場で行われていた
陸上自衛隊第1空挺団(千葉県船橋市、習志野駐屯地)の降下訓練で、
隊員1人のパラシュートが十分に開かないまま降下した。
陸自第5旅団(帯広)広報班によると、隊員にけがはなく、訓練は続行した。

訓練は9、10の両日、同牧場で行われる予定だったが、
両日とも強風と雪のため中止になり、予備日の11日朝から行っていた。
隊員約170人が参加し、高度約340メートルを飛行するヘリコプターから降下する訓練中だった。

近くで見学していた男性(53)は「何度も見ているが、普通の速度じゃなかった。
膝ぐらいまで雪が積もっていたからけががなかったのだろうか」と驚いていた。

同団は2008年から毎年、管内の民有地や公有地で積雪地演習を行っている。
09年に行った訓練では、ヘリコプターから飛び出した隊員が上空で宙づりになる事故があった。
12年に同牧場で行った訓練の際には、隊員2人が
降下予定地点を約1キロ離れた牧場(民有地)に着地するトラブルがあった。

 
もちろんパラシュートが十分開傘しなかったというのは大変な事故です。
たまたま見ていた人によるとすごいスピードで落ちていったようですが、
もし開かなかったらと思うと、これは自衛隊に徹底した調査をお願いするべき事案
・・・・なんですが、なんだか突っ込みどころが多くて・・・このニュース・・。

まず、

「隊員には怪我はなく」「訓練は続行した」

なんで訓練続行しているんですかー!
いくら怪我がなかったからって大事を見て病院で検査するとかさせてやってよ。
まさか

「大丈夫か!」「レンジャー!」
「訓練続けられるか!」「レンジャー!」

とかいう会話で判断したんじゃあるまいな。


ところで以前、朝霞駐屯地の基地訪問で案内してくれた1佐は、空挺団の降下ビデオを見ながら、

「皆普通に地面に着いた後転がってるでしょう。
これは立てないのではなく、衝撃を逃がすためなんですよ。
パラシュートで降りても2階から飛んだくらいの衝撃があるので」
と教えてくれたもんだ。
わたしが、

「空挺団って階段使わないで2階から飛び降りるって本当ですか」

と聞くと、

「ああ・・お酒飲んで酔っ払った時とかだけですけどね」

酔っ払って飛ぶほうがずっと危険だと思うがどうか。
というわけで陸自超人伝説がまた一つ増えてしまったわけですが、今回は
雪が積もっていたというのが幸いしたのは確かでしょう。
しかし、どこかでソ連だかロシアだかの一個連隊が、雪が深いから大丈夫!
ってパラシュートなしで降下して全滅したって話を読んだことがあるぞ。

そしてこれは微笑ましい。
このニュースの最後にさりげなくある、

「二人が牧場に着地するトラブルがあった」

という事故ですが、これはつまり傘を抱えて牛さんの群れの中を駆け抜けたりしたのね。
パラシュートで興奮した牛に追いかけられたりする二次災害が起こらなくて何よりです。

 


さて、最後にわが自衛隊とは全く関係ありませんが、軍事関係ニュースで笑ったものを。



バーナード・シャムポー在韓米第8軍司令官が「チェ・ボヒ(崔宝煕)」という韓国式の名前を受けた。 

韓米同盟親善協会(ウ・ヒョンウィ会長)によると、6日、ソウル龍山(ヨンサン)陸軍会館では
「2015年韓米親善の夜行事兼米第8軍司令官韓国名命名式」が開かれた。 
この席でウ会長はハングルで

「米8軍司令部司令官チェ・ボヒ中将」と書かれた命名掛け軸を与えた。

シャムポー(Champoux)のイニシャルCからチェ氏を姓とし、
バーナード(Bernard)のBから「宝」の字を入れた後、
「宝のように輝く」という意味を込めて「ボヒ」という名前を付けたと、ウ会長は説明した。 

シャムポー司令官の父が朝鮮戦争当時、鉄原(チョルウォン)地域の戦闘に参戦した縁を考慮し、
本貫は「鉄原(チョルウォン)チェ氏」とした。 
名付けた人は韓国戦争の従軍記者だったソ・ジンソプ協会名誉会長(84)という。
行事に参加したチョン・インボム特殊戦司令官(中将)は
シャムポー司令官の夫人に「全秀鎮(チョン・スジン)」というハングル名を付けた。 

名前を受けたシャムポー司令官は
「私の偶像であり韓国戦争に参戦した父が韓国で体験した話をよく聞かせてくれたため、
韓国はいつも私と一緒だった」とし
「韓国に赴任し、勤務しながら、韓米同盟の強い力を実感し、韓国人の温かさを感じる」
と述べた。 

ウ会長は
「チェ・ポヒ司令官と崔潤喜(チェ・ユンヒ)合同参謀本部議長の名前には共通の文字がある」
とし
「韓国式の名前を通じて両国同盟がさらに強まることを望む」と述べた。 

協会は米国人に民間外交活動レベルで韓国式の名前を贈ってきた。 
2010年にはバラク・オバマ大統領に呉韓馬(オ・ハンマ)という名前を付けた。
ヒラリー・クリントン元国務長官には韓煕淑(ハン・ヒスク)、
コンドリーザ・ライス元国務長官には羅梨秀(ラ・イス)という名前が付けられた。 

 

 
まず、この国の人に聞きたい。
なんで人に勝手に自分の国の名前をつけるのかを。

 日本人はアメリカ人によく「俺の名前漢字で書いてよ」と頼まれて
「サミー」は「寒」で意味はクールってことだよ、などとやりますが、(ネタで)
オバマが「オハンマ」とかライスが「ラ・イス」はともかく、(ネタか?)
なんでいきなり、よりによって「チェ・ボヒ」なんて名前を押し付けるのか。 
しかも頭文字がCだからチェ?Bだからボヒ?  

 

だいたいボヒじゃなくてシャムポー中将、お愛想言ってるけど顔が引きつってるじゃないですかー。
そんな名前つけられてどうしろというのか、みたいな表情がありありです。




さらにこちら。
チャールズ・キャンベルという立派な名前があるのに、
何が悲しくてわざわざキムと呼ばれねばならんのか。

しかもこの名前、キムの後は「韓国を守れ」ですよ。
 
在韓米軍の軍人さんたち、さすがに大国の軍将官だけあって人間ができているのか
ニコニコと表面上は嬉しそうに受け取っていますが、
だいたい相手が望んだわけでもないのに「命名式」。
なんで上から目線なのか。

たとえば第7艦隊の司令官に、

「日本の名前を命名します。山田守です。しっかり日本を守ってください」

といって「山田守中将」という掛け軸を渡すみたいなものですよ。
韓国人の皆さんだって、たとえばですけど南米のどこかに行って、いきなり

「お前はここではゴンザレスな」

とか上から目線で言われたら何それ、って思いませんかね。
こんなことをする割には自分たちは普段本名を名乗りたがらないのも謎(笑)






 

戦艦「伊勢」乗組員のアルバム

$
0
0

年末に参加した護衛艦「いせ」艦上での戦艦「伊勢」慰霊祭。
この日「いせ」には少ないながら一般の参加者が乗り込んだのですが、
いわゆる「体験航海」といっても一般に募集されたものではなく、「伊勢」の遺族、
「いせ」の後援会、そしてその人たちが「厳選して呼んだ知人」といった陣容でした。


この参加者に、お祖父さんが「伊勢」に乗っていたという方がいました。
「伊勢」という名前はそのお宅では普通に馴染みの深いもので、
特に戦艦や護衛艦にさして興味のない彼女でも
「いせ」という「おじいちゃんのフネと同じ名前」の護衛艦を知ったときは
「大変興味を持った」ということでした。

そして幾つかの偶然があり、彼女は今回「いせ」で行われる「伊勢慰霊式」に、
遺族としてではなく、誘われたという立場で参加することになったということです。

ホテルのロビーでグループが集合したとき、早速彼女は祖父愛蔵貴重なアルバムを
そこで立ったまま開き、そこにいたヲタ達は貴重な写真に騒然となったわけですが、
その後「いせ」に乗艦し、士官室で出航を待ったりしているときにも
アルバムは皆に興味深く回覧され、その中には「いせ」の乗員もいました。

わたしも皆がそうしたようにアルバムの写真を撮らせていただきましたが、
今日はその中から、おそらく彼女のお爺さんが購入したのではないかと
思われる写真を、ご本人の許可のもとにご紹介させていただきます。

冒頭写真は観艦式における受閲部隊を「伊勢」の主砲の間から撮ったものです。

「これはいったいどこに立って写しているんでしょう」

わたしが呟くと、近くにいた人が

「それはここだよここ、来てごらん」

と模型の前に連れて行かれました(笑)



「伊勢の主砲はこことここにあってね・・」
 
主砲がどこにあるかくらいはわたしにもわかります。
「どこに立っている」というのは筒の上なのか他の場所なのかという程度の意味だったのですが、
まあいいや(笑) 

ところで冒頭写真、「伊勢」の後ろを航行しているのはなんでしょうか。
この写真がいつのものかなどは一切わからないので、もしこれが

1927(昭和2年)の大演習観艦式ならそれは「日向」、
1930(昭和5年)の特別大演習であれば「長門」、
1933(昭和8年)なら「足柄」、
紀元2600年の帝国海軍最後の観艦式となった特別大演習なら「山城」。

観艦式の資料によるとこういう絞り込みが出来ます。
この間には「火垂るの墓」で描かれた神戸での観閲式などもありますが、
伊勢が参加した大規模なものとなるとこの4隻のどれかということになります。

それから艦隊の上を飛んでいるのが90式艦上戦闘機のようにも見えるので、
だとしたら時期的に昭和5年以降ということは確かです。


先日購入したばかりの(笑)「写真・太平洋戦争の日本軍艦 大型艦」を見ると、
どうもこのシルエットは「山城」に思われるのですが、いかがなものでしょうか。

 

水兵服が見えることから海軍陸戦隊ですが、小官恥ずかしながら、
銃火器の種類はさっぱりというか、あまり調べる気がないのでなんなのか全くわかりません。


「中国大陸ですか」

とアルバムの主に聞いてみたのですが、どうやら違うとのこと。
国内で演習でもした時のものでしょうか。



これはどうやらお祖父さんが航空訓練を受けていた時のもののようです。
練習機だと思うのですが機種が判然としません。

複葉機ではありませんが、足の間につっかえ棒みたいなのが見えますし・・・。
どなたかお分かりの方おられますか?



ここからの一連の写真は皆靖国神社で撮られています。
おそらく例大祭などの時ではないかと思われますが、
そのすべてに説明が全くないので、この人物も名前がわかりません。

陸軍軍人であった皇族のどなたかであると思われるのですが、
何しろ陸軍に籍を置かれた皇族の方々は昭和天皇を始め28人もおられたので・・。



靖国神社拝殿の階段をお降りになる天皇陛下。
後ろに陸海軍軍人が一人ずつ付き添っていますが、左側は南雲忠一・・ですよね?



これはわかります。近衛文麿公ですね。
どう見ても総理大臣としての参拝です。

これが第一次内閣が成立後に行われた公式参拝だとすれば、
間も無く起こった盧溝橋事件を受けて、中国との間に戦闘が起こることになり、
これが日本の運命を大きく変えていくことになるのですが・・・。 


近衛の後ろを歩いている人物は牛場友彦。

東京帝国大学、オックスフォード大学を卒業した近衛の秘書官です。
日本輸出入銀行幹事、アラスカパルプ副社長、日本不動産銀行顧問を務めるなど
財界の大物になり、弟の牛場信彦は白洲次郎の伝記にも登場していた外交官です。

このとき1901年生まれの牛場はおそらく36~7歳だったはずですが、
年より若く見え、いかにも切れ者のような怜悧な眼の光をしています。

インターネットで牛場友彦の写真はどこをどう検索しても出てこないため、
もしかしたらこれは貴重な一枚なのかもしれません。



この人物は荒木貞夫のようも見えますがいかがでしょうか。
陸軍人であるのにもかかわらず軍服を着ていませんが、もし荒木だとしたら
第一次近衛内閣では文相を指名されたときの参拝なのでつじつまが合います。




わたしが士官室でビデオを見たりおしゃべりしていると、
アルバムを見ている一団からこちらに来るようにと声がかかりました。
行ってみるとこの写真のあるページを指し示し、

「山本五十六がどこにいるかわかる?」

わたしが0.1秒の速さで左側を指差すと、

「わかる人がもう一人いた~」

と周りの皆さんが盛り上がっています。
どうやらそこにいた人々(アルバムの所持者含め)の中で
山本五十六の顔を知っているのは一人だけだったようです。

山本五十六の顔がわからない人なんているの?などと今なら思いますが、
よく考えたら、それもこれだけ4年半の間ほぼ毎日のように海軍のことを考えて
生きてきたからこそ当然のように思えるだけで、もしかしたらわたしも
5年前ならわからないうちの一人だったのかもしれません。

さて、この写真ですが、上のものとは同じではなさそうです。
というのも靖国神社の鳥居をくぐってくるのが海軍軍人ばかりで、
天皇陛下のご列席があったとしたらこんなラフな感じで参拝しないだろうからです。

皆さんはこれ、なんだと思いますか?

あくまでも推理なのですが、ヒントは五十六の右の人物。
これ、嶋田繁太郎ですよね?

嶋田と山本五十六は兵学校32期の同級生。
そして1940(昭和15)年11月15日、この二人、全く同じ日に

海軍大将に進級

しているのです。
海軍において大将に進級した時に靖国を参拝するかについては、
詳しいことはわかりませんでしたが、もしこの写真が進級の後
靖国にそれを報告するような形で参拝したときのものであれば、
嶋田と五十六の二人が仲良く並んで歩いて行くのも納得できます。

実はめっぽう仲が悪いと評判の二人だったのですが。

ところで海軍兵学校32期の中で、この二人だけが大将になったわけですが、
山本五十六の卒業時のハンモックナンバーは11番、嶋田は27番(192名中)です。

二人とも恩賜の短剣には無縁だったわけですが、それでもここまで出世したわけで、よく

「海軍はハンモックナンバー偏重」

と言われるわりにはこういう人事もあるのだということです。
もっともこの学年のクラスヘッドだった堀悌吉は、

「神様の傑作、堀の頭脳」

と言われるほどの伝説の秀才だったのですが、大角人事
予備役に追いやられ、すなわち海軍をクビになってしまったという、
いわば変則的な学年であったと言えないこともありません。

嶋田繁太郎は同じクラスの堀のことを大変評価していたため、戦後

「堀が開戦前に海軍大臣であれば、もっと適切に時局に対処できたのではないか」

と言っていたことがあるそうです。 
確か自分も海軍大臣だったわけだけど、そのことはどうなのかな(笑)

映画「聯合艦隊司令長官山本五十六~太平洋戦争70年目の真実~」
(長いんだよこのタイトル) でも縷々描かれていたように、
堀は”戦争自体は悪である”との考えを持っており、堀と親友でもあった
同期の山本五十六もまた戦争には最後まで反対であったとされます。

これらのほかにもアルバムの写真には米内光政など海軍の高級将官の写真が数多くありました。 


「こんな写真、どうやって撮ったんでしょうね」

「撮ったんじゃなくて売ってたんじゃないかな」

海軍内でもしかしたらこれらは販売されていたのかもしれません。
というかアルバムには一切覚書などのメモすらなく、何の説明もつけられていません。
どうやらお祖父さんはあまりそういう方面にマメではなかったようです。

ページをさらに繰って行くと、どこかはわからない水辺に、まるで
丸太をくり抜いたような船が浮かべてある写真がありました。

うーん・・・・どこかでこういう船のことを調べたことがあるぞ。

「あ、これ、サバニ船っていうんじゃなかったですか」

一同、返事がありません。

「あの久松五勇士が乗っていたという・・・」

それをわたしが言った途端、そこにいた男性二人が

「ちょっとなんでそんなことまで知ってるの」
「女の人の口から久松五勇士という言葉を聞こうとは思わなかった」

と口々におっしゃいました。

女が久松五勇士を知っていたっていいじゃないか ヲタだもの みつを


ところでつい最近、わたしの言論について

「女の人でそれだけ考えをまとめて話せる人は見たことがない」

とある知人から言われたということがあったのですが、あくまでも数の問題で、
男性は左脳型の人が多く、女性は右脳型の人が多いという程度の違いではないですかね。
ちなみにわたしは左脳優位か右脳か、というテストをしたら

「右左脳」(直感的に捉え論理的に分析して処理)

であるという結果が出ます。


閑話休題、久松五勇士で驚かれてしまったわたしですが、
その後少しだけそれらの話に三人で花を咲かせました。

「8時間船を(サバ二船ね)こぎ続けて八重山についてから、
郵便局は島の反対側にあったんですよね」

「そこから休まず走り続けてねえ」

「あの僻地みたいなところの住人が、ロシア艦隊を
日本が血眼で探しているってことを知っていたんだからすごいですよ。
新聞も来ていなかったというのに」

「いや、やっぱり日本人として今は国難の時と思ってたんでしょうね」


初めて会う人たちなのにどうしてこんなに話がはずむのかしら。
それはやっぱり同好の士というかヲタ同士だから?
オタクは国境も超えるのだから、年齢性別などさらになんの障害にもなりません。

「それにしても、このアルバムもったいないねえ」

お一人がアルバムの主に言い出すと、

「これ、売ったらすごいお金になるよ」

と別の人。
彼女は

「これは絶対に売ったり譲ったりできないんです。
祖父の遺言で・・うちの家宝みたいなものなので」

先代が亡くなって1週間くらいしか経っていないのに、遺品の刀を刀剣の里に持ち込んで
お金に変えようとするような人も世の中にはいたりするわけですが(笑)
彼女のお家は全く逆で、伊勢の乗組員であったお祖父さんを誇りにしており、
それゆえにそのよすがとなるこれらの写真を門外不出にして大事に所蔵し、
ただ家の宝として、これからも子々孫々に譲り伝えていくつもりなのでしょう。

昔靖国神社境内で行われていた古物市で、一人の軍人の名残り、
軍籍簿や写真、書類の一切合財が3万円で売られていたのを見たことがあります。
古物商に

「どうしてこんなものがここで売られているんでしょうか」

と聞くと、

「遺品整理だね」

ということでした。
遺品を売ってなけなしの金額を手にするというのも、なにやら殺伐とした印象があるのですが、
それを管理していた人が孤独死してしまったなど、いろいろな事情もあったのでしょう。

逆に彼女のうちのように、自分の身内の個人史となる写真を、
それがいかに貴重なものかということを全く知らないまま、
家の蔵などにしまいっぱなしのままの家庭というのも、実は
この日本にはたくさんあるのではないかという気がしました。

「これ、どこか博物館か資料館みたいなところに出して
ちゃんと管理してもらったほうがいいんじゃないの」

彼女はそういわれて

「そうですか・・・」

と曖昧な表情を浮かべていましたが、もしそうしたときに
二度とこれらの写真が手許に戻ってこないという可能性があるかぎり、
彼女のうちの人々は、今後もそれを決してしないのではないかなあ、
とわたしはその横顔を見ながらそんなふうに思ったものです。



 


 

海軍兵学校同期会~帝国海軍の遺したもの

$
0
0

「広島に原爆が落ちた時の話はしたかな」

Sさんが話の途中でこう言いました。
兵学校同期会の会食の席で、わたしは正面に座った元生徒に

「8月15日の原爆のときはどうしておられましたか」

と聞いて、周りの何人かから思い出話を伺ったのですが、
Sさんからはまだ聞いたことがなかったので首を横に振ると、

「兵学校の稼業は8時に始まるので、僕のクラスは化学の実験室で実験の用意をしていた。
8時15分になった時、目も眩むような閃光があって、しばらく経ってから轟音が聞こえてきたんです。
窓から音のした方を見たら、キノコ雲が見えましたよ」

当時は原子爆弾ということはすぐにわからなかったため、皆は「特殊爆弾」と呼んでいたそうです。
わたしが会食の時に聞いた元生徒は何度も

「終戦になって順次疎開することになり、広島駅にいくと
駅だったところにプラットホームだけがあるんだよ。
あとは瓦礫の山だけ」

といっていましたが、Sさんも全く同じ情景を胸に刻み込んだそうです。

「そのときは驚いてそれ以上のことを考えられなかったが、後から考えたら不思議でね。
だって、8時15分でしょう。
広島駅にはたくさんの人がいたはずで、駅舎が跡形もなくなったということは、
あそこで大量に人が死んでいたはずなのに、そのときにはもう一体も屍体を見ることがなかった。
それで、僕は何かの講演の時にそのことを話したんです。
そしたら、聞いていた人の中に二人陸軍にいた人がいてね。

どちらも陸軍の駐屯地で被爆して、壁際にいたとかで助かった人たちなんだけど、
陸軍は直後にまず生存者を集め、隊内の犠牲者の遺体を片付け、負傷者を手当てし、
すぐさま街に出て、まず広島駅の周辺の遺体を片付けたそうです」

当時広島には第五師団の広島師管区がありましたから、
おそらく彼らはここの歩兵であったと思われるのですが、
自らも傷つきながら陸軍は瓦礫の整理により交通を確保し、
線路が使えるようにしてから遺体の収集に当たっていたというのです。

広島について書かれたどんな情報にも、軍が被爆直後から動き、
直後の混乱に対応したなどということはなかったので、わたしはこの話に少し驚きました。

あのNHKに至っては、

「原爆投下を日本陸軍は事前に知っていて、広島・長崎の人々は、
原爆投下目的らしき任務のB29が飛来してきた情報がありながら、
参謀本部の判断で、空襲警報も迎撃命令も出されぬまま犠牲になった」

という、それなんて沖縄、なトンデモ陰謀説ををまことしやかに放映して、こんな形で

「投下したアメリカより悪かった帝国陸軍」

という印象づけをしていたくらいですから、ましてやこの手のことは
マスコミによっては全く流布されてこなかった真実ではないでしょうか。

わたしなど、もしNHKがいうように「陸軍が投下を知っていた」のならば、
どうしてルーズベルトが真珠湾から主要艦を避退させたように、
広島の陸軍に対して何の対策も講じなかったのか、と思うわけですが。


さて、兵学校でも「特殊爆弾」について噂は流れていましたが、
やはりその2週間後に日本が負けるなどとは、生徒たちには夢にも思わないことでした。

「1号は知っていたんじゃないかな。
図書館で新聞を閲覧することも許されていたから」

昭和20年8月15日の江田島は、無風快晴となりました。
平日より15分早い11時30分、「食事ラッパ」が鳴り響き、
不思議に思いながら食堂に急いだ生徒に対して、当直幹事は

「本日1200から天皇陛下の御放送がある。
全員急いで食事を済ませて、第2種軍装に着替えておけ」

と命令してから着席を命じました。
生徒たちは食後歯を磨き、入浴して身を清めてから、新しい下着と
白い軍装に着替えて部幹事室に集合しました。

玉音放送は誰にとってもほとんど聞き取れませんでしたが、

「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」
「・・・・やむなきに至れり」

などという言葉や、前列の1号たちが泣いているのを見て、これは負けたのだとSさんは察しました。


午後1時、千代田艦橋前に整列した4,500名に対し、
副校長の大西新蔵少将は

「我々の祖国は降伏した。日本は完全に敗れたのである。
このように冷たい現実の前に立った我々が血気にはやって軽挙すれば、
かえって日本の立場を不利にする口実をつくらせるだけである。
諸子はくれぐれも自重せよ」

と訓示をし、広い練兵場を埋め尽くした生徒たちは
今度はほとんど全員が泣いていたということです。


午後2時。

江田島の上空に海軍の夜間飛行機「月光」が2機飛来し、
低空で飛来しながら伝単(宣伝ビラ)を撒きました。
それには

「戦争終結の事、聖断に出ずれば我ら何をか言わん。
然れども、こは敵の傀儡たる君側の奸の策謀にすぎず。
帝国海軍航空隊◯◯基地は断じて降伏を肯んずるものにあらず。
これより本機は沖縄に突入せんとす。
諸子は七十余年の光輝ある海軍兵学校の伝統を体し、最後の一員となるまで本土を死守し、
以って祖国防衛の防波堤となるべし」

副校長の「自重せよ」の訓示から1時間も経たぬうちに、
それとは正反対のアジテーションが行われたのです。

さらには終戦3日後の18日、司令塔に菊水のマークをつけ、
八幡大菩薩の幟を立てた潜水艦3隻が江田内に入ってきて、
白鉢巻姿の乗員が手に日本刀を振りかざしながら、悲痛な声で徹底抗戦を呼びかけましたが、
生徒たちはそれに対して礼儀正しく答礼したのみでした。

生徒たちは、飛行機の伝単の後、生徒監事から

「くれぐれも軽挙妄動は慎むべきである」

と訓諭を受けていたのです。

それから間もなく、生徒たちには「休暇帰省」が発令されました。
8月21日の朝、四国地方出身の生徒を乗せた船が表玄関でもある
表桟橋から出航して行ったのを皮切りに、次々と故郷に向けて復員して行きました。

「近くの出身で、カッターで家まで帰った連中もいたな」

江田内からこれを最後に漕ぎ出す時、彼らはどう思ったのかとか、
故郷まで漕いで行ったカッターはその後どうしたのかとか、
わたしは瞬時に色んなことを考えてしまいました。


江田島では重要書類をいかにして守るかについて
なんども教官の間で議論が交わされていました。

東郷元帥の遺影や貴重品は宮島の厳島神社などに奉納し、門柱にはめてあった
「海軍兵学校」の勝海舟の筆による門標は江田島の八幡神社に預けられましたが、
大講堂2階と教育参考館に展示してあった御下賜品、戦死した先輩が遺した遺品、
軍機文書は焼却することになり、生徒たちは3日間にわたって練兵場で焼却作業を行いました。

彼らは燃え上がる炎を囲んで滂沱の涙を流しながら、
軍歌を合唱し続けたということです。

復員は8月24日に完了しました。

10月になって、故郷に帰った彼らの元には修業証書(卒業ではない)が送られてきましたが、
それには最後の兵学校校長だった栗田健男中将の校長訓示が添えられていました。


これらの話をしてくれたSさんのご尊父は海軍中将で、
栗田中将はかつてその部下だったこともありましたから、
父親は休みの日には是非遊びに行くように、と息子に指示したのだそうです。

どんな教官でも生徒が休暇に遊びに来ると歓迎するのが常で、
「じんちゃん」と親しまれ生徒に人気のあった草鹿任一校長など、
夏場遊びに行くと褌一枚で出てきた(気さくすぎる?)
とわたしは別の兵学校卒業者から聞いたことがあります。

しかし、栗田校長はその頃すでにあのレイテ沖での「謎の反転」で
主に海軍内から非難を浴びていたこともあって、世間に対して

「俺にはもう何も聞かんでくれ」

状態だったせいなのか、S生徒が遊びに行っても「門前払い」だったそうです。


「でもね、あの訓示は素晴らしかったですよ」

Sさんはそう言って栗田校長の訓示を見せてくれました。

「百戦効虚しく、4年に亘る大東亜戦争茲に終結を告げ」

で始まる名文の訓示は、生徒たちのこれからを

「諸子が人生の第一歩において、目的変更を余儀なくせられたことをまことに気の毒に堪えず。
然りと雖も、諸子は歳歯なお若く頑健なる身体と優秀なる才能を兼備し、
加えるに海軍兵学校に於いて体得し得たる軍人精神を有するを以って、
必ずや将来帝国の中堅として、有為の臣民と為り得ることを信じて疑わざるなり」

「惟うに諸子の先途には幾多の苦難と障碍とが充満しあるべし」

「諸子の苦難に対する敢闘はやがて帝国興隆の光明とならん」

「海軍兵学校たりし誇を忘れず、忠良なる臣民として有終の美を済さんことを希望して止まず」

と訓じ、激励して終わっていました。



海軍兵学校はこうやって77年の歴史を閉じました。
終戦の時点で兵学校に在学していたのは、4期合計で15,129名、
これはなんと、77年間のそれまでの兵学校全卒業生より4、000名も多い生徒数でした。

敗戦を見越して海軍が「戦後の復興に役立つ人材を集める」
という目的で大量に生徒を採用したという説も、この数字を見ると納得できます。

この多くの兵学校在校生は、周知のように日本の戦後再建において大きな原動力となり、
戦後の各界の要職を占めて居ました。
わたしは今回の旅行でその一部を垣間見たにすぎませんが、
彼らの実績は間違いなく今日の日本を作り上げてきたことです。


亡き帝国海軍が未来の日本に遺した最大の遺産とは、
かつて兵学校で学んだこれらの人々だったのではないでしょうか。

わたしの尊敬する元海自士官は、このことについてこう述べています。


兵学校77期、78期という、終戦が目に見えているような時期に、
海軍がなぜそんなに大人数を採用したのか。
海軍はそんなに先が見えていなかったのか。
あたら有能な若者を死地に追いやろうとするような組織だったのか。
こういう疑問は素朴に湧いてくることです。

その疑問に答える、このような説があります。
『帝国海軍が戦後の日本復興のために行った最高の作戦』と。

敗戦後の日本復興のため、血気にはやる若きBest & Brightest を
一人でも殺さないで、後の世に残すためだと。

どこにもその説を裏付ける証拠はありません。

でも、あのおじいちゃんたち一人ひとりの人生を見ればわかります。
兵学校を卒業しなかった若者たちが日本の再生復興のため、
その生涯をどんなに見事に祖国のために捧げたか。
そして敗戦国日本がどんな国になったか。

やはり日本海軍は偉大でした。 



 


 

映画「重臣と青年将校 陸海軍流血史」~満州事変

$
0
0

1月の末、首都圏では雪が降りました。
雪で覆われて明るく見える窓からの景色を見ていて、また2・26事件について書こうと思いました。
去年は鶴田浩二が安藤輝三大尉を演じた映画「銃殺」をベースにお話ししたのですが、
今年はまた別の2・26映画を元にしてみたいと思います。

というわけで今年お題として選んだ映画は・・。

「重臣と青年将校 陸海軍流血史」


それにしても、なんだかピリッとしないというか、インパクトに欠けるというか、
映画の題というよりは本のタイトルみたいで、いまいち耳目を引かないと思いません?
内容も内容なので、さぞかしヒットしなかったのではないかという気がするのですが、
このタイトルになった理由は、この映画が2・26だけを書いたものでなく、
張作霖爆死事件に始まり、5・15で決起した海軍将校たちについても触れているからなのです。

つまり、歴史的事実を比較的淡々と並べ、そこに青年将校たちが決起する様子と、
それを利用したり制御できなかったり制圧したりする重臣たちを描いているという次第なので、
こういう題になるのも致し方なし、という気もしましたが、
せめてもう少し短いタイトルをつけるという考えは、制作側にはなかったのでしょうか。


ただでさえその内容というのが、特に前半は、青年将校たちが皆で相談しあってるシーンと、
重臣の爺さんたちが皆で会議しているシーンが交互に来るような地味な作り。
このあたりの歴史に少しでも関心がないと、はっきり言ってまったく面白くありません。

制作側もその辺りは自覚していて、高倉みゆきの芸者とか、憲兵に拷問死させられる
新聞記者の娘に三ツ矢歌子などを使って色を添えてはいますが、
どちらの登場人物もあまり本筋に意味をなさないだけでなく、登場人物との関わりも薄いので、
とってつけたような文字通りの「飾り物」にすぎません。

とはいえ、映画のストーリーより歴史を語ることが目的の当ブログにとってはありがたい教材。
というわけで始めたいと思います。



昭和3年の満州における張作霖爆破事件から映画は始まります。

日本の援助によって満州の主権地位を得た元馬賊の頭目、張作霖は、
その地位が確保されるや、大中華民国建設の野望(こちらから言うとね)に乗り出し、
日本排除の運動を起こしました。

写真は民族意識が高揚した中国人たちが抗日運動に使ったポスター。
絵が超絶ヘタですがそれはスルーで。

張作霖はもともとソ連のスパイをしていたのですが、捕まって処刑されるところを、
あの児玉源太郎が「見所がある」として助命するよう計らってやり、
その後は日本側の逆スパイとしてソ連で活動していたという過去があります。

つまり張作霖はあっさり今までの味方を裏切ってこちらに付いたというわけですが、
この行動は日本的解釈で「改心した」からでは決してなく、
生きるためには忘恩も不義もなんでもあり、という中国人特有のものと言えます。

さしもの児玉もそこまでは見抜けなかったのでしょう。



というわけで、おなじみ張作霖爆死事件が起こります。

急進派の陸軍軍人たちが「忘恩の徒」(日本側から見ればね)である張作霖を倒せば、
満州を一気に手に入れることができると考え、計画した暗殺事件でした。

三人の中国人(あらかじめ買収してあったアヘン中毒患者)を爆殺現場で放し、
用意していた銃撃隊で全力攻撃(笑)

実際は三人は銃剣で刺されたそうですが、うち一人は生きていて、息子の張学良の元に逃げました。

 

これを仕組んだのは関東軍参謀の河本大作中佐(二人のうち右側)でした。
河本中佐はこれに続き派兵を要請するも、陸軍大臣に却下されて涙を飲みます。



宇垣一成。この俳優は本物そっくりです。
宇垣はこの後の浜口内閣で陸軍大臣になります。

「こんな事件を起こしおって、陸軍の馬鹿者どもが!」

と激昂する岡田総理に、

「事件の関係者を厳罰に処分して大手術をやりましょう」

とけしかけます。



さっそく岡田総理は翌日の会議で関係者の処罰を提案しますが、
皆事件に頬被りしたいのでスルー、そして何より肝心の陸軍は身内をかばうため躍起になって反対し、

「陸軍は総理の反省を促したい!」

などと逆ギレします。なんでやねん。
まるでテロリストに国民が殺害されたのを全部総理のせいにするどこかの左翼みたいだわ(棒)



というわけで、陸軍省は案の定、

「事件を起こしたのは北伐軍スパイ三名であって陸軍の関与はない」

と公式発表します。



事件当時から、この事件は関東軍の陰謀であるという説が報道関係者の中にありました。
新聞記者藤野五郎(架空の人物)もそのような疑問を持つ一人。

「外電では軍の関与があると言われているらしいのに、おかしいじゃないか」


日本を軍国主義に塗りつぶすつもりだ、だからなんとしても本当のことを国民に知らせなければ。
藤野はこのように意気込むのですが、同僚は憲兵の目が光っていると忠告します。(伏線)



その後、この事件について、天皇陛下より

「犯人は陸軍軍人ではないと最初に発表させておいて、
当事者を厳罰に処すとはどういうことか」

とその矛盾からご不信を買った田中義一(陸軍大将でもあった)首相は辞任し、
後継内閣首班には浜口雄幸が指名されました。



ところでこの映画のキャストを見ると、一番最初に名前があるのが冒頭絵にも描いた、
橋本欣五郎中佐を演じた細川敏夫なのです。

どうも元々こちらが主人公として作られていた映画らしいです。

橋本欣五郎は東京裁判にA級戦犯として裁かれたことで馴染み深い(わたしには)軍人ですが、
その本質は「革命家」でした。
陸大を出た若き日、トルコ公使館付き武官となったことが、彼を革命に傾倒させました。

トルコで橋本は、以前「女性パイロット列伝」でお話ししたサビハ・ギョクチェンの養父、
ムスタファ・ケマル・パシャの革命思想に影響を受けて帰って来ました。

「ご趣味は?」

と聞かれると

「革命です」

と答えた・・・かどうかは知りませんが、何しろそれが彼のライフワークになったのです。
陸軍の同志を集めて、

「軍政府を樹立して国家改造をやらないと日本はダメだ!」
「軍政府ができれば天皇親政を実現できる!」
「そのために昭和維新を断行せねばならん!」

などと熱く語り合ううち、その思想は次第に具体的な形を取り、ついには

現在陛下の周りを取り囲んでいる重臣、元老を排除せねばならない

という結論に帰結するのです。

そう、続く5・15事件も、2・26事件も、一言で言うとこの結論が、
政府重臣などを次々と暗殺するという直接行動に結びついていったものなのです。



着々と陸軍内で同調者を募り、革命への準備を進める橋本中佐が
民間人の代表である思想家大川周明に会うために築地の料亭にやってきました。

そこで客に無理やり酒を飲まされ気分を悪くして座り込んでいる芸者の若駒と出会います。
なぜか都合よくポケットから

「いい薬があるからやろう」

と薬の包みを若駒に渡す橋本中佐。これいったいなんの薬だよ。
その若駒は顔を上げて少佐の顔を見るなり

「あのー、橋本さんでいらっしゃいますか」

と目を輝かせます。

「参謀本部の橋本だがどうして・・」

「ちょっと噂を伺っておりましたので」

橋本中佐、これで納得するのですが、かりにも革命が趣味という軍人が、
「噂になっていた」という説明程度であっさり納得するのはどうも不用心じゃないか?



まあそれは映画だからどうでもよろしい。
大川周明にはなんと丹波哲郎がこの一場面だけに登場しています。
一場面だけなのに大物でないと嫌、といつもわがままを言う丹波ならではの配役である(笑)
「反乱」ではこれも1シーンだけ、相沢中佐役で出演していますが、この人が演じると
概ね実在の人物よりかっこよくなりすぎるのが問題です。(例:小沢治三郎)

ところで超余談なのですが、



この絵をみてくださいます?
わたしが昔描いた「軍人としての丹波哲郎」というエントリの挿絵なのですが、
これは「不如帰」という映画で陸軍軍人を演じた丹波さんの艶姿。
後ろの床の間が、この映画の床の間と一緒に見えませんか?

今調べたところ、 「不如帰」はこの映画と制作年が同じです。
もしかしてこれ、同じセットで掛け軸だけ変えて撮られたのでは・・・。


とどうでもいいことに気づいてしまいましたが、それはともかく、
大川周明の思想は基本「日本主義」、外交面では「アジア主義」で、インド独立を支持し、
日中とも日米とも戦争は避けるべきとして、特に日米戦争前夜は開戦の阻止に奔走したにもかかわらず、
終戦後は戦犯として市ヶ谷の法廷に出廷させられています。

東京裁判では心神耗弱(昔は精神異常でしたが)のため退廷のうえ不起訴となった大川が、
法廷で、前席の東条英機の頭をぴしゃりと音が出るくらい叩いたという出来事がありました。
自分の頭を叩かれた東条が、後ろを振り向いて苦笑いするシーンを見て、皆さんは

「東条英機って大人~」

とちょっと彼の大人物ぶりに感心したりしませんでしたか?
ところがあれは奇行の一部だけがフィルムに残されたもので、 実際は

大川は何度もしつこく東条の頭を叩き続けたため

しまいには東条も後ろを振り向いて睨みつけたって知ってました?
そりゃ怒るよね。どんな温厚な人でも。


ここでは大川は橋本中佐に革命資金だといって札束を渡し、
革命決行のために具体案を何やらささやきあいます。 
橋本中佐が

「我々は閣僚を議事堂に閉じ込めて、浜口内閣の退陣を要求し、軍政府を樹立します。
決行日は」

ここまで言った時、外に人影が。

しゃべるのをやめてガラリと障子を開けると、



「おばんです~」

そこにはなぜか先ほどの芸者若駒が。
いつも思うのですが、こんな機密性のない座敷で昔の人たちは密談していて、
壁に耳ありショージにメアリーが心配ではなかったのでしょうか。

それはともかく、若駒を追い払おうとする橋本中佐に大川周明が

「この娘はなかなか変わった子でね、言うなれば勤王芸者だ。
我々のグループの一員に加えてある。何をしゃべっても大丈夫だ」



「しかし芸者の君がどうしてまた我々の仲間に」

橋本中佐、先ほどもそうですが、この問いに対する若駒の

「皆さんのお話を伺いまして、もうじっとしていられなくなりました」

という答えに至極あっさりと納得して

「ほう、それは感心だ」

などと呑気にお酌を受けたりします。


そして昭和5年11月13日、東京駅。
浜口首相銃撃事件が起こります。



駅で首相到着を待つ右翼団体愛国社党員の佐郷屋(さごや)留雄。
この役者、小澤征悦かと思いました(笑)



このときに浜口首相が撃たれた現場のなぜか一階下に、今でも遭難現場のプレートがあります。

浜口首相は一命を取り留めましたが、この時の傷が元で翌年死去。
佐郷屋は死刑判決を受けたものの1940年に恩赦となり、戦後は右翼活動をしつつ
極真空手のナンバー2としてキックボクシングを日本に広めました。(なんだそれ・・・)

なぜ軍人によるものでもないこの事件が、映画に挿入されたのかわからないのですが、
まあこれも「右翼による流血史」ってことで、ひとまとめにしたのでしょう。
右翼団体と青年将校の考えは、必ずしも一緒ではなかったと思うのですが。

犯人の佐郷屋は「浜口は陛下の統帥権を犯したからやった」と犯行後述べた割には
「統帥権ってなんだ」という質問に答えられなかったそうですから推して知るべし。

つまり永田鉄山を殺害した相沢三郎中佐と同じような、
「お調子乗りの愛国犯罪」であったとわたしは断じたいところです。



そして映画の構成上、陸軍の青年将校たちはこの民間人の起こした事件に沸き立ち、

「我々も準備が整ったから、すぐに行動を起こすべきだ!」

と盛り上がるのでした。

「よし、やろう」

と力強く言い切る橋本中佐。
いいのかそれでーっ(笑)



彼らは、あてにしていた宇垣陸軍大臣に、革命のあかつきには軍事政権の首班として
立ってくれることを大川周明を通じて頼むのですが、宇垣、渋い顔。

「わしゃーそんなこと引き受けた覚えはないぞ!
革命などもってのほか、首謀者を取り締まれ!
いうことを聞かんやつは満州送りだ」(意訳)

せっかくここまで出世したのに、わざわざそんなややこしいことに首を突っ込みたくないでしょう。
上に立てば面倒ごとは避けて、無事に任期を終えることだけを考えるのが人の常です。

 

そして昭和6年、柳条湖事件が勃発。
またもや列車の爆破事件が起こり、陸軍が「中国側がやった」としたのですが、
その証拠というのが現場に残されていた中国軍の帽子と銃って・・・(笑)

なんというか、こんなバレバレの工作をやっておいて開き直るあたりに、
現代のアメリカ政府のやらせの数々を見るような気がしますね。私見ですが。

このときの首謀者は関東軍高級板垣征四郎と作戦参謀であった石原莞爾でした。

この場面では本物の戦車が本当に使われているのですが、これはなんだったのでしょうか。
・・・自衛隊?

 

ところで映画が始まってからずっと橋本中佐とか重臣のお爺さんばかりが出てきて、
全く面白くもないだけでなく絵面としても地味~だったのですが、ここでようやく出てきましたよ。

陸海軍の青年将校たちが。

実は橋本欣五郎中佐は「桜会」という超国家主義的な秘密結社を作り、
政党政治が腐敗しているとするとともに、農村が疲弊していることを憂えて、
いわゆる満蒙問題を主張して農民を救おうとしていました。

桜会には参謀本部や陸軍省の中佐以下の中堅将校20余名が参加し、
そのなかでも橋本を中心とした急進的なグループは、大川周明らと結んで、
1931年(昭和6年)3月の三月事件、同年10月の十月事件を計画していたのです。

このシーンは、陸海軍の将校たちが一堂に集まり、その謀議をしているシーン。
なんと、ここまでで映画はもう半分終わっているのです。
安藤大尉たち2・26の首魁将校たちが登場するのはまだまだ後半3分の2位から。

というわけで、これはいわゆる「2・26映画」ではないらしい、
ということがここまで観てようやくわかったわたしです(笑)


後半に続く。 



映画「重臣と青年将校 陸海軍流血史」~5・15と相沢事件

$
0
0

というわけで、映画「重臣と青年将校 陸海軍流血史」、(長いんだよこのタイトル)
やっとのことで、この後青年将校たちが軍事政権確立のために起こす、幾つかの事件の緒となる
「三月事件」「十月事件」の謀議までたどり着きました。

 

もう一度出してくる「桜会」の謀議の模様。
綺麗に右に海軍、左に陸軍と並んでおります。
陸軍の一番前にいるのが、橋本欣五郎中佐とともに「桜会」を結成した長勇
海軍側の一番前が、これに続く5・15事件では首魁となった三上卓海軍中尉です。
三上中尉を演じているのは中村竜三郎という俳優です。

顔つきがどうも歌舞伎役者みたいだし名前が名前なのでもしかしたら、と思いましたが、
歌舞伎の中村とはあまり関係なさそうです。
時代劇を中心に出演していた俳優さんのようです。


三上中尉は5・15のとき首相官邸を襲撃した中心人物で、犬養首相と対峙した時
「話せばわかる」と首相に言われて一瞬その気になり、応接間に付いて行った士官です。



「桜会」で海軍側の代表であった藤井斉(ひとし)中尉。
(映画では少佐となっているがこれは間違い)やってくるなり

「今度の計画は手荒くやろう」

などと、海軍の流行り言葉で熱く意気込んで見せます。
首班に戴こうとした宇垣陸軍大将に、冷たく袖にされた彼らは

「荒木(貞夫)閣下以外はあてにならないので、我々だけで一挙にやりましょう」

と小規模での反乱を企画します。(10月事件)
帝都に戒厳令が出されれば同志が呼応して立ち上がると期待してのことでした。

 

この決起には、霞ヶ浦の爆撃隊などが参加する予定になっていました。
藤井中尉は霞ヶ浦航空隊の航空学生出身で、同志を募っていたということです。

このシーンは戦時中のフィルムを流用しているようです。

 

しかし、青年将校たちがあてにした唯一の人物荒木貞夫も彼らの計画反対の意を唱えます。
荒木はその思想行動から、一時は皇道派青年将校たちのアイドルのようになっていましたが、
だからといって、革命政府の首班に担がれることまではまっぴらごめんという立場でした。

荒木は自分で育てた青年将校たちが暴走しだしたので、慌てて憲兵隊を出動させ、
橋本中佐らの計画を止めさせるとともに、スタンバイしていた各部隊を抑え込みます。



「部隊に出動中止命令が・・・・!」

橋本中佐にも憲兵の手が迫ってきていました。



こちら霞ヶ浦航空隊。
爆撃隊と計画を練っていた藤井中尉の元にも知らせが入ります。

「計画は失敗しました!」

 

ぐぬぬぬ・・・・バン!
とテーブルを叩くわかりやすい三上中尉。



こちら歩兵第三連隊。
そう、ここでやっと、2・26の将校たちが登場してきたのです。
ただし後年一番有名になったため主人公となった宇津井健演じる安藤輝三大尉は
この時点ではまだ顔出しもしておりません。

ここでの中心はまだ停職免官になる前の磯部浅一。
磯部自身も貧農の家の出身で、村の篤志家の援助で軍人になった人物ですが、
昭和飢饉のため困窮する農村を見ていられず革命に身を投じました。
十月事件の失敗を聞いた彼らは憤慨します。

「待合なんかで計画を立てるからこんなことになるんだ!」

そう、これわたしもそう思います。障子と薄い壁だけで仕切られた日本の屋敷はどうもね。
失敗の原因はこれじゃありませんが。



さてこちら、憲兵の手から逃れて身を隠している橋本中佐。
どこにいるかというと、お寺。
なぜか匿っているのが芸者の若駒姐さんです。
なぜお寺で芸者が軍人をかくまうのかよくわかりませんが、映画だからそうなったようです。

橋本中佐、計画の失敗を気に病み、よりによって仏前でピストル自殺しようとします。
匿われて居候しているというのになんて迷惑な奴なんだ。後のこととか考えろよ。

と思ったら案の定、ピストルを構えた途端、若駒がまろび出てきてそれを止めるというお約束。

「よく止めてくれた」

などと言いながら、橋本中佐はそのときタイミングよく
捕まえにお寺にやってきた憲兵におとなしく身柄を預けるのでした。


それにしても憲兵に橋本中佐の居所がどうしてわかったのでしょうか。
これって若駒が通報したんじゃないかと思うのはもしかしてわたしだけ?

若駒はこのあと仏前でよよと泣き崩れるのですが、
実在の橋本欣五郎はこのあと検挙されるも、謹慎20日で済んでいます。
もうほとんどお咎めなしということだったわけですから、
若駒姐さんも泣かなくたって20日で橋本少佐は帰ってきますよ。


ちなみに戦後、橋本欣五郎は極東国際軍事裁判、通称東京裁判で有罪となり、
カテゴリA戦犯として終身刑に処せられます。
獄中で詠んだ句は、

「思い残す こともなけれど 尚一度 大きなことを なして死にたし」

まだ革命の夢を捨てきれんかったようです(・_・;
超余談ですが、橋下には出獄後結婚した三度目の妻がいましたが、(若駒か?)
橋本の臨終間際に離婚を申し出て去ってしまったということです。

合掌。



 

さて、10月事件に失敗した海軍の藤井中尉は大尉に任官、上海事変では
「加賀」乗り組みの航空隊長として出征しました。

この映画では、藤井中尉、なぜか陸戦隊で戦闘中被弾し、

「内地に帰って腐った奴らを叩き切るまで俺は死なんぞ!」

と言いながらがっくりとわかりやすく死んでいきます。

実際の藤井中尉は空母「加賀」攻撃隊の操縦士として上海上空で撃墜され、
日本海軍搭乗員初の戦死者として歴史に名を残すことになっています。

ついでに、ちょっとした豆知識ですが、
海軍航空隊で、史上初めて空中戦闘を行ったのは空母「鳳翔」の戦闘機隊です。


場面は変わってこちら霞ヶ浦航空隊。



「惜しい人を亡くしました・・・・」

この時には霞ヶ浦航空隊とは無関係だった(はずの)藤井大尉の短刀と写真がなぜか飾ってあります。

「もうがまんできん!藤井少佐のためにも決起するぞ!」



そこで陸軍の磯部一等主計に、共に立つことを迫りますが、磯部大尉は慎重です。
10月事件で橋本少佐らが失敗したことと、青年将校を抑える統制派(東条英機ら)が
力を得ているので、下手に動けば危険であり、今は慎重であるべきだと考えたからでした。



「わかりました。海軍だけでやります」

と帰ろうとする海軍チームに士官学校学生が後を追ってきて

「自分たち10名も参加させてください!」

どうやら「陸軍士官学校事件」を絡ませているように見えますが史実ではありません。
ちなみに磯部はこの士官学校事件で村中孝次とともに陸軍を免職になります。

 

またもや土浦の料亭で謀議をする一行。
だから料亭は話が漏れやすいと何度言えば(略)

民間人は右翼団体の党員で、犬養首相暗殺と同時に帝都の暗黒化を図る役目。
具体的には彼らは日本銀行や立憲政友会に爆弾を投げ込んだりしています。

 

そして5月15日。
一行はことに先んじて靖国神社にお参りしたようです。
今とは随分違う1958年当時の靖国神社鳥居前の写真をご覧ください。
地面が全く舗装されておりません。
そしてこのころは戦前のオールドカーがまだこのように残っていたんですね。



そして三上中尉らは首相官邸で犬養首相を暗殺。

なぜ犬養首相だったのか?という理由は彼らにもはっきりしていなかったようで、
もともと上海で撃墜された藤井中尉がターゲットにしていたのは若槻内閣でした。
若槻内閣のときにあのロンドン軍縮条約が締結されたからです。

後年理由が色々と推測されていますが、実のところ藤井中尉が

「後を頼む・・・がくっ」

とならなかったらどうなっていたことやら。
なにしろ、彼らの計画は当初

「退廃文化を日本にもたらしたチャップリンを犬養首相と面談中一緒に暗殺する」

というものであったらしいので・・。
ちなみにチャップリンは当日、思いつきで相撲観戦に出掛けた為、難を逃れたそうです。
このときこの稀代の喜劇王が気まぐれを起こさなかったら、歴史はどうなっていたでしょうか。



しかし刑は大変軽く、求刑死刑に対して判決は禁錮15年。5年後には仮出所しています。
この軽すぎる実刑が、2・26への流れを加速したというのは歴史に見る通り。




そしてこの余波で、2・26の余震となる、こんな暗殺事件が起こりました。
相沢事件です。

ちなみに、この役者はすごく変な眉毛を描いているように見えるのですが、
そのせいでとても本物の相沢三郎に似ています。
冒頭画像で確かめてみてください。

「銃殺」でこの相沢中佐を演じたのは丹波哲郎だったわけですが、
どう考えてもこの丹波演じる相沢中佐はかっこよすぎて、

「青年将校たちに心酔していた、実直でさえない中年士官」

という相沢の実態からは程遠くなってしまいました。
もともと青年将校たちの革命思想に賛同していた相沢が、
「士官学校事件」における磯部浅一らの停職処分に反発したというのが犯行の動機です。

「天誅~~~!」「逆賊~~!」

と言いながら相沢は永田局長を殺害。
相沢は軍法会議にかけられ、銃殺刑に処せられます。

このときに「やめろ、やめろ」と言いながら現場から逃げ、
上官を救おうとしなかったとされた同室の山田大佐は、それを責められ、
2ヶ月後に「不徳の致すところ」と書き置きを残して自殺しました。
ここにも反乱事件の被害者が一人・・。 


最終回、2・26事件に続きます。

 

 

映画「重臣と青年将校 陸海軍流血史」~二・二六事件

$
0
0

さて、映画開始以来から陸海軍の青年将校たちが起こしてきた流血事件を、
間に民間人の犯罪であった濱口首相暗殺を交えてだらだらと(だってそうでしょ~?)
語ってきたこの映画、ようやくここで2・26事件に到達しました。


 

というわけでここで初めて宇津井健登場。

相沢事件で相沢が軍法会議にかけられたことを憤り、クーデターを2月中に起こそう!
などと青年将校たちが盛り上がる中、一人浮かない顔で考え込む様子の安藤大尉。
仲間に革命結構に加わることをを促され、その態度を責められても返事をしません。
人一倍部下思いだった安藤大尉は、まず兵のことを考えていました。
決起すれば彼らを反乱軍にさせることになりかねないからです。


そんなある日、安藤大尉は部下の兵が盗みを働いた科で叱責されている現場に立ち会います。
悪いこととは思いながら実家に送るための金を戦友から盗んだのでした。
実家が貧農でとても食べていけないので、妹は女郎をしている、という彼の告白を聞き、
あらためてショックを受ける安藤大尉。

この話はいろんな媒体で再現されているので実話であろうと思われます。





2・26事件の決起将校たちは、決行前、陸軍上層部の軍人たちの考えを探るために
主だった何人かに接触していますが、彼らの意向はある意味はっきりしていました。
川島義之海軍大臣の言ったという、

「気持ちはわかるがしかし我々の立場も汲んでくれ」

というのが陸軍のお偉方の総意であったということです。
これは山下奉文ですが、皇道派の幹部だった山下は彼らに理解を示したと言われ、
このとき軽口のつもりか、サービスのつもりか、

「海軍の岡田か?あんなやつはぶった斬るんだ」

などと実際にも言ったようで、これも幾つかの媒体が映画に採用しています。
これは単に、山下が日頃岡田首相が嫌いだったという話なのでは・・。

しかし青年将校たちはこんな言葉に「お墨付き」をもらったように力づけられ、
決行への意志をさらに固めるのでした。(−_−;)


さて、相変わらず決起には否定的であった安藤ですが、ある出来事が考えを変えます。



懇意にしていた新聞記者の藤野が、憲兵隊に拷問死させられたのでした。
この一連のストーリーは創作で、安藤大尉が藤野を訪問し、

「暴力による革命は絶対にいかんよ」

と諭されたこともあり、決起には不賛成であったということにしてあります。
実際安藤は襲撃することになる鈴木貫太郎を訪問し、その人格に感銘し、
鈴木の書を所望してそれを自宅に掛けていたのですが、
話が複雑になるためか、それらのエピソードをこのように「薄く」語ることにしたようです。

 

ここで藤野の娘がなんとなく安藤に好意を持っているように描かれていますが、
この映画製作当時、将校たちの人間関係、特に妻については世間に明らかにされていなかったからでしょうか。
まるで安藤大尉が独身であるようにも見えます。


ところでこの部分にはとんでもない矛盾があります。

新聞記者藤野は、軍政府の樹立をなにより戦争への近道であるとして、
軍部の暗躍を世間に明らかにしようとして惨殺された人物です。

ところが安藤大尉始め青年将校たちの決起の目標は、武力革命で軍事政権を打ち立てること。
つまりそれこそが藤野の恐れていたことのはずなのです(笑)
なのにその安藤大尉は彼の死によって決起を決心する・・・?


というわけでこの大失敗に気づいたとたんに、硬派すぎるが誠実に作られていると思っていた
この映画の評価を、Bランクにだだ下げしたエリス中尉でした。

これは明らかに脚本家のミスで、安藤大尉が軍部の暗部を暴こうとする新聞記者に
啓蒙されていたという無茶な創作がもうすでにアウトでしたね。
というか、このシーケンスにスタッフの誰も疑問を抱かなかったんだろうか。



なぜか藤野は新聞記者のくせに()東郷平八郎の直筆「忍」の書を所蔵していて、

「5.15のときに東郷元帥は海軍将校を厳罰に処するように言ってわたしにこれをくれた」

などと言います。
果たしてその東郷元帥は本物だったのだろうか。
忍という字は心に刃を乗せると書くんだよ、などと言ったのだろうか。


安藤大尉はちゃっかりこの書と、藤野の遺体とともに送り返された獄衣を所望して持って帰ります。
いや、それはどう考えてもどちらも家族が持っているべきでしょう。
それに安藤大尉、東郷の書はともかく、何のために人が死んだ時に着ていた血まみれ服を欲しがる。



それはともかく()ついにこれで安藤が決心をしたので、2.26事件は決行されることに。



雪の降る中次々と出動した歩兵第三連隊の兵たちは、まずは岡田啓介首相を
・・・・殺害するつもりで義理の弟を殺してしまいます。

 

こちら鈴木貫太郎侍従長宅。
鈴木貫太郎と安藤大尉の関わりについて、そして2.26のとき、安藤大尉は
なぜ鈴木を直接殺害しなかったのかについて、このブログでは推理も交えてお話ししたことがあります。



この映画では安藤輝三が刀で鈴木に斬りつけ、妻が安藤にすがって命乞いした、
ということになっていますが、実際のところは随分違っていたようです。

お時間とご興味のある方は目を通してみてください。

「天空海闊」 ~鈴木貫太郎

鈴木貫太郎と安藤大尉

 

他には高橋蔵相、斎藤内大臣、渡辺教育総監が襲撃に遭いました。




収拾に向けて鳩首会談して対策を講じる軍参議官たち。

 

彼らの行動を取り敢えず抑えるために、まずは

「諸君の行動は天聴に達せられあり、これ以上は大御心を待つ」

という陸軍大臣の告示文を出してなだめてみました。



そのうちお怒りまくられた陛下からもついに討伐命令が詔勅されたので、
とりあえず兵たちを原隊に復帰させることにし、それに従わないものがあれば討伐も止むを得ず、
という結論に達します。

 

中央、真崎甚三郎。(この役者も本人かってくらいそっくり)
行き詰まった青年将校たちが真崎にすがりつくように助けを求めます。
しかし真崎は

「原隊に戻れ。
もし引き上げなかったら、老いたりといえどもこのわしが陣頭に立ってお前たちを討つ」

と決め台詞。
真崎の事件への関与は色々と言われていますが、とにかく裁判では無罪でした。
しかしこの件で天皇陛下のご不興を買い、他の皇道派の軍人とともにこののち失脚しています。



真崎の言葉に呆然とする青年将校たち。

「真崎閣下も我々を見捨てたのか」
「もう誰もあてにできん!天皇陛下に直接親政を奏上するしかない」

完璧に彼らはあてにしていた最後の頼みの綱に見捨てられ孤立してしまったのです。



このあたりから、安藤以外の決起将校たちは極端に弱気になり出します。
しかし、一番決心が遅かった安藤大尉一人が、最期まで行動を貫くことを主張しました。
途中で止めるくらいなら最初からするな!と内心同志にも怒り心頭だったに違いありません。

そして一同が自決を考えた際も安藤大尉一人が徹底抗戦を訴えてそれを退け、
山王ホテルを拠点に最後まで頑強な抵抗を続けました。

投降を決断した磯部の説得にも「僕は僕自身の意志を貫徹する」として応じようとしませんでした。

 

安藤隊が最後まで立てこもっていた山王ホテル。
そこになぜか新聞記者藤野の娘、里子の姿が・・。



 

この時になって、栗原中尉が反乱部隊将校の自決と下士官兵の帰営、自決の場に
勅使を派遣してもらうことを提案しましたが、奏上を受けた昭和天皇は

「自殺するなら勝手にさせればよい。このような者共に勅使など論外だ」

と激怒され、拒絶あそばされたということです。

 

 

史実によると、安藤大尉は大勢が決したと知ると、部下に訓示を与え、
みなに隊歌「吾等の六中隊」を合唱するよう命じました。
そして曲が終わったその瞬間、ピストルを喉元に発射して自決を図りましたが、
陸軍病院で手当てを受け、一命を取り留めています。

この映画ではなぜか安藤大尉の自殺はカットされています。

「銃殺」もこの映画も、「安藤のメガネ」、そしてこの自決を描かなかったのはなぜでしょうか。
メガネはともかく自決は映画的にもドラマチックで意味のあるシーンとなったはずなのですが。

眼鏡といえば、裸眼の安藤大尉にもがっかりですが(宇津井健は眼鏡さえすればかなり似ていたのに)
この映画では実際美青年であったとされる栗原安秀と中橋基明を演じる俳優が
・・・なんというかまったくイメージが違うのが残念といえば残念すぎです。

もう少しこういうところで、サービスがほしい。映画としてのサービスが。

 

この映画では自決しようとする一同をなぜか安藤大尉が押しとどめ

「軍法会議で我々の意図を国民に訴えるんだ」

などと、本人なら絶対に言わなかったであろうことを言います。
そうだそうだ、と皆でうなずき合うのですが、そんなことで変えることができる世の中であったなら
そもそも流血革命なぞ起こす必要もないよね、思ったのはわたしだけ?

しかし、実際、彼らが自決せず裁判を受けることを選んだのには、
5・15事件の首謀者の刑が軽かったことから、まさか自分たちが死刑になるとは
思っていなかったという判断も手伝っていたといえます。



 

しかし上告はおろか弁護人もつかない暗黒裁判の末、首魁19名が死刑という判決が下され、
あっという間に処刑当日。

処刑場に到着し、自分で顔に被されていた目隠しをとって刑架を凝視する安藤大尉。んなあほな。

 

この特殊な形状ですっかり有名になった2・26の処刑台ですが、
この処刑が行われた東京陸軍刑務所には、その敷地跡に渋谷合同庁舎が建てられました。
現在、庁舎敷地の北西角には、処刑された19名の霊のために観音像が建てられています。



実際には、陸軍から籍がなくなって元将校となった受刑者たちはは全員獄衣のまま処刑を受けています。
映画では安藤大尉は目隠しを断って銃殺隊を凝視していますが、そういう記録はありません。

安藤大尉は家族からもらったお守りを身につけて撃たれたということです。

 

「天皇陛下万歳」を叫ぶ将校たち。
「風に乗って誰かの笑い声すら聞こえた」とこの1年後に処刑された磯部の書き残した獄中記にはあります。


 

銃殺隊は立ったまま受刑者を狙っていますが、実際は台に備え付けられた銃が
各自が頭に巻いた鉢巻の中央の丸い点を狙うようになっていました。

もし目隠しをしないとこのような受刑者の顔を見ることになってしまうので、
規則で目隠しは絶対にさせることになっていたようです。

相沢事件で処刑された相沢中佐も目隠しを拒否したのですが、執行官に

「規則ですし、それでは執行者が困るので」

と言われ、

「執行者が困る、それでは目隠しをしよう」

と言って刑を受けたということでした。






そして映画の最後でこれである(笑)

青年将校たちの愛国的意図は実らず、彼らの犠牲的精神を悪用した首脳部は
日を追って国政の主導権を握り、やがて世論を無視して事変を誘発し、
ついに大東亜戦争の火ぶたを切って日本の運命を敗戦の悲劇へと叩き込んだのである。

というのが最後のナレーターなのですが・・・・うーん・・・
言いたいことは幾つかあるけど、とりあえずひとつだけ。

 


まず、青年将校たちの愛国的意図とはなんだったですかね?
確か、軍事政権を樹立し天皇親政を行うことだったと思うのですが、
そうなっていれば実際の歴史よりましな展開だった、って何を根拠にいうわけ?
あれ、これと同じことを「ファイナルカウントダウン」で書いたなわたし。


とにかく、まさかそうなっていれば、その後日本は戦争に突入することはなかった・・・・
なんて言ってるんじゃないでしょうね?



と制作者に文句をつけつつ終わります。








 

 

映画「アメリカン・スナイパー」~英雄の心的外傷(PTSD)物語

$
0
0

クリント・イーストウッド監督作品、「アメリカン・スナイパー」を観ました。

 イラク戦争の時にネイビーシールズのスナイパーとして味方からは
”レジェンド”、敵からは”悪魔”と呼ばれた実在の人物、クリス・カイルが書いた自伝に、
その後彼がたどった最後までを描いた映画です。

どうしてここまで全米中の熱い関心を呼んだかというと、自伝を書いたカイル本人が
2013年にPTSD(心的外傷、ポストトラウマチックストレスディソーダー)を発症した
元海兵隊員、エディ・レイ・ルースに射撃場でいきなり発砲されて死んだからでしょう。


カイルは、4次に亘ってイラクにスナイパーとして出征し、その戦場で
公式戦果160人、非公式255人のイラク軍兵士、アルカイダ系武装勢力を殺害、
イラクでは「ラマディの悪魔」と恐れられ、その命には懸賞金がかけられていました。

映画は、シールズ入隊後の「地獄の特訓」と、カイルと妻タヤとの出会いの描写に続き、
銃撃に非凡な才能を示す彼が実戦に投入されてさらにそこで本領発揮し、
「レジェンド」と言われるようになるまでをまず描くのですが、
その過程は、それが実際ににあったことだをいうことに思いをやりさえしなければ、
シューティングゲームで強い人がプレイしているのを見ているような気にさせます。


カイルは、自分が殺した人間のことを「悪いやつだからやった」と、ほとんどのアメリカ人が
第二次世界大戦で日本と戦った理由について聞かれたらそう答えるように答え、
後悔を感じるとしたらそれは救えなかった仲間のことだ、と言っていたようですが、
彼自身が思うよりずっと、彼は精神的には平均的な人間にすぎず、従って、
イラクでの戦闘活動を重ねるごとに、心的外傷に深く蝕まれていくのです。

映画ではその段階とともに、彼の心の闇が生む家族との齟齬をきっちりと描きます。


元海兵隊員に殺害されたときクリス・カイルは、すでに「生きているレジェンド」であり、
自伝を出版するくらい有名でしたから、不慮の死を遂げたあとは、国中がその死を悼み、
アメリカンヒーローとして その功績を称えられました。

そのこともあって、この映画も大変な話題と賞賛を獲得することになったのですが、
まず誤解を恐れずわたしの意見を言わせてもらうと、どの監督が手掛けようと、
彼を主人公にした映画は一定の成功を約束されていたのは間違いありません。

わたしがここでお話ししたいのは、そのヒーローをイーストウッド監督が「どう描いたか」です。


映画公開と同時にアメリカではこの映画は大変な評判となり、まず
保守サイトのブレイトバートは当初から

「 愛国的で戦争を支持する傑作」

と好意的に評価し、ジェーン・フォンダ、ジョー・バイデン、A・シュワルツネッガーなどが
感激したなどととして肯定的に支持しており、特に共和党政治家のサラ・ペイリンは

「私たちの軍隊、特に私たちの狙撃手たちに神の祝福を」

という言葉で映画を、というよりクリス・カイルを激賞しています。


しかし、これに対し、左派監督、マイケル・ムーアが反論の狼煙をあげました。

「僕の叔父は第二次世界大戦中、スナイパーに殺された。
彼らは後ろから打ってくるから臆病者だと教えられて育った。
スナイパーはヒーローなんかじゃない。侵略者はさらにタチが悪い」

このスナイパーというのは他でもない、日本軍の狙撃兵のことで、ムーアの叔父は
フィリピンのルーゾン地区で戦いを終えて、基地に戻ろうとしていたとき、ムーア曰く、
”諦めが悪くて知られていた”日本の狙撃手に、高い木の上から後頭部を撃たれて死んでいます。
さらにムーアは、

「1万キロも離れた場所から侵略してきた奴らから、自分たちの土地を守ろうと
銃を持って戦ってる人をスナイパーとは呼ばない。それは勇敢な戦士だ」

とツィートして、それは「大炎上」しました。
一般的にアメリカ人というのは右左関係なく「敵は悪である」という点では一致するものですが、
ムーアはアメリカ軍を侵略者といい、「タチが悪い」といい、あろうことか
「諦めの悪い日本兵と同じようなものだ」と決めつけたのですから、さもありなん(笑)

これに対し、

保守系のサイト、ブレイトバートは「哀れな”釣り師”だ」
ジョン・マケインは「馬鹿げてる」
キッドロック(ロッカー)は「お前のおじさんはお前のことを恥じてるよ」
先ほどのサラ・ペイリンは最も過激で、

「ハリウッドにいる左翼は光り輝くプラスチックのトロフィーは愛撫するのに、
自由を守ってくれる戦士たちの墓には唾を吐くのだ。
左翼はクリス・カイルに及ばないと、左翼ではないアメリカ国民が考えていることを
左翼は自覚するべきだ。」

と非難した上で、ある軍曹の叙勲式に出席した際、「ファックユー マイケルムーア」
と書かれたポスターを手にして、これは右左両陣営から非難を浴びてしまいました(-。-;


つまり、この映画はアメリカの保守・リベラルがこの映画の評価を通じて
真っ二つに分かれて激しく論争を展開する結果となったのです。
つまり保守系言論は狙撃手を英雄だとし、彼がパトリオットだと称え、
逆にリベラル派は、戦争を美化していると批判しているという構図。

今や オバマ大統領夫人ミシェルが参戦して映画を擁護するなど、ちょっとした
社会現象になっているというのですが、わたしが以前映画「大日本帝國」をそう断じたように、
この映画が現在形で「ウヨサヨ炙り出し装置」になっていることだけは確かなようです。


今回、わたしはマイケル・ムーアのインタビューを興味を持って読んでみましたが、
この人、頭が良くて、かなり納得させられるんですよね。

『アメリカン・スナイパー』に関して言えば、米兵をイラクの解放者として描いてる。
アメリカは彼らを解放してなんかしてない。認めた方がいい。
我々はベトナムでも、イラクでも、アフガニスタンでも失敗したって。
そう言えた方が将来は明るい。
自分たちの過失を、どうしておとぎ話のように語るんだ?そんなの、何ももたらさない。

おそらくアメリカ人は肌感覚として、あの戦争が間違ってるってことは分かってると思う。
イラクには大量殺戮兵器なんてなかった。
4400人のアメリカ人の子供と数え切れないほどのイラクの人々が犠牲になったことも知ってる。
その根底には、深い罪の意識があるんじゃないか。


しかし、彼は映画に対する感想を聞かれて、

「この映画が戦争やスナイパーを美化している」

とは直接言ってはいません。
ただ、彼に対して寄せられた大量のメール、たとえば

「クリス・カイルは米軍を守った。彼らの命を救った。」

などいう意見には、

「救った」だって?
そもそも兵士の命を危険に晒すこと自体が間違いだっていうのに。
僕たちは過ちを犯した。自ら侵攻し敗北した。現実から目を背けてきた。
行った時よりも事態を悪化させた。

と反論しているんですね。

ふーん、言うなあ、マイケル。

いや、わたしもね、この映画は戦争を美化なんぞしていないし、
クリス・カイルをヒーローとして描いてなんかいないと思いましたね。
これを見てカイルをヒーローだと思う人間がただいるというだけで。


カイルは、自分でも自分が徐々に壊れていくのを自覚しながら、
そして妻が行かないでと止めるのにも関わらず、何度もイラクにに「戻って」いきます。
いつからかそれはそれが元オリンピックのメダリストであった「ムスタファ」という名の
イラク側のスナイパーと決着をつけるためになっていくのです。

そして、2キロ先に潜伏しているムスタファを狙撃すれば、彼の、アメリカ軍の居場所が
近隣の敵に知れて総攻撃に遭うということがわかっている状況で、
カイルはやっぱり「宿敵」を撃つことをえらぶわけです。

もしかしたらそれをすることで自分が死ぬかもしれないのにもかかわらず。


このあたりにわたしは、クリント・イーストウッド監督がかつて俳優として演じた
「荒野の用心棒」や「夕日のガンマン」のような、西部劇のエッセンスを強く感じ、
もしかしたらイーストウッドは、西部劇の構図でこのスナイパーを描きたかったのかと思いました。


しかし、この映画は、「荒野の用心棒」でガンマン・ジョーがライバルのラモンに
敢然と立ち向かい、最後には倒した時のような爽快感を決して与えてくれません。
「プライベート・ライアン」で、皆が命を呈して救ったライアン一等兵が、
年をとってアメリカの国旗に敬礼するシーンのような感動もありません。

そういった単純なカタルシスを阻んでいるのは、ひとえにクリス・カイル自身が
苛まれていたという真に迫ったPTSDの描写です。

息子とじゃれあう犬を思わず本気で殴り付けようとしたり、
オイルチェンジの待合室で「あなたに命を救われたことがある」と名乗り出る
シールズの元隊員に対しては敬礼も返さず、挙動不審で目が泳いでいたり、
自分にだけ聴こえる銃声を聞きながら真っ暗なテレビの画面に見入ったり・・。


ここで思い出さずにはいられないのが、イーストウッド作品の名作(とわたしは思う)
「グラン・トリノ」のイーストウッド自身が演じた主人公コワルスキー。
朝鮮戦争の帰還兵で、そのとき己の犯した罪のPTSDが彼の後半生を
意固地で偏屈、神を信じないものにしたという設定でした。

あの「父親たちの星条旗」でも、擂鉢山の5人として英雄となった兵士たちは
戦後、戦闘と英雄として担がれたことの二重のPTSDに苦しんだと描かれました。


この映画を全編通して見る限り、クリス・カイルはただ信念を持って
250人のイラク人を殺害したと自分で言い切る以上に、
自分のしたことの罪に押しつぶされそうになった弱い面を持った人間として描かれ、
クリント・イーストウッド監督は、彼に、「ガンマン・ジョー」ではなく、
コワルスキーやアイラ・ヘイズに近いものを見ていたのではないかと思われました。


つまり、保守とリベラルでこの作品を挟んで大騒ぎするのは、全く監督の本意ではないし、
描こうとしたところはまったくそれらの論点の外にあるのではないかということなのです。


実在のクリス・カイルは、殺害された日、PTSDで心神耗弱となった元海兵隊員の
母親に頼まれて、そのケアを行うつもりで一緒に射撃に行っています。

そんな人間に射撃をさせて果たしてPTSDがなんとかなるものなのか、常識的に考えて
この対処が大間違いなのでは?とおそらく日本人なら誰でも思わずにいられないのですが、
すでにこのあたりの感覚が狂い出していることに、周りの誰もが疑問を持ちません。

そしてわたしが心底不気味だと思ったのは、その最後となる外出の前、
カイルは自分の妻にふざけて銃を突きつけ、さらにはその銃を子供にもふざけて向け、
その後、その銃を日本間で言うと鴨居のようなところにひょいと置いて出て行ったことです。

彼がPTSDの元海兵隊員に射殺されたというのは、実際にあったとは思えないほどに、
このアメリカン・スナイパーにとって実に象徴的な最後であり、その最後があったからこそ
イーストウッドは彼の映画を撮りたいと思ったのでしょう。


そして、たとえその悲劇が起こらなかったとしても、いつか彼のPTSDが
何かのはずみで銃と結びついた、別のとんでもない悲劇を起こしていたかもしれない、
という背中に泡立つような思いを捨てきれないのはわたしだけでしょうか。


全く音楽の流れない、長い長いエンドロールは、英雄の物語の終焉にしては
あまりにも多層的で相反する真理を内包しているかのように感じました。


クリス・カイルが元海兵隊員に射撃場で突如銃を向けられ、
同行したベテランと共に殺害される姿を映像で描かなかったのは、
彼のまだ幼い子供達に配慮してのことだといわれています。




 





 

海軍兵学校同期会~「大和のふるさと」と空港の旭日旗

$
0
0

昨年秋に行われた海軍兵学校某期入学記念解散式。
その後このとき知り合った兵学校生徒S氏と、ちょっとしたご縁から
おつきあいさせていただく光栄な機会を得ました。
何度かここでもお話しさせていただいたせいですっかり当ブログ的には
(ご本人のあずかり知らぬところで)有名になったSさんです(笑)

先日この同期会の事務局長を務めていた元生徒が亡くなったため、
水交会で追悼会が行われるということをおっしゃっていたので、

「もしかしたら同期会が解散となるのはそれが原因だったのですか?」
「それもありますね」

Sさんはわたしには兵学校の同級生や昔の知人について聞かせるのが楽しいようで、
独りごつように次々とそう言った人々についてのあれこれについて語るのですが、
ひとしきり話した後、まるでオチのように

「亡くなりましたけどね」

と付け足すのが常でした。
その様子はなんとも恬淡としていて、こういう年齢になれば親しかった人間、
周りの人間が次々と世を去っていくことについて人はこう思うようになるのかと、
いつかは来る将来を見るような思いがしたものです。

ところが、わたしにはこれだけ色々と話してくれるのに、
自分の席次の話や、兵学校での話を

「子供にもしたことがない」

のだとか。
自分の軍体験について家族が興味を全く持たず、
自分自身も戦後はどちらかというと「軍アレルギー」となって
軍に関わるものを避けてきたからなのでしょうが、そういった理由で
一言も話さないまま逝ってしまう軍人の例を
いくつか知っていたわたしは、またしても「ああ」と納得するものを感じました。



 



さて、そんなS氏とわたしを乗せた兵学校同期会ツァーのバスが、
海上自衛隊の造修補給工作部の前を通り過ぎ、「大和のふるさと」である
あのドックの前に来たところからです。

この大屋根は、平成19年に

「呉海軍工廠 造船船渠大屋根」

という名目で、近代化産業遺産に認定されています。
呉の海軍工廠関係では、

「大和」設計図
10分の1「大和」模型
重巡洋艦「金剛」のヤーロー式ボイラー
「大和型」150センチ探照灯反射鏡

など、いずれも大和ミュージアムの所蔵品が認定されています。 

この近代産業化遺産というのは、幕末から明治年間にかけて
日本の近代産業化に貢献した遺物や遺跡などを、地域活性化のために有効活用する観点から
(つまりありていに言えば観光資源としようってこと?) 
経産省が指定して決めるもので、例えば横須賀で見たドック第1号などの造船、
製鉄所関係の遺産のようなものや、ウィスキー、ダム、製紙工場など、
多岐にわたる分野に制定されています。

ちなみに航空機では零戦と三式飛行機(飛燕)が対象です。

ところで、この大屋根ですが、こんな目立つものが、終戦末期の呉の
数次に亘る米軍の空襲でもなぜ残ったかというと、アメリカが戦後の接収を考慮して、
海軍工廠の造船所の部分は爆撃目標にしなかったためです。



というわけでこのドックそのものが遺構でありながら、実際に稼働し続けているのです。
戦後、進駐軍が撤退した後、この地域は

「旧軍港市転換法」


によってすべての施設が民間に利用されることになりました。
石川島重工業と播磨造船所が合併してできた

石川島播磨工業

が、住友重機と合併してさらに

アイ・エイチ・アイ・マリンユナイテッド

となり、さらにそれがユニバーサル造船と統合されて現在の

ジャパン・マリン・ユナイテッド

となったのが去年、すなわち2013年のこと。
わたしが最初に呉に来た時にはまだなかった会社なんですね。




上の写真をズームしてみました。
これ、左に見えているのは艦首部分ですよね?
もしかしたら今から大型船を作ろうとしている?
奥に見える二つの部分もこの同じ船の一部だと思うのですが、
これが船底部分だとすると艦首部分との大きさが合わない(謎)

これ、どの部分かわかる方おられますか?



あまりにも部品が巨大でわかりにくいですが、
この画面の中にも作業をしている人が何人か見えます。
まさに今「建造中」であることがわかりますね。

ところで左に壁が見えていますが、この部分は造船所の

「平板工場」。

こここそがかつて「大和」が建造されていたドック部分です。
産業遺産に制定された大屋根は、本当に「大和」の
後ろだけを隠すために作られていたことが位置関係からわかりますね。



「平板」というのは読んで字のごとく造船における
船を形作るところの外壁と定義していいのだと思うのですが、
「造船」「平板」で検索すると、造船学会の

「長矩形平板の水面衝撃実験とその解析」

なんていう論文のPDFなどが出てきます。
これは三角形をしているようですが、どの部分でしょうか。




このドックを「第二建造ドック」と称します。
大和のドックだった平板工場を挟んで向こう側には第三建造ドック、というのがあるのですが、
どこを探しても第一建造ドックが見当たりませんでした。



第二建造ドックの向こう側では隔壁のようなものが見えます。
隣の平板工場から平板を持って来やすいところなんですね。
これが船尾部分で、ここから船首に向かって作業を進めるのでしょうか。
船の建造がどれくらいのペースで進むのかはわかりませんが、
1年後に来てみたらかなり「船らしく」なっているのかもしれません。



その右側にもドックがあります。
こちらのドックは「第四修理ドック」というのですが、やっぱり第一ドックはどこにもありません。
もしかしたら第一は「大和を作ったところ」ということ?

修理というからにはもう就役している船がドック入りしているわけですが、
さて、これはどういう種類の船なんでしょうか。



艦橋はまるでコンクリートのような素材に見えます。



クーラーの室外機を修理するときのためにつけた足場をなにやら調整している工員。



こちらでは三人の工員が階段部分で作業中。

ところで、わたしたちの乗ったバスの女性運転手は、運転しながらちょっとした観光案内もしてくれ、
(自衛隊関係についてはあまり詳しくなさそうだった)
ここについても色々と説明していたのですが、その途中

「ここにうちの婿がいるんですよー」

と言ったので、車内が思わず「?」となりました。
独身とは言わないけどせいぜい30代後半に見えたので。

彼女の娘と結婚した相手はここ、マリンユナイテッドにお勤めしているという意味だったのです。

「へええ、娘さんもう結婚してるの」

誰かが驚いて聞くと

「孫もいますよ^^」

年配の方が多いのでさすがに誰一人何も言いませんでしたが、
車内がそのとき「ええ~」という雰囲気に包まれました。




船の水槽のような部分をズームしてみました。
一面にタイヤが吊られていますが、これが搭載するものの緩衝材ですね。

問題は、何を載せるための緩衝材なのかということですが。
しかし、「修理ドック」といいながらここに入っている船舶はタイヤの様子といいデッキといい、
ピカピカで、どうもこれも新建造なのではないかと思われます。



さて、というわけで、我々一行はこの後呉地方総監前を過ぎ、
(走行中だったので写真がぶれてしまい載せられず)
大和ミュージアム、てつのくじら館の前を通過。

前にも話しましたが、この運転手さんはちょうどてつのくじらの
潜水艦を据え付ける作業の時、前を車で通りかかって見ていたそうです。
歩道などの段差を一切無くして道路を平坦にしたうえで、
特殊な車両での運搬据え付けは一晩で行われました。

そんな話を聞きながら、「(到着が)早すぎてごめんなさい」という言葉に送られてバスを降りたのが5時。
出発まで2時間半もあるわけで、そのせいか皆ロビーで旅行者の人から
チケットを受け取ったりするのも悠長にやっております。

移動はご覧のように今回、海軍旗の下に行われ、わたしもこのシリーズの最初に、

「旭日旗に導かれて団体行動するなど、人生で最初で最期だろう」

と書いたわけですが、そのツァーがそろそろ終わりに近づいています。
これを撮っておこうと旗を持っている元生徒(ダンディその1)を撮っていると・・・、 



その方の連れ(息子さんではなさそうだった)が、

「ナントカさん、撮られてますよ。ちゃんとポーズしましょう」

といって、二人でカメラに収まってくれました。



続いて、元生徒(ダンディその1)お一人で撮らせてもらいました。
90歳近くでオフホワイトのパンツって、おしゃれだなあ。

もう今後お会いすることはない方ですが、どうぞいつまでもダンディなままお元気でいてください。



わたしがモデルになってもらっていると、他の人たち(女子)がこれに触発されたか、
ダンディと旭日旗を記念に撮っておこうと写真大会が始まりました。

やっぱりみんな考えることは同じ。
このダンディ(その1)は人目を引いていたらしいことがわかりました。
ちなみにダンディ(その2)が件のSさんです。

こうして、わたしの人生最初で最後の

「海軍兵学校の元生徒たちと訪れる江田島ツァー」

は終わりました。
ふとしたことから参加することになったこの小旅行。
もう二度と行われることのないクラス会の、その最後を目撃し、
さらには本物の元海兵生徒と親しく交わるきっかけを得て、わたしは
あらためて縁というものの導く”妙”に、神秘を感じずにいられませんでした。

 


おしまい


 

空母ホーネット博物館~米海軍の女性提督と海自の海将補(候補)

$
0
0

去年の春と秋、練習艦隊の出港と帰国を晴海埠頭に見届けたときの
練習艦「しらゆき」の東良子艦長が、1月1日付で1佐に昇進されたそうです。

おめでとうございます。

女性では初めての1選抜での1佐昇任となり、もしかしたら女性初の将補も可能性も見えてきました。
他人事ながらなんとか頑張って女性海将まで行って欲しいものですが、
ここから先、競争相手は精鋭ばかり。さぞや険しい道であろうとご推察します。


というところでいきなり寄り道して、雷蔵さんのレクチャーで仕入れたばかりの知識ですが、
自衛官の昇進についてお話しします。
これから海上自衛官を目指す方、特にどなたとは言いませんが、どうぞご参考になさってください。

防衛大学校と一般大学卒業者からなる一般幹部候補生は全部で150名。
防大が毎年100人、一般大が50人です。
尉官のうちは、つまり3尉、2尉から1尉昇任までは、重大な病気かよっぽどの規律違反がない限り、
同じ日に揃って昇任します。

世界のどの海軍にも階級順に名前が記された「幹部(士官)名簿」というものがあるものですが、
海上自衛隊では2尉まではアイウエオ順です。
つまり中尉までは自分がどの位置にいるかわからないままなのです。
卒業の時に自分の順位がわかっているので、防大卒はそれでだいたいの判断ができるとはいえ、
一般大卒が加わるのでそこからさらに落ちる可能性もあるというわけです。

で、1尉になるとき、初めて名簿は成績順に並ぶようになります。
この段階で自分の自衛官人生がだいたい見えてしまうということでもあるんですね。

旧海軍のハンモックナンバー偏重主義は戦後否定的に評価されており、
それが負けた原因だなどと極論をいう人すらいるわけですが(違うと思いますけど)、
大学卒業の時の成績がそうものを言わないとはいえ、このように序列が20代のうちから
はっきりと見えてしまう職場というのも珍しいといえば珍しいものですよね。

当ブログでも何度もご紹介している、兵学校の最後の在学生となった76期生徒のSさんなど、
自分がハンモックナンバー5番で、しかもそれが結構ご自慢であるのにもかかわらず、

「あれはいけません。海軍の弊害というかダメなところですよ」

とこんな話をしてくれました。
76期卒業生で「最後の海軍軍人出身海幕長」と言われた長田海将と「いなづま」の
艦長の話をこのブログでもしたことがありますが、その長田海将と、
同期、つまり76期出身で海将になった者が海幕長候補に挙がったとき、
ハンモックナンバーが決め手になって長田海将が海幕長になった、ということが
76期同期生の間でささやかれてきたという話です。

言っておきますが、この76期は、2号生徒の時に終戦を迎えていますから、
この海幕長を決めたハンモックナンバーというのも3号(1年生)終了後の成績なのです。

「卒業時にハンモックナンバーなんて全く変わっている可能性もあったのに」

とS氏はつまりその結論にあまり納得していないようでしたが、わたしは


「いえ、実は長田海幕長には若い時にこんな話がありまして」

と膝を乗り出さんばかりにして「いなづま」航海士だったときの話をさせていただきました。
(ここでそのことを書いた直後だったもんで)

一般に艦長の時「つっかける」と海自内の言葉で言う軽微な事故、定置網に気付かず突っ込んだとか、
小さな漁船に接触する事故などを起こしてしまうと、それだけで昇進が足踏みするのに、
人が何人も亡くなるような事故のとき航海長でいながら、海幕長に選ばれたということは、

「(長田氏は)ハンモックナンバーだけでなく実際にも評価が高かったのではないでしょうか」

わたしがこういうと、S氏は、

「そうかもしれないですねえ」

と少し驚いておられるようでした。
戦後そちら方面には極力関心を持たず、同期会で仕入れた断片的な噂話が情報元だったので、
こういう海自のリベラルな部分や雅量とでもいうべき部分については
知ることなく今日まで来てしまったのかもしれません。


さて、冒頭に東良子2佐は「1選抜で」と書きましたが、この1選抜とは、
同期の中から真っ先に上級に昇進することのできる選抜メンバーをいいます。
防衛大学校を出ていれば、最低2佐まではいける、という話を聞いたことがありますが、
ここで1選抜となった同期はどんどんと先に行ってしまうわけですね。

実にシビアな方式で、わたしなどは驚いてしまったのですが、この1選抜は


3佐に1選抜される人数→150名のうち50名(3分の1)

2佐に1選抜される人数→50名のうち25名(2分の1)

1佐に1選抜される人数→25名のうち5名(5分の1)


これは、旧軍のハンモックナンバーではなく、その地位にあった時の「実績」に
よるものですから、たとえ防大を首席で卒業したとしても、その人の能力によっては
1選抜に漏れるということも起こりうるということになります。


そして東さんはこの5人に入ったということなのです。(/^ー^)/"""パチパチ

で、この先ですが、将補以上は各クラス10人ずつ、内訳は海将が3~4人、海将補が6~7人出ます。

1佐から初回で将補に昇任するのは、4年半後なので、海上自衛隊初の女性海将補が
もし生まれる可能性があるとすれば、そのときということになりますね。


 
閑話休題。


って、最初から全く写真とは関係ない話に紙幅ならぬブログ幅を費やしてしまいました。
どうして東1佐の話を冒頭に持ってきたかというと、今日はアメリカのアラメダで見学した
ホーネット博物館の艦内展示から、女性海軍軍人のコーナーのお話をするための前振りです。

海上自衛隊の女性隊員のことをWAVEという、ということにわたしは比較的最気づいたのですが(笑)、
アメリカ海軍ではちゃんとSをつけてWAVESと称します。
なんの略かと言いますと、 


Woman Accepted for Volunteer Emergency Service
( 緊急時任務に志願することを認められた女性)

直訳するとこうなりますが、アメリカ海軍がこう言って女性を集めたので
これが名称となり、アメリカ式名称を直輸入した自衛隊が何の疑問もなく?
この名称を使用しているのですが、なんか変ですよね。

自衛隊で「イマージェンシー」というのは名称に含む必要があるのかとか、
なぜ肝心の「サービス」の「S」を自衛隊では削ってしまって、「WAVE」なのかとか。

単にウェーブスだといいにくいから?
WAVEで波=海上でいいんじゃね?ってこと?

うーん、たった今気づいたけど、これは ・・・・・・・。
 


と相変わらずどうでもいいことが気になって仕方がないわたしであった。

ついでに自衛隊の場合、

「ワック」WAC=Woman’s Army Corps=女性陸上自衛官

「ワフ」=WAF=Woman in the Air Force=航空自衛隊

で、これらも米軍の名称をそのまま受け継いでいます。
陸自と空自はすっきりと「女性の陸軍」並びに「空軍の女性」なのに、
なんだって海自だけがこういうわけわかめな名称なのか。
どなたかご存知の方おられますか。

もうひとつついでに、Army Corpsは「アーミーコーア」と読んでね。
語源はフランス語なので語尾の子音発音しないんですよ。





さて、とにかく前に進みましょう。

あれは確か1年半前、ホーネットの見学を行ったわけですが、
その時撮りっぱなしになっていた写真のことを突如思い出したのです。

空母ホーネットは日本軍に沈められたのですが、ちょうどそのとき
「キアサージ」となる予定だったこの空母を、アメリカは瞬時にして
『ホーネット」として竣工してしまったのでした。

「日本に沈められた」という情報が世間に広まるのを抑えるためだったに違いありません。

戦後ホーネットはアポロ13号の乗員の回収を行ったりして退役し、
余生を博物館として送っているのですが、体験型博物館として、艦内で宿泊したり
ナイトツァーを行うなどもしています。

写真は細かいバルブとスイッチ、そしてメーター。
これなんですか?(早速お手上げ)



本題に入る前にもうひとつ未発表写真を投入。
キャニスター(蓋付き容器)とか延長線などが収納されている、
ということですが、これも何のためのロッカーかはわかりません。
ただ、ロッカー側壁に赤で書かれているOBAというのは、

oxygen breathing apparatus(酸素吸入装置)

という意味なので、非常用のセットであることはまず間違いありません。
上に置いてある赤いヘルメットが凹んでいるのは(これにもOBA表記あり)
何かシリアスな状況に使われたことがあったということでしょうか。



というわけでやっとこさWAVESコーナーです。
やはり女性軍人についてのコーナーですので、展示はお洋服から。

左の紺色スーツは下士官のもので、後ろには現行の士官用がありますが、
手前のブルーのシャツにブルーラインの制服はわかりません。
これが「Sea Service Woman」のものでしょうか。
でも「Sea Service」って、航海勤務のことだしなあ・・。



白っぽいドレスは1940年代のものであることは確か。
左のブルーは水兵さんの女性版?



真ん中は海兵隊の女性軍人(SPARS)用の制服です。
カーキに最も合う色、赤を配した帽子がおしゃれですね。 


さて、冒頭でわが国初の海将補誕生か?という話題を取り上げましたが、
アメリカ海軍では一足お先に2014年7月、初めての女性「提督」が誕生しています。



ミシェル・ハワード大将。

女性が、しかもアフリカ系女性として初めての4つ星階級となり、
海軍作戦副総長となったののは236年のアメリカ海軍史上、初の快挙だということです。

1960年の54歳ということですが、なかなか可愛らしい方ですよね。
インタビューを見ましたが、頭脳明晰を絵に描いたような喋り方をする人です。
1982年に米海軍兵学校を卒業し、1999年には黒人女性として初めて米海軍艦艇
( USS Rushmore  LSD-47_揚陸艦)の艦長を務めました。

バラク・オバマは黒人でなければ大統領になれなかった、とよく言われますが(笑)、
彼女の昇進にも常にそういう批評が付きまとったようです。
俺の方が上なのに女だから、黒人だから抜擢された、などといつも
陰口を叩かれながら今日まで来たと慮られるのですが実際はどうだったのでしょう。

「私が任務に就くのを好まない人や、私が目指すことを邪魔する人たちもいました」

彼女はインタビューにこう答えています。
ただ、これは注意が必要で、ハワード大将が自発的にそう言ったのか、それとも
そういうことにしたいメディアがそう言わせようと誘導したかは誰にもわかりません。

ただ実際にも、2013年に発表されたある海軍報告書からは、あるハワード大将の同僚が、
彼女が中将になったとき、

「昇格が早かったのはアフリカ系女性だからであり、その立場にたどり着くまでに、
アフリカ系でも女性でもない人間と同じような難関を乗り越える必要はなかったのではないか」

と話していたことが明らかになったということです。
つまり遠回しに「黒人女性だから簡単に昇進できた」と言っとるわけですね。 

まあわたしも実はオバマはアフリカ系だから大統領になれたと思っている口ですが()
軍は・・・・やっぱり実際に優秀でないと現場の評価から足元が崩れてしまうし、
あまりにも性格が悪くて更迭された女性艦長もいたくらいですから、
この同僚の「やっかみ」ではないのかという気もしますが、どうなんでしょう。 

我が日本国においても、女性自衛官の艦長就任などがあると結構な話題となり、
インターネットには

「自衛隊が世間に迎合している」「イメージ戦略のためにやっている」

などという意見も出てきたりするわけですが、自衛隊こそ、よほど優秀でないと
上がってこられないし「出る杭は打たれる」の文化なので、ここは

「男性だったとしても普通に昇進できるくらい優秀だから昇進した」

ということなんじゃないでしょうか。

(あくまでもイメージです)


米海軍のWAVESについても、もう少しお話ししていきたいと思います。

 


 

”遠航散見”~海軍兵学校67期の遠洋航海

$
0
0

もう1年以上前のことになりますが、海軍兵学校67期の卒業生の親族であるという方から
当ブログにコメントをいただきました。
なんでも「兵学校67期」でググると、当ブログ記事に多数ヒットしたということで
(といいますのも笹井醇一中尉がこの67期であったりするもので(〃∇〃)ゝ )

その後はそのご親戚の67期卒業生について、わたしの手持ちの資料の中からわかることを調べ、
生徒生活からその最後の出撃までを、「海軍人物伝」にアップさせていただきました。

越山澄尭大尉シリーズ 


その後、この方から、越山大尉所蔵だったアルバムの写真をいただきました。
67期の遠洋航海の際、越山生徒が自分自身のカメラで撮った写真です。

戦艦「伊勢」乗員の親族であった方のアルバムについて、先日お話ししたところですが、
日本の家庭には、「お祖父ちゃんのアルバム」として押入れの奥深くに仕舞われたまま、
余人の目に触れることなく、これまで来た歴史的に貴重な資料がさぞかしあるに違いありません。

遺族の方が、本来は門外不出の貴重な写真の公表を許してくださるのは大変ありがたく、
このブログでそれを発表する機会を慎重にうかがってはいたのですが、
うかがっているうちにまず落馬して骨折、治ったと思ったらイベントやなんやで、
ハッと気がついたら資料を頂いてから1年が経過してしまいました。

というわけで、満を持して、(っていうのかな)ここに

海軍兵学校67期遠洋航海シリーズ

を始めさせていただきたいと思います。

冒頭写真はアルバムの主の兵学校での写真です。
映っているのは13人ですから、分隊ごとに撮られたものと思われます。
18歳くらいの少年といっていい生徒もいるのですから、当然とはいえ、
一人ひとりの顔をよくよく見ると、まだ幼さが残っていて、こんな少年たちが
兵学校を志願して受け、厳しい訓練を受けていたのかと感慨深いものがあります。



アルバムの主である越山生徒。
この写真は上半身脱衣で撮られているのですが、もしかしたら海兵試験のためには
このような写真を提出することが決められていたのかもしれません。

身体頑健で健康であること、というのは兵学校生徒になるために学力と同じくらい
重要な選定のポイントでしたから、そうだったとしても納得がいきます。



夏用の第二種軍服での一枚。
町の写真館で、おそらく同郷の級友と撮ったものではないでしょうか。
兵学校の制服が若い男女の憧れであったことはいろんな文献に見ることができますが、
これをまとって娑婆を歩く時、学生たちの気持ちはさぞかし晴れがましいものだったでしょう。

アルバムの主越山中尉は左端です。



 
昭和13(1938)年、軽巡洋艦「大井」の甲板で撮られたものだそうです。
軽巡「大井」は「球磨」型の第4鑑で大正8年に建造されましたが、
昭和5年ごろから機関の不調に悩まされた結果、兵学校の練習艦になっていました。

短艇訓練が行われたときに撮られたのであろうこの写真の真ん中の人物は、
当時の「大井」艦長安場保雄大佐(42期)であろうと思われます。
開戦後「北上」と共に重雷装を施され、第1艦隊に編入された「大井」は、
あの森下信衛大佐が艦長になったこともあり、南洋でで通商破壊活動に従事していましたが、
昭和19年の7月19日、米潜水艦の攻撃によりマニラ沖で戦没しています。

写真の上の自著は、左端の越山生徒が写っている級友に頼んだものらしく、
一人一人が特徴のある字体を残していますが、右上端の上田淳二生徒の特に変わったサインには
1号生徒の分隊写真では笹井醇一生徒と一緒に写っていたのでが見覚えがあります。

上田生徒も越山生徒と同じく伊号潜水艦(伊4)勤務になり、ラバウルで戦没しました。
この写真に写っている他の生徒について書くと、鈴木武雄生徒は752空で台湾東沖にて戦死、
重枝清生徒は飛鷹乗り組みで鹿屋で戦没となっていますから、おそらく艦載機での戦死でしょう。
永松正輝生徒は呂56が沖縄沖で撃沈されて戦死。
この中で生き残ったのは坂本生徒と深井生徒だけです。



アルバムの外表紙の画像まで送っていただきました。
昔は鮮やかな赤であったであろう糸の織り込まれた布地の表紙。
時を経てところどころ糸がほつれているのもまた感慨深い。



アルバムの主の署名とアルバムタイトル。
気持ちの大きさを感じさせる伸びやかな筆致です。





というわけでここからが遠洋航海アルバムになります。
アルバムの表紙裏には、

「昭和14年7月25日の海軍兵学校卒業式に我等も招待を受け
両親参列 高松宮殿下後台臨
厳粛ながら卒業式終了後大宴会 終わって乗艦(八雲・磐手)
午後3時艦隊出港 爾来東洋方面巡行終了後 
9月20日 横須賀帰着
9月26日 宮城参内
10月4日 横須賀出航 遠洋航海
12月20日 帰着

と書かれています。

現在の海上自衛隊の遠洋航海も同じように、卒業式の後「表桟橋」から出航し、
まずは慣らし?としてしばらく近場での航海を経験します。

その寄港地は

江田内→舞鶴→宮津→鎮海→旅順→大連→青島→
上海→馬公→高雄→廈門→佐世保→伊勢→横須賀

で、今なら行かない中国大陸と台湾に立ち寄っています。
伊勢ではやはり伊勢神宮の参拝が大きな目的だったのに違いありません。

一旦首都に寄港してそれから遠洋航海に出ることになっていますが、戦前はこのときに
宮城参内、そして靖国神社、明治神宮などを参拝するという大事な行事がありました。
(今でも靖国参拝は・・・・していなさそうだなあ)

このとき、士官候補生となった彼らは同時に東京見学などで大いに羽目をはず
・・・・・す者もいたという話ですがもちろん全員ではありません。

士官候補生東京見学行状記

さて、昭和14年の兵学校67期の遠洋航海は、最後の海外への遠洋航海となりました。
それまでの遠洋航海はある時はアメリカ本土、ある時はヨーロッパと、

「兵学校に入る目的の大きな部分は遠洋航海で海外に行けること」

であったというくらい、そのスケールは大きく、海外旅行に行くことができるものなど
ごく限られた層の一握りであった時代には世人の憧れでもありました。
しかし世界情勢が不穏になりつつあったこの時期、とりあえずは行われた遠洋航海も
そのルートはハワイまで行って帰ってくるという「短縮コース」となります。

ここで各期の遠洋航海ルートを見比べていてふと気付いたことがあります。
昭和12年に行われた64期の遠洋航海は、機関学校45期、主計学校25期、研究医官と
全てが合同で行われ、艦隊司令は古賀峯一中将。
「八雲」艦長は宇垣纏大佐、「磐手」艦長は醍醐忠重大佐という有名どころ()で、
イスタンブールを経て地中海はナポリ、マルセイユと訪ねる超豪華コース。

といってもそれまでアメリカ大陸コース、地中海ヨーロッパコース、太平洋コース(豪州)
という順番で繰り返し行われてきたのですが、昭和13年の間に行われた65期、66期の航海から
急に中国とそのあとシンガポール、パラオなどの後の激戦地が寄港地に変わるのです。

そして、この最後の遠洋航海では、ハワイ・・・。

この67期の練習艦隊が真珠湾に近づいた時、そのとき現地は朝方で暗かったということですが、、
候補生たちに向かって分隊監事が

「お前たちのうち何人かは近いうちにまたここに来るかもしれないからよく見ておけ」

と言ったそうです。
このことを以前、

「海軍の中ではここを近々攻撃するかもしれないという噂でもあったのだろうか」

と書いたことがあるのですが、こうして見ると昭和13年になって急に
海軍内で「なにかが変わった」と言わざるを得ません。

変わったと言えば前年の昭和12年には廣田内閣が総辞職しており、
その前年にはニニ六事件が起こって、国内の正常は大変不安定でした。
この年の5月には国家総動員法が全会一致で決議されており、
いよいよ国を挙げて戦時体制に突入したことが国民にも感じられる年ではありましたが、
海軍では巷で「米英もし戦わば」というようなシミュレーションが盛んにされる前より
その可能性が内部で取りざたされていたらしいことが、こんなところからも窺い知れるのです。

さて、それでは遠洋航海の前の「近海航海」から始めましょう。



鎮海に始まり中国国内を航海していた艦隊は、卒業式から約1ヶ月後の8月21日、上海に入港しました。
接岸しようとする「八雲」もしくは「磐手」。
煙突の形状からどうも「八雲」だと思われますが・・。



埠頭には現地の邦人がこれを迎えて手に手に軍艦旗をうち振っています。
おそらくカラー写真であれば青い空にさざめく紅白の旗、そして艦橋に鈴なりになった
候補生たちの純白の軍装がさぞ美しかったことでしょう。

 

その三日後、彼らは海軍陸戦隊が有名になった上海事変の激戦地跡を見学したようです。
上海事変ではこのとき日本軍の爆撃で商務印書館という出版社のビルが焼かれました。
ただし史実によるとこれは第一次上海事変の昭和7年のことです。
つまり、この建物は修復されないまま5年間放置されていたままのものだということになりますが、
ここにメモとして書かれているのは第二次上海事変のとき、日本軍が上海を制圧し、

「日軍占領大場鎮」

というアドバルーンを日本人街に挙げた日のことです。
現地の説明にもしかしたら手違いがあったのかという気もしますが、今となってはわかりません。



第二次上海事変の時に破壊されたところは少なくとも彼方此方で復興されぬままだったようです。
上海事変の慰霊碑が呉の海軍墓地にありましたが、この時の戦闘は中国軍の激しい抵抗のため、
日露戦争の旅順攻略にも匹敵する凄絶な消耗戦になりました。

日本側は3ヶ月で戦死者10076名、戦傷者31866名、合わせて41942名の死傷者を出しています。


さあ、というわけで、しばらくの間67期が最後の遠洋航海で辿った航路を、
越山清尭生徒の撮った写真とともに追体験してみたいと思います。


続く。

 

内地巡行と近海航海~海軍兵学校67期遠洋航海

$
0
0

あるブログ読者の方から送っていただいた、海軍兵学校67期生徒が
卒業後遠洋航海で撮った貴重な写真をご紹介しています。

まず冒頭の、艦船ファンには大変興味深い写真をご覧ください。
台湾の馬公(台湾海峡にある澎湖諸島の中心都市)でのものですが、
左はこの練習航海でアルバムの主越山候補生が乗艦した(煙突の形状からおそらく)「八雲」。 



日程から見ると、これは昭和14年7月25日に江田内をでて、

舞鶴ー宮津ー鎮海ー旅順ー大連ー青島ー上海ー馬公

と一ヶ月かけて8月28日に到着した時のものです。
ちなみに舞鶴では機関科候補生、宮津では主計科の候補生が配乗しました。

記録によると、「八雲」には戦後幕僚長になった中村悌二、「天山」爆撃隊の隊長だった
肥田真幸、真珠湾の軍神となった古野繁実、水上機の横山岳夫候補生が、
「磐手」には台南航空隊の笹井醇一、もう一人の軍神横山正治候補生が乗艦しています。

「八雲」も「磐手」も明治時代にイギリスから購入したもので、この時すでに建造から
40年近く経っている超老朽艦でした。(だからこそ練習艦になったわけですね)
どちらも日露戦争で働いた旧式艦で、速度はなんと時速10k/t。
しかし、乗員は選り抜きの精鋭で訓練と整備に励む様子は、教練作業、検閲も含め
当時の帝国海軍の猛訓練ぶりを候補生に知らしめたそうです。

「磐手」の方は例の昭和20年7月26日の呉大空襲で沈没しましたが、「八雲」は
終戦時稼働状態であったので、復員船として1年間「最後のご奉公」をしました。

ついでに「磐手」ですが、以前にも「船乗り将軍の汚名返上」というエントリで話したことのある
上村彦上之氶が蔚山沖海戦でロシア海軍のリューリック号乗員を救助した艦でもあります。


写真に戻りましょう。
右側に並んで停泊しているのは、東洋汽船の貨物船「総洋丸」です。
東洋汽船は戦前の安田財閥系海運会社で、その所持船は全て「×洋丸」と名付けられていました。
徴用船はもちろんですが、東洋汽船所有の貨物船はそのほとんどが戦没しており、(その他は座礁沈没)
この「総洋丸」も、昭和18年の12月7日に戦没のため喪失となっています。


写真を詳細に眺めれば、「八雲」の舷側に候補生たちが固まって列を作っているのがわかります。
これは後からわかったのですが、今から作業に入る候補生たち。

そして、注目して欲しいのは両艦の間にかけられたラッタル。
昔のラッタルってこんなだったんですね・・・。
これ、もしかしたら長い梯子を渡しただけですよね><
横にいる人の大きさと比べてもかなり板と板の間が広そうな・・。

これは、酔っ払っていなくても結構 落 ち た  のでは・・・。
ましてや舷門番に怒り、目が眩んで足を踏み外すガンルーム士官なども当然(意味深)



軍艦「松島」は日本三景艦「松島型」一番艦で、お召し艦になったこともあり、
黄海海戦ではあの「勇敢なる水兵」三浦寅次郎3等水兵の逸話を生んだ艦です。



ここにあるのは台湾にあった「松島」の記念碑。
海軍の遠洋航海なのでこういうところに立ち寄ったようですね。

公文書館の資料でこの碑を建立したときの趣意書を見ることができますが、
それによると、この塔は松島の主砲を模しているもので、周りに置かれた
砲弾とスクリューはどうやら本物のようです。
国民に寄付を募ったところ当時のお金で1万5千円が集まり、昭和11年に完成したとありますから、
このときはまだできてすぐの「ホットなスポット」でもあったということです。

ところでなぜ「松島」の記念碑がここにあるか、ですが。

実は「松島」、明治41(1901)年になんと、少尉候補生を乗せて遠洋航海中、
ここ馬公で爆発事故を起こして沈没してしまったのです。

兵学校35期の名簿を見ると、卒業生172名のうち33名の名前の後ろに「馬公(松島)」とあり、
33名もの候補生が遠洋航海で一挙に失われてしまった悲劇の学年であることがわかります。

67期候補生にとっても、自分たちの先輩、しかも同じ航路での惨事とあらば他人事ではありません。
おそらくこの悲劇は、候補生たちの間でひとしきり話題になっていたことでしょうし、
練習艦隊に乗り組むに当たっては、この事故から得た教訓なども訓示されたはずです。

おそらくこの碑の前に彼らは神妙な面持ちで佇み先輩の霊に黙祷したに違いありません。

ところで、事故当時の「松島」の乗員307名のうち死亡したのが207名、3分の2が殉職しています。
この多さを考えると、兵学校生徒の33名というのは割合にして約3分の1と少なく、
もしかしたら救出も彼らが率先されたのだろうか、というようなことも考えてしまいます。


 

写真を頂いた時にはなんとなく見て「台湾だなあ」と思っただけでしたが、
実はわたくしここに行ったことがあったのでした(^◇^;)
お正月に旅行で台南市にいったとき、赤崁楼(せきかんろう)というオランダ人の作った城郭跡が
博物館も兼ねた公園のようになっていたところに観光に行ったのですが、どうやらわたしは
全く自分でも知らないうちに67期の皆さんと同じところを見ていたのです。



別角度からですがこれが右側の建物ですね。
これも何度か書いていますが鄭成功が、ここに陣を張るオランダ軍を攻め攻略したのちに、
ゼーランディア(ここも観光地)も落とし、オランダの台湾支配を終焉させました。
鄭成功が「台湾中興の祖」と言われる所以です。



この写真だけでは意味がわからなかったのですが、旅程によると、
8月29日には馬公で「載炭」と予定にもそう書かれています。
よくよく見ると旅程の所々に「載炭」の日があり、これは読んで字の通り
石炭を艦に搭載する日が丸一日設けられていたらしいことがわかります。
これは今石炭を積んでいる作業中で、石炭貯蔵タンクの向こう側には
候補生らしい人影があります。

冒頭写真は「総洋丸」から石炭をもらっているところなんですね。

候補生にとっても石炭搭載作業は大変印象的だったようです。
当時において重油専焼艦が大半を占めていた海軍艦船のうち、
数少ない石炭専焼艦として、各地で一日がかりの載炭を行い、
候補生も炭塵にまみれて下士官とともにこの苦しい全艦作業を経験するのです。
殊に酷暑の候、熱帯地方で陽に照りつけられながら、あるいは空気の流通の悪い
炭庫深くで行う作業は、かれらにとってひとつの試練でもありました。

この作業を体験したクラスは、67期が海軍の歴史でも最後になったのです。



本土帰港前の最後の寄港地は廈門でした。
候補生たち練習艦隊は廈門にある南普陀寺(なんふだじ)に観光に来ています。
しかし、今までの観光地での写真はほとんどが水兵さんばかりが写っているのですが、
彼らは一緒に行動していたのでしょうか。
それともカメラを持っている者は候補生にもいなかったため、皆の写真を撮ってあげていたのか・・。

それにしても、このアルバムの主、越山清尭候補生のカメラの腕は冒頭の艦上写真を始め
(これ一体どこからどうやって撮ったんでしょうか)相当確かなものに思われます。
もしかしたらご本人ではなく同行のカメラマンが撮ったものだったのかな・・・?



日光岩というわりに景色が日本ではないなと思って調べたら、これも廈門でした。
「鼓浪嶋ニテ」とありますが、これは「こらんとう」、中国読みでグゥ ラン ユィだそうです。

1900年くらいから欧米、および日本の共同租界となっていて「コロンス島」という別名があり、
欧米諸国や日本が領事館、学校、教会等を建設したことから、租界地特有の豪華な洋風建築が
島内のあちらこちらに今でも残されていて見ることができるそうです。

言われてみれば写真に見える建物は、洋風と言えなくもないですね。

このころはどうだったのかわかりませんが、現在鼓浪嶋の住人は音楽好きで知られており、
”住宅街で耳を澄ませばピアノやバイオリンの音が聞こえてくる”といわれているそうです。
租界だったということもこの環境に影響しているのでしょうか。



陸戦隊というのは他でもない海軍陸戦隊のことなのですが、そもそもこのアモイ、
明治時代に日本が占領しようとしたことががあるってご存知でしたか?

廈門事件で検索すると詳細が出てくるのですが、
福建省のこの地における覇権確立をかねてより狙っていた日本は、児玉源太郎台湾総督の時代、
廈門にある東本願寺が焼失したのを名目に(どうもこれは自作自演っぽい)
海軍陸戦隊を海峡を隔てたお向かいの台湾(つまり日本ですね)から出兵させて
廈門を軍事占領した、ということがありまして。

この崖の上の本部というのは、その時に司令部としてつくったか接収したものであるようです。

しかし中国での権益を強く主張するイギリス、アメリカ、ドイツの参加国が
これに対し強く抗議し、特にイギリスが軍艦まで出してきたため、日本政府はさすがに
布教所の火事ぐらいを占領の理由にするのは無理があると諦め、潔く?撤兵しました。

まあ、このあたりから列強各国は日本に対して牽制にかかっていたということですね。
出る杭は打たれるってヤツでしょうか。
日本としてもせっかく義和団事件でいい感じ()だった列強との関係を壊したくなかったため、
大人しく引き下がったという経緯がありました。


というわけで日本は、軍事占領は諦めて、いわゆる「対岸経営」というやり方、
すなわち対岸の台湾から福建に会社や鉄道の経営を通して経済的権益を得る、
という方法で廈門に進出していくことになります。

この建物は明治時代に陸戦隊本部であったのですが、この頃(昭和13年)には
実際に部隊が置かれていたわけではないので、候補生たちは「本部跡」として見学したのかもしれません。

このとき候補生たちは「戦跡見学」として、日露戦争の戦場、そして
満州事変戦跡(柳条湖)、彼らの先輩が陸戦隊で勇戦奮闘した上海広中路の激戦跡、
といったところを目の当たりにしました。

ある候補生は戦後このときのことを

「将来の決意を一層固めたものである」

と書き残しています。
それは果たしてどのような「将来」であったのか・・・・。

この後候補生たちは、満州鉄道に乗って新京まで行き、そこで
満州国皇帝愛新覚羅溥儀に拝謁を賜っています。

「ラストエンペラー」溥儀は、1932年、日本の後押しで満州国皇帝となり
施政を執ってもうこのころで7年目になっていました。
「満州国皇帝」に即位してから5年目です。
候補生たちはこのときに関東軍司令官にも伺候しています。
このころは梅津美治郎が就任する少し前で、前任の植田謙吉の頃です。

彼らは夢にも知りませんでしたが、このころ時あたかもソ連と満州の国境で、
日ソ国境紛争の一つであるノモンハン事件が起こっていました。
1939年のこの時期、国境での紛争件数は200件に上り、軍事衝突において
日ソともに戦死者は8~9千人に上るというものでした。
植田司令が候補生たちを拝謁したとき、ちょうど最後の戦闘が行われようかという時で、
司令官が兵学校の候補生と会っている場合だったのか?という気もしますが、
わたしたちが思うくらいですから候補生たちがこういったことを一切知らず、
後で聞いて驚愕したとしても当然のことだったかもしれません。

続く。




拝謁・東京見学~海軍兵学校67期の遠洋航海

$
0
0

兵学校67期の遠洋航海アルバムシリーズ、三回目です。

今までなんども古い写真を見て同じようにそのことについて調べたり、
時には検証したりしてエントリを製作してきたわたしですが、
今回の遠洋航海シリーズは同じ作業をしていてもなぜかわくわくします。
彼らの旅の軌跡をたどることでその遠洋航海を追体験するとともに、
彼らの浮き立った気持ちや興奮が手に取るように感じられるからでしょう。

昭和14年、ときあたかも戦雲垂れ込めてくるような世界情勢に加え、
彼らにとっても短縮となった遠洋航海では中国本土では生々しい戦跡を目の当たりにし、
皆が何かを心に深く予感する旅になったことは間違いありません。

実は、わたしも今回初めて知ったことなのですが、67期の遠洋航海は当初、
ハワイの後北米西海岸に行くいつものコースの予定であり、候補生たちも
そのつもりで遠洋航海に乗り組んでいたのです。
彼らが近海航海の最終段階に入り、台湾の高雄をでて廈門に向かって行動中、
国際情勢はこのわずかの間に急変するに至りました。
そして、佐世保に帰港して中国から本土に戻って来た時、彼らにこのような
ニュースがもたらされたのでした。

「本年度の遠洋航海は北米西海岸を取りやめ、ハワイで打ち切りとする」

つまり、ハワイの後、本来ならば1ヶ月かけて米国本土まで航海し、
サンフランシスコとサンペドロを経由する予定が中止されたのでした。

この変更には、彼らが近海航海をしている間の情勢が影を落としています。

2年越しの支那事変は膠着状態に陥っていましたが、欧州の情勢はこのとき、
風雲急を告げるごとくに変化しつつありました。
8月23日、「独ソ不可侵条約」が締結されます。
日本とノモンハンでやりあっている間にドイツにやられてはかなわないと、
スターリンがドイツとの間に結んだ不可侵条約でしたが、ドイツはこれで
「挟み撃ちにされない」という保証を得てポーランドに侵攻したわけです。

みなさん、第二次世界大戦の始まりってなんだったか覚えてますか?

そう、ドイツのポーランド侵攻です。それがこの9月1日だったんですね。
これに対してイギリスとフランスが宣戦布告したことが戦火の火ぶたを切ったのです。
それが9月3日で、候補生たちが台南市内を見学していたその時です。

つまり、遠洋航海の突然の短縮は、3日の英仏参戦がきっかけになっていたのです。

日本では独ソ不可侵条約の締結に際し、当時の平沼騏一郎内閣が有名な

「欧州情勢は複雑怪奇なり」

の言葉を残して退陣しています。
この言葉をもって、日本の支配者が国際情勢を判断する力を失い、
自主的な外交政策を立てられなくなっていたことの証明であるとする説もあります。

それを証明するかのようにその後半年にわたって政府および陸海間はもめ続け、
「三国同盟」は一時自然消滅の形となっていました。

英仏の参戦に対し、日本とアメリカは一応中立を宣言しています。
しかし、欧州の動乱が世界に波及する危険をはらんでいることは明らかでした。
実際、アメリカはこの戦乱に日本をして参戦させるために手を替え品を替え挑発し、
(日米通商条約を破棄したのもちょうどこのころ)かつ締め上げにかかっていたのです。





しかし国際情勢はともかく、若い候補生たちにとって一ヶ月の遠洋航海短縮は
どんなにか落胆することであったでしょうか。
特に中止されたのはアメリカ本土であるサンフランシスコです。
こんなことでもなければアメリカなど一生行けないかもしれないと思えば、
無念さはいや増したでしょうが、また同時に急な予定変更に対し、
やはり今は非常時であることを実感し、身の引き締まる思いもしたことと思われます。



内地ではまず伊勢神宮参拝のために伊勢に立ち寄りました。
ここで遠洋航海の旗艦が「八雲」から「磐手」に変更されます。
この意図が今ひとつ分からないのですが、これも訓練だからか、それとも
司令官の澤本頼雄中将が坐乗する艦を変えたと言うことでしょうか。

そして「恒例検閲」が行われます。定期チェックのような感じかな。


この写真は旅館で朝ごはんを食べていますが、誰かという説明がないので、
もしかしたらクラスメートに撮ってもらったご本人かもしれません。
こういうショットがあるところを見ると、やはり自前のカメラのようですね。

それより後ろに二種軍服が実に雑な感じで掛けてあるのが気になるのですが・・。
ハンガーにかけないとシワになるわよ~(おかん感覚)



これは伊勢神宮内宮の橋をなぜか下から撮ったものですが、
橋の上を隊列を組んで歩いているのは艦隊の皆さんです。

廈門以外は全部わたしが実際に行ったことがあるところばかりでなんか嬉しいです。

今は政教分離がフンダララで自衛艦の艦内神社にすら文句をつける奴がいるので、
自衛隊が公式に神社に参ることはされていないようですが、
例えば「いせ」などは年に一度伊勢神宮に参拝することになっているようです。



そして9月20日。
艦隊は横須賀に入港しました。
ここでは2週間停泊して、整備と遠航の準備を行います。
まず9月23日まで、なんと丸々3日間、作業を行いました。
そして9月24日に初めて艦を離れることが許され、候補生たちは築地の海軍経理学校に
宿泊して、数日間の東京行事を実地することになりました。

東京に自宅のあるものは自宅宿泊を許可されるので、親しい友人を連れて
何人かで実家に転がり込むというのも可でした。
しばし規則から解き放たれるのですから、こちらを好む生徒は多かったでしょう。


ここ東京は候補生たちが一番楽しみにしていた国内の寄港地ではなかったかと思われます。
訪れるのは戦跡や海軍の根拠地や慰霊碑や神社で、まあ遊びではないのだから当然ですが、
やはり修学旅行でもお寺や観光地より夜のまくら投げが楽しかったように(たぶん)、
候補生といえど若い男の子、やはり花の都で少しはハメを外したい。

てなわけで前回もご紹介した旧エントリのように、東京出身者を先頭に立てて銀ブラしたり、
「ちょっとドキドキな校則違反」なんかをやらかす候補生なんかが出てくるわけです。
このとき同級生の妹にちゃっかり目をつけて、後に嫁にしてしまうツワモノもいました。

しかし東京に着くと同時に夏の二種から一種軍装に着替えた候補生たちは
こうやって写真に撮ってみると制服と白手袋のせいもあって、皆立派な士官さんに見えます。

参道を歩いていた他の参拝客が思わず立ち止まって彼らを眺めている様子が写っていますね。
よくよく見ると先頭を歩いているのは本物の?士官らしく、上衣が腰まで長い海軍常装。
後ろにカルガモの雛状態でついてきているのが候補生たちです。

ちなみにこのとき「八雲」「磐手」の次室士官である中尉(63、64期)も同行していますから、
彼らか、あるいは主任指導官(中佐)とその副官(中尉)が引率している状況でしょうか。


短いジャケットの候補生は他の地方ではこの時期にしか見られることはないため、
明治神宮であろうが銀座であろうがさぞかし注目を集め、また候補生たちも
さぞかし面映くも晴れがましい気持ちになったものと思われます。

東京見学の予定はまず、

9月25日 海軍省、海軍大臣伺候、大臣主催壮行会(水交社)

という、どちらかというと面白くなさそうな行事から始まります。
いやまあ、遊びじゃありませんから面白いわけはないのですが。
ちなみにこのときの海軍大臣は「不可解也」で解散した直後の阿部内閣指名の吉田善吾。
・・知らねー。


 

 


続いて9月26日の行事はまず宮中伺候、および拝謁でした。
遠洋航海に旅立つに当たって天皇陛下の閲兵?を受けるのです。

全員が第1種軍装に白い手袋をつけ、整然と退出してきます。
5列になって行進していますが、もしかしたらハンモックナンバー順だったりするのでしょうか。

それにしても皇居ですから当然とはいえ、坂下門の様子は今現在と全く同じ。
今度からこの前を通る時には彼らがここを踏みしめて歩いたことを彷彿としてしまいそうです。
今はこの前にゲートができ、地面は舗装されてコンクリートに変わっていますが。

拝謁に続き、賢所(かしこどころ)参拝、御府拝観、と宮中ツァーの半日。
当然ですが、東京での行事の頂点がこの拝謁でした。

それにしてもみなさん、歩いている候補生の姿を遠目に見て何か気づきませんか?

そう、「上着が長い」でしょ?
候補生の服装は短ジャケット(つまり兵学校の軍服の階級章を変えたもの)なのですが、
このときだけは特別なので「通常礼装」に全員が身を固めて宮中に参内したのですが、

遠くて見え~~んっ!!!

67期卒の彼らがこの「通常礼装」に袖を通したのは後にも先にもこのときだけでした。
つまり、このただ一回のために彼らは礼装を揃え、二度と着ることはなかったのです。

そういえば、67期の笹井醇一中尉が戦死して二階級特進全軍布告となったとき、
葬儀には嶋田繁太郎大将が弔問に訪れていましたが、その時の写真の祭壇の遺影は、
通常礼装姿だったのを思い出します。
あれはこのときの宮中参内に合わせて仕立てたものだったわけですね。

ちなみに祭壇の遺影が通常礼装の写真だったのはそのときだけで、ご両親は
遺影として、戦後有名になった航空学生時代のものを飾っておられたようです。
その方が息子らしい、と思ってのことだったでしょうか。

 

候補生たちはこの後、靖国神社を参拝しました。
先ほどの明治神宮参拝の時にはもう候補生のスタイルに戻っています。
越山候補生は1日勘違いをしていたようで、写真の説明には9-26と書かれていますが、
公式記録によると宮中参内と靖国神社が9月26日、明治神宮は9月27日となっています。




 
明治神宮の後のこの聖徳記念絵画館見学も、実は27日の間違いです。

都内はバスで移動したんですね。
例年東郷神社とか海軍会館、上野動物園などの見学?が組まれることもありますが、
この時にはこの後、目黒の海軍技術研究所を見学したようです。

当ブログでも当時の建物がそのまま残る敷地に潜入して写真をご紹介したことがあります。



ところで関東地方在住の方、この聖徳記念絵画館ってご存知ですか?
明治神宮の外苑に今でもあって、明治神宮の予算で維持管理されている、
明治天皇の生涯の事績を描いた歴史的・文化的にも貴重な絵画を展示するための美術館です。

教科書などに載っていて目にすることも多い

「王政復古」「五箇条の御誓文」「ポーツマス講和」「日露役日本海海戦」

などといった作品ですね。

銀杏並木の奥に威容を構える大変美しい建築物で重要文化財にも指定されていますが、
近年近隣に高層マンション建築の計画が起こり、これが経つと、銀杏並木の奥に見える
この建物のドームからにょっきりビルが突き出す形になるのだとか。

建設反対運動が起こっていると聞いたことがありますが、今どうなってることやら・・。





現在の聖徳記念絵画館。ライトアップしたところです。



この日付もおそらく29日の間違いであろうと思われます。

今の国会議事堂より柱とか経年劣化してないか?と思ったのですが、
建立年月日を調べてびっくりしました。
なんと竣工したのは昭和11(1936)年。
つまりまだできて3年しか経っていない、ほぼ新築の国会議事堂だったのです。

今の議事堂がこの時より綺麗に見えるのは、2008年から竣工以来初めての
大規模な修繕工事が行われたからで、このときは専用洗剤と高圧洗浄で外壁の汚れを落とし
コーティングを施す作業と、窓ガラスを枠ごと取り換える作業が行われたそうです。

それより、この写真ですが、議事堂前の広場で何をするでもなく立ち尽くす候補生たち。
全員がカメラマンの方を見ています。
越山生徒が議事堂の全景がフレームに入るところまでダーっとダッシュして、
同行のクラスメートを待たせいている間大急ぎでシャッターを切ったのでしょうか。

待たせているので少し焦ったせいか、議事堂の頂上が少し切れてしまっています(^O^)

そしてこの後、候補生たちが見学したのは日本放送協会、現在のNHKでした。
つまり、明治神宮からここまでの東京見学を9月27~9日の3日間かけて行ったのです。
それが済めば、嗚呼何たる親心、9月30日、10月1日と丸々二日間、彼らには

☆自由行動☆

が与えられたのでした(T_T)
この二日間で銀座に行って銀座ライオンでビールを飲んだり天国でてんぷら食べたり
(こっそり)初めてのレス体験をしたり、同期生の家で騒いだりして羽を伸ばしたわけですね。

そして10月2日、帰艦。
いよいよ横須賀から遠洋航海に向けて出航するのです。


続く。
 

 

「ザ・デストロイヤー」~駆逐艦「濱風」と前川万衛艦長

$
0
0

 

呉海軍墓地にある旧海軍艦艇の慰霊碑についてお話ししています。
駆逐艦「濱風」(濱は旧字体ですがここではこう記します」は、二代目で、
陽炎型の13番型として昭和16年浦賀船渠で竣工されました。

昭和16年11月26日、真珠湾攻撃のために単冠湾を出港したハワイ攻撃機動部隊の
「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」の6隻の空母
(『ファイナルカウントダウン』でオーエンス中佐が一生懸命言ってましたね)
を護衛するという華々しい初戦を飾り、ポートダーウィン機動作戦、
ジャワ南方機動作戦、セイロン作戦などにも参加しています。

ミッドウェー海戦では日本側は4隻の空母を失いますが、このとき「濱風」は
「蒼龍」の援護を行い、沈没した同空母の乗員を救出しました。



駆逐艦というのは敵を「駆逐する」、英語で「破壊する者(デストロイヤー)」
という名の通り、もともと「水雷艇を駆逐する」というのが存在意義です。

そういう意味でいうと、一等「陽炎」型駆逐艦の13番艦である「濱風」は、
その使命を最後の最後まで全うしきった駆逐艦であったというべきでしょう。

揚陸作戦においても、昭和17年8月には、ガナルカナル島に上陸した米軍を駆逐するため
陸軍一木支隊916名を「嵐」「荻風」「谷風」「浦風」「陽炎」らとともに
ガ島北岸太母岬に揚陸させ、その半年後にはガ島撤退作戦にも参加しています。

さらに「濱風」はコロンバンガラ島への陸兵揚陸にも携わった直後、
さらなる陸兵上陸を支援するために行われたコロンバンガラ夜戦で、
「神通」を取り囲み、寄ってたかって攻撃を加える敵艦隊を「雪風」らとともに
酸素魚雷を装填しながらじわじわと包囲し、艦隊ごと航行不能にしています。

このように、特にファンが多いと言われる陽炎型駆逐艦の中でも、艦これ的には
特に嫁にしたい駆逐艦ナンバーワンといわれているらしい「濱風」。
個人的には「島風」とともに「ザ・デストロイヤー」の称号を差し上げたいほどです。
 


しかし駆逐艦として戦い抜いたということは、同時に
次々と失われていく聯合艦隊の艦を見届けてきたということでもあります。

「濱風」の最後は、天一号作戦、坊之沖岬海戦で「大和」の護衛として出撃、
魚雷の命中によって轟沈を遂げるというものでしたが、

ミッドウェーで蒼龍の最後を見届ける
クラ湾夜戦で旗艦「新月」の最後を見届ける
コロンバンガラ海戦で旗艦「神通」の最後を(略)
撃沈された空母「飛鷹」の乗員を救出する
シブヤン海戦で「武蔵」の最後を見届け、800名の乗員を救助
回航中撃沈された「信濃」の救助を行う

という壮絶な歴史の目撃者ともなりました。

彼女が救出した人員は途方も無い数に上ります。
記録に残っているだけでも

戦艦「武蔵」  934名

戦艦「金剛」  146名

空母「信濃」  448名

輸送船「日竜丸」 36名

輸送船「安竜丸」 5名

これだけで約1500名強。
戦後設立された「濱風会」では救助人員をそう称していますが、
「蒼龍」「赤城」「飛鷹」駆逐艦「白露」の乗員については資料がないため、
おそらく合計でいうと3000名にはのぼるだろうと言われているのです。

さらに先ほどのガ島からの陸兵撤退、海軍特別陸戦隊の撤退を含めると、
この乗員300名の小さな駆逐艦が5000名の命を救ったことになります。


コロンバンガラ島夜戦で「神通」の仇を取ったあと、「濱風」は
ベララベラ海戦に参加して損傷したため呉に帰港してドック入りしますが、
このときに三代目艦長、前川万衛中佐(52期)が着任しました。
「濱風」の救助した人員数がここまで膨大になった原因は、どんな嵐の戦場でも
武運強く戦い抜き生き残った彼女の「運」に加えて、この前川艦長の着任にありました。
「濱風」溺者救助作業のほとんどは前川艦長が指揮を執っています。


冒頭挿絵ですが、どこを探しても前川中佐の写真が見つからなかったので、
「こんな人に違いない」という思い込みだけで想像似顔絵を描いてみました。
多分似てないに違いありませんが、いいんです(きっぱり)




アメリカ軍は徹底的に人命救助を重視しました。
一名の戦闘機搭乗員のためにカタリナ飛行艇を日本本土まで飛ばしていたくらいで、
沈む軍艦と運命を共にしなかった艦長を左遷するような日本海軍とはえらい違いです。
戦争のやり方も、有り余る物資と人を有しながらなお防御を重視するアメリカと、
防御は二の次で自分の命を盾にしてでも攻撃を成功させることを取る日本とでは、
これはもうどう考えても国力の無いほうが負けることは明らかでした。

どうして戦後の人間なら単なる一ブロガーにもわかるこの理屈が、
当時の日本軍において無視されてきたのかは、前にも言いましたが、
「軍人精神」という名の正常性バイアスがかかっていたからだとわたしは見ます。
まあこの辺りの論議についてはいつかまた日を改めるとして、
とにかくアメリカが人命重視を徹底したのは、そうしないと国民の戦争への
理解が得られないということと、なんといっても一人のスペシャリスト
(海軍艦艇に勤務する者は専門職である)を育てる時間とコストが勿体ないからです。
人を育てる労力は飛行機や船の生産などよりずっと大変だと知っていたからです。

日本の美しい言葉「勿体ない」が、こういうときに全くかえりみられなかったのは
実に勿体ないことだったというしかありません。 
まあ、切羽詰まって省みられるほどの余裕がなかったという事情もありますが・・・・。


それに、戦時、艦を停止して人員救助をしているところを敵に襲われ、
救助している方が何人も戦死した例は多く、一艦300名の命を預かる艦長としては、
敵が帰ってくる可能性の多い戦闘海域で行き脚を止めるという決断をするのは
それが駆逐艦の使命とはいえ大変な決断を要します。

つまり、「濱風」のように徹底的に溺者救助に命をかけたフネの方が少数派なのです。


しかも、前川艦長の救助方法は少し変わっていました。
マリアナ沖海戦のときには一般に駆逐艦が行う、短艇を使ってやる救助方法とは違って、

艦を風上に持っていって停止し、風の力だけで艦を漂流者のほうへ近づけていき、
風下舷の艦首から艦尾まで垂らしたロープを掴んだ生存者を引っ張りあげる

という方法で行いました。

まず、中央から後ろにかけての外舷にありったけの縄ばしごと、先端を輪にしたロープを
何十本も垂らし、探照灯を海上に照射して、漂流者のかたまりを目標にすると、
行き脚を止めて風の流れだけでそこにじわじわと近寄っていきます。
スクリューで人員を傷つけたりすることなく、艦の外周で同時に救助が行えます。
縄ばしごを自力で上がれるものは上がり、体力がないものはロープの先に体をくぐらせれば
甲板の「濱風」乗員が引っ張り上げてくれるというわけです。
海面から人がいなくなるともう少し艦を走らせ、発見すると再びスクリュー停止。

これを前川艦長は徹底的に、かつ執拗に行ったのです。
見張員が「海上に漂流者を認めず」と報告しても、「もう一度確認せよ」と返し、
一度では決して沈没地点の探索を切り上げることをしませんでした。
そして、救助の対象が一人、二人となってきても、見張員が声をあげるたび、
同じことを何度も繰り返し救助を続けたのです。

しかしこのやり方ではいつ敵に捕捉されるかわからず、気が気ではなくなる乗員もいました。
「濱風」の専任将校、武田光雄水雷長は、内心の不安からつい、

「艦長、もうそろそろこの辺で切り上げてはどうですか」

と急かすように具申したところ、作業の間中、椅子に腰掛けたまま泰然としていた艦長は
静かな口調でこう言ったそうです。

「水雷よ、ここに泳いでいる人達は、我々が助けねば誰も助けてくれないだろう。
それははっきりしている。 だが我々が救助の中で敵の攻撃を受けるかは、これは運だよ。
だったら最後の一人まで助けようではないか」 

武田水雷長はこのとき、今後は自分も艦長の言うとおりにやろうと心に決めたそうです。



「濱風」は最後まで救助中に敵に捕捉されることはありませんでした。



この前川万衛中佐が大尉時代のことです。
昭和10年に起こった「第4艦隊事件」のとき、乗り組んでいた
駆逐艦「夕霧」の艦首は、嵐の動揺によって切断されました。
同じように切断された「初雪」の艦首には機密が搭載されたため、
曳行が不可能とされた時点で第4艦隊はこれを雷撃で乗員もろとも沈めました。
「夕霧」艦首部も曳行が試みられましたが、やはり27名の下士官兵を乗せたまま
途中で沈没してしまったのでした。

「濱風」の航海長に、第4事件のことを話したとき、

「あの事件で大勢の兵隊たちを殺してから、俺は・・・」

と前川艦長は言葉を途切れさせたそうです。



冒頭写真の「濱風の碑」の後ろには、こんな文字が刻まれています。

「第二次大戦中作戦参加の最も多い栄光の駆逐艦であり、
数々の輝かしい戦果をあげると共に、空母蒼龍、飛龍、信濃、戦艦武蔵、
金剛、駆逐艦白露等の乗員救助及びガダルカナル島の陸軍の救助等、
人命救助の面でも活躍をして帝国海軍の記録を持った艦である。」



その「濱風」の最後の出航となった坊ノ岬沖海戦、「大和」特攻の前夜のことです。
「濱風」先任下士官が

「ネズミがロープを伝って陸上に上がっていくのを見ました」

と先任将校に小声で囁きました。
士官は先任下士に向かい、

「誰にも言うな」

と口止めしたと言いますが、実はこの不思議な現象はこの夜、
坊ノ岬沖海戦に次の日出撃する幾つかの他の艦でも目撃されていました。
動物の本能は、もうすぐ艦が沈むことまでを察知することができたようで、
事実「濱風」もこの海戦で戦没することになります。

「濱風」の最後は多くの生存者によって目撃されています。
4月6日、徳山を出港、7日、大隅諸島西方で敵機動部隊の攻撃を受け、
後部に大型爆弾が命中、航行不能となりました。
そこへ魚雷が船の中央部に大音響とともに命中したため、真っ二つとなって沈没したのです。


この慰霊碑の実に不思議な形は、彼女の最後の瞬間を想起させます。
轟沈した「濱風」の乗員は100名が戦死し、前川艦長始め256名が救出されました。 


横須賀出航~海軍兵学校67期の遠洋航海

$
0
0

昭和14年度に行われた海軍兵学校67期の卒業後遠洋航海について、続きです。
67期の卒業式は7月25日でした。
海軍省少尉候補生を命ぜられた248名のうち242名は練習艦隊に直ちに配乗。
教官、後輩、家族にロングサインで見送られて即日江田内を出航、
近海航海の途についたのでした。

各寄港地に入港すると必ず真っ先に「水路見学」があります。
寄港地行事はともかくもそれが終わった後に初めて行われます。

前回厳しさを増していた国際情勢について少しお話ししましたが、
アメリカとの関係をいうと、支那事変以来英国とともに関係は悪化しており、
遠洋航海出航翌日の7月26日に、突如日米通商航海条約の破棄を通告してきました。

アメリカ本土への寄港取りやめにより1ヶ月航海が短縮になったのは
英仏のドイツへの宣戦布告以上にこちらの原因が主だったかもしれません。

ヒットラーのドイツは前年の昭和13年にオーストリアを併合し、
ズデーデンに進駐したのに加え、その後強引にチェコ全土も併合、
さらにダンツィッヒに及び、ポーランド回廊問題の解決を迫ったため、
ポーランドはイギリスとの間に安全保障条約を結んでドイツの圧力に抵抗します。

ドイツはイタリアと同盟を結び、かつてこの三国で防衛協定を結んだ
日本に対して同盟を迫り、陸軍はこれを強硬に推進せんとしましたが、
三国同盟は対米戦争に通ずると見る海軍首脳はこれに反対したため、
平沼首相は70回余にわたる5相会議においてもこれを決定することはできませんでした。 

このような内外の情勢は発表されていたもの以外詳しく知る由もなかったのですが、
それでも状況の変化はひしひしと一層海の守りが重要となったことを告げ、
67期少尉候補生たちはそれぞれが心に一種の覚悟を決めつつ練習航海に出発したのでした。



横須賀から遠洋航海艦隊が出港しました。
海軍大臣、軍事参議官など、要路の顕官の盛大な見送りを受けての出航でした。
この遠洋航海は前にも書きましたが、石炭専焼艦による最後の航海となっただけでなく、
帝国海軍最後の外国練習航海となったのです。


ところで冒頭の写真で不思議なのは、こちら側の水兵さん軍団が冬の第1種軍装なのに、
出港する艦上で「帽振れ」をしている一団が夏服を着ているということです。
写真はどちらか片方の艦上から撮られたと思っていたのですが、もしかしたらこちらは岸で、
この写真はカメラマンによって撮られ、あとから配られたものなのかもしれません。


そしてこの上の写真ですが、大きめのボートに候補生らしき一団が乗っているようです。
「八雲」「磐手」は沖合に投錨していて、今から乗り移るということでしょうか。

そして横須賀に詳しい方がおられたら教えていただきたいのですが、この出港ドック、
山の位置から見て現在の米軍基地の、「ジョージ・ワシントン」が停泊している岸壁ではないでしょうか?

本練習艦隊には「磐手」「八雲」の他になんと給炭艦「知床」を随行していました。
燃料を積むための艦を連れて行ったというわけです。
しかしそれでも横須賀では「八雲」「磐手」の上甲板にさえ所狭しと石炭が搭載されました。


 

出港から二日後、艦隊は完全に外洋に出ました。
「磐手」(か『八雲』)の艦体に怒涛の波が叩きつけられます。
最初の航海は最大3,500浬航程のホノルルが目的地です。

「磐手」と「八雲」は姉妹艦で、日露戦争で活躍した排水量9800トン、
20センチ主砲4門の装甲巡洋艦です。
この写真にもその20センチ砲が少しだけ写っています。
速力は大変遅く、巡航速度は平常時速10キロくらいだったそうです。


それにしてもこれは貴重な写真ですね。
「八雲」(か『磐手』)の艦橋から砲塔を見ているわけですが、
砲塔の下に壁にピッタリ張り付いている作業服の乗組員(見張員?)が、
いかにもこわごわといった感じなのがこの距離からでもわかります。

外洋の揺れで候補生たちは皆居室で船酔いのため倒れてしまって、
「ガス室状態』(by『いせ』乗組員)になっていたかも、と思ったらやっぱり(笑)
67期の一人が戦後書いた追想記には、

「今まで経験しなかった大きなうねりを伴う荒天に、船酔いも相当発生した」

とあります。

何しろ明治時代の旧式艦なので、往々にして候補生たちは、配乗の際には
これで遠洋航海に出るのかとかすかな失望を隠せなかったそうですが、
必ず監事はそんな彼らに向かって、

「新鋭艦でも旧艦でも原理は同じである。本艦のことがわかればどの艦でも通用する」

と言うのが常でした。
どの旧軍艦もそうですが、「八雲」「磐手」の艦内はどこもかしこも手入れが行き届き、
老艦であっても真鍮などはピカピカに磨き上げられていたそうです。 






そういえば台風シーズンだったんですね。
怒涛の原因は海が低気圧で荒れていたからでしょう。
前を航行するのは「磐手」。
途中で司令官が「磐手」に座乗し旗艦が交代となりました。



低気圧が去った後の艦上で作業をする乗組員たち。
何をしているかはわかりませぬが、皆がデリックでラインを引っ張っています。

水兵たちの向こうにズボンの裾をまくりあげた士官が見えますが、
これが噂の「甲板士官」。(当ブログ「甲板士官のお仕事」参照)
上着が短いところを見ると、彼は候補生甲板士官のようです。

「甲板士官のお仕事」エントリを作成した時には、イマイチ士官のコスチュームというものを
わかっていなかったため、「作業服」をカーキ色で描いてしまっていますが、
これは白の間違いだと思っていただいて結構です。
基本的に候補生甲板士官は、軍装のズボンをまくりあげただけで作業していたようですね。

さて、兵科候補生の練習艦隊実習で最も鍛えられるのは天測とこの当直勤務です。
当直勤務は「副直士官勤務」ともいい、この二つは初級士官として必須の要件。
練習航海を通じて絶え間なく繰り返し演練指導されているうちに、
シーマンシップとともにある程度身についてくるものです。

このほか、甲板士官、内火艇指揮、分隊士事務・・・・。
航行中停泊中を問わず、先輩のガンルーム士官がつきっきりで指導してくれます。

この辺は海上自衛隊の練習艦隊に引き継がれていると思いますが如何。

越山候補生のアルバムもそうですが、練習艦隊の記録や遺された写真にたとえ
寄港地の行事が大部分を占めていたとしても、実習最大の項目は

「天測と当直」

がメインで、それを習得するのが目的でもあったのです。


ところでボートの上の方にごちゃごちゃと掛けられているのはなに?
まるでこれでは洗濯物・・・・・・、

 

と思ったらお洗濯の様子もちゃんと写しておいてくれています。
海軍軍人にとって洗濯は海軍に入った時から普通に任務の一つで、
兵学校の学生も自分のものは自分で、手洗いしていました。

今の江田島の幹部学校の校舎の屋上には、昔洗濯物干し場があって、
ここでは下級生は上級生に色々と「修正」されるポイントでもあったとか。
兵学校卒業生は、あの洗濯干し場を何かの機会に見ると、何とも言えない当時の
圧迫された下級生時代を思い出し、胸が苦しくなったものだそうです。 



写真はいきなり11月に飛んでいます。
このあと艦隊は出港して二週間後の10月20日にハワイに到着し滞在した後、
またおよそ2週間かけて太平洋航路を帰途に就くのですが、写真に書いている
「明治節」というのは11月3日で、これは太平洋上で何か式典を行った時のものでしょう。
「明治節」はご存知のように現在は「文化の日」となっています。

ちゃんと正装したところ(といってもいつもと同じ二種軍装ですが)を
艦尾の軍艦旗と一緒に撮った写真。

アルバムの主の越山候補生がシャッターを押したらしく、本人は写っていません。

10月の出港に夏の第2種軍装を着ていたのは遠洋航海は気候的に「夏」なので
第1種では暑い、ということだったのだろうと思われます。
彼らの帰国は12月であったので、第1種軍服と海軍マント、人によっては通常礼装まで、
これらを皆遠洋航海に持っていかなくてはいけなかったわけですが、ただでさえ
居住性に難のある明治時代の軍艦にこれはさぞ大変だったかと・・・。


そういえば小官が5月に晴海埠頭から見送った海上自衛隊の2014年度練習艦隊ですが、
そのとき純白の第1種夏服で出航していった彼らが、10月の帰国には冬服の第1種礼装で
「かしま」のタラップを降りてきたものです。
それを見て、「航海の荷物に冬服も持って行ったのか、大変だなあ」と思ったのですが、
考えたら全航海を通じてほとんど制服しか着ないわけだし、「かしま」は「八雲」「磐手」に比べると
居住性も東◯◯ンとマンダリンオリエンタルくらいの差で良かったはずなので、
きっと心配するほどのことはなかったに違いありません。


 さて、というところで今日最後の写真は、アルバムの主である越山澄尭少尉候補生。
正帽をちょっとラフに被って、このころの防暑服だった肩章つきの半袖半ズボンを着用。
そしてなんとサングラスをしているわけですが、
旧軍軍人のサングラス姿というのは、飛行隊員以外で初めて見たような気がします。

キャプションに「シケた後の間抜け面」とあります。 

少なくとも写真を見る我々には間抜けには見えないのですが、これはおそらく
ご本人が、散々海の時化で艦が翻弄され、グロッキーになっていたため、
サングラスの後ろはげっそりした顔であると自覚していたのかもしれません。

これがこのアルバムにあった唯一の一人での航海中の写真なのですが、
ご本人のコメントとはうらはらに、越山候補生、なかなかナイスではないですか。


さて次回、兵学校67期卒少尉候補生たちの遠洋航海シリーズ、
「ハワイ上陸編」に続く。 


 

海軍兵学校67期遠洋航海アルバムより~ハワイ訪問

$
0
0

海軍兵学校の練習航海を目的とする最初の海外派遣は、
明治8(1875)年、「筑波」に当時少尉候補生だった山本権兵衛を含む
47名を乗せて、サンフランシスコとホノルルを訪問したときのものです。

その後何度となく遠洋航海はハワイに寄港しましたが、この寄港が
契機となって、ハワイのカラカウア王が日本を訪問することになり、その後、
一層彼我の交流が密になった結果、移民の交渉を政府が行うまでになったのです。

ハワイに日系の移民がなぜ多かったかというと、こういう理由があったのですね。

しかしそこでふと考えてしまうのが、のちに日米が戦火を交えることになった時、
ハワイの日系人二世の多くが442部隊として祖国アメリカに忠誠を誓い、
直接ではないにせよ日本と戦うアメリカ軍兵士となったということです。

もし海軍がハワイに遠洋航海に行かず、橋渡しをすることがなければ、
移民の話も・・・、少なくともハワイ移民の数はもっと少なかったに違いありません。




この遠洋艦隊の艦隊司令官は沢本頼雄中将(兵36)でした。
「高雄」「日向」の艦長の後艦政本部を経て練習艦隊司令官になっています。

中将の両隣には海軍軍人のミニチュアがおります。
中将の右側にいるアメリカ人の息子たちでしょうか。


沢本中将は2年後の日米開戦には反対で、

「次官として開戦は承服しかねる、自信がないので次官を辞めさせてほしい」

と海相だった嶋田繁太郎に頼んだのですが、嶋田が沢本の大将昇進、
連合艦隊司令長官への就任をちらつかせたので、翻意してしまい、
戦後本人はこのことをずっと後悔することになったとのちに述懐しています。

海の民なら男なら、みんな一度は憧れるのが連合艦隊司令長官。
たとえそれがだめでも少なくとも大将にはなりたい。わかります。

井上茂美のようになりたくもないのになってしまう者が居る一方で、
自分の信念を翻してでも「大将」という位に執着してしまう者もいると・・・。
むしろこちらがほとんどであったと思われます。


写真の澤本中将の後ろには、綺麗どころがずらりと並んでおります。
これはオアフ在住の在留邦人(日系アメリカ人ではない)の夫人たちです。

昭和14年10月4日に横須賀を出港した練習艦隊は、10月13日に日付変更線を通過し、
18日にはホノルルに到着しました。




ホノルルに着いてすぐ、総領事館が歓迎会を催しました。
アメリカ人の好きな「バックヤードでの立食パーティ」だったようです。
時勢を反映してこのときの米海軍の接遇は最小限度の公式行事に止まりましたが、
その分、というのか、在留邦人の心温まる歓迎ぶりは熱狂的ですらあったといいます。
行く先々の村々で、趣向を凝らした歓迎会が行われたのはもちろんのこと、
自由行動となった候補生は、個人の邸宅に招かれて下にも置かない歓待を受けました。

「まあまあもう少しいいじゃないですか」

とかなんとか引き止められてなかなか帰してもらえず、帰艦時刻に遅れて
指導官付から大目玉を食らった候補生もいたそうです。



さて、領事館の写真をもう一度見てください。
こういうパーティでは満遍なく参加客と「社交」をするのが目的ですが、
どうやら士官候補生たちは候補生同士で固まってしまっていますよ(笑)
することがなくて腕組みをしている候補生も何人か居ますね。

彼らのこれまでの4年間の生活に「社交」を培う時間があったのかどうかを考えると無理もありませんが。



これはもう少し昔の候補生たちが、ホノルル商工会議所主催の
歓迎会に出席した時の様子ですが、どこが歓迎会?という感じ。
ただ候補生たちが集まって立っているだけにしか見えません。
やっぱり社交になってません。




「八雲」「磐手」がオアフ島に到着した時の写真です。
沿道にアメリカと日本の旗を打ち振って迎える住民あり。

手前のおばちゃんはありがちなアメリカ人体型です。
今はもっと凄いですが、この頃にもこんなアメリカ人いたんですね。
そういえばアメリカに駐在していた栗林忠道少佐(当時)は、
お掃除に来るおばちゃんにずけずけと体重を聞いていましたっけねえ。
たしか100キロ近くあるという話だったのですが、口の悪い栗林少佐、

「こんなに太ってるのに流行の髪型して滑稽だ。おまけによく喋る婆だ」

なんて書いてましたっけ。
このときに日本の旗を振ってインペリアル・ネイビーを迎えたアメリカ人たちは
わずかこの2年後にほかでもない海軍がここ真珠湾を攻撃したのをどう思ったでしょうか。

そしてこのときに沿道で迎えた少尉候補生の中の2名は(古野繁実、横山正治)そのとき
特殊潜航艇でハワイ湾に没し、「9軍神」と称えられたことを彼らは知る由もなかったでしょう。

ところでこの写真の手前に犬がいますが、このころはハワイにも野良犬がいたのでしょうか。




一行はオアフ島のワイパフという地域(砂糖のプランテーションがあった)で
「フラ踊」、フラダンスを見物したようです。

真ん中のフラダンサーはどう見ても日本人の顔をしているのですが、
日系のダンサーで、このためにわざわざ呼ばれたのかもしれません。



フラダンス鑑賞中。

♪ あろ~は~おえ~あろ~は~おえ~♪



この日は同時に島巡りをしたらしく、同じ日付で

「ヌアヌパリ」より「カネオヘ」湾を望む

とあります。
ヌアヌパリはオアフ島の右下の山頂にある展望ゾーンで、そこからは
カネオヘ湾が見えるのですが、ご存知のようにカネオヘには海軍基地があり、
海軍航空隊の飯田房太大尉が2年後の12月7日に突入することになります。

映画「ハワイ・マレー沖海戦」では格納庫のようなところに突っ込み
自爆したと描かれていましたが、実際は格納庫に突っ込む途中、
妻帯士官宿舎付近の舗装道路に激突して死亡しており、現在その地点には記念碑があります。

記念碑に海軍の旧搭乗員たちが花を贈呈している写真がありますが、
記念碑の後ろにはプレイヤード、つまり子供用の遊具のあるコーナーとなっていて、
こんなところに子供の遊び場を作るかー、と不思議な感じがしました。



オアフの島内観光のあと、一行はハワイ島に渡りました。
ここに次の目的地である「ヒロ」があります。
移動の列車車中での候補生御一行様。
島内の案内係には現地在住の若い女性が選ばれて同行したのですが、
今まで女人禁制の生徒生活を送ってきた彼らは、卒業した途端にこのような
計らいをされてさぞかし心が浮き立ったのではないかと思われます。
女性の近くに座っている候補生たちの表情に照れのようなものが見えます。

ちなみに彼らが「お遊びデビュー」となるのは士官に任官した後。
士官候補生の間はまだ「修行中」ということでレスなどの出入りは禁じられています。
エス(芸者)を揚げてお酒、などというドキドキワクワク体験も任官までの辛抱です。



ハワイ島にはキラウェア火山一体の国立公園があります。
わたしは新婚旅行がマウイだったのですが、そのときにこのような植物園に行き、
日本では見ることのない不思議な形をしたシダに目を見張ったものでした。
このときの士官候補生たちも、ああいった原生林のようなところを歩いたのかと思うと
何か不思議な気がします。



硫黄の噴出するところを見学したようです。
候補生全員がマントを着用しています。
帰国が12月になるため、マントも持ってきたようで、白の軍装に
灰がかかっては後が面倒なので、冬用マントを利用したんですね。
問題は軍帽ですが、こちらは今のようにビニールのキャップもないしどうしたのかなあ。 




キラウェア火山は「世界で一番安全な活火山」と言われています。
何となれば大抵は爆発的な噴火ではなく、溶岩を流出するタイプの噴火を行うためで、
流出した溶岩は粘度が低いため、最初地表を伝い、表面が冷え固まった後も
地下の溶岩チューブなどを伝って流れ続け、海岸線を広げるだけだそうです。

そしてその火口を見学する下士官と水兵さんたち。


「八雲」「磐手」は一時期練習艦隊艦として毎年のように遠洋航海に行きましたが、
その他練習艦となった「香取」「浅間」「鹿島」の乗組員に配置された下士官兵は
結構「ラッキー!」と喜んだのではなかったでしょうか。
何しろ外国に行く遠洋航海があるために兵学校を目指すという若者も多かったというくらい、
海外をこの目で見るというのは当時の日本人にとって特殊なことだったのですから。

ところで、今これを書きながら気付いたのですが、旧軍時代「鹿島」が練習艦であったので、
現在の練習艦も名前を引き継いで「かしま」となったんですね。
あ、そういえば練習艦「かとり」もあったっけ!




ヒロでの、すなわちハワイでの最後の行事がキラウェア観光だったようです。
ヒロに入港した時には、港内の漁船は全てアメリカ国旗、日本国旗、海軍旗を
マストに揚げて艦隊を迎えたのだそうです。



このときに残された候補生たちとヒロ在住邦人の婦人たちの写真。
「夫人」とキャプションにはありましたが、皆若くて独身のお嬢さんもいそうな・・。
全員がここぞとばかりにオシャレしているように見えるのは気のせいでしょうか。

ヒロはホノルルと違って軍官施設はほとんどなく、在留邦人が多く住んでいる島でした。
しかも日本海軍艦船の訪問は10年ぶりということで、彼らの観劇もひとしおであったらしく、
練習艦隊はホノルルにも勝る熱のこもった歓迎を受けました。

「アットホーム」と称する艦内での歓迎レセプションがどちらでも開かれたそうですが、
この女性たちはそれに参加したのに違いありません。(だからお洒落してるんですねきっと)



10月28日、ヒロを出た後は太平洋をひた航行(はし)り、ヤルートを目指します。
つまりまっすぐ日本に向かうのではなく、赤道直下のマーシャル諸島まで南下すると。
まあハワイそのものが日本よりかなり緯度は赤道に近いので、
さらにちょっと南に下ってから帰国するというルートを取ったようなのですが。



観光地では士官候補生仲間よりも下士官兵がよく被写体になっていた越山候補生の写真ですが、
彼ら艦隊勤務の下士官兵の仕事は主に重労働です。
ホノルル埠頭で石炭を積み込んでいる乗組員と現地の職人。
おそらくですが下士官兵が上陸して観光できるのは休みの日だけだったのではないでしょうか。


候補生たちももちろん、この作業中見ているわけではありません。
行事の合間を縫って随伴入港した「知床」から、1日がかりで載炭を行いました。
これをすると耳の穴の中まで真っ黒になるのだそうですが、ピッチ?でかぶれた顔を
洗うのもそこそこに、夜には歓迎行事に出かける毎日だったということです。



いよいよハワイを出港するときがきました。
ホノルルには10月23日までの5日間、ヒロには28日までの4日間の滞在でした。

埠頭で見送る人たちと艦上からそれに答えて帽子を振る乗組員たち。
つまり練習艦隊がハワイに滞在したのはたった10日間ということになります。

彼らのうち一人がこのハワイでのことをこう書き記しています。

「やがて日米海軍が戦場で相見ゆる日も近いと予期していた我々の、
真珠湾や米艦船を遠望する眼差しは真剣であった」

幾度かこのブログでも書きましたが、この遠洋航海で「八雲」と「磐手」が
ホノルル湾に着いた時、士官候補生たちに向かってその分隊の監事が

「お前たちのうちの何人かは近いうちにここにもう一度帰ってくるから
できるものはスケッチしておくがよい」

と命じ、言われたうちの何人かが薄暗いその湾をスケッチしたとされます。
実際には直接「帰って来た」のは特殊潜航艇に乗っていた2名、
そして千島列島を出発した6隻の空母にも、その直前に中尉となっていた67期生は
何人もが乗り組んでいたことと思われます。

彼らはそのとき、この楽しかったハワイの10日間のことを思い出したでしょうか。


続きます。 

 










「球磨」慰霊碑の「球」

$
0
0

呉海軍墓地の慰霊碑を元に日本海軍軍艦や海軍部隊を紹介していく
「呉海軍墓地シリーズ」、今日は重巡と軽巡を三隻ご紹介します。 

まずは傑作と言われた大正年間のこの巡洋艦から。

重巡洋艦「加古」慰霊碑。

石碑の揮毫は最後の艦長となった高橋雄次大佐によるものです。

「加古」って加古川の加古だろ?重巡なのに「加古」っておかしくね?

と思われた方、あなたは鋭い。
「重巡は山、軽巡は川の名前」という海軍艦艇の命名基準に例外が出てきてしまいました。

この変則にはワシントン軍縮会議が関係しています。
「加古」は「川内型」軽巡の4番艦となる予定で建造されかけていたのですが、
ワシントン条約を受けて一旦建造中止になってから、あらためて工事が再開され、
さらにその後”ある事情”で名称だけはそのままに一等巡洋艦となったので、
重巡でありながら川の名前を持つことになったということです。

その”ある事情”についてはご存知の方はご存知だと思いますが、のちのエントリで
くわし~~くお話しするつもりですので、今はスルーしておいてください(笑) 

「加古」は「古鷹」型の第1艦です。

「1番艦なら『加古』がネームシップだろ?なぜ『古鷹型』じゃないんだ?」

と思われた方、あなたも鋭い。
もともとこの型は「加古型」となるはずだったのですが、「加古」竣工が事故で遅れたためです。
竣工直前にクレーンで艦体を損傷したのが原因だそうです。

2番艦の「古鷹」とともに、造船界の鬼才平賀譲中将が着想し、
ワシントン条約の制限下、いかに少ないトン数でどれだけ重武装を備えるか、
という要求に応えるべく技術陣が総力を絞った造船史に残る傑作艦艇の一つ。

必要は発明の母という言葉がつい浮かんできますね。

また後で「加古」を除いた「古鷹」「青葉」「衣笠」という
「山三人娘」について詳しくお話しするつもりですが、
(なぜハブったかというと、エントリのタイトルの関係上)
この4隻で、五島存知少将を司令とする第6戦隊に編入された「加古」は、
この体制で開戦を迎えています。

1942年8月8日、「加古」は第6戦隊の姉妹、従姉妹たち4隻と
第1次ソロモン海戦と名付けられた夜戦で連合軍の重巡4隻を撃沈しています。

昔、「重巡洋艦アストリア号の運んだもの」というエントリで、
駐米大使斎藤博の遺骨を日本に運んできた重巡「アストリア」が、ほかでもない
その日本の手によって屠られ戦没した、という縁についてお話ししたことがあります。
このとき重巡「アストリア」に止めをさしたのが、重巡「加古」でした。

「アストリア」だけでなく、「ヴィンセンス」「クィンシー」「キャンベラ」と
次々に敵艦を撃破し、この海戦で最も活躍した殊勲艦は「加古」だったのですが、
その帰路、旗艦「青葉」の後方800mを航行しながらニューアイルランド島北方まで来たとき、
米潜水艦「S-44」に捕捉され、右舷艦首に1本、右舷中部と後部に各1本ずつ魚雷が命中。

右舷側に大傾斜し、67名の乗員とともに沈没しました。

被雷直前に乗員の疲労が激しいことを見て取った副長が、艦長の許可を得て
換気のために舷窓を開けさせたことが、早い沈没につながった言われます。


これに遡ること開戦前、英海軍の重巡「サフォーク」が、英国王室のヘンリー王子の
親善訪問のために来日した時、これを迎えたのは「加古」と「古鷹」でした。
このとき、交流のため日英の乗員たちは、互いの艦を見学し合いましたが、
「加古」を見学したイギリス海軍士官は、

「斯うした窮屈な艦を日本が造り得るのは、せいぜいあと十年だらう。
今に国民の生活程度が向上して、こんな住居(すまゐ)には堪えられなくなる時が
日本にもやがて来るに違ひない。」

と感想を書き残しています。
つまり生活程度が低いから居住区が狭くとも平気なのだろうと言っとるわけですね。

この士官が「せいぜい10年たてば耐えられなくなるので居住区は広くなる」
と予言したのは昭和4年のことでした。
「加古」が沈没したときにはすでに13年が経っていたわけですが、この間できた艦も
広さという点ではあまり変わりがなかったようです。


しかし「加古」の沈没を早めたのが

「居住区が狭く空気が悪かったので舷窓を開けざるを得なかった」

ということなのだとしたら、軍艦の機能そのものには関係なく、二の次三の次にされた
「居住性」が実は大きな欠陥だったという結果になります。
こればかりはさしもの平賀先生も予想していなかったに違いありません。


碑文を書いた艦長の高橋雄次元大佐は、このとき他の650名の乗員とともに救助されました。
 



軽巡洋艦「鬼怒」


 「鬼怒」は「長良」型軽巡の5番艦です。
大正年間に建造され、1932年には海軍機関学校の練習艦になったりして、
比較的まったりと過ごしていたのですが、開戦するやいなや「鬼怒」は
第2潜水戦隊の旗艦として潜水艦8隻を従え、マレー作戦、蘭印作戦、ジャワ作戦と
矢継ぎ早に駆り出されることになります。

その後、「長良」「五十鈴」「名取」と共に第16戦隊に編入、旗艦となり、
ニューギニア西武各地の攻略及び掃討戦に従事しました。

途中で主砲の換装なども行われているのですが、老朽艦のせいなのか、なぜか
魚雷発射管の換装だけはしてもらえず、最後まで90式魚雷を搭載していました。

お年寄りなのに・・・・ってお年寄りだったからかしら。


「鬼怒」は昭和19年10月、サボ沖海戦で大破した重巡「青葉」をマニラまで曳航し、
そのあと陸兵をレイテ島まで増援輸送に成功しましたが、その帰途、
米軍第7艦隊空母搭載機の攻撃により、3発の命中弾と多数の至近弾により
艦体を蜂の巣のような穴だらけにされ、戦死者440名と共に海に沈んでいきました。

「鬼怒」の生存者を救出するために現場に急行していた駆逐艦「不知火」も、
このときパナイ島沖で撃沈されています。

しかし沈没まで2時間半と時間があったため、生存者はちょうど現場を通りかかった
第一輸送隊の輸送艦3隻に救助されました。

このとき救助された中に、戦後ビハール号事件(捕虜殺害事件)
の責任を負わされ、戦犯として処刑された左近允尚敏中将がいます。
 



ここにもある「世界人類が平和でありますように」の杭。
前にこれを見たのはボストンのウェルズリー大学のキャンパスでした。
(いまだにこの正体は謎・・・・誰かご存知ですか)



軽巡洋艦「球磨」慰霊碑。


「若い時(竣工当時)は「長門」すら上回る快速を誇ったもんじゃ。
ちなみに「長門」は8万馬力のところ、こちら9万馬力だったんじゃよ」
(日本昔話ナレーターの声で)

先ほど「鬼怒」にお年寄りなどと言ってしまいましたが、
それでいうとこちらの「球磨」も大正9年就役で、大戦末期にはかなりのお歳でした。
というわけで「キヌさん」「クマさん」ともども、老体に鞭打って、
美容整形改装を施して超若返り大東亜戦争に参加していますが、このときのクマさん、
装備を乗せられすぎて、かつての快速もヨタヨタ状態になってしまっていました。

お年寄りはいたわりましょう(T_T)

「球磨」はフィリピンで陸軍川口支隊、河村支隊の上陸を援護するなどし、
改修後は主に蘭印で活動していましたが、昭和19年の1月、

イギリス海軍のツタンカーメン級潜水艦「タリホー」

に捕捉され魚雷を2発受けて沈没しました。
本筋ではないのですが、この艦名って、等級も含めなんか変じゃないですか?
「Tally-Ho」
と書いてたりほーと読む。
中国人の名前かと思ったら、イギリスらしくキツネ狩りの時にかける掛け声だとか。

イギリス海軍の艦名は地名、人名の他に無理やり作ったみたいな名前も結構あり、
「アタッカー」級空母には「ハンター」「ストライカー」「アベンジャー」にならんで
「バイター」(噛む人)なんて、日本では到底受け入れられない響きのものや、 
「ストーカー」なんて今では残念な意味しかない空母もいたようで。

・・・ていうかいやだなあ空母「ストーカー」って。 

まあイギリス人から見れば「球磨」型の「KUMA 」「TAMA」「OI」とか、
そんな変な名前つけるお前らに言われたくねえというものかもしれませんが。

(ちなみに今回英艦艇の名称を見ていて「エイコーン」(どんぐり)というのがあり
思わず笑いかけたのですが、我が海軍には「椎」(改松型橘)があったんだったorz
どこの海軍も艦名が出尽すと苦労している模様)


ちなみにこのとき「球磨」は駆逐艦「浦波」とともに対潜訓練をするところでした。
潜水艦タリ・ホーの攻撃によって訓練が実戦になってしまったのです。
いや、訓練が間に合わなかったと考えるべきでしょうか。
敵の来襲があったとき

「これは訓練にあらず!」

という言葉が使われたかどうかが気になりますね。(わたしだけかな)

この沈没で、「球磨」乗員138名が戦死しましたが、杉野修一艦長を含む生存者は
一緒に対潜訓練をしていた(というかする予定だった)「浦波」に救助されました。

この杉野艦長は「杉野は何処」と歌にもなった、あの杉野孫七兵曹の息子です。
杉野兵曹の遺児二人は海軍兵学校をでて士官となりましたが、海軍に進むことは
閉塞作戦前に遺された父親の遺言に書いてあったことだそうです。

長男の修一はこのあと「長門」の艦長(大佐)で終戦を迎え、次男の健次も
なぜか同じ大佐で終戦を迎えています。



ところで、冒頭の写真はこの「球磨」の慰霊碑の中心に据えられた「球」。
それは「磨かれた球」、すなわち「球磨」そのものなのです。

「球磨」をそっと包み込むような形のオブジェは掌を象っており、
この艦に乗って戦い、そして命を失った乗員たちの魂をあたかも守っているようです。









Viewing all 2815 articles
Browse latest View live