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「手首ヨリバッサ、バッサト斬リ捨テ」〜「戦艦大和ノ最後」

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日本海海戦シリーズの最中ですが。急遽内容を変更してお送りします。

先日、「三笠刀」について書いたところ、コメント欄に

「大和関係の本で溺者救助の時にバッタバッタと溺者を
その軍刀で斬るシーンがあったのを思い出しましたが」

という一文が寄せられました。
そのことそのものを話題にしたのではなく、あくまでも刀の切れ味についての感想でしたが、
これを掲載し、わたしが「そういえばそんな内容の小説もあった」と返答したところ、
それに対し、「待った」の声が一つならず寄せられました。

このコメント欄の「大和関係の本」が吉田満著「戦艦大和ノ最後」であることを前提として、
少しこの寄せられたコメントなどを紹介させていただくことにしました。


まず、問題の部分ですが、このような一文ですね。

「初霜」救助艇ニ拾(ひろ)ハレタル砲術士、洩(も)ラシテ言フ
救助艇忽(たちま)チニ漂流者を満載、ナオモ追加スル一方ニテ、
危険状態ニ陥ル 更ニ拾集セバ転覆避ケ難(がた)ク、
全員空(むな)シク海ノ藻屑(もくず)トナラン、

シカモ船ベリニカカル手ハイヨイヨ多ク、ソノ力激シク、
艇ノ傾斜、放置ヲ許サザル状況ニ至ル、

ココニ艇指揮オヨビ乗組下士官、用意ノ日本刀ノ鞘ヲ払ヒ、
犇(ひし)メク腕ヲ、手首ヨリバッサ、バッサト斬リ捨テ、
マタハ足蹴(あしげ)ニカケテ突キ落トス、 

セメテ、スデニ救助艇ニアル者ヲ救ハントノ苦肉ノ策ナルモ、
斬ラルルヤ敢(あ)ヘナクノケゾッテ堕(お)チユク、
ソノ顔、ソノ眼光、瞼(まぶた)ヨリ終生消エ難カラン、
剣ヲ揮(ふる)フ身モ、顔面蒼白、脂汗滴(したた)リ、
喘(あえ)ギツツ船ベリヲ走リ廻ル 今生ノ地獄絵ナリ


この部分は、そのショッキングさからかなり後世の耳目を集めたようです。
まず、ある方のコメントからどうぞ。

「初めてこの本を読んだとき、わたしも愛する海軍で
そのような行為があったとは俄に は信じがたいと思った一方で、
戦時下に起きる生々しい事実なのかと思うところで した。

しかしこの件については第二艦隊関係者や大和生存者から
多くの反論が寄せられてい ることを指摘しておきます。
吉田も一連の著作はあくまで「小説」と述べていたようです。」


そして、そのうち二通のコメントが、この件を否定するサイトをご紹介くださっています。

吉田満著「戦艦大和の最後」の虚構と真実

この部分について書かれている部分はこのようなもの。
抜粋ですので、全文はぜひサイトでお確かめください。


士官は短剣を常用し、海軍下士官は軍規上軍刀を元々持てないし佩用出来ない。
「乗組下士官、用意ノ日本刀ノ鞘ヲ払ヒ・・・」は明白且つ重大な誤りである。

救助員に軍刀は邪魔物以外の何物でも無い。
冷静に考えればあり得ない話しである。

著者自身は学徒兵であり海軍そのものを良く理解していた訳では無い。
内火艇・橈艇とその構造をみれば、波や漂流者が掴まろうとして 動揺する内火艇・橈艇の「船ベリヲ走リ廻ル」とはサーカスの曲芸と云ってよい。                         
これが、救助された砲術士の発言であったとしたら余計に信じ難い事になる。 海軍を知る者としての発言とはとても思えない。
直ぐに虚構と判る供述を何故敢えてしたのか ?   
戦後、意図的に日本を辱めようとした元軍人達
(俗に云う懺悔(ざんげ)組)の例は枚挙に暇(いとま)がない

また、別の方からはこのようなサイトのURLをいただいています。

三井田孝欧議員のブログ「納豆人生」

戦艦大和ノ最期』にはこうある。

「用意ノ日本刀ノ鞘(さや)ヲ払ヒ、犇(ひし)メク腕ヲ、
手首ヨリ バッサ、バッサト斬リ捨テ、マタハ足蹴ニカケテ突キ落トス」

「大和」沈没後、付近の海域の救助に向かったのは「冬月」「初霜」。
著者の故・吉田満氏によれば、
「初霜」の救助艇に救われた砲術士の目撃談として紹介しており、
救助艇が生存者で満杯となったものの、乗り切れない生存者が船べりを掴んだので、
下士官が掴んだ手首を次々と切り落としたというのである。

著者の故・吉田満氏は、「大和」に電測士、いまでいうレーダー担当者として乗り込み、
沈没後は「冬月」に救助された。
『戦艦大和ノ最期』に書かれた指揮官に該当する人はまだご存命である。
「初霜」の通信士で、救助のための内火艇の指揮を務めた松井一彦氏その人。

松井氏によれば、

・「初霜」の内火艇は「矢矧(やはぎ)」の救助に向かったそうである。
また、「大和」を護衛して沖縄を目指したものの「大和」沈没により
帰投中であった「雪風」に救出された、「大和」乗組員の八杉康夫氏によれば、
・這い上がってくる仲間の手首を軍刀で切るなどありえないと証言する。

生き残った「大和」乗組員の重傷者は、佐世保の海軍病院、軽傷者は
浦頭の検疫所に運ばれたが、どこからもそのような話は聞いていないという。
前述の松井氏も「雪風」「冬月」関係者に聞いたが、そんな話はないとのこと。

そもそも、内火艇は、船べりが高く、海面から手を伸ばしても届かない。
ロープを投げ、引き寄せて救助するのである。
映画の救助シーンでもそうであったし、海軍の溺者救助、
漂流者救助のマニュアルにもロープを使う旨記載してある。

また、内火艇は羅針盤があり、軍刀は磁気に影響するので、持ち込まない。
しかも海軍の士官は、軍刀は常時携行しない。
ただ、沖縄決戦を想定していたので、
米軍との白兵戦に備えての軍刀が駆逐艦のなかにあったのは事実である。

では、救助に向かった船が違うものであったとしたらどうであろうか。
海面から手を伸ばして手首が見える高さの船べり、つまり簡易な救助艇を想定する。
軍刀も良く切れるものを持っていたとする。
すでに船のなかは生存者で満杯。
戦時下の沈没にともなう救助であり、生存者は当然、重油まみれである。
そんななか、軍刀を振り回し、次々と手首を切り落としていくことは可能であろうか。

この件については、松井氏のみならず、旧海軍の親睦団体「水交会」からも
「初霜」乗組員を中心に「訂正すべし」の声があがっている。

『戦艦大和ノ最期』のなかでは、その他のことについても「訂正」の声がある。
レーダー担当者であった故・吉田満氏の勤務場所は艦橋。
とてつもなく巨大な「戦艦 大和」のほかの部署のことも書いてあるが、
本人が直接体験したものではなく、伝聞によると考えるのが通常であろう。

故・吉田満氏が『戦艦大和ノ最期』を書いたのは1946年。
軍国主義の復古だとしてGHQの検閲により出版できず、
発表は1952年になったものの、書いたのは終戦直後。
電話もなく、生存者の住所も分からなくなっているなか、
取材をどう行ったのかは不明である。

また、当初のタイトルは「小説・軍艦大和」であり、ノンフィクションではないとしている。
著者の吉田満氏がすでに鬼籍(昭和54年9月17日、56歳で死去)に入っているので、
本人による訂正はできない以上、今後、出版社は
『戦艦大和ノ最期』をあくまで小説であると紹介してほしい。



なるほど。

実に論旨ののすっきりとした検証です。

「愛する海軍でそのようなことがあったとは俄かに信じがたい」

という情緒的とも言える疑問はもとより、わたしも
言われてみれば共に死のうと決めた同じ船の仲間を
そんな極限状況であってもこのような方法で殺めるなど、

果たして日本人にできるであろうか?

とこれまた情緒的にに思わずにはいられません。

このコメントを戴いたとき、最初に思い出したのが、吉村昭著
「海の棺」という戦記小説でした。


ある漁村で、その沖で戦没した艦艇の乗組員の死体が多量に流れ着く。
不思議なことに、その死体のいずれもが二の腕から先が無かった、
という導入で始まるものです。

「船艇に乗ったのは将校のみですね」
「おもにそうです。従兵と機関兵もいましたが・・・・・」

「切りましたか」
私は、たずねた。
「なにをですか」
かれは、いぶかしそうに私を見つめた。
「兵士の腕です」
男は一瞬放心したような目をした。
そして徐に視線を落としたが、あげた顔には妙な笑いが薄く漂っていた。
「私は、切りませんよ。
暗号書を抱いて船艇の真ん中に坐っていたのですから・・・・」
かれの微笑は、深まった。
「切った将校もいたのですね」
と、私。
「いました」
と、彼。
「船につかまってくるからですか」
と、私。
「船べりに手が重なってきました。
三角波に加えて周囲から手で押されるので、船艇は激しく揺れました。
乗ってくれば沈むということよりも、船べりを覆った手が恐ろしくてなりませんでした。
海面は兵の体でうずまり、その中に三隻の船艇がはさまっていました。
他の船艇で将校が一斉に軍刀を抜き、
私の乗っていたフネでも軍刀が抜かれました。
手に対する恐怖感が、軍刀をふるわせたのです。
切っても切っても、また新たな手がつかまってきました」
「あなたは、なにもなさらなかったのですか」
「靴で蹴っただけです」


「海の棺」からの抜粋です。
このとき撃沈した艦船というのは占守島から出発し沖縄に向かう輸送船でした。
根室沖合で護衛の海防艦が敵潜水艦に撃沈され、さらに
輸送船も次々と餌食になった、という設定です。

さらに、ここで長刀を振るい船艇に縋ってくる溺者を切るのは、
全て陸軍の軍人ということになっています。

戦後の人間がこれを読む限り、海軍と違って陸軍軍人であれば
海での非常時にすべきこと、助かるすべ知らない陸軍であれば
このような惨事になることもあったのかもしれないと思えますし、
いつも長刀を佩している陸軍将校がこのようなことをやりかねない、
というイメージを戦後の一般人にあらたに植え付けるに十分な記述です。

陸軍だからやりかねないというのか、このようなことをするから陸軍だと思うのか、
いずれにせよそこには戦後の

「絶対悪としての軍」

を上からあくどい色でなぞるような情報操作の匂いがします。


この話は、この吉田満氏の記述にインスピレーションを得て創作されたのではないか、
という気がしてならないのですが、いかにも「隠された真実の暴露」
といった調子で描かれているあたりに、タチの悪さを感じないでもありません。

今回、読者の方から戴いたコメントの中にも、貴重な証言があります。

この方が実際に「大和」に乗っていた生存者(矢矧航海長であった池田武邦氏)
に直接このことを尋ねたところ、明確に否定されていた、というものです。


それでは、大和が沈没した後、海中に投げ出された乗員の証言をいくつか挙げて、
このときの空気の片鱗だけでも想像してみることにしましょう。

冒頭に写真を挙げた「戦艦大和の最後」。
こちらは高角砲員であった坪井平次氏の著作です。

ここから、海中を漂流していたときの記述を抜粋してみます。

むろん、戦ったのは、なにも私一人ではない。
いま、この海面に浮いている戦友は、みんな、
それぞれ死中に活を得た者ばかりである。
なかには負傷し、その痛さや苦しさに耐え、
血を流しながら漂流している気の毒なものもあるかもわからないのだ。
それを思えば、さいわいに私の体は傷らしい傷は受けていないようである。
どこも痛まないし、関節も不自由なく動いている。
水中に漂流をはじめたのもみんな同じだ。
苦しいのはみんな一緒である。
今へこたれたらおしまいだ、と決意をあらたにしたそのとき、

「オーイ駆逐艦が来てくれたぞ」とだれかが叫んだ。
「『雪風』がきてくれるぞ」
「『冬月』も来てくれた!」
「オーイ、ありがとう。頼むぞ」
「オーイ、オーイ」
とたんに、いままでの不安感が消えて、ふつふつと気力が涌いてきた。


著者は『雪風』のロープに手をかけて引っ張り上げてもらい、一命を救われました。

また、「男たちの大和」(逸見じゅん著)から、いくつかのシーンをご覧ください。


■火薬缶に取りすがって見渡すと、大きなうねりと重油の漂う海ばかりだった。
「おれ一人か・・・」
ぼんやりとうねりのかなたを眺めながら、一人なら一人でよいと思った。
うねりに乗って見回すと、黒い頭がポツリ、ポツリと見えた。
「集まれ、集まれ」
海面をはうように声が聞こえた。

静かな、あきらめと言った気持が漂い始めた。
生きたくもなければ死にたくもない。
怖ろしくもなければ、一人でいるのが寂しくもない。
寒くもなく、痛くもない。
不思議な心持がひたひたと押し寄せた。

三笠は敵の機銃掃射を目撃していない。
不意に、東の水平線にマストが一本見えた。
その左にもまた、一本、見えた。
やがて艦橋が見え、甲板が姿をあらわした。
「駆逐艦だ・・・・・」
味方の駆逐艦が生き残っていたのだ。
熱いものがこみあげ、マストに翻る軍艦旗がぼやけた。

■「助けてくれッ・・・・」と思わず叫んでいた。
八杉は目の前に高射長を見つけ、なんということを叫んでしまったのだと
自己嫌悪にかられた。
「高射長・・・・・・」
八杉はひきつった声になった。叱られる。
しかし死にたくないという思いがこみあげた。

「落ち着いて、落ち着いて、そーら、大丈夫、これにつかまるんだよ」
高射長は脇に抱えていた円材を八杉のほうに押し流した。
「さあ、もう大丈夫。がんばるんだ。がんばって生きるんだよ」
「高射長・・・・」

ふたたび高射長を観たのは駆逐艦がカッターをおろし、
近くの漂流者を救助し始めてからだ。
我先にと駆逐艦にむらがる者たちの中で、高射長は一人漂っていた。
「高射長ッ・・・・」
八杉は幾度も声を挙げた。
その声に一度顔を向けたようだったが、急に体をめぐらすと
駆逐艦とは別の方向にむかうようにその姿は消えた。

■八杉もまた、駆逐艦のおろすロープを奪いあう人の群れを見た、
ロープを体に巻きつけようやく水面が離れた者の足を、
引き下ろすようにしてすがる。
戦闘のときではなく、この救助のときに、生まれて初めて地獄を見た。
死ぬとはもう思わなかった。殺されると思った。

■八杉の足は舷側にかかったまま滑った。
甲板上の兵は顔を真っ赤にして足をハンドレールにかけ、
弓なりになってロープをひく。
甲板の兵は八杉の体を抱きかかえ、後ろにのけぞった。
一瞬、八杉の体はハンドレールを超えた。
抱き合って二人とも甲板上に転がった。
「バカ野郎!」
兵は泣きながら、八杉の横面を殴った。
よろける八杉を引き起こし、「よかったな、おまえ、よかった・・・」
といって、また殴った。
八杉は目を涙でいっぱいにして、「ありがとう、ありがとう」と繰り返した。
八杉が海軍に入り、殴られてうれしいと思ったのは、この時が初めてであった。



諦めと無気力、助かろうとする者の本能と、その本能の生み出す地獄。
その中でも他を思いやり莞爾と死んでいく者、誰かを助けようとする者。

およそ考えうる極限状況のあらゆる人間のさまがそこにあります。

であるゆえに、「小説」を書いた吉田満は、自分が目撃した事実ではないにせよ、
「バッサ、バッサと手首を軍刀で切る」
という話もまたそのような状況では当然あり得べきと判断したのでしょう。


たしかに「雪風」も「冬月」も、多くの将兵を海上から救出しましたが、
それでもかなりの人員を置き去りにしたままそこを去り、北上しています。

「いいかッ。『大和』の生き残りのものは、よく聞け。
戦闘はまだつづいているぞ。
『雪風』の戦死者にかわって配置につけッ!」
「まだこれからだぞ!沖縄に突撃するぞ!」
殺気を含んだ声が続けざまにとんできた。
まごまごしていたら、もう一度、海の底へ投げ込まれそうであった。


しかし、ここでは命の意味が違うのです。

兵員を救助するのも、NHKの「坂の上の雲」で全編に亘り貫かれていた、
「人間をひとりでも死なせないことが目的」(笑)などという意味ではなく、
あくまでも今後の戦いに投入せられるべき「兵力」の確保なのです。

これが人道的にどうかということもまたここでは問題になりません。
なぜならそれを決定する側もここでは「戦いに身を投じる者」であり、
いずれは戦いに死ぬという覚悟の上にその決定はなされているからです。

そこでもう一度「手首斬り」について考えてみると、
確かに我先に助かろうとする極限のエゴイズムは戦場で散見されるものだけれど、
上記2サイトの筆者が検証するような、物理的不可能もさることながら、
すなわち覚悟の上で大和に乗り込み、そこにあった海軍軍人が、果たして、
一人ならずそのような醜行に及んでまで自分だけが助かろうとするだろうか、
という根本的な疑問を持たずにはいられません。

この件について寄せられたコメントの中に

「吉田氏がそうだったのか、否か、良くは知りませんが、
この様な話を大げさに広めた人達の『匂い』を、
エリス中尉なら、感じられるのではないでしょうか?」

というものがありました。
匂いますね。確かに(笑)

ことに、「軍刀」と明言しながら何故それを振るうのが士官だとせず
「下士官」であるとこちらも明言したのかについてはある「匂い」を強く感じました。

 

いわゆる「懺悔組」が、戦後、元軍人としていかなる心理的変遷を経て、
このような「自虐色」で自らの組織であった海軍をこのように貶めるに至ったのか。
我々にはもはや考え及ぶべくもありませんが、唯一つ言えることは、
結果的に彼らの生み出すことになったこの歪な歴史観もまたおそらく
戦争というものの齎(もたら)した災禍であったのだろうということです。








日本海大戦〜船乗り将軍の汚名返上

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■その男は若いころから乱酔乱暴で、
戦艦の副長となっても酒癖の悪さは直りませんでした。

ある日上陸して大酒を飲んできたこの男は案の定艦内で暴れだします。
艦長の山本権兵衛が抱き抱えるようにして彼を甲板に連れて行きました。

心配して様子を見に行った少佐が甲板で見たものは、
胸ぐらをつかまれ艦長に殴られている副長の姿でした。


■日本海大戦の17年も前のこと。
横須賀のドックに入港したロシア戦艦の水兵は、日本海軍が用意した
宿泊所の水行社で調子こいていました。
その男はロシア水兵とビリヤードに興じていたのですが、名を尋ねられ

「大和艦副長、海軍大尉、上村彦之丞」

日本語が聞き取れないロシア兵はもう一度聞きなおします。

「大和艦副長、海軍大尉、上村彦之丞!」

こんどは大声で怒鳴ったのですが、その様子にロシア兵は
なぜかクスクスと笑いだしました。すると男は

「人の名前を聞いておきながら笑うとは、無礼千万!」

言うが早いか手にしていたキューで相手を殴り倒してしまいます。
このとき、ビリヤード用の丈夫なキューが折れたという話もあります。
激高した仲間が襲いかかってきましたが、彼はひらりと撞球台に飛び乗って
天井から下がっていたランプをちぎっては投げちぎっては投げ、
しまいには椅子を振り回して大暴れ。
ロシア兵はほうほうの態で逃げて行ったそうです。


■日本が英国の造船会社アームストロング社に「千代田」を注文したときのこと。
基本的に黄色人種の国の仕事など二の次三の次で甘く見ていたイギリス人、
千代田用のために発注した12センチ砲を、日本に無断で
南アフリカ戦争中のイギリス軍に流用してしまいます。

日本側はアームストロング社の責任者を呼びつけて文句を言います。
ところが基本的に黄色人種の抗議など痛くもかゆくもないこの大造船会社のトップ、
通訳の伝える怒りの言葉にも

「ダイジョブデース。コノアトモイッカイチュウモンスレバイインデショー」

などと人を食った態度。
おまけに基本的に白人に劣等感を感じている通訳までもが、
相手を怒らせるのを恐れてジャパニーズスマイルでへらへらしています。

男の怒りは爆発します(笑)

「君じゃ話にならん!」

と一喝して通訳を変えさせ、代わりにやってきた通訳にこういい渡します。

「通訳はただ訳せばいいんじゃない!
怒った時は怒っているように、叱った時は叱っているように、
すべて本人の態度と同じように通訳せよ!」

そして猛烈に文句をつけたのです。
言われた通り猛烈な態度で通訳する通訳(笑)

それからというもの、イギリス造船所の日本に対する態度は一変しました。



この男、帝国海軍軍人、海軍大将、人呼んで「船乗り将軍」、
上村彦之丞。(かみむら・ひこのじょう)。

こういうタイプに優等生はあまりいないということを証明するように、
上村の海軍兵学寮の成績は芳しいものではなく、最下位でした。
もっとも最下位といっても上村の卒業した4期生はわずか13人。
学校で最下位であった上村がこの中でたった一人大将に出世したとしても
全くあり得ないことではありませんが。

さて、話は日露戦争開戦当時の話になります。
当時、ウラジオストックには一等巡洋艦三隻を主力とするウラジオ艦隊が停泊し、
対馬海域、津軽海峡を抜けて伊豆諸島海域にまで出没し、
わが国のみならず中立国の貨物船、輸送船などを拿捕、攻撃するなど
活発な破壊活動をしていました。

その三隻とは装甲巡洋艦ロシア、グロモボイ、リューリックです。


ウラジオ艦隊の暴れた様子と被害に遭ったフネ

日本海付近で跳梁跋扈するウラジオ艦隊に対し遊撃を命じられたのが
上村中将(当時)率いる第二艦隊でした。
しかし、日本海特有の濃霧やウラジオストク艦隊側の神出鬼没な攻撃に、
なかなかこれを補足することができず、ついに常陸丸事件では、
常陸丸、佐渡丸が撃沈され、須知源二郎中佐以下の近衛後備歩兵、
第1連隊等の兵員千名余りを戦死させてしまいます。

上村は、防衛責任者として糾弾されることになります。
国会では野党議員から

「濃霧濃霧、のうむは逆さに読むとむのう(無能)なり」

と批判され(誰がうまいこと言えと)また民衆からは

「露探(ろたん)提督」(ロシアのスパイという意味)と誹謗中傷されたうえ、
自宅に投石されるという事件も起こります。

部下たちが憤慨するのに対し上村は

「家の女房は度胸が据わっているから大丈夫」

と笑って取り合わなかったということですが、このサイトの漫画によると

日露大戦外伝・上村彦之丞(天下御免丸)

こうなります(涙)

そんな世間の悪評の中、またもやウラジオストック艦隊が出港した、
という情報が入りました。
上村中将の第二艦隊は蔚山沖でウラジオ艦隊を補足します。

ここで会ったが百年目。

方やウラジオ艦隊は、相手が軍艦であることを悟ると尻に帆かけて逃げ出し
(この譬えは少し適切ではないかも)濃霧の中無茶苦茶に撃ってきます。

壮烈な砲撃戦の末、ついにウラジオストク艦隊の3つの巡洋艦のうちのひとつ、
リューリックを仕留めました。
ところがリューリックは半沈しながらも味方の船を逃がすため、砲撃し続けます。

残念ながら、こういうのに日本人は弱い(笑)

さんざん悪さの限りを尽くしてきた憎き敵艦にもすぐに
「敵ながらあっぱれ」
となってしまうのが、また日本人でもあります。

このときにリューリックを見て上村中将が言ったのもまさにこの
「敵ながらあっぱれ」だったと言われています。


そして、あの「敵兵を救助せよ!」がここ蔚山沖でも行われるのです。



当初上村は逃げた二隻を追撃することを下命したのですが、
弾が切れているということを部下に板書で知らされます。
上村はその板を奪い取って叩きつけ足で踏み壊して悔しがり、
その形相のすさまじさに周りの部下は震え上がりました。

誹謗を笑い飛ばしながらその実、無能の汚名を返上する機会を
上村は切歯扼腕しつつ待っていたのでしょう。

このとき弾が残っていたら第二艦隊は逃げた二隻を追跡することになり、
当然このような「救出劇」も起こらなかったことになりますが、
これは結果として上村自身と日本軍の武士道を世界に知らしめることとなります。



海上に漂う627名のロシア人将兵の救出が始まりました。
助け上げられ信じられない思いを隠せないロシア人たち。

それもそのはず、彼らはこれまで日本の、のみならず中立国の
非武装の船を襲ってきたのですし、常陸丸事件のときも
黄色人種の生き死にごときには何の痛痒も感じず放置していたからです。


そして、敵をみすみす逃すことを阿修羅の形相で悔しがった上村は、
その同じ口で部下が敵兵に復讐の念をもって虐待行為をしないよう、
「捕虜を厚遇せよ」と命じたのでした。
そしてその命令があまねく行き渡っていると言う報告を聴き

「それはよかった。これで安心だ」

とひとりごちたと言うことです。



上村司令長官の名は一躍上がり、
無能扱いしていた世間は手のひらを反して彼を褒め称えます。

「上村将軍」という歌までができました。
その三番をここに記しておきます。


蔚山沖の雲晴れて
勝ち誇りたる追撃に
艦隊勇み帰る時
身を沈め行くリューリック

恨みは深き敵なれど
捨てなば死せん彼等なり
英雄の腸ちぎれけん
「救助」と君は叫びけり

折しも起る軍楽の
響きと共に永久に
高きは君の功なり
匂ふは君の誉れなり


そんな世間に対して上村長官が感じたのは、まさに

「半年前、ワシを国賊と罵った者もこの中にいるじゃろうのう」

第8話 ウラジオ艦隊壊滅

というひとことであったと思われます。
ところで、記念艦三笠にこのようなパネルを見つけました。


理不尽な国民の声に憤慨した学生が、上村将軍を称える軍歌を作りました。

このキャプションを持つこの「軍歌」、何を隠そう先ほどの
「上村将軍」の一番なのです。

三番の歌詞を見る限り、この歌は上村司令長官が名誉挽回となる
勝利を手にしてから作られたものに違いないと思うのですが、
どうしてこのような情報となるのでしょうか。

史料館の情報には厳密に考証がなされていて欲しいと思いますが、
ときどきこのような不整合を発見します。


さて、最後に腐女子向けの話題を二つ。

■日露戦争の3年前のこと。
上村は練習艦隊司令官としてオーストラリアを訪問しました。
その歓迎会席上、上村が豪州軍総督夫人に挨拶をしていると、
突然音楽が鳴り響きダンスの時間となってしまいます。
上村は正面にいた総督夫人の手を取りダンスをしなければならない状況に!

部下たちが手に汗を握って見守る中、上村は皆の心配をよそに見事に夫人をリードし、
総督夫人からはお褒めに預かりました。

実は上村はオーストラリア入港後、艦上で部下と共にダンスの練習をしていました。
これが本当の豪に入れば豪に従え。誰がうまいこと言えと。
部下が「よく踊れましたねぇ」と感心してみせると上村は
「なにくそ!と思ってお国のために体を動かしたのだ」と答えたとの由。

■あの広瀬武夫が乗ることになる「朝日」の回航責任者だった時に、
ロシアに行った上村。
当地の留学士官だった広瀬に、別れ際列車の窓から体を乗り出し、
その首を抱き寄せて

「この国のことは頼んだぞ!」

というなり熱い接吻をしました。

ああっ!あの広瀬さまがこんなオヤジにっ!

ただ、腐女子の皆さんをがっかりさせるようですが、
上村がキスしたのは広瀬の頬っぺただったそうです。







記念艦三笠見学〜測距儀《レンジファインダー》

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東条鉦太郎画「三笠艦橋の図」。
しかし、この東条鉦太郎画伯の画力はすごいですね。
この画家は、戦争画専門の絵描きとして活動しており、この
「三笠艦橋の図」も、海軍からの依頼で描かれました。

芸術としてどうか、ということとは全く無関係に、この絵は
日露戦争の、日本海海戦の勝利とともにシンボルとなり、
こうして画家の名前も後世に残ることになったのです。

勿論三笠艦橋の様子を見たわけでもない東条画伯ですから、
この、聯合艦隊がバルチック艦隊と接触した直後の様子は
想像の上に描いています。

実は、このときに海軍に依頼されて描いた最初の「三笠艦橋の図」、
関東大震災で焼失してしまっています。
現在残っているこの絵は、そのあと本人が描きなおしたもので、
オリジナルとは煙突の煙やハンモックの縛り方が違っているそうですが、
描かれている人物は元の通りだそうです。

もし画伯が焼失した後そのままにして世を去っていたら、この構図は
今のように日本海海戦の象徴となっていなかったでしょう。

それにしても、この絵を見るといつも思うのですが、
東郷長官が世界中で「三大提督」とまで称えられたのは、
もしかしたらそのイケてる容姿も手伝っていませんか?



イギリス留学時代の写真も、高陞号事件の艦長時代も、
そして晩年の姿ですら、かっこいい。
いまさらですけど。



ついでに東郷平八郎自筆。
日記のようですが、拡大しても何が書いてあるのかほとんどわかりません。

さて、この「三笠艦橋の図」から、東郷大将の双眼鏡について前回お話ししましたが、
今日はこの絵の艦橋上に見られる、他の光学機器についてです。



記念艦「三笠」の艦橋を下から撮ってみました。
測距儀が見えます。

この測距儀、レンジファインダーといい、書いてその通り、
距離を測るための機器です。

去年、護衛艦「さみだれ」で、この測距儀を持たせてもらいました。



これ、ラックみたいなのに置いてあって、持って使います。
その際、ベルトのようなものを首からかけて落とさないようにするのです。

なにしろあらためて驚くのは、明治時代の日露戦争で使っていた測距儀と、
今のがほとんど同じというこの事実。
どれだけ完成度が高かったのか、って話ですが、それでは測距儀って何?

とおっしゃるあなたのために少し説明しておきますと、
光学的測距儀の仕組みは、簡単に言うと、

「対象点の方向と基線とから三角法で対象までの距離を求める」

というもの。
もう少し詳しく言うと、

「左右に離れた2個の対物レンズで取り込んだ画像を、
距離計に連動して回転する鏡によって、合成プリズムに送る」

え?あまりよくわからない?

あなたの頭には目が離れてついていますね?
だからこそ距離を認知することができる、というのと同じ。
測距儀も1つの物体を左右2つの窓から見る時の角度差を測って、それを距離に換算するのです。
この仕組みゆえ、測距儀は今も昔も筒型をしているんですね。

この離れた二個のレンズの間の距離を「基線長」というのですが、
この基線長が長ければ長いほど、測定結果は正確であるということです。

戦艦「大和」には日本光学(現ニコン)製の、15mの測距儀が搭載されていました。


軍事において測距儀は、放物線を描いて飛ぶ砲弾の、
目標までの正確な距離を知るために必要とされました。

三笠に搭載された測距儀はF.A.2型で基線長1.5mあります。



絵の一部を切り取ってみました。
この測距儀が、三笠搭載のもの。
イギリスのバー&ストラウド社のものです。
測距儀を覗いているのは、残念ながら業務の性質上顔が見えませんが、
名前ははっきりしていて、測的係の長谷川清少尉候補生(後に海軍大将)。

長谷川候補生が覗いている測距儀を見ていただけると、両側のレンズ穴、
そして覗き込むプリズムの部分の穴がはっきり描かれているのがわかります。
右手は測距儀に添えられていますが、左は何か持っていますね。

これは、テレグラフの操作器具で、測定結果を同時に信号にし、
送っていたということらしいです。ハイテクですね。
まあ、風の強い艦橋で戦闘中に怒鳴っても何も聞こえませんしね。


この絵は、聯合艦隊がバルチック艦隊を発見してすぐ、という設定で、
このときバルチック艦隊は旗艦三笠から見て左舷側にありました。
東郷司令長官の視線の方向と、長谷川候補生が向けている測距儀のそれが
同じであることにご注目ください。

さらに、先ほどの写真と並べてみますと、

 

この測距儀が全く同じ形をしているのにお気づきでしょうか。
つまり、左の写真は、長谷川候補生の立って測距儀を覗き込んでいるのを
背中側(の上甲板側)から見ているということになるのです。

こんど三笠に行くことがあったら、ここに立って測距儀を覗き込んでみてください。
長谷川候補生の気分が味わえます。

さて、艦橋の上にはもうひとつ測距儀が見えていますね。



誰も使用していませんが、これは可動式の測距儀のようです。
もしかしたら秋山参謀が使うためかもしれません。

このとき長谷川候補生が覗いていたのと同じ時代のものを、
調査研究したという読者の方が、昔URLを下さっていたのでご紹介しておきます。

2011年5月ニコン研究会東京レポート



この測距儀は、館内に展示されていました。
三笠のものではないようですが、説明の写真を撮るのを忘れたので、
由来はわかりませんでした。



「三笠艦橋の図」左下部分。
まず、羅針儀を覆っているハンモックに注目。
ハンモックにはちゃんと番号が振られていて、
誰のものかわかるようになっています。
これが本当のハンモックナンバー。
でも、あれ?皆ここにあるのは二けたですね。
以前「ハンモックナンバー」というエントリで、「4ケタ」って書いたのに。


それは置いておいて、羅針儀左に置かれている普通の望遠鏡。
これは望遠鏡の下でかがみこんでいる、おなじみ(エリス中尉的に)、
ハンモックナンバー一番の男!

枝原百合一(えだはらゆりかず)航海士少尉

が使用するためのものではなかったでしょうか?
いや、全く適当に言ってますが。



実は、改装為った記念艦三笠、今回来てみたら、
このような大パネルが上甲板に設置されていましてね。

こりゃーあれだな。

観光地にあって、顔だけ出して写真を撮るパネルと同工異曲。
ここまでするなら加藤少将と伊地知艦長はともかく、
せめて東郷元帥と秋山真之くらいは顔をくり抜いて写真が撮れるようにしてほしかった。

さすがにそれはアイデアは出たものの不謹慎ということで
ボツになり(たぶん)、ただ前に立って写真を撮るコーナーになっていました。

それはともかく、この前に来たときにわたしがTOに

「右が秋山真之で、左が加藤友三郎、その隣が伊地知艦長で、

しゃがんでいるのが枝原百合一という少尉」

とすらすらと説明したところ、呆れかえった顔で

「今この三笠の中で、このしゃがんでる人の名前を知っているのは
断言してもいいけど一人しかいないと思う」

と宣言されました。
いや、少し日本海海戦に詳しければこの4人くらいは知ってるでしょうけど、
枝原少尉の場合、わたくしその名前があまりに衝撃的にファンシーだったので、
自然と脳髄に刻み込まれてしまったんですよ。



この左下部分の将官たちも等しく首から双眼鏡を下げていますね。
しかし、これは前もお話ししたように、東郷長官のツァイス製のとは違い、官給品。
いざ海戦の際、ペテロパブロフスクの爆沈を確認したのは東郷長官だけで、
性能が劣っている官給品を使っていた他の将官全員は、
作戦立案をした秋山参謀を含めて、この瞬間を捉えることができなかったというのです。


このときにもどかしい思いをした将官たち、もちろん秋山参謀を含む全員が
フネを降りるや否やツァイスの角型眼鏡を注文したのに違いありません。



天気晴朗ナレドモ浪高シ〜三六式無線と日本海海戦

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日本海海戦で日本がなぜ勝利したか。
その理由を説明なしで箇条書きにしてみましょう。

■ 指揮統率と艦隊としての練度

■ 参謀、各艦艦長の人材の優秀さ

■ 戦術の成功

■ 新技術の活用


戦術の成功とは、

● 徹底した哨戒作戦

● 七段構えの戦法

● 丁字戦法

● 高速近距離射法、速射、斉射(一斉射撃)などの砲術

● 編隊の組み合わせによる適材適所

そして、最後の新技術。
今日はこの部分についてお話しします。

日本海海戦で採用された最新技術とは、次のようなものでした。

○ 信管・・・・砲弾に鋭敏に感知する新型「伊集院信管」を採用

○ 爆薬・・・・爆速が早く破壊力のある「下瀬火薬」を採用

○ 汽罐・・・・宮原二郎が開発した汽罐

○ 海底ケーブル・・・日英同盟の賜物。これを敷いたことで敵の動きを把握できた

○ 三六式無線


海底ケーブル以外は日本人が生み出したといってもいいでしょう。
ことに、宮原式汽罐は世界中がその完成度に衝撃を受けたと言われ、

高速、強力、省エネ、小型、メンテが楽、しかも丈夫

日本人の「お家芸」である「発明はしないが徹底的に改良する」
後年の技術立国としての萌芽がここにも表れていました。


このなかで、海底ケーブルだけはイギリスからの輸入です。
のちに台湾総統府長官となった児玉源太郎が、九州―台湾間に敷設し、
日英同盟の同盟国であったイギリスのインド―アフリカ回線に接続しました。
このため、これを「児玉ケーブル」と呼んでいたそうです。

これで聯合艦隊はバルチック艦隊の大西洋インド洋での動きを
情報として手に入れることができたのですが、
それもイギリスと同盟を結んでいたおかげでした。



冒頭に箇条書きにはなっていませんが、
相対的な観点で言うところの日本の勝因のひとつには、この「日英同盟」があります。

なぜなら、これら最新技術のほとんどはイギリスから供与されたものだったからで、
イギリスから輸入された技術を国産化したのは単純に経費の節約が目的でした。

しかしながら、国産化においては「極める」情熱を人一倍持っていた民族ゆえ、
ただのコピーに終わらずオリジナルを上回るものを作ってしまったいうあたりは
日本人として誇っていいかもしれません。

日英同盟の恩恵はそういった科学技術の輸入だけではありませんでした。
当時ロシアと同盟を結んでいたフランスにイギリスが干渉したせいで、
バルチック艦隊はフランスの植民地(アフリカ)に寄港することができず、
艦隊の動きがかなり封じられたということもありました。

そして「海底ケーブルでの敵艦隊補足」は、
同盟国であるイギリスの連携なくしてはありえなかったのです。


もっとも、同盟を結んではいてもイギリスの日本人に対する人種偏見は凄まじく、
当時イギリスにいた孫文によると、日本がが勝利したというニュースを聴いたとき、

「イギリス人は誰も喜んでいなかった。
ロンドンはそのニュースを受けて通夜のように静まりかえった。
彼らはむしろ白人の国が黄色人種に負けたことに激しくショックを受けていた」

って話ですが(笑)
これが、「白人の支配する世界の終焉の緒」を目の当たりにした
支配側の人種、イギリス人の不安と焦燥の表れであったことは間違いありません。

「坂の上の雲」でも、西田敏行扮する高橋是清が

「英国世論は黄色人種に肩入れすることを嫌っとる。
そもそも英国王室はロシア皇帝とは親戚だ」

などと言っていましたね。
卑近な譬えで言うと、現在朝鮮半島で北と南に分かれて戦争してますが、
敵対するはずの北に対してより、かつて統治された日本を「千年恨み」、
同盟国のはずの日本を北朝鮮への連携から締め出そうとし、
日本が独自に北朝鮮と会見を持てばあれこれ非難して、北朝鮮から
「何も知らないのに勝手に非難するな」なんて言われるようなもんですね。

え?何が言いたいのかわからない、って?
つまり、「血は水より濃し」ってことですよ。




さてこの海底ケーブルで得た情報を艦隊の動きに反映させたこと、
そして最後の三六式無線を開発し搭載したことが、
実は勝利に大きな貢献をしたという話をしましょう。

三六式無線は 三四式と言われる初代モデルの次期タイプで、
1903年(明治36年)つまり海戦に先立つこと二年前に制式になりました。

今までの三四式が70海里(約130メートル)の通信範囲だったのに対し、
最低でも80海里の距離は必要であるということで開発が検討されたのですが、
案の定(笑)先見の明をもつ秋山真之参謀が、これを採用するべく上伸を繰り返すも、
トップがなかなかその必要性を理解してくれなかったという経緯があります。

いつの時代も、偉い人たちというのは革新より保身なんですね。

この三六式無線の開発に当ったのは木村俊吉。
東京予備門から東大を出て、ハーヴァード・イエール両大学に学びました。

木村は幕末に咸臨丸でアメリカに渡った木村摂津守の二男に当ります。




海軍に奉職し、海軍教授・無線電信調査委員になった木村は、
秋山真之の進言によって開発が決まった新型無線の研究を任されます。

「三年以内に、80海里の通信距離を持つ無線を開発せよ」

これが木村に与えられた指令でした。

(BGM 「地上の星」)

木村のチームは、それから間もなく80海里の距離をクリア。
さらなる限界を求めて、寝食をも犠牲にするほど改良に邁進し、
ついに200海里の通信を可能にしたのでした。



なんだか中学生が技術の時間にする工作みたいですが、
これが当時の最新鋭型無線。



三笠の見学をする人は、まずこの通信下士官の後ろ姿を見ることになります。
舷門を上がってすぐ右手にある通信室。

実はこの通信室、実物をそのまま忠実に再現しているのだそうですよ。
三笠に見学に行かれる方は、次から心してこれを見るように。

ところで、最初に見たとき、この通信人形は顔が造られておらず、
きっとのっぺらぼうに違いない、と思ったのですが・・・



かすかに唇がアクリルのケースに写っているこの写真を見て、
かれに顔があることが判明しました。
すみませんでした。(←人形に言ってる)

ツートントンしているのが送信用電盤。
向こうに三枚プレートがありますがその一つに

「インダクションコイル」

という字が見えますね。
このインダクションコイルは開発当初日本で量産できなかったのですが、
ここでも日本のモノつくりパワーが炸裂。
安中電機製作所が、この国産化に成功します。

安中電機製作所、現在のアンリツです。

それからもう一つ、「リレー」という字があります。
リレーとはその名の通り、継電気システムで、
有線電信において、伝送路の電気抵抗によって弱くなった信号を
「中継」(つまりリレーですね)するために発明されたものですが、
この機器をドイツのシーメンス社製を採用し、性能は安定しました。

もうひとつ「火花」という字も見えますね。

この三六式は、火花式(間隔を開けた電極間に高電圧を印加し
火花放電を起こすと電磁波が発生する事を応用した電磁波の発生装置)
で送信をし、そして



彼の左奥にある「コヒーラ検波器」と呼ばれる黎明期の電波探知機で
電波を受信していました。

コヒーラとはガラス瓶に金属粉と電極をいれたものと言われますが、
この写真によるとガラス瓶は見当たりません。


それにしても驚くではありませんか。

マルコーニが無線を発明したのは1894年のこと。
製品化されて間もないのに、日本海軍はこれらの採用によって、
当時通信設備に駈けてはトップレベルにあったということです。

それもこれも、天才参謀秋山真之の強力な提言があったからです。

さらに、その際必要になってくる電力ですが、ご安心ください。
島津源蔵が日本初の鉛蓄電池の開発に成功しています。

島津源蔵。
島津製作所の二代目社長で、日本の発明家です。


このころ日本の勝利に寄与した新技術を支えた企業はそのほとんどがその後
日本の技術力の推進役となって、今日にその命脈を伝えているのです。



それでは、後半でこの三六式無線の活躍についてお話ししましょう。



天気晴朗ナレドモ浪高シ〜「信濃丸」の殊勲

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1905年5月27日午前2時45分、

仮装巡洋艦「信濃丸」は、北航する艦船の灯火を発見。
「信濃丸」艦長の成川揆(なるかわ・はかる)大佐は、後方に接近し追尾を開始します。

丁度追尾を開始して2時間後の4時45分、空が明るくなってきたので、
「信濃丸」は300メートルまで接近して確認すると、

三本のマスト、二本の煙突

の艦艇であることがわかりました。
それは、第二太平洋艦隊、つまりバルチック艦隊の病因船、「アリヨール」だったのです。

いきな寄り道ですが、当時の聯合艦隊の皆さんは、
将官はともかく下士官兵は「外来語」というものに不慣れなので、
英語はもとよりロシア語の艦名を覚えるのに大変苦労しました。
そこで、「三笠」の阿保清種少佐が「記憶法」を編み出しました。

その傑作どころを少しご紹介すると・・・、

「クニャージ・スワロフ」→「国オヤジ座ろう」
「アレクサンドル三世」→「呆れ三太」
「ボロジノ」→「襤褸出ろ」
「アリヨール」→「蟻寄る」
「オスラビア」→「押すとピシャ」
「シソイ・ウェーリーキー」→「薄いブリキ」
「ドミトリー・ドンスコイ」→「ゴミ取り権助」
「イズムルード」→「水漏るぞ」
「アブラクシン」→「「油布巾」

いやー、どうですかこれ。
エリス中尉は個人的に「ゴミ取り権助」に傑作として一票投じますね。

単なるあだ名ではなく、聯合艦隊の将官は皆真面目にロシア艦隊を
こう呼んでいたといいますから、嬉しくなってしまいます。

決戦においても、真面目に

「目標!ゴミ取り権助ェー!」

ってやったんですからね。
誰なの。日本人はユーモアがわからないなんて言ったのは。

さて、閑話休題。

「蟻寄る」ことアリヨールを発見した「信濃丸」。

「これはアリヨールでありよる」(←)と成川艦長が言ったかどうかはわかりませんが、
それを確認すると同時に周りを見回すと、

こんな状況に…

バルチック艦隊…○
「信濃丸」…●

 ○ ○ 
 ○ ● 
  ○○
 ○ ○
 ○ ○


さすがに命の危険を感じました。
というのは「暴走族に囲まれた俺」コピペですが、まあそういう状況です。

そこで「信濃丸」は気付かれないように

○ ○ 
○ → → → → 
○ ○         ↓
○ ○         ↓
○ ○         ↓
            ● (信濃丸)


その場を離れ、
4時45分「敵艦隊ラシキ煤煙見ユ」、
続けて4時50分「敵ノ第二艦隊見ユ」という歴史的な暗号電報を送信します。

「信濃丸」は排水量こそ約6500トンと大型ですが、
仮装巡洋艦ですから武装はほとんどしていません。
ここで周りの暴走族、じゃなくてバルチック艦隊に気づかれたら、
ひとたまりもなく海の藻屑になってしまうでしょう。

しかし、「信濃丸」はその後一時間あまり、敵方を監視して追尾を続けました。

○ ○ ○ ○ ○
○ ○ ○ ○ ○             ●(信濃丸)
←進行方向

え?もうその図はええ、って?


この無線は戦艦「厳島」に中継され聯合艦隊司令部の旗艦「三笠」に届きました。
その後、やはり無線を受信した巡洋艦「和泉」が6時45分にバルチック艦隊を発見。
蝕接を保って刻々とその動向を聯合艦隊司令部に打電し続けます。


海上は靄が立ち込め、視界は5海里という悪条件のもと、
「和泉」の石田一郎大佐は敵弾の届く至近距離まで近づき、
その範囲から出入りしつつ、危険を冒して監視を続けたのでした。



この時の功績に対して軍艦和泉の総員に送られた感状。

「和泉」の功績は、バルチック艦隊の動きを早くに把握できたという点で
聯合艦隊の勝利に貢献したということに対するものです。

それはいいんですが。ちゃんと「信濃丸」にも感状は出されたんでしょうね?
まさか、「久松五勇士」の「奥浜牛」さんみたいに
(これ、奥浜 牛じゃなくて奥 浜牛、つまりおく・はまぎゅうかも)
最初の発見者がそう評価されていない、ってこと、ありませんよね?



さて、これを受けて司令長官東郷平八郎大将が艦隊の出動を下命、
同艦より大本営あてに

「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、
コレヲ撃滅セントス
本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」

と打電し報告した事で、日本海海戦が開始されたのでした。




どうでもいいが電文を書いた人が達筆すぎて
読めない(笑)・・・・・でも・・・・

あれっ?

読めないなりに読んでみると、これ、変ですよ?

「(アテヨイカヌ)ミユトノケイホウニセツシ
(ノレツヲハイ)タダチニ(ヨシス)コレヲ(ワケフウメル)セントス
テンキセイロウナレドナミタカシ」

つまり暗号文で打たれた電文だったわけですが、
直接軍令とは関係のない

「天気晴朗なれど波高し」

だけが平文となっています。
あと、ところどころだけが「伏字」状態ですね。

しかし、この「平文」、解読されても単なる「時候の挨拶」と取られかねない
この一文に、重要な情報が詰め込まれていたわけです。

天気が良く、視界がはっきりしていて、しかも動揺が多い。
こうなると、射撃の練度が高い聯合艦隊に有利である、という意味なのです。

聯合艦隊、ことに阿保清種(あぼ・きよたね)砲術長率いる「三笠」では、
「砲身のらせんが擦り切れるのではないかと心配するほど」
訓練が重ねられました。

「内筒砲訓練」と言われたこの訓練法は、砲身に小銃を据え付け、
その小銃を発射して的を狙うことによって精度をあげんとするものです。

因みにこの時の訓練の激しさをして海軍の
「月月火水木金金」の嚆矢であるとする説もあるそうです。





映画「海ゆかば 日本海大海戦」より。
打電する通信兵の横になぜかいる(笑)秋山参謀。

いくら原稿発案者でも、通信室でちゃんと打ってるかどうか
見張らなくてもいいと思うの。

 

何十年も前の映画の字幕に突っ込むのもなんですが、
これ、間違いがあるのにお気づきですか?

よく「敵艦見ゆ」とされるこの最初の一文ですが、
「敵艦」ではなくバルチック艦隊すなわち「敵艦隊」です。



昨日、聯合艦隊の勝因をいくつかあげたわけですが、
逆にバルチック艦隊の敗因の一つに、「日本の無線を妨害しなかった」
ということがあるそうです。
これは決して「正々堂々と戦おう」などという殊勝な意図などではありません。

聯合艦隊は、哨戒艦がバルチック艦隊を発見し、海戦に至るまで接触を続け
無電によって情報を送り続けましたが、バルチック艦隊は日本の無線を傍受しながら
探知されることを恐れて電波封止をしていたこともあって、

妨害しようにもできなかった

からなのです。

しかし、もしロシア側に秋山真之レベルの参謀がいたなら、
この無線をつかって陽動と妨害によって聯合艦隊をかく乱させるなどの作戦を取り、
案外結果が変わっていたってことはないでしょうか。

よって、わたしとしては「秋山参謀」と「三六式」が、
日本海海戦の勝因の最たるものと位置付けたいところです。


さて、六三式無線の威力と、その日本海海戦における働きは目覚ましいものでした。
日本海海戦は「インテリジェンス」の戦いであったとする説もあります。

ここで日本がインテリジェンス、つまり情報の重要さに目覚めて、
この技術を特化して研究していれば、大東亜戦争の結果はひっくり返らないまでも、
かなり違ったものになっていたはずだと思うのですが、
ご存知の通り、この戦争におけるレーダーの方面で日本は決定的に後塵を拝すことになり、
そのため手痛い敗北を喫する戦闘も多くあったわけです。

日本海海戦から、今後の戦争は情報戦であるという教訓を得たはずであるのに、
その教訓を生かすための長期的な展望を持ち、それを推し進めるだけの力を持った
秋山真之並みの参謀―保身に走りがちな「上層部」を跳ねのけてまで
その智謀を発揮する軍人が日本軍の組織に存在しえなかったことが、
その後の日本そのものの不幸だった、ともいえます。









日本海大戦〜秋山参謀の「奇行」

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その1







その2














今日は、少し息抜きに(わたしは全然息抜きになってませんが)
久しぶりのコマ漫画をお届けします。

いずれも「こんな聯合艦隊は嫌だ」という言葉も虚しく、実話でございます。

主人公は、海軍一の秀才、のべつ頭が回転し続ける天才、
「天気晴朗なれど風高し」
この一文にすらたただものでないひらめきを感じさせる伝説の参謀、

秋山真之海軍中将(最終)です。


天才となんとかは紙一重、と申します。

天才参謀秋山真之も、実は本人を知る者たちにはどうも
そのきらいがあったようで、いくつかの逸話が残っています。

明治三十年、秋山はアメリカに留学していますが、その際
駐米大使であった星亨(ほしとおる)の執務室に勝手に出入りし、
いつも勝手に棚の本を手に取って見ていました。

星という人物は押しが強く、のちに国会議員になったとき
「ほしとおるではなく、押し通る」
と言われたくらいの人物ですが、このとき秋山の行為を見咎め、
一言文句を言ったにもかかわらず全く相手にされなかったそうです。

早いうちから戦術家として後進を指導する立場でありながら、
秋山には実に粗野なところがあって、のべつ幕なしに口にモノを入れていました。

ドラマで描かれていた「豆をいつでもポリポリしていた」というのもその一つですし、
本日の漫画「その2」における逸話のように、周りが緊張する中、
果物かごの林檎に手をだし、一人でシャクシャク言わせながら食べだしたので、
東郷司令長官はじめとする聯合艦隊の司令部将官は
あっけにとられて見つめていたということもありました。

人前で放屁することも平気なら、海大の教授になってからも立小便をしました。
学校の門を入ったところにある桜の木が、彼のお気に入りのスポットで、
必ずそこで用を足してから建物に入ったそうです。

・・・・・・・・・犬か。

大人物なのか、それともやはり「紙一重」だったのか。

アメリカでもその悪癖は一向に治らず(というか、悪いことだとも思っていなかったようで)
人の家を訪問したとき、その家の植木の根元で用を足し、
直後にその家の夫人とその手で握手し、そのまま何事もなかったように家に入ったそうです。

っていうか、これ、誰が見てたんでしょう。


いやー、奇行というより野生児のまま一生を突っ走ったって感じですね。
しかしそれもむしろ天才の名にふさわしいと思ってしまいました。





 

日本海海戦〜「児玉ケーブル」と「光海底ケーブル」

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三六式無線のときにも少しお話ししましたが、日本海海戦において
情報の伝達が非常にうまくいったことの一つの要因として、
海底ケーブルがその一助を担ったということがあります。

「児玉ケーブル」とも言われたこの国産初の海底ケーブルは
以前にもお話ししたこの軍事、政治、経済、産業、全般にたいし
オールラウンドな才能を持っていた児玉源太郎によって敷設されました。

先日その「NHK史観」について少し苦言を呈した形の「坂の上の雲」
では高橋英樹がこの大物を演じています。


秋山好古が陸軍大学の学生である時に、校長職にあったのが児玉でした。

「坂の上の雲」では、ドイツ軍大モルトケの推薦により派遣された
クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル少佐が陸軍大学校教官として、
秋山好古らを厳しく指導する様子を微笑みを浮かべて見守っていましたが、
メッケルを招聘してきたのも「臨時陸軍制度審査委員会」委員であった児玉です。

ちなみにメッケルの陸軍大学校での教育は徹底しており、1期生で卒業できたのは、
東条英教東条英機の父)や秋山好古などわずか半数の10人という厳しいものでした。

その一方で、兵学講義の聴講を生徒だけでなく希望する者にも許したので、
校長である児玉始めさまざまな階級の軍人が彼の講義を聴くことができたということです。


メッケルはその後、日露戦争開戦と同時に山縣有朋に対し「日本万歳」と打電してきています。

「児玉がいる限り日本は必ず勝つ」というのが参謀教育で来日し
陸軍大学長である児玉を教えたメッケルの確信するところでした。

今日は、ある意味秋山真之よりもプロデューサーとして日露戦争の勝利に貢献したというべき、
この児玉源太郎の功績についてお話しします。





児玉は日露戦争では満州軍総参謀として二〇三高地陥落させたように、
秋山好古に秋山支隊を編成させロシア軍右翼を脅かすなど、
満州における陸軍の作戦を主導しました。

そして、児玉は情報通信を徹底的に重視します。

冒頭の「海底ケーブル」とは、1851年に世界で初めてドーバー海峡に敷かれた
電力用または通信用の伝送路一般を言います。

20年後の1871年には大北電信会社によって日本も海底ケーブルを
長崎〜上海および長崎〜ウラジオストク間に敷設しました。
その後1883年には呼子〜釜山間にも海底電信線が敷かれます。

しかし、日清戦争後、この状態に児玉は危機感を抱きます。
すでに日露間で戦火を交えることを視野に入れてこその危惧でした。

児玉の抱いた危惧とは。

●呼子〜釜山線は欧米人が使用しているので軍の独占ができず、
またここを切断されたら通信が途絶えて致命的であること。

●大北電信は名前こそ大北であるが、実はデンマークの電信会社。
後ろにロシアが控えていて、情報が筒抜けになる恐れがあること。

●長崎〜ウラジオストック線も、当然日露戦争で使えるわけがない。


そこで児玉は、日本の手による海底ケーブルの敷設に乗り出すのです。
それは、本土と大陸(半島)をケーブルで結び、さらに台湾経由でイギリスの
ケーブル網につなぐ計画でした。


日本人だけの手で、日本の勝利のために海底にケーブルを敷く。
これが、児玉の壮大な計画であった。

(BGM 「地上の星」)



児玉は、まず、イギリスに海底ケーブル敷設船「沖縄丸」を発注し工事に着工しました。

「日本人にケーブル工事は無理だ。我々に任せておけ」

と大北電信が口を出してきますが、勿論児玉ははねつけます。
大北と無関係のケーブルを造るためにやっているのに何を言うやら。
ってところです。

さらに、日露戦争を見据えての事業ゆえ、情報の漏えいを防ぐために
お雇い外人技師もいっさい使いませんでした。

これを見て「日本人には無理」と欧米人は冷笑していましたが、
日本の技術陣は驚いたことに、明治30年には
九州〜那覇〜石垣島〜台湾ルートのケーブルを完成させ、
その年中に支線を含め計画はすべて完了させてしまうのです。

日露戦争開戦に先立つこと8年前のことでした。

英米以外ではまだ難しい、といわれていた長距離のケーブル網を、
測量に始まって、すべての敷設まで有色人種が助けを借りずにやり遂げたのです。
日本と日本人の技術力に対して、欧米諸国が脅威を感じた最初の出来事でした。


そしてその後、この時に工事に携わったケーブル敷設船である「沖縄丸」の
八面六臂の活躍が始まるのです。

日露大戦開戦約1か月前の1903年(明治36年)末。
「沖縄丸」は、関門海峡の電信線修理などの名目で長崎港へ移動しました。
そして、すでに児玉の手によって用意されていた海底ケーブルを着々と敷設していきました。

この際、正体を偽装するため、沖縄丸はマストの位置を移動、
船首のシーブ(ケーブル用滑車)を隠す偽の設置、
船体や煙突を白色から黒色へ塗り替えるなどの工事を、佐世保海軍工廠で施されています。

さらに機密保持のため、乗員は誓約書を提出させられました。
船名も「富士丸」と偽装して、準備万端整えます。


そして開戦。
富士丸、いや沖縄丸は、陸軍の前進にともなって朝鮮半島西沿岸を北上し、
あの旅順近くまでこっそりレールをつないでいきました。


旅順はご存知のようにロシア艦隊が停泊している港でしたから、
沖縄丸の作業は、いつも決死作戦のような緊張にいつもさらされていたことになります。

そして、日露戦争が日本の勝利に終わりました。

「沖縄丸」の為した功績は非常に大きなものとして、
「沖縄丸」の船尾には日本海軍軍艦と同じ菊花紋章の飾りが取り付けられました。
また、1905年の日露戦争勝利の凱旋観艦式にも海軍艦船以外で唯一参加しています。



菊の御紋を付けた沖縄丸。

沖縄丸はその後大東亜戦争中に海軍に徴用され、
グアムでの任務中に米軍潜水艦の攻撃により戦没しました。



ここでもう一度、ここで日本海海戦の情報伝達について記しておくと。

日本は望楼(見張り台)を持つ島々を海底ケーブルで結んだ警戒線を
対馬近海から日本海にかけて巡らせていました。
開発されたばかりの三六式無線の電信機も各艦船に突貫工事によって積載済みです。

信濃丸がバルチック艦隊を発見し、

「敵ノ第二艦隊見ユ 地点二〇三 信濃丸」

という電文が打電されると、これを「厳島」が中継して「三笠」に伝え、
「三笠」は直ちに聯合艦隊に出撃命令を発します。



電文は海底ケーブルと陸上線で本州の陸上線を通って、
下関から東京に達しました。

海底ケーブルがいかに日本海海戦の勝利に寄与したかは
「三六式無線」のエントリでお話ししましたのでここでは割愛します。


児玉がいかに慧眼であったかは、この計画の随所に表れていましたが、
たとえば、開戦になるとそれまで使用していたケーブルが切断されてしまうことを
最初から読んでいたこともその一つです。
児玉はそれを織り込んだうえで、日本製のケーブル敷設を強硬に推し進めたのでした。

その先を読む力は維新以降初めての国際戦争であり、
同時にインテリジェンス戦争であった日露戦争にとって、勝利への布石をなしえたのです。


ところで。

その後、昭和の時代に日本はその技術において
画期的なケーブルを生み出し、一時はそれが世界の基準とされていました。
この無装荷ケーブルを1932年に生み出したのも、松前重義という日本人です。

日本人って、本当に素晴らしいですね。

そして昭和50年代以降、海底ケーブルに光ケーブルを利用する
この技術で日本は世界一の地位に躍り出ます。

現在、世界中のインターネットを支えているのは光海底ケーブル通信です。
そして日本の光海底ケーブル技術は世界トップレベルなのですよ。

自らを誇らないのを美徳とする日本人と、我が国はもうだめだ、昔からダメだ、
と言い張りたい特定日本人たちのいる日本ではこれもまた周知の事実ではありませんが。


しかし、現在日本の技術がその地位を得ているのも、
このとき、児玉源太郎という巨人が先を見通して当時の日本の技術力を結集し、
「児玉ケーブル」を作ったこと、さらに技術者たちの辛酸とそれを克服する努力(沖縄丸含む)が
その計画を実現したことがあってこそなのだろうと思います。


ちなみに、児玉源太郎ですが、日露戦争終結の10ヵ月後、
54歳の若さで亡くなりました。
南満洲鉄道創立委員長に任命されてわずか十日後のことでした。


それにしても児玉源太郎・・・・・・54歳にしては老けすぎてません?






記念艦三笠見学〜日本海海戦百周年記念行事

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日本海海戦は1905年の5月27日に行われました。
それからちょうど100年経った2005年、この区切りを記念して、
日本海海戦100周年記念行事が行われました。

8年前の明日です。

8年前といいますと、エリス中尉、日本海海戦ってそれなんだっけ、
とまではいきませんが、ほぼそういう状態で、
海軍については全くと言っていいほど知識も関心も持っていなかった頃です。

勿論そんな頃のできごとですから、先日、記念艦三笠に二度目の見学に行った際、
前回は見落としていた(というか見ても全く関心を払わなかった)コーナーに、
この写真が掲示されているのを見て、
初めてそういった大々的な行事が行われていたことも知ったわけです。

うーん、残念すぎる。

100年記念、それは当たり前だけど、ただ一度きりの機会。
その記念行事を全く目にすることもなく、のうのうとしていたとは口惜しや。
自分の当時の無関心に臍を噛む思いです。



記念式典におけるおそらくVIPの皆様方。
この日舞台の前に1000脚もの椅子が用意されましたが、
瞬く間に満席となり、500名の観客は立って見学することとなりました。

いや、これ8年前だからこの程度で済んだんだと思います。
もしこの行事を今やったら、500どころか三笠公園に人が入りきらず、
仕方なく整理券配布という状態になってしまったかもしれません。

式典はまず、日本とロシアの国歌演奏、この海戦で亡くなった
日露将兵への黙祷をささげることから始まりました。

ロシアの国歌というのは、ソビエト連邦の頃からある、
「祖国は我らのために」。
我が「君が代」は当然この日本海海戦のころはありましたが、こちらは
1944年制定ですから、そのころには存在しなかったんですけどね。

でも、いい曲です(迫真)

ソ連崩壊後、すべてのソ連的なものを排除してきたロシアですが、
この名曲はやはりどうしても捨てられなかった模様。
2001年に、歌詞を変えてロシアの国歌に制定しました。

全く本筋から離れますが、このロシア国家のポップスバージョンで
面白いのを見つけたので貼っておきます。
一瞬ですがロシア空軍のスホーイだかフランカーだかが宙返りしているシーンあり。

ロシア国家「祖国は我らのために」ポップスバージョン

続いて来賓のあいさつ。



中曽根元総理が名誉会長。
やはり一応は海軍軍人であったという経歴からでしょう。
中曽根元総理は5月27日、日本海海戦の日、つまり戦前は
海軍記念日が誕生日なのだそうです。

このあいさつの概要は以下の通り。

日露戦争は、ロシアの場合には領土の拡張に過ぎなかったけれども、
日本の場合は、生きるか死ぬか皇国の危機に臨んでの戦いで、
明治天皇を中心にして、国民が死に物狂いになって戦った結果であります。
この日本海海戦百年目にあたって日本を回復し、
平和国家として世界に貢献する、我々の努力を見てくださいと、
日本海海戦に努力した先輩に対して、心に誓いたいと思うのであります。

8年前において「日本を回復しよう」と、中曽根さんは言っているんですね。

だがしかし。(笑)


そのころもし日本が回復すべき自信を失っていたとおっしゃるのだとしたら、
もしかしたら、その原因の一つは、自分が拗らせ、ついには

「公式参拝が近隣諸国民の日本に対する不信を招くため」

という理由で(実は親しかった胡耀邦の共産党内の政争に対する配慮と言われる)
靖国参拝をやめてしまったようなことにもあるのではないかしら。

先日、ある東大の保守論陣の方が「中曽根さんのやったことの罪は重い」
とさらっとおっしゃってましたし、客観的にもそうとしか言いようがないわけですが、
そういう自覚はご本人に全く無かったってことかしら。 



それはともかく、さすがはもと帝大卒海軍主計少佐、
言っていることそのものは全く間違っていないと思います。
(だからかえってタチが悪いとも言えますが)

なによりこれを、出席していたロシア代表がどう聞いたか興味がありますね。
そのロシア代表、ガルージン公使の挨拶。

丁度100年前にロシアと日本が激しい戦いを行ったのは
歴史の事実であります。
幸い現在は、その日本海を対決の海ではなく
友好、協力の海にしなければならないという
唯一の正しい選択を行ってまいりました。
現在の日露関係が100年前の時期に比べると抜本的に変わった
ことを特にロシアも喜んでおります。


こういう式典では建前に終始するのが一部を除くまともな大人の国家というものですから、
ロシア公使のこのあいさつは至極当然のものです。

目の前で100年前のこととはいえ、

「お前らの覇権主義に我が国は勝利した」

と言われているわけですから、これが文明国家のロシア代表でなければ
最悪のケースですが、ひと悶着起こっていた可能性もあります。

しかも、現在の日露関係は決していいとは言えず、
いまだに北方領土の問題が解決していないのですから、
考えようによっては公使の言うところの

「100年前よりは日露関係はましになっている」

というのは皮肉にすら聞こえます。
まあ、戦争するしないの間には100万光年の差がありますから、
マシと言えばマシですし、何しろ日本にはそちらより
「関係が悪い」国が約三カ国ございますから・・・

ああ、そうそう、関係が悪い国といえば(笑)。

この式典には招待されてロシア海軍の駐在武官も出席していた、
ということですが、よくわからないのが韓国から海軍大佐が
呼ばれて出席したということ。

そのころ併合していたわけでもなく、そもそも影も形もなかった韓国ですが、
何か日露戦争に関係あるのかしら。
自分とこの領土を巡って両国が戦ったから、って理由でしょうか。

しかし、この韓国軍大佐とやらに聞いてみたかった。

この時に日本がロシアに負けて、朝鮮半島がロシアに占領されていたら、
今頃、韓国という国が、曲がりなりにも(笑)世界の中進国として
人間らしい国家を築いている可能性は全くなかったわけだけど、
それでも日本に併合されるよりはそっちの方がよかったとでも言うのかな?
千年恨むとか、そんなフザケたことをぬけぬけと言えるのも、
すべてはこの時日本が勝ったからなのよ?わかってる?って。




・・・・・・・・・さて。

次いで主要来賓や東郷家等日本海海戦に縁のある方々の紹介、
小泉内閣総理大臣や石原東京都知事から寄せられた電報の披露の後に
記念論文の表彰が行われました。




これは日本海海戦100周年を記念して全国から論文を募集し、
作家の三浦朱門氏が審査委員長となって審査が行われたもの。

賞状を授与されているのは最優秀作品に選ばれた京都女子大学大学院生。
「連合艦隊解散ノ辞に寄せて」というタイトルだそうです。

横に三人が控えていますが、これは佳作受賞者の皆さん。
見てお分かりのように一人海自幹部学校学生がいます。
この方の論文をぜひ読んでみたい。



なぜか日本海海戦100周年記念の柔道大会が開催されました。
これはどう考えても広瀬武夫中佐の関係でしょうね。

広瀬中佐は講道館の勝ち抜き戦で5人抜いて二段を獲得、
戦死後、講道館創始者加納治五郎の手で四段から六段に昇進しています。
講道館に殿堂入りもしているということです。





儀仗隊による弔銃の発射、ならびに海への花輪投入。
手前の二種軍装の海軍軍人は手に清酒を持っています。
まるで外洋に出たフネのようにみえますが、これ三笠艦上からでしょうか。



千宗室氏による献茶。




献茶の様子。
画像が小さかったので拡大してもボケてしまい、
良くわからないのですが、こちらを見ているほぼ全員が
着物を着た女性であるように思われます。
これは千宗室の裏千家の門徒であるということでしょうか。



千宗室は、前にも話題にしましたが
学徒出陣により第14期海軍予備学生として海軍少尉に任官。
そして1945年、特別攻撃隊に志願しています。

特攻作戦の実行が近づいたころ、千は自分達が乗る飛行機の機体の傍で
手持ちの道具と配給の羊羹で5人の隊員全員と茶会を催しました。
その中には、機体不良で引き返し、部隊の中でもう一人生き残った
俳優の西村晃がいました。

千宗室は靖国神社の献茶はじめ、戦没者や特攻隊員のための
慰霊の献茶を戦後、数多く行っています。





このような特別展も催されたんですね。

わーん、これ、見たかった!

河合太郎というのは、この不思議な帽子を見てもお分かりのように、
軍艦三笠で軍楽手(コルネット)だった河合太郎軍楽隊長。
聯合艦隊旗艦「三笠」の乗組員として日本海海戦に参加し、
戦闘中は前部主砲の伝令を務めていました。

映画「海ゆかば 日本海海戦」でも主人公のトランペット吹き始め、
軍楽隊員は伝令と救護、通信を担当していましたね。
一般に軍楽隊員は耳が良いので伝令を任されたということです。

河合太郎は日本海海戦を生き残り、その後三笠が沈没した火災の際も
無事で(この火災は楽団員の酒盛りが原因だったという噂あり)
戦後、軍楽長に進級して第一艦隊軍楽長、呉海兵団軍楽長を歴任。
昭和3年に現役を退いた後は広島県呉市に住み、
広島県の吹奏楽の発展に尽くしたということです。
昭和51(1976)年没。



なお、河合太郎の手記を読者の方からいただいており、そのうち上梓する予定です。



100年を記念して、靖国神社の遊就館でも特別展が行われました。



記念遺墨展。

この時に各地記念講演会も行われています。
阿川弘之、上坂冬子、渡部昇一、曽野綾子などのメンバーによるものです。




横須賀プリンスでのパーティで歓談する参加者。
右はロシア公使かな。



このときではありませんが、ロシアのワリヤーグが三笠を
表敬訪問した時の記念写真。
ロシア軍は皆若々しいですが、それもそのはず、皆士官候補生。

現代のロシア人、ことに海軍軍人であれば日本海海戦のことを
戦略研究の教材として徹底的に学ぶでしょうし、彼らが自国の艦隊を
打ち破った三笠に乗り込んでどんな感慨を持ったか、興味があります。

「意外と小さいフネだなあ」

と思ったことは確かでしょう。



交流の記念にワリヤーグが持ってきたメダル。
こういう時は互いにプレートを交換するのでしょうが、
残念ながら三笠のプレートは扱っておりません。
ご了承ください。




そしてなぜかでてくるアメリカ海軍。

日露戦争にアメリカも関係ないだろ?

などと心の狭いことは言いっこなし。
なぜならこのお方は、在日米海軍の司令官だ!

三笠のある横須賀は米海軍の庭みたいなものだし、
荒れ放題の三笠を復元するのに、ニミッツも協力しているし、
関係ないってことはなくもない・・・・ってことで。

しかし、さっきの韓国の話ではありませんが、もしこのとき日本が負けていたら、
おそらくアメリカは日本に脅威を感じることもなく、当然の帰結として
日米の間に戦争が起こる理由も無くなっていたんでしょうね。

そのかわり、現在、日本という国があったかどうかは謎ですが。

大東亜戦争の結果だけを考えた場合、
「日本はこのとき負けて、のちの戦争を回避した方がよかった」
と言う考えもあるのかもしれませんが、わたしはそうは思いません。

日露戦争に負けていたら、おそらく朝鮮は勿論下手すると北海道あたりも
ロシアに占領され、文句なく近代化は遅れたでしょう。
そして、「日本のような小国でも大国に勝てる」
という希望を支配されていた国々に与えることないまま、
世界の勢力地図は大国支配が長く続いたでしょう。

大東亜戦争に敗れたとき、曲がりなりにも小国や被支配国の
独立への動きが世界の潮流となっていたことは、
日本にとっても幸運なことだったと思います。

なぜなら同じ負けるとしても、この頃にはすでに大国が小国を支配する
という構図は過去のものとなっていたからで(善悪ではありません)
戦争に負けても日本が独立する道が用意されていたからです。

まあ、その独立とやらも占領憲法だの言いだすと話がこじれるので
今日はとりあえず戦後については触れませんが。

そういうことを考えても




「皇国の興廃この一戦に在り」

と言う言葉と「後が無い」という意味で挙げられたゼット旗は
決して大げさではなかったのです。



今年で、日本海海戦から108年め。
世に煩悩の数は108あると申します。
昨今日本を苛んできた煩悩の数々が、今年を境に少しでも払拭されて、
少なくとも司馬遼太郎の言うところの、
「あのころ坂の上の雲を目指していた日本人の高揚」
この気持ちの片鱗でもいいから、何とか取り戻すことができないものでしょうか。

「坂の上の雲」効果とはいえ、いま、日本海海戦に寄せる国民の関心の中に、
その微かな気配が見えるような気がして、若干の期待を持たないでもないわたしです。



「ミラーレスと呼ばないで」〜ニコン1を買った

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おそらくコンパクトデジカメの中では結構いい線いっているのではないか、
と思われるソニーのRX100を購入し、それなりに楽しんでいましたが、
特にエリス中尉のように自衛隊関係のイベントにカメラを必要とする場合、
致命的ともいえる欠点があることに気付きました。

つまり、晴天下でモニターが全く見えなくなるという。

かといって、基地祭でバズーカみたいな一眼レフを担いで
人波をかき分けかきのけ、いつの間にか周りの顰蹙を買うような、
そんな「カメラマン」には死んでもなりたくありません。

そこそこいいカメラで、しかもそんなに重くない(気分的にも重量的にも)
ミラーレスカメラはどうかしら、そう思っていたある日、
日経ビジネスの特集「世界に誇るニッポンの商品100」という記事で、
浄水器、ヘルメット、地雷除去機、新幹線からカップヌードル、ハローキティ、
そういったものと並んで、ニコン、キヤノンの一眼レフが紹介されていました。

一眼レフは精緻な光学とメカの技術が必要で、長く他社の追随を許さなかった。
ところが、パナソニックが2008年、反射鏡を取り除いて構造をデジタル化し、
小さくした「ミラーレス」カメラを発売。
一眼レフのシェアを奪うようになってきた。
しかし、カメラの性能を決めるもう一つの要素としてレンズがある。
キヤノン、ニコンが特許とノウハウで大きく先行。
デジタル化しても簡単に二強の牙城は揺るがない。

という記事なのですが、(ちょっと意味不明な気もするけど)これを見て、

「うーん、しょせんミラーレスは『エンポリオ・アルマーニ』なのね」

と意味不明の納得をしてしまい、一眼レフでなければ買い替える意味なし、
と結論付けてしまっていたのです。

しかし反面、こうも思っていました。

「つまり、キヤノンかニコンのミラーレスならいいってことなんじゃ?」




そんなある日、キヤノンから「小さな一眼レフ」“EOS Kiss X7”が出た、
と言うニュースを知り、俄然欲しくなってしまいました(笑)

画質やAF性能などのデジタル一眼レフカメラに求められる基本性能を
高い水準で維持しながら、小型・軽量化を実現したというもの。
これにより、手軽に持ち歩いて本格的な撮影を楽しむことを可能にし、
撮影領域の拡大に貢献する、というのがキヤノンの謳い文句。

とりあえず見に行きましょう、ということで、連休の終わりごろ、
TOと銀座ショウルームに出かけました。

ところが行ってみると、キヤノンさん、お大尽商売というか余裕というか、

日曜祝日はショールームはお休みさせていただきます

というお断りが・・・・・・・・ORZ
あっそ、ならいいです。歩いて3分のところにあるニコンに行くもんね。

何とニコンは基本的に年中無休。お休みは盆暮れ正月のみ。
ちゃんとこの日も営業していました。

ショウルームの方にまず、キヤノンの軽い一眼レフを買おうとしていたこと、
今使っているコンデジから買い替えるだけの意味のあるものなら欲しい
と思っていることなどをお話しして、何か見繕ってください、と頼みました。

我ながら投げやりである。
お任せ刺身じゃないんだからさ。

というわけで詳細は省きますが(おいっ)、ニコン1の新製品V2をお勧めされ、
あっさりとこちらを買ってしまいました。

いい加減すぎ?



一般的にミラーレスはオートフォーカスが遅いのですが、
ニコン1はこれを払しょくしていて、さらに一眼レフ画像より画素が多い、
とお店の人は言っていましたが・・・・・

・・・・・まあ、なんだかんだ言っても要は撮り手の腕ですよね。

そういう向上心が無いからにはある程度すべてお任せ!
みたいな機能がある方がいい。(なんて結論だ)

ところで、このニコン1、ミラーレスなのにミラーレスとは呼ばないのです。
レンズ交換式アドバンストカメラ、これがニコンの呼び方。

「ミラーレスと呼ばないで」ってことですか。

呼ばれたくない、その理由は?
プライド?それとも
「レンズ交換システムでエンポリオアルマーニ臭を払しょくした」(意味不明)
という前向きな姿勢の表明?


わたくし、ニコンすなわち日本光學工業株式會社が、戦時中は
戦艦大和の15メートルある測距儀を作っていた、という話を知ってから、
結構思い入れを持っていたのです。

まあもっとも、

東京光学機械株式会社(現・トプコン)
高千穂光学工業(現・オリンパス)
東京芝浦電気(現・東芝)
富岡光学器械製作所(現・京セラオプテック)
榎本光学精機(現・富士フイルム)

これら皆日本軍の光学兵器を開発・製造していましたが。

しかし、軍需光学機器製造企業としては、陸軍系の東京光学に対して
海軍系の製造をしていたので

「陸のトーコー・海のニッコー」

とも謳われていた、というのがニコンひいきの大きな理由。
さらに、戦後あのマッカーサーが「日本人は12歳児」という暴言を吐いたとき、

「日本人は12歳などではない」

という反論を新聞に載せた企業である、と知ったときから、
特に思い入れを持っているのです。

だから買った、というわけでもありませんが、今回キヤノンを見に行って
(そこで買えないのにもかかわらず)休みだったのでニコンを買ってしまう、
まあ、こういういい加減なその場任せの消費をする人間も世の中にはいるってことです。

ご参考までに。



充電して最初に、ベランダに来たスズメを撮ってみました。
ガラス越しとはいえ、なかなかいいのではないかしら。
ちなみに、わたしは毎朝スズメに「コシヒカリ」を与えて手なずけています。

世界が終わるときにはスズメが助けに来てくれる予定。


前回、アメリカでカメラを買い、英語の説明書を読むのが面倒で、
「カン」だけで使ってきたわけですが、今回せっかく日本で買ったのだから、
と、ショールームで開催している無料の「使い方教室」に行ってみました。
参加者は前部で五、六人。
平日の昼間だったせいか、全員が女性です。

 

前のモニターに説明の女性がカメラをつないで、
ここにカメラ内部が写るようにしながら説明してくれます。
風景写真を撮ったり、前の花かごを撮ったりしながら説明終わり。

しかし、この説明を聞いたあと、今までのRX-100の使い方の疑問も
ほとんど氷解いたしました。

そして、あまりわからずに使ってたらしいということがわかりました。
こちらのカメラも公平に使ってあげることにします。

というわけで、使い方がわかったので次の乗馬のときに
さっそニコン1、持っていきました、

 

モーションピクチャーというのか、スポーツモードに調整してもらって
それで撮ったもの。
小さくてわからん、って?

画像処理のソフトがまだ使いこなせていないんですよ。

 

わたしが乗っているのを今度は先生に撮ってもらいました。
自分の姿勢を映像でチェックすることは大事だそうです。
右は新しく来たドイツ人(ザルツブルグ出身)の先生。

 

右側は前のカメラ(カール・ツァイスレンズ搭載コンデジ)で撮ったもの。
写真を小さくしすぎて、あまり違いが判りませんね。
というか、やっぱりRX100 、悪くないですよね。




最後に、先生の撮影した写真。
馬の表情がシュール・・・・。


というわけで、取り合えず昨日静浜基地でデビュー戦を飾るべくブルーインパルスを撮ってきました。
冒頭写真がそれです。
またこの航空祭のことを明日からお話ししますのでお楽しみに。






静浜基地航空祭〜ブルーインパルス

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行って参りました。

静浜基地、つまり静岡浜松基地航空祭。
カメラを買ったせいもあり、なんとなく家族で盛り上がった結果、
なんと家族で基地祭参加の一泊ツァーに申し込んで、
土曜の朝から日曜の夜いっぱい、「飛行機三昧」の終末を過ごしたというわけです。

行ったことがないので興味津々のTOと、相変わらずこういうことには出不精で、
嫌々参加の息子、(一般的な13歳の男子として、これかなりおかしくないですか?)
そして何より扇動者であるところのエリス中尉。
三者三様の航空祭となりました。
まあ、この二人のことはどうでもいいので置いておいて。

今回の航空祭では、昨日エントリーでもお話しした「ニコン1デビュー」が大きな目的。
まあ、それなりに撮れたような気もしますが、何しろ不慣れなもので、
画像の処理等時間がかかってしまい、今日は写真をアップするのが精いっぱいです。

・・・・・誰だ。別に本文はいらねえ、と言っているのは。

というわけで、今日は比較的淡々と、世間的にも注目度の高いブルーインパルスの演技だけ、
貼っていきたいと思います。

まずは編隊飛行から。



1番機には後部座席にも一年目のブルーが乗っているようですね。
肉眼では全く見えないけど、写真だと分かる。



一番機にはHPによると三名割り当てられていて、
飛行班長という「キャプテン」は現在二人いるそうです。
一人がもうすぐ卒業するパイロットということです。
どちらが搭乗しているのかはわかりませんでした。
アナウンスではちゃんと名前をコールするんですけどね。
一番機は全員が佐官以上です。

全員が一番機だけを見て飛ぶらしいので、これは当然かもしれません。

ところで今初めて気づいたのですが、この一番機の機体番号・・・・・・。

あれですね。

安倍首相が乗って写真を撮り、韓国が大騒ぎしたという「731」。

ついでだからこれ、J−castニュースの記事から抜粋しておきます。


日本は数字に意図はないと否定している。
菅義偉官房長官は15日午前の記者会見で
「あえてそんなことをするはずがない」と述べた。

航空自衛隊の広報によると、「731」に首相が乗った理由は
「単純に、731が隊長機だったからです」という。
12日、松島基地には他の番号の機体もあった。

731というのは、
練習機T-4のうち131番目に製造された
という順を表すに過ぎない。
それがたまたまブルーインパルスに配置され、隊長機として使用されていたため、
首相が乗って写真撮影することになったというわけだ。

なお、写真を見ると機体には「Leader S.ABE」と特別の標示が書き込まれていて、
首相の試乗に際してはかなり入念に準備をした様子。
番号について、引っかかる人はいなかったのかと水を向けると、

「ないです。あれば変えてますよね…」



・・・・もう・・・・・子供か。
いったい精神年齢何歳なのこの国。

「731」が森村誠一の小説通りの史実であったかどうかはともかく、
そもそも、なぜ中国でなく韓国が大騒ぎになるのかと。(呆)

「あれば変えてます」
とおっしゃいますが、お願いですからそんなアホなイチャモンを前もって想定し、
日本のすることを鵜の目鷹の目で揚げ足を取って非難することだけが目的の
特ア、特に韓国なんぞに「配慮」する必要は最初っからみじんもありませんから。

航空自衛隊、いや、全自衛隊の広報の皆さん、見ておられますか?
そういうことですので、今後も全く気になさらなくて結構ですからね。


ここでまたしても余談ですが(何が『比較的淡々と』でしょうか)
最近、海幕広報室において
「海上自衛隊に批判的、攻撃的なマスコミ、マスコミ人、ブロガー」に ついて
リスト化されているという話が、現役海上自衛官並びに海自OBから漏れたそうです。

ある現役自衛官は

「確かに書面化したり、フラッシュメモリーなどの電子媒体で、
明確にわかるようなリスト化はしていないだろう。しかし、
口頭で『こいつは好意的』『こいつは批判的』と申し継ぐ、
いわば暗黙の『リストとはいえないリスト』は明確にあるはずだ。
幹部はもちろん、当の海幕広報室だって、リストがありますかと聞かれれば、
ないと回答するのは当然。
しかし、防衛省情報本部や海幕広報室は、大型掲示板のほか、
自衛隊に関して書かれているブログ
や ウェブサイトは日常的にチェックしている。
恐らくデータ化、すなわちリスト化もしているだろう」

と述べた、ということなのですが、だとしたらこのブログ、
gooブログ総数19万弱のブログの中で、上位0.002%のランクにも入っているこのブログが、
リスト入りしていてもおかしくない!

と希望半分で言ってみる。











定規で測ったような間隔をキープしながら、何百キロものスピードで空を駈ける。
これは・・・・・・五線ですね。
大空に描く五線。

そこにあなたの心に浮かんだメロディを記譜してください!(アオリ文句)








もしかして。ひっくり返ってますか?



もしかして、これも全員ひっくり返ってますか。
いつも思うのだけど、この間重力はどうなっているんだろう。
シートベルト?が無かったら、キャノピーに落ちるのかしら。




二機が高速で至近距離をすれ違う。
これは、ある方によると「ぶつかりそうだけど、観客からそう見えるだけで、
実際は結構な距離がある」ということでした。



こうしてみると、翼が接触しそうですが、実際は奥行きがかなりあるとのことです。

それでは、単機を撮ったものを。



これも背面飛行。

この五番機は「第一単独旗」といい、Lead Soloという役割です。
つまり、スタープレイヤー的な演技をする機ではないかしら。(適当)
因みにこの五番機搭乗員は「公報幹部」乃万剛一三佐。
「空飛ぶ広報室」というTV番組をつい思い出してしまいますね。(わたしは観てませんが(-_-))
公報幹部とはクルーとしてプレスの質問に答えたりする幹部と解釈したらいいでしょうか。
これが本当の「空飛ぶ公報幹部」。



単機急上昇。
どこまでいくんだあっ!



と思ったら急降下。
4Gくらいは余裕でかかっていそうな動きですね。
こういうのもどうやら5番機の演技?
耐圧スーツを着ていないと、おそらく失神すると思います。





 

またもや急上昇。



太陽に吸い込まれていく!
そして皆が見つめる中、機影は突然ふっと消えました。

ここで「逆タカ戦法」という言葉がふと浮かんだのは、
この何万人もの観客の中、エリス中尉だけではあるまい。

・・・・だけでないといいなあ。(願望)



もしかして、結構ニコン1、いいですか?



シャッタースピードをほとんど限界まで上げて撮りました。




それでは最後に、ブルーが青空に描いた「作品」をいくつか。













ここでお待ちかね・・・。





ハートに刺さっていく矢。
この後ハートの裏から矢が突き抜けて出てくるのですが、
間違って画像を削除してしまいました・・・・・・orz

今回のハートは、去年の入間で見たハートよりお上手でした。
風があまりなく、スモークが残りやすいせいもあったかもしれません。

そして・・・・・・





5機が一辺ずつ描くお星さま。
これも、入間よりお上手でした。



そして、去年の入間航空祭で、2番機のバードストライクによる事故のため、
演技中止となって見られなかった「コーク・スクリュー」。

なんですが・・・・・・・。

ここに至ってシャッタースピードの調整に失敗し(T_T)、
よりによってこの演技の最初の部分の写真が尽くボケてしまいました・・・。
(なので最小画像です)



二機はそのあとらせんを書くように上昇してゆき・・・・・



太陽に向かって消えていきました。





しかし、今回ハートの演技を見ていて思ったんですが・・・・・
ここに、ブルーインパルスのクルーとお付き合いしている恋人がちょうどいたとしましょう。
ある日、5番機の(かどうか知らないけど)彼から

「静浜基地の演技で、俺、ハートの矢になるんだ。
君のハートを射抜くつもりで演技するよ。
それを観てくれ。そして返事が欲しい」

なんてプロポーズされて、実際自分の恋人が青空に描かれた自分のハートに向かって
ブルーインパルスの機体で真っ直線に飛んでいくのを見せられたら・・・・・

どうですか〜?

もうこんなの、OKの返事を出さない女子なんていませんよ?
成功率100パーセントのプロポーズですよ。

しかし、世界でこのプロポーズができるのはブルーインパルスの隊員、
しかも矢を射る5番機の(かどうか知らないけど)一人だけなのです。


実はこれ実話なのですが、当日会場では、ブルーの演技が終わってから、

「皆さんもパイロットになって大空を飛んでみたいと思いませんか?
でも、『目が悪いから』などと思ってあきらめているあなた、
今は目が悪くても道はあります!
なぜならどうたらこうたらなので大丈夫です。(ここは聴いていなかった)
興味をお持ちになったあなた、どこそこに自衛隊地方連絡会のテントがありますので、
入隊案内の説明をぜひそちらで・・・」

と、ここぞとばかり勧誘のアナウンスをしていた、空自広報でございます。

まあ、高嶺の花の彼女にプロポーズなんていう下心で勧誘するまでもなく、応募者は多いのでしょう。
宅のTOですら、冗談とは言え、ブルーインパルスの演技後、これを聞いて

「え、目が悪くてもなれるの!
もう今の仕事辞めてパイロットなろうかな」

とつぶやいていたくらいですから。


静浜基地航空祭ツァーのご報告、またもや(延々と)続きます。
あ、日本海海戦のログも実はまだ終わってませんので、
こちらも並行してお話ししていきたいと思います。







静浜基地航空祭〜練習機T−7

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去年、生まれて初めて入間基地の航空祭というものに行ったわけですが、
今回、入間とここではずいぶん雰囲気が違うなと思ったものです。

ここ浜松は何と言っても入間より土地が広く、草地が相当あるので、
観客はエプロン前で行われるヘリの降下訓練(一回だけ)があまり見えない、
ということにさえ我慢すれば、ピクニック気分で草地にシートを広げたり、
あまり大きくなければ日傘を立てたりすることができるのです。


航空祭のいいところは、どこに場所をとっても、そう見え方に違いはないこと。
観艦式や降下訓練と違って、前のバズーカの砲列にさえぎられて全く見えない、
というような悲劇はあまり起こらず、したがってかなりのんびりしています。

ただ、そういうものなのだからこそものすごい数の人が基地に押し掛け、
別の意味での阿鼻叫喚は避けられません。
そんなこんなは今後お話しすることもあるかと思いますが、
それより入間との違いでもっとも重要な点は、この基地に配属されている部隊の関係で、
主流となる飛行機が、このT−7であることです。

1990年代から練習機として開発が始まったT−7は、ここ静浜基地の第11教育団に
配備されている、いわばここの「(-.-)顔」となる飛行機だったのです。

であるからして、ここにはT-7ジュニアというバイク軍団もこっそりと配備されています。
このT-7ジュニアの演技についてはまた別の日にお話しするとして、
まずは我が家の面々がツァーで前の日から浜松入りし、この日朝6時に起きて
7時出発のバスに乗り、基地に入ったところから始めます。



どうでもいい写真ですが、ここに泊まりましたってことで。
ビジネスホテルに毛が生えたような駅前ホテルで、
親子三人が一室ずつ、三つの部屋に分かれて宿泊しました。
息子とは隣同士の部屋でしたが、スカイプで連絡を取り合いました。
スカイプ、便利。


当日朝は6時半から朝食。7時にバス出発です。
自分だけで行動していたらきっとこんなに早く起きなかったでしょうから、
ツァーにしてよかった、とその点だけは思いました。
外来機の帰投が見られないのが残念だったので、
おそらく二度とツァーではいかないと思いますが。

ガイドさんが帰りのバスで言っていたのですが、
当日朝出発のツァー客は周辺の渋滞に巻き込まれたため、到着が11時近くになり、
午前中の展示はほとんどが終わる頃会場に入り、しかもツァー集合時間は2時40分。
この日ブルーインパルスの演技時間が押したので、それすら満足に見られなかったということです。

皆さん、基地見学ツァー申し込むなら一泊ですよ。



基地のすぐ近くにある水産工場の敷地でバスを降り、
歩いて正門から入ります。



歓迎されています。



正門の掲示板に貼ってあったいまいちよくわからないコンセプトのポスター。

●自衛官募集
●自衛官を採用することを企業におすすめ
●サンダーバードのブルーレイコレクターズボックスの宣伝

と、いろいろ盛りだくさんに詰め込んでおります。



手荷物検査はありませんでした。
身分証明書も必要だと言われていましたが、見せませんでした。
ここに立っている警備の方たちは、怪しそうな人物だけチェックしている模様。



さっそくT-7がお出迎え。




基地に入るとさっそく列ができています。
何かと思えば、C-1の中を見学するために並んでいる人たち。

 

まだ時間もあるので、入ってみることにしました。

 

入間基地から来ているC−1です。
人員は60名、武装した空挺隊員なら45名乗せることができます。
相撲取りなら20人ってところですね。



中にはちゃんとパネルで第二輸送航空隊の説明が展示してあります。

 

シートは折り畳み式。



にこやかに応対していた隊員さん。



C−1を降りたら、列はそのままチヌークの内部を見る流れに。
見たかったんですよ。チヌークさんの中。

このCH-47も、ここの配備ではありません。
入間か美保か。
いずれにしても外来機です。

ひとつの基地に配備されている航空機だけではいまいち盛り上がりに欠けるので、
きっとこうやって外来機が来るんでしょうね。
で、ブルーインパルスが「花を添える」と。

  

想像していたより中は大きくありませんでした。



陸自のヘリ軍団も展示されていました。

 

相変わらずいかつい武装ヘリである。
AH-64D、アパッチロングボウのチェーンガン。



ううっ・・・・・かっこいい。

迷彩柄はやっぱり陸自のものであるとこういう光景を見ると思います。



いたいた。OH−1。

じ・つ・は・ですね。
このOH−1、ずっとおとなしく(笑)展示されているだけのために
この日明野かどこかから外来していたわけですが、
ブルーの演技が終わって外来機が次々帰投していくわけですよ。
わたしたちはそれを見送ることができず、エプロンの格納庫の裏を
ひたすら集合場所に向かって歩いていたのですが、そのとき、
こいつが帰投のために上昇を始めたと思いなせえ。

この「ニンジャ」のパイロット、やってくれました。

ふわ〜〜っと浮き上がったかと思ったら、アヤシイ動きを始め、見ていた皆が

「えっ?えっ?宙返りする?」

と驚愕のままに息をのんで見つめていると、

「なーんちゃって。やりませんよ。だって今日は空自の基地祭だもんね」

って感じで、素知らぬ顔で元に戻ってしまいました。
あれは、絶対に狙ってやっている。(確信)

残念だったのは、帰るときだったのでカメラをバッグに入れてしまっていて、
撮る前に消えてしまったこと。
ああ、それにつけても一度この目で宙返りを見たいものである。

・・・・・・これは、明野基地の航空祭には行かねばなるまい。

さて、座る場所を求めてうろうろしていたら、9時になり、
基地司令の御挨拶とともにオープニングフライトが始まりました。


 

さあ、いよいよ始まるぞ!
と移動しながら空を眺めていると・・・・。



航空祭が晴れるように、隊員が巨大なてるてる坊主をつくったらしく、
それが飾ってありました。



こ・・・・・・っ。 これは!



そして始まるT−7の飛行。
青い空に白と赤が映えて実に美しい。



練習機ですので、なんとなく玩具っぽい。
このT−7、まだ運用が始まって10年なんですね。
製作は富士重工業です。





練習機と言いながら、乗っているパイロットが結構貫禄あるんですけど・・。
こういう時は教官が乗ったりするのかしら。

まあ、昔もそうだったけど、今も教官と言ってもそんなに年齢が違うわけではないらしいですが。



止まったら即座に整備員が整備点検。
彼の持っているものはなんでしょうか。

アナウンスではこの整備員の任務についても詳しく紹介していました。

整備小隊というのも整備補給群という名で第11飛行教育団に含まれます。
因みに先日「目が悪くてもパイロットになれる」というアナウンスがあった話をしましたが、
ここにはパイロット適性を検査する機関である「衛生隊」があるのです。
この隊も第11飛行教員団の一つです。

わたしが聞き漏らした部分ですが、パイロットになるのに昔は「裸眼でないとダメ」だったのが、
今では「眼鏡で矯正して見えればOK」となっているのだそうです。



手は後ろに組むのがどうやら基本姿勢らしい。



各飛行機の前とレフトウイングの後ろに立っています。



最初の演技が終わってエプロンを移動中。
観客が皆手を振るのに答えてパイロットも手を振ってタキシングします。



次の飛行のためにもう一度ラインナップ。








二機が時間差で飛び立つ瞬間。
921番の機体が邪魔だ〜。
















赤い帽子は整備隊のトレードマーク。



この人はパイロットです。
背中にパラシュートを背負って、ヘルメットを持っています。

何度も飛行を行ったT−7ですが、どうやら演技終了となりました。



バスが到着。



カメの甲羅のようなパラシュートを背負ったパイロットが降りてきました。



観客の声援に応えて手を振りながら退場。
まるで千両役者のように注目を浴びています。
ところでふと疑問を感じたのですが、ここ「飛行教育団」は、
教育を施す教官が主なのか、生徒が主なのかどちらなんでしょうか。
この、歩いているパイロットたちはもしかして「先生」?



いずれにせよいい笑顔です。

そして、午前中の演技が終わった後、最後のダメ押し?大編隊飛行。





向こうからやってきた編隊は・・・・・





富士山の形での編隊飛行です。
ここは静浜基地、富士山のお膝元だからですね。

この航空祭は午前中、T-7に始まって、

T-4
RF-4
F-2
F-15
C-130
UH-60

とこれだけの空自所属の外来機が飛行しました。
静岡県警のヘリも特別参加していました。

これらの飛行についてはまた後日。







開設1000日記念時事漫画ギャラリー

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「TPPはビートルズのようなもの」



静浜基地航空祭のご報告並びに日本海大戦についてのエントリ掲載途中ですが、
0のつく日に「1000日記念シリーズ」を入れることに決めてしまったので、
無理やり挟みます。



さて、この「Let It Be」のパロディ。
イラスト自体は個人的に気に入っています(笑)。

「TPPはビートルズのようなもの。
アメリカがジョンなら日本はポールだ。
どちらが欠けても美しいハーモニーにはならない」

政治家はあまり妙なたとえをしない方がいいですね。
ジョンが殺されたとき「犯人はポールか?」っていうのが流行ったって、
野田さんはご存知だったのかしら。

野田さんは政権末期にもプロレスのたとえを出して妙なことを言っていましたが、
一部のファンにウケても、皆に怪訝な顔をされては意味がないと思うの。
どちらにしても、たとえのセンスがひどすぎる。

それにしても、安倍総理、TPPに関して自信満々ですね。
自分たちが押していたにもかかわらず、マスコミは
それが批判原因になるとなるとさっそく「反対の声」を強く押し出し、
政権の人気低下につなげようと画策しているようですが。

安倍総理が今回強気なのは、もしかしたら
アメリカの経済があまり良くないのであまり無茶も言ってくるまい、
という読みをしているのかな?と個人的には思いますが、
どうなっていくんでしょうね。

ただ、まだ「交渉参加」ですが、個人的には心配といえば心配。
アメリカって何しろ「真っ黒黒助」だから・・・・・。



「腹話術で歌え君が代」



「大声で歌え君が代」のパロディ。
日教組先生とマスゴミ批判です。
君が代を歌っているか「口元のチェック」という荒技に出た
橋下市長(当時)にマスコミが狂乱したのは記憶に新しいところ。

「もし口を開けずに腹話術で歌っていたらどうするのか」

小学生でも言いそうにないこの屁理屈が、
ほかでもない新聞記者の頭から出てきたということに絶望しました。

思うに、この国のガンは間違いなくこの国のマスゴミです。



国会劇場「田中くんと山本くん」



国会での田中防衛大臣と山本一太議員の息詰まる質疑応答(笑)。

その後入れ替わるように妻が文科大臣になりましたが、
これがまた何をやらかすか目が離せませんでしたね。

野党自民党議員に
「どさくさに変なこと(朝鮮学校無料化)決めるんじゃないでしょうね」と言われて
「どさくさってなんのことですか。わかりません」
としらばっくれておりましたっけ。

その後、選挙で落選、比例復活もならず無職となった田中真紀子。
「なぜ落選したのかわからない」という後援会の落選の弁にネットでは
「それがわからないから落選したんじゃね?」などと突っ込まれていましたが、
彼らがよくわかっているはずの「落ちた理由」を公表しようものなら
真紀子にいったいどんな目にあわされるか。
使用人を裸で真冬表で土下座させたり、カレーの鍋を頭からぶちまけて火傷させたり、
つまりそんな人間が「親父の義理」だけで当選し続けられるわけはない、ってことでしょう。
彼女にとっての人間は「家族か敵か使用人」であるとのこと。

うーん、人生がシンプルで実にうらやましい。
絶対にそんな人間にはなりたくありませんが、

しかしそれを考えると、真紀夫である田中氏って途轍もなく人間ができているんじゃあ・・・。

そういえば、この人に質問する野党議員も必ず
「人格は尊敬申し上げますが」なんて言ってたなあ。
きっと気のいい、いい人なんだろうなあ、と思っていたら!

晴れて野党になり、質疑台に立つことになった田中真紀夫。
わけのわからない揚げ足取りで「具体的に」
を100回繰り返しながら与党をねちねちといたぶっている(つもりの)
この馬鹿男のしつこいだけで中身のない低劣な弁論を見て

「どこがいい人なんだ!ふざけるな!
わたしの同情と憐憫を返せ!」

と画面に向かって叫んでしまいました。
何年後か知らんが、夫婦そろって無職になるのは確実。

その汚い首を洗って待っているがいいわ。




「理系総理 管直人」



野田総理が解散を宣言した後、うちにお掃除に来た方が

「やっと解散しましたね」

この人に、エリス中尉2009年の政権交代前

「民主党はまずいですよ」

とさりげなく啓蒙の意味で雑談したことがあります。(オルグ、いや拡散活動です)
ところが、この方、
「どこがやっても同じですよ」
などとエリス中尉に言わせると「もっともたちの悪い無関心発言」をするのです。

「誰がやっても同じ」とか、「政治に興味がない」とかいう奴は選挙に行くな!
そして、どんな社会になっても文句言うな!というのがわたしの持論ですので
そのときはそれ以上言わず黙っていましたが、
この三年の間、何か思うところがあったらしく、確実にかれは「民主嫌い」になっていました。

「やっと解散しましたね」と彼が言ったとき、
「どこがやっても同じなんかじゃなかったでしょ?」というと、
「いやいやーー。
しかしさっそくマスコミがねつ造印象操作しまくりですねえ」

なんか、しかも民主政権下でみなさんいろいろと目覚めてしまったようですね。
世論操作どころか、マスコミはこれからインターネットによって監視され、検証され、
そして批判される立場になってきているのではないでしょうか。

いろいろと時代が変わっていきつつあるという気がします。


『兄弟牆に鬩げども、外その務りを禦ぐ』




プーチン様に丹羽大使の批判をしていただきました。
オフレコ扱いで報道されていないけど、この財界人大使は

「尖閣問題で、日本は問題が存在しない立場をとっているが、
パンツを穿いていないのに穿いていると勘違いしているようなものだ」

というとんでもない発言で、「売国奴」認定の上「下品」という点でも烙印を押されました。
(ここに書けなかったとんでもない発言もあり)
しかしながら退任後。


ある中国人の「丹羽大使への手紙」という中国語の文章が、
ネットで話題になっていました。いわく

「大使は大使の職にありながら、ビジネスの頭で問題に取り組んだ。
大使は、人と人は交流を通して理解できると信じ、どんな外交問題も
話し合いによって解決できると考えていた。

尖閣には主権争いが存在すると公言したあなたには大使の資格はなく、
さらに売国奴と呼ばれても仕方がなかったかもしれない。

『中国が日本に学ぶべき点はいまだにたくさんある。
工場を作って動かすだけが経済ではない』
最後のあなたの言葉を、我々は友人への忠告として受け止める。
また北京に戻ってきて両国民の友好のために知恵を出し続けてほしい」

中国人にとっては、非常にありがたい、評価されるべき「大使」であったというわけです。
中国人にとってはね。


「ハトヤマ・リスク」



やっとのことで引退した鳩山由紀夫。
残した迷言は数知れず、壊したものも数知れず、皆がムンクの叫びのような顔で
彼を見ているのに、それをあくまでも「自分への声援」だと受け取り、
「お気持ちをいただいた」などと心の底から言える男。
ある意味、最強です。
どんな罵詈雑言も、その脳内お花畑スイッチで「お気持ち」に変換する、
その超ポジティブな思考と、皆が止めているのにあちこちに出かけて余計なことをする、
無駄に積極的な行動は「もっとも厄介なのは無能な働き者である」
という言葉を体現するかれの姿はある種の感動すら巻き起こしました。

と言う意味では歴史に残る宰相であったと言えましょう。

「あの日の安倍晋三」



安倍首相のマスコミのネガキャン、あまり精彩ないですね(笑)

カツカレーに始まって、このあいだの「ブルーインパルス731機」問題も、
結局マスコミが火をつけようとしたんじゃないかと思いますが、
官房長官の菅さんがハッキリモノを言う人なので、
そういった問題を無難にガードしているのかもしれません。

とにかく、そんなマスゴミが担いだ民主党、
その民主党に積極的にむちゃくちゃにされた日本。
安倍政権発足当時、
「日本を取り戻す」
というキャッチフレーズに対し、いちゃもん半分で
「何を取り戻すのか」と批判していたキャスターがいましたが、
自分たちでここまでしておいて、そりゃないんじゃなーい?


「反橋下に正論なし」



橋下さんというのも何と言っていいのかわからない人です。

「誰かを全面的に応援する」というようなことは、こと政治家に関しては無理で
「方向性さえ同じであればある程度は妥協して選び、当選後はおかしなことには
遠慮なく声を上げ、目に余れば降ろす。
それが「政治に参加する」ということの限界なのではないか、というようなことを語ってみました。

橋下市長が「入れ墨をした公務員はクビ」としたことについて、ある方が
「あれは頭がいいと思いましたね」とおっしゃっていました。

ヤクザであったとか、どこの出身であるかを理由に辞めさせる、
などというと大変なことになるが、入れ墨をいれた者に対象を決めることは、
恐ろしいほど正確な、ある層を見分けるための「判断基準」となるからです。

先日、慰安婦問題に絡んで、在日アメリカ軍に対しとんでもない正論をぶつけた橋下市長。
アメリカさんは一度は橋下さんを非難にかかりましたが、さすがはアメリカ。
どこかの朝鮮半島の国とは違って
「この挑発に乗ってしまったら、藪蛇になる」
と自制心が働いたらしく、最近では
「地方自治体の長の発言に関してはコメントは出さない」
と、トーンダウンしてしまいました。

韓国からやってきた自称慰安婦も、最初は「橋下に土下座させるため」、
対決を申し込んできたのですが、結局直前の三時間前にドタキャン。

普通の日本人でもたいてい論破されてしまうようなこの人物に、
本人でさえも発言が二転三転している、年齢詐称の怪しげな「慰安婦」が
勝てるわけがない、ということを、
周りの支援団体が本人たちに言ってやめさせたんでしょうね。


橋下さんが政治家として発言することは、いつも
「だって本当じゃないか」
と、たとえば正義感に溢れた熱血中学生の言うことみたいです。

非の打ちようのない正論だからこそ、今まで誰も言わないことを平気で言い、
論難を恐れずむしろ挑発して騒ぎを大きくしたがっているようにも見える。

しかしわたしは個人的に、一人はこんな政治家が日本に居てもいいんじゃないか
という気が最近しているのです。

だって、慰安婦問題、いままでやりたいようにやられてきた日本が、
この騒動のおかげで「膿み出し」できそうな勢いですよ?

アメリカが日本に「敗戦国としての罪悪感」を押し付けたままにしておきたいことや、
慰安婦とやらを突っつくことでその嘘と担ぐ人たちの目論見も、
いわば明るみに引きずり出された感があります。




まあ、だからといってこんな人が総理大臣になっても、それはそれで困りますが・・。



時事漫画はあまりたくさん描いたわけではありませんが、なんというか
描くモチベーションと言うのがどうも「アイロニー」「批判」だし、
単なる挿絵として描いているので作品としてわりと「どーでもいい」のが多いです。
でも、先日の「ジミンガー」もそうだけど、アイデアだけで結構ノリノリなので、
描いているだけでストレス解消になるのも事実です。


ところで、昔、謎の削除に遭った「NHK訴訟問題」のエントリが、
自動的にバックアップされていたことがわかりました。

「JAPANデビュー」訴訟に見るNHKの問題点


エントリ復活です。
興味のある方はどうぞ。




静浜基地航空祭〜T−4(ドルフィン)とブルーインパルス

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塗装が違うとこんなに印象が違うものか、とつい思ってしまいますが、
皆さんご存知のように、ブルーインパルスの機体はT-4を使用しています。

ブルーは白と青の塗装にし、チームで独特の演技飛行をしますから、
何か特別な機体を使っているように思っていましたが、同じ機体だったんですね。

わたしがこのあたりのことを知らないのは、読者の方も周知の事実。

先日、ブルーインパルスの飛行についてのエントリで
「シートベルトをしていないと背面飛行のときに落ちるのか?」
と書いたところ、

余計な事ですが、座席の「シートベルト」は「ハーネス」と言った方が、
業界的には、「・・・関係者の方ですか?」かも知れませんよ。

「ハーネス」とは乗馬クラブで聞いた事があるのでは?
そちらの方が「より」らしいでしょ?

という、噛んで含めるようなご親切なメールをいただきました。
乗馬クラブに限らずハーネスという言葉は存じ上げているんですが、
そういう気の利いた?言葉がすっと出てこないんですよ。わたしの場合。

さらに見るに見かねて?このような、
「初心者向け講座」までしていただきました。

「ひこうきのおもなしくみ」

方向昇降舵
補助翼
フラップ
ドッグトゥース


・・・・・・そんなことくらい知っておるわ!

といいたいところですが、実のところこの中で自信を持って
「はい、ここです」といえるのはフラップと補助翼だけ。
あとはどれもこれも、聴いたことも意味も分かるけど、ではそれはどこですか、
と聞かれると「えーと」ってかんじだったので、役に立ちました。(役に立ったんかいっ)

特にドッグトゥース。
犬の歯ですね。これは初めて知りました。
装飾の形状に始まって、航空機で普通に使われているとは、目からうろこです。

というわけで、エリス中尉、またしても少し物知りになってしまうのだった。
どんな知識も毎日のように積み重ねていくうちに、『道』は形成されていくのだなあ。

どこに行く道かはわかりませんが。



T-4はいわゆる「サブソニック」、亜音速機にカテゴライズされます。

超音速、すなわちマッハ1以上のものを
「スーパーソニック」(超音速)といい、たいていのジェット戦闘機がこれに当ります。

スーパーソニックがマッハ1.2〜5のスピードだとしたら、この「サブソニック」は0.75。

このことを息子に言うと、即座に「これを見たまえ」と言って、サウンドバリア、つまり
音速の壁を破る瞬間のyoutube映像を見せてくれました。

本当に「ドーン!」っていうんですよ。その瞬間。

・・・・え?

そんなことも知らんかったのか、って?(-_-)

超音速の参考映像として、わたしがサンフランシスコで見たブルーエンジェルスの機体が
例に挙げられていましたが、ブルーエンジェルスの機体はF/A-18ホーネットです。
この辺相変わらずあんまり詳しくないんですが、インパルスよりスペック的には
上位の機体、つまりスーパーソニックの機種を使っているってことでOK?

ちなみにエンジェルスのパイロットは、耐Gスーツも酸素マスクもつけないそうです。
それが「ブルーズ」の伝統だそうですが、いったい彼らは何に挑戦しているのか。




翼端と垂直水平尾翼の先端のオレンジは蛍光色に塗装されています。
練習機ですから、視認性を上げるためですね。
垂直尾翼の黄色と黒のチェッカー柄もその一環でしょうか。

そして皆さん、742機のパイロットたちの首の向きを見てください。
なんとなく相手の機を見ているらしいのがおわかりでしょうか。






そして、写真を拡大して初めて知ったのですが。

742番の機の後部座席搭乗員をご覧ください。
一人だけ手を振っていませんか?(-_-)/
誰か知り合いに約束でもしてたんでしょうかねえ。

それとも何か「キュー出し」している?



どうも調べたところによると、このT−4練習機、やたらと操縦しやすいそうです。
練習生が、昨日画像をお届けしたT−7、プロペラ機からジェット機に、
ストレスなく移行するには、この「亜音速」が非常に有効、すなわち、
「亜音速」と「超音速」のあいだには「遷音速」(トランソニック)という段階があるのですが、
このT−4は超音速機への移行を目的としているので、
「遷音速のための翼」が採用されているのです。

漂音速とは、

機体表面に超音速の気流が存在しない速度(亜音速)を超え、
全ての気流が超音速となるまでの、
亜音速の気流と超音速の気流が混在する領域、

即ち

「亜音速以上超音速以下」

のことですね。
マッハで言うと0.75〜1.25、ジェット旅客機の巡航速度に相当します。

さらに、この機体、そのシェイプもまた練習用として配慮が行き届き、
全体的に丸みを帯びたその形態は、イルカに似ていることから、
「ドルフィン」というあだ名(正式名称ではない)がついています。

そういえば、ブルーインパルスの整備チームのことを
「ドルフィン・キーパー」というんですが、ドルフィンとはT−4のことだったんですね。

ここで、ブルーインパルスが背面飛行に移る連続コマ写真を少しだけ。














同じ機体を使ってはいますが、ブルーインパルスで使用されている機体は
正式には戦技研究仕様機という「特別あつらえ」です。

改変された点は以下の通り。

ウインドシールドなどの強化
HUD透明表示板の材質変更(バードストライク対策)、
ラダーリミッタの制限角度変更、
低高度警報装置の追加、
コックピット内の一部機器追加やレイアウト変更、

そしてこれがなければブルーインパルスではない!ということで

スモーク発生装置の追加



ラダーリミッターのラダーとは、読者の方も教えてくださった「方向舵」。
上にあるURLを見ていただければわかりますが、垂直尾翼の後縁についている可動翼で、
機首を左右方向に振る役割をします。

「ラダーリミッターの制限角度」とは、ノーマルT−4で5°の角度に対し、
ブルーの機体は10°まで取れるだけ制限を緩めています。
ラダーの制限を5°増やすことで、曲技のために必要な方向転換がより容易になるのです。

上で説明したハーフ・スローロールの動きですが、こういうのもすべて
微妙なフットワークでラダーを調整して行うのです。



このフォーメーションをフォーシップインバートというのですが、
この「全員で背面飛行」というのは非常に高度なテクニックが必要なのだとか。
なぜかというと、背面飛行そのものが難しいんですね。

背面飛行になると、操縦桿の操作に対して逆に機体が動くからで、
世界のどのアクロバット飛行チームにとっても、これが一番難しい技であるようです。 たとえば先ほどお話ししたブルーエンジェルスですが、「ダブルファーベル」
(Double Favel、Fabulous (素晴らしい) と Marvelous (驚くべき) を組み合わせた造語)
という、「2機だけが背面飛行」を行っています。

これはもしかしたら、彼らの使っている機体が超音速戦闘機であることにも
関係しているかもしれませんね。想像ですが。


3機が背面飛行をするフォーメーションを3シップインバートといい、
ブルーはダブルファーベルから3シップインバートを経て、現在の4シップインバートに その技術を進化させてきたのだそうですが、現在でもその日の状況
(風が強く、一番機がノーマルに飛ぶ必要があるなど)によっては、
フォーメーションを変えているそうです。

つまり、この日完璧な4シップインバートを観ることができた浜松基地の観客は
なかなかラッキーでもあったということです。

しかし、このフォーメーションのことだけ見ても、世界的に見てブルーインパルスの、
ひいては航空自衛隊のパイロットの操縦技術は、
非常に高いものだということができるのではないでしょうか。






静浜基地航空祭〜偵察機RF-4E

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こういう角度から見ると、何かに似ていませんか?
F-7が「イルカ」だとすればこれば「サメ」。
本当に飛行機の形って、魚類だなあと思ったりするわけですが。

さて、静岡浜松基地の航空祭についてお話ししています。

浜松の近辺で前日少しぶらついた時に乗った
タクシーの運転手さんがいずれも

「ご旅行ですか?」

と聞いてきたのですが、「静浜基地の航空祭で・・・」というと、
「しずはま?」と一瞬怪訝な様子で、「ああ、浜松基地ね」

まあ確かにここに住んでいる人が「静岡」などと認識する必要はないわけです。

とにかくその浜松基地の航空祭、9時からオープニングフライトが始まって、
ここの「マジョリティ」であるT-7、そしてT-4の展示飛行がすみ、
三つ目のプログラム、画像のRF-4が始まった時、時計はぴったり9時半でした。

海軍五分前とは言いますが、自衛隊の時間に正確なことは異常で、
毎年やっていることとはいえ、飛行展示の時間配分に数分の狂いもなし。

これは、我が日本国の自衛隊であるからこそで、たとえばイタリア空軍が
このようなイベントを数分刻みのスケジュールで運営できるか?というと、
決してイタリア人を信用しないわけではありませんが、
かなり無理ではないかという気がするわけです。

この後、F-2、F-15、C-130と続いていくわけですが、
各機種ぴったり15分ずつの飛行時間にこれも狂いなくプログラムが
粛々と進む手際の良さに、実はかなり感心してしまいました。

ところで、この日の基地の様子を少し。



ごらんのように、私たちのいた草地は、まるでこの航空祭のためにあるような、
とても広々としたスペースがありました。
勿論、格納庫前のコンクリートの上に敷物を敷いている人たちもたくさんいましたが、
この炎天下、コンクリートの照り返しはかなり厳しく、
おそらくわたしたちのいたところより辛かったのではないかと思われます。
草地では展示の無い時間、シートの上で寝転んで昼寝している人も多数でしたが。

ちなみにわたしは持って行ったパーカをあまりの暑さに着る気になれず、
半袖のTシャツに、肘までの手袋をはめていたのですが、シャツと手袋の間の
わずかな隙間が、真っ赤に日焼けしてしまいました。

その日の晩から3日間熱を持っていて、ずっと保冷剤を取り替えながら巻いていた、
という・・・・・・・まあ要するに「炎症」です。

現在痛みは無くなったものの、そこだけ腕章を巻いたように真っ赤、という、
これから半袖の季節だといのに、カッコ悪い日焼けをしてしまいました(;O;)
ノースリーブはもしかしたら今年着られないかも・・・・・。



とにかく、物凄い数の観客ですから、それこそどんな場所にも人がいました。
しかし、中には首をかしげたくなるようなところにも・・・。




この家族などは、なぜかどう見ても通路の、しかも真横にスピーカーがあって
そこを通るだけでもあまりのうるささに耳を塞いでしまいそうな場所に
こうやって何も敷かずに座り込んでいました。

この写真だけではわかりにくいですが、ここは草地に向かって人が移動する
まさに通路のしかも曲がり角なのです。
そんなところに、しかも子供二人には何のケアもせず・・・・。

せめて赤ちゃんだけでも日陰を作ってあげて!
とこの若い母親に思わず心の中で叫んでしまったのですが、良くしたもので、
赤ちゃんは見たところご機嫌で、お兄ちゃんの方もコンクリにぺたんと座り込んだまま、
熱心にゲームをしていて全く苦痛ではなさそうです。

ふと玄倉川のあの事故に思ったこと、
「子供は親を選べない」
という言葉がふと頭をよぎってしまいました。

いや、よぎっただけですよ。



そして、このおばあちゃんですが、来るなりいそいそと
座布団を敷いてそこに正座したまでは可愛くてよかったのですが、
なんと、この犬を芝生に置いたのには驚きました。

確か動物、とくに犬は禁止だったような気もするのですが、
おそらく小型犬なので、手荷物検査もほとんどしない入り口では
犬を入れていたバッグが見過ごされたのでしょう。

これ、わたしたちの前だったのですが、
犬はずっとその辺の草地をクンクン嗅ぎまわっているし、
もし目の前でいきなり片足を上げたりしたら、という想像をすると、
まさに気が気ではありませんでした。

出物腫れ物所構わず、とも言うじゃないですか。

そう思っていたら、いつの間にかいなくなっていました。
もしかしたら巡回していた自衛隊員に何か言われたのかもしれません。



左の建物の向こうが格納庫でありエプロンです。
ここにずらりと食べ物の屋台が並んでいるのですが、
何を買うのにも恐ろしいくらいの長蛇の列ができていました。

そして、信じられないことには大抵の食べ物屋が「飲料を売っていない」のです。
食べ物のために列に並んでも、また飲み物のために別のところに並ばなくてはいけない。

しかも、この日気温が高く、皆が食べ物よりもむしろ
水分の方を必要としているにもかかわらず、どこを探しても水を売っていないのです。

わたしたちは添乗員さんに前もって「水が買えないので持っていくのがいい」
と聞いていたので、前日から用意したボトルで何とかなりましたが、
あの「地べたすわり組」の夫婦は、ちゃんと子供たちに水を確保できたのだろうか。
見たところなんの用意もしていなそうだったけど・・、と余計な心配をしてしまいました。

何しろ、大変な人なので、ストレスはマックスです。
しかし、さすがというかなんというか、これだけの群衆が一所にすし詰めになっても、
決して大騒ぎになったり喧嘩が起こったりしないのが、日本人の民度。

確かに多少は変な親もいたりしますが、人の波が双方向に規則正しく流れ、
ぶつかったりしたら即座に「すみません」という言葉が聞かれ、
しかもこれだけの人がいるのにほとんど皆体も触れ合わずに移動できる、
これはもう民族の特技と言ってもいいのではないか、とすら思いました。




さて、9時半ぴったりに始まったRF-4の飛行です。
この機体は戦闘機F-4、つまりファントムIIと同型なのですが、
このシェイプに迷彩柄、いかにもな機体でありながらこれ、偵察機なのだそうです。

RはつまりResearchのRですね。(適当に言っています)

ファントムを改造して再設計されたこのRF-4、偵察機ですから、
機首部分にカメラを設置してあります。



この機種の黒く見える部分がどうやらカメラらしい。

そして、戦闘機との大きな違いは、複座双発であること。

むかしから偵察は必ず二人で行うことになっていました。
写真を撮ったり航法をしたり、ということを操縦しながらでは
やはり限界があったから当然なのですが、今現在、航法は
航法器材が揃い、困難な地点標定が容易になっています。

さらに、

前方監視レーダー
側方偵察レーダー
前方フレームカメラ
低高度パノラミックカメラ
高高度パノラミックカメラ
ビューファインダー
赤外線探知装置
フラッシュ発射器

とこれだけの装備が盛りだくさんに搭載されているわけですから、
偵察の仕事は無くなってしまったのでは、と心配になります。

その昔志望者が少なくて、兵学校などでは

「パイロットは車引き、車引きより客すなわち偵察の方がエラい」

と一生懸命偵察志望の学生を確保しようとしたものですが、
どうも最後までこの傾向は改善できなかったようです。

今でも海空自衛隊の人事は、偵察機の搭乗員集めに苦労するのでしょうか。


しかし、いかに科学が発達して、これだけのカメラを搭載していても、
それを確認するのはなんだかんだ言って人間の肉眼が最強なのです。

志願者の多寡についてはわかりませんでしたが、偵察が二人必要である、
という理由は昔も今も全く変わりがないということなんですね。



カメラは機体のスピードに連動して写真が流れないような仕組みを備え、
3種のカメラによって、雨中でも夜間でも偵察・撮影ができます。

これだけカメラを積んでいれば、もはや飛行機というより
「飛ぶカメラ」と呼んでもいいレベル。

展示飛行のプログラムにはRF-4としか書かれておらず、
この飛行中の写真からは

RF-4E
RF-4EJ

の違いがさすがにわたしにはわからないのですが、もしこれが後者なら、

「偵察ポッド」

を運用できる機体に改修されています。
偵察ポッドとは、略称である

TARPS (Tactical Airborne Reconnaissance Pod System)

と呼ばれることのほうが多く、
日本では戦術偵察ポッドと呼ばれています。

つまり、上に書いたような複数のカメラで地形を撮影できるシステムで、
搭載機が飛行中に写真を撮影すると、大きなフィルムのリールに保存される仕組みです。
また、収集した偵察情報をすぐさま使用できるように、
基地や母艦にリアルタイムに送信することもできるのだそうです。

通信の形はインターネットの発達でわたしたちの生活においても大きく変わりましたが、
軍事においてはそれ以上にその恩恵を被っているというわけです。

この「ポッド」は翼下に吊り下げて使います。


偵察機ではありますが、RF-4EJはもともと戦闘機ですから、
有事には本来の戦闘機としての仕様が可能です。

というのは、偵察機器をセンターラインポッドに搭載して運用するため、
機首のM61A1機関砲をそのまま維持しているからなのだそうです。



そのため、一度こんな事故がありました。

2001年(平成13年)北海道の島松射撃場上空で、対地攻撃訓練中の
第83航空隊(当時)第302飛行隊所属のF-4EJ改が、
ロケット弾を用いた実弾射撃訓練後に右旋回したところ不意に発砲してしまったのです。
約2秒間に渡って弾倉内の訓練弾188発(!!)が発射され、
弾丸は演習地北方に位置する北広島リハビリセンターの敷地内に着弾。
施設や駐車車両に損害を与えたという事故でした。

さぞかし搭乗員はその二秒間、背筋が凍る思いをしたことでしょう。

原因は、EJからEJ改への改修の際ドリルで配線を切ってしまい、
その切れた配線がロケット弾用の配線と接触して、砲撃が始まってしまった、
ということだったそうです。

(リハビリセンターでリハビリしていた人たちもかなり驚いたことでしょう)

しかし、この事件、みなさんご存知でした?

わたしは今ほど軍事に対して興味を持っていないので、おそらく
気にも留めなかったのだと思いますが、こんなことで大騒ぎしそうな
「市民団体」も、あまり大騒ぎしませんでしたよね?


先日、沖縄近くで米軍戦闘機が海上に墜落し、
パイロットを自衛隊が救出したという事件がありましたが、
沖縄から米軍を追い出すことに命を賭けている市民団体の皆さんは、
このパイロットの人命を救った自衛隊に

「なぜ助けた」

と非難を始めているというのです。
なぜ助けた、って・・・・。
たとえ敵国であっても無益な殺生を避けてきたのが日本軍。
ましてやアメリカは同盟国ですぜ?
なぜもなにもないのでは?

サヨクって、人権とか人命とか平和とか声高に主張する割には、
こんな怖ろしいことを平気で言うのね。

なぜこの件でこれだけ大騒ぎし、先般の誤射事件ではそう騒がなかったのか。
ほとんどの国民はその目的や目論見もお見通しですけどね。





太陽を背にしたF-15。(次回予告編)



RF-4は、雲仙普賢岳噴火や奥尻島津波などで被災地を撮影、
災害対策を支援する実績を上げています。






坂の上の雲〜「惻隠の情」とNHK的「武士の情け」 

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先日「坂の上の雲」、前半の突っ込みどころをエントリにしてみました。
あれから全部観終わって、これはまたもう一度くらい書かねばならないかな(笑)
という気になっているのですが、ここでは一つ気付いたことを述べます。

およそ日本海海戦を描いているもので、
東郷平八郎を英雄的に表していない映像物はありません。
この「坂の上の雲」も御他聞に漏れずやたらかっこいい東郷が、
身長も含めて(笑)大幅に修正されて出てくるのですが、
なぜかこの「敗軍の将をいたわる東郷平八郎」のエピソードは
過去、わたしが観た二つの日本海海戦映画にはありませんでした。

それもそのはず、今までの日本海海戦映画にはロシア将兵はキャスティングされず、
ロジェストベンスキー提督が映像化されたのはこれがおそらく初めてだったからです。

しかし、せっかくロ提督を演じるや役者を(しかも本物のロシア人)雇ったというのに、
なぜ今回このお見舞いシーンをNHKは作らなかったのか、不思議な気すらします。


先日、東郷元帥の持っていたカール・ツァイスの望遠鏡に憧れた
若い中尉がミーハー半分で(たぶん)同じものを購入し、それが結局
逃亡するロジェストベンスキーの乗っていたフネを発見することにつながった、
という話をしましたが、その後、ロジェストベンスキー提督は日本に搬送され、
佐世保の海軍病院で傷の手当てをしていました。

この絵によると、提督は頭に包帯をしています。
海戦のときにロ少将は頭部にけがをしていたからです。
「坂の上の雲」でも、頭から血を流している少将が描かれていましたね。

病室に東郷元帥はロジェストベンスキーを見舞います。

「相手に威圧感を与えないように
東郷は軍服ではなく白いシャツという平服姿であった」

巷間このような説があるのですが、この絵によると全員がしっかり軍服です(笑)
上衣が夏の二種軍装、ズボンが一種であることから、これは
六月の合服であることがわかりますね。
こんな細かい描写をしているのだから、「シャツで訪れた」というのは
単なる事実誤認かあるいは「うわさ」だったのではとわたしは思います。

なぜなら、こういう時にきちんと服装を整えることこそ相手への敬意につながる、
ましてや相手が軍人であるならなおさら。
まともな軍人なら、つまり武士たる軍人ならそう考えると思うからです。

傷ついた敗軍の将の立場になって考えると分かりやすいと思うのですが、
敵軍の将が平服で自分の前に表れたら、それを果たして
威圧感を与えぬようにという配慮だと解釈するでしょうか。
むしろ逆に相手が自分を軽んじている、と思うのではないでしょうか。


新渡戸稲造の「武士道」、そして三島由紀夫の「葉隠入門」。

このような武士を語る書物によると、
質実を重視した武士は、見た目よりも実質的な面を重んじ、
派手に着飾るのではなく材質、仕立てにこだわったものを見につけ、
さらに最も重視したのは、時と場所、自らの立場をわきまえた装いをすることで、
目的を理解したうえで服装を整えることであったといいます。

また、

「病室にはいるとロジェストヴェンスキーを見下ろす形にならないよう、
枕元の椅子にこしかけ、顔を近づけて様子を気づかいながら話した」

という説もありますが、この絵によると思いっきり見下ろしてます(笑)
東郷元帥のみならず、付き添ってきた側近も皆、ベッドの周りで
ロ元帥を見下ろしている様子。
だいたい、枕元に椅子なんてないし。

まあ、椅子はいつでもどこからか持ってこられますけど・・・。


「この時、極端な寡黙で知られる東郷が、
付き添い将校が驚くほどに言葉を尽くし、
苦難の大航海を成功させたにもかかわらず
惨敗を喫した敗軍の提督をねぎらった。

ロジェストヴェンスキーは
『敗れた相手が閣下であったことが、私の最大の慰めです』
と述べ、涙を流した」

細かい描写にはずいぶん後から作られたのではないかと思える部分が
無きにしも非ずですが、少なくとも東郷が勝者として驕ることなく、
相手のプライドを立てて誠実な対応をし、ロ少将がこれに感銘を受けた、
というのはまぎれもない真実だったのでしょう。

明治時代の軍人は、本物の「武士」でしたから、国際戦争においても
自らが武士道精神によって振る舞うことを旨としていました。

「坂の上の雲」流に言うと、
「まことに小さな国が開化期を迎えようとしていた」わけです。
この小さな国日本は、世界にデビューしたばかりで
いきなり一等国の仲間入りをしようとしており、国際的にも認められようと
涙ぐましい努力をしていました。

国際法や国際道義を重んじる文明国であろうとすることは
自然に「武士道」とその精神において結びついたものと思われます。

そして武士の心得として戦いにおいて発揮されたのがこの
「惻隠の情」というものだったのです。


古来、武士の武士たるゆえんは、惻隠の情を的に持ちえるかということであり、
「仁の端(はし)」といわれる惻隠の情なくしては武士として未熟とされました。

「武士の情け」「武士は相身互い」

こんな言葉も「惻隠の情」から発生したものです。



さて、「坂の上の雲」です。

日本海海戦でその戦いの結果バルチック艦隊の主要艦が続々と沈み、
聯合艦隊の勝利は疑いようのないものに思われたとき、
残された艦艇が白旗を出しつつもエンジン停止していないので、
聯合艦隊は国際法に基づいて砲撃を加え続け、ほどなくエンジン停止を認めて、
初めて「撃ち方やめ」の合図が出された、という史実がありました。

この部分で、またもやNHK、思いっきりやらかしています(笑)


白旗を認めた秋山参謀、まず東郷長官に

「我が艦隊の発砲をやめましょう!」

沈黙する東郷。
その間にも砲撃は着々と続けられます。
眼前に広がる悲惨な光景に見ていられなくなった(らしい)秋山参謀、
ほとんど絶叫していわく、

「発砲をやめてください!武士の情けであります!」


そこで冷静に、船足が止まらない限り降伏ではない、
と東郷元帥に諭されて絶句する秋山参謀。


ああああもう、いらいらするなあっこのドラマ。

国際法によって、機関停止することすなわち降伏であるという取り決めがあるのを
誰よりも熟知しているのが、海大で戦術を教えていたこともある、
あなた、秋山参謀のはずじゃないんですか。

それを、何隻か相手のフネが沈んで、ロシア兵が海に投げ出されたからって、
参謀たるもの涙を浮かべおろおろして、向こうが停戦の意志を示してもいないのに、
攻撃やめましょうすぐやめましょう、武士の情けですから、なんて言いますかね。

冷徹に戦をするべき最も要である参謀が。

今あなたがたは戦争をしているんでしょう。
何をいち早く感傷的になってるんですか、秋山参謀。


言っておきますが、この「武士の情け」というものは、
決してNHKの描く秋山真之のセリフによって意味されるところの

「人が死ぬのを見たくないから早く攻撃止めましょう」

などというおセンチな場合には使わないんですよ。

「武の一筋は仁に根ざして惻隠の心より発するに非ずや、
仁より出ざるは真の武に非ず」

という室鳩巣(むろきゅうそう)の言葉にもあるように、
惻隠の情とは決してここでNHKが描こうとした安っぽい同情ではないのです。

武士に不可欠なものは「仁」。
そして「仁を成す」ためにはときとして武士は「身を殺す」ことも厭わない、
壮烈な行動をとることをも旨としていました。

「惻隠の情」とはその「仁を成してのちあらわれる実践」であるからです。

本物の侍がまわりにうじゃうじゃいるというのに「攻撃止めましょう、武士の情けです」
なんて大騒ぎする参謀がいた日には、こりゃとてもじゃないけどいくさには勝てませんわ。

ええ、全くの私見ですけどね。


案の定、こんな話になると言いたかったことの半分で紙幅が尽きてしまいました。
以下、後半に続きます。





坂の上の雲〜司馬史観とNHK史観

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さて。

「武士の情け」は大安売りするくせに(笑)、史実として残る日本軍人の「惻隠の情」、
これについて全く無視する、これがNHKの「坂の上の雲」です。


昨日お話ししたロジェストベンスキー提督を東郷元帥が見舞った話、
せっかくロシア人の俳優まで駆り出してきたのに、原作の「坂の上の雲」
にもあるというこのシーンを、NHKは全くドラマで語ろうともしませんでした。

この話ですらスルーなのですから、勿論のこと、先日述べた
「船乗り将軍」の敵兵救助など、毛ほども触れられません。

実際にはこの日本海海戦の際も、敵艦船が退艦しているときには攻撃を加えず、
ひとたび戦い終われば、海上に漂うロシア兵をかなりの数救出し、捕虜として日本に送り、
厚遇して、あまつさえ彼らに読み書きまで教えてやった、これが日本軍なのですが。


そして、二百三高地の戦が日本の勝利に終わった後行われた水師営の会見は、
世界に向かって「日本に武士道あり」と広く知らしめました。
勝者が敗者の立場を思う。
くどいようですが、決して「同情する」ということではなく。


しかし、これもまた全く、ちらっとも、語られません。


どうなっているのこのドラマ。
司馬遼太郎が乃木を無能扱いしているから?



NHKが放送している「坂の上の雲」は、あくまでも司馬遼太郎の小説です。
テレビ番組を制作するにあたって、膨大な逸話の中から何を選択するか、
そこにおのずと作り手の思想なり姿勢なり、伝えたいことが読み取れるものですが、
ただでさえ「司馬史観」と言われる「司馬の好き嫌い」で描かれたこの小説の、
その膨大な情報の中からできるだけたくさんそのエピソードを拾うのではなく、
「これが見たい」と視聴者が思うであろうお見舞いシーンや水師営は割愛し、
そのかわり妙なエピソード、つまり、戦争が終わって愛する妻のもとに帰ったとたんに

「人が死ぬのをもう見とうない。わしは坊主になる」

とPTSDを発症しておろおろと泣き伏す秋山真之の姿を強調する。
その記述が「坂の上の雲」にあったとはいえ、これが、NHKの選択なのです。

しかも、「海軍を辞める」とまで言わせておいて、その後、子規の墓参りシーンに続き、
あっさりと

「しかし真之は海軍を辞めなかった」

・・・・・って、何?なんなのこの視聴者に解釈を丸投げした投げやりな展開。
何で辞めなかったの?いつの間にPTSD克服できたの?
一言くらい何か説明があってもいいような気がするんですが。


もうね、秋山が浮かない顔で帰宅して、仏頂面で妻と久しぶりの対面をし、
夜になって妻からの「重圧に」(笑)耐え切れず、外に逃げるように出て行こうとして、
後ろから妻に抱きつかれ、

「離せ」
「離しません」

うわー恥ずかしい。
なんか、このシーン、少なくとも20回くらいは他のドラマで観たことあるなあ。
いわゆる「お約束」ってやつですね。

そう、しょせんドラマには「お約束」がつきもの。
わたしだってこの黄金のパターンを否定してはテレビドラマそのものが成り立たない、
ということくらい子供じゃないんだから百も承知です。


しかし、このお約束優先でドラマを創作するような「視聴者サービス」に努めるNHKさんが、
あの「平清盛」ではなぜその「定番」を覆すような
「天皇を王と呼び皇室を王家と言い張る」みたいな「お約束破り」すなわち
実験的な挑戦などあえてやってのけたんでしょう?(棒読み)



さて、水師営の会見について、ちょっとばかり詳しくお話ししておくと。

明治38年《1905》1月5日、旅順要塞司令官、ステッセルと乃木稀介の会見が
行われることになりました。
この会見の様子をアメリカ人の映画技師が、映画に収めたいと言ってきます。

しかし乃木大将はそれを認めませんでした。
副官を通じて丁重に断ったのですが、アメリカ以外の国々も撮影させろと要請します。
そこで乃木は

「敵将にとって後世まで恥が残る写真を撮らせることは、日本の武士道が許さない。
しかし会見のあと、我々がすでに友人となって同列に並んだところならば、
一枚だけ撮影を許可しよう」

と答え、会見にはロシア側全員に帯剣を許しました。

これまでの世界の勝者、勝てば相手をどう扱おうと思いのままで、
屈辱を与えることや命を奪うことすらあった世界の常識から見ると、
乃木のこの配慮は異例を通り越して異様ともいえるものでした。

当然、世界は驚嘆し、このときに乃木が言ったという「武士道」が有名になります。

また会見の前に、乃木大将は壁に貼られた新聞(隙間除け?)に目をやり、

「あれを白く塗っておくように」

と命じました。
その新聞には日本の勝利を麗々しく称える記事であふれていました。

そして、それのみまらず会見の一日前に、乃木将軍は長らく籠城を続けていた
ステッセルと将官たちにぶどう酒や、鶏や、白菜などを送りとどけさせています。


さらに冒頭の写真を見ていただくと分かると思いますが、
前列のネベルスコーユ参謀と、津野田大尉
(あっ、平田昭彦《様》が演じたのはこの人か)などは、
ほとんどお互いに体を凭せあっていて、
とても戦争に勝ったものと負けたものには見えません。

しかし、1月のこの水師営、寒かったと思われますが、ロシア側がほとんど
暖かそうな外套と毛皮の帽子着用なのに対して、日本側の薄着なこと・・・。
ヒートテック素材もブレスサーモもない時代、こんな軽装でよく耐えられたなあ・・・。

それはともかく、この写真は、両将軍が打ち解けて会談をし、
相手の強さを褒め称えあい、またステッセルが乃木将軍に
馬を贈呈することを申し出てから一緒に食卓を囲み、
食事がすんで出てきたところなのだそうです。

言われてみれば、全員の表情が柔らかく和んでいるのに気が付きます。



ここで少し長いですが、軍歌「水師営の会見」を。

1 旅順開城約成りて 
 敵の将軍ステッセル
 乃木大将と会見の
 所は何処水師営

2 庭に一本棗の木
 弾丸あともいちじるく
 くづれ残れる民屋に
 今ぞ相見る二将軍

3 乃木大将はおごそかに
 みめぐみ深き大君の
 大みことのり伝うれば
 彼畏みて謝しまつる

4 昨日の敵は今日の友
 語る言葉もうちとけて
 我は称えつかの防備
 彼は称えつわが武勇

5 かたち正して言い出ぬ
 この方面の戦闘に
 二子を失い給いつる
 閣下の心如何にぞと

6 二人の我が子をそれぞれに
 死所を得たるを喜べり
 これぞ武門の面目と
 大将答え力あり

7 両将昼食をともにして
 尚も尽きせぬ物語              
 我に愛する良馬あり
 今日の記念に献ずべし

8 厚意謝するに余りあり
 軍のおきてに従いて
 他日吾が手に受領せば
 永くいたわり養はん

9 さらばと握手ねんごろに
 別れて行くや右左
 砲音絶えし砲台に
 ひらめき立てり日の御旗


この軍歌によると、乃木将軍の息子が二人戦死したことが、
この会見で話題になったことがわかります。

乃木将軍は、丁寧にお悔やみを述べたステッセル将軍に対し

「ありがとうございます。
長男は南山で、次男は二百三高地で、それぞれ戦死をしました。
祖国のために働くことができて、私も満足ですが、
あの子供たちも、さぞ喜んで地下に眠っていることでしょう。」

と答えました。

ステッセルは日露戦争終了後に旅順要塞早期開城の責任を問われ、
1908年2月、軍法会議で死刑宣告を受けるのですが、
特赦により禁錮10年に減刑されました。

彼の減刑のための除名運動を行ったのは乃木稀介でした。
乃木は自決の日まで、ステッセルの家族に生活費を送り続けていたそうです。



さてところで、再び「坂の上の雲」です。

このドラマにおける乃木将軍の描き方には、非常に意図的に
「二〇三高地でたくさんの将兵を死なせた凡庸な将軍」
が強調されているように思われました。

戦地ではいつも半病人のように横たわったままで、
たまに地面を歩いたと思ったらふらふらしたり、よろよろしたり、
あるいは児玉源太郎に思いっきり馬鹿にされたり。
司馬遼太郎が自分の気に入らない人物は徹底的に「下げ」るということを
しかも感情的にこき下ろすのではなく、あの名文でそれなりに実証を上げつつやるもんで、
すっかり「司馬的世界」では無能扱いされてしまっている乃木将軍ですが、
なんかもう、ここでは乃木稀典、それにとどまらず過度の抑鬱状態。
PTSD通り越して、すでに戦闘ストレス反応第4期。(combat stress reaction)
即ち完全に無気力となり、効率的に戦闘することが不可能、という状態です。

因みに第一次世界大戦前のこの世界にはまだそんな言葉は生まれていませんがね。

柄本明の演ずる乃木稀典は、極端に呆けていてある意味面白いとは思いましたが、
司馬の言うところの「不器用な軍人」「無能な将軍」ばかりを強調して、
この水師営の会見についてもやっぱり全く触れない、つまりこんなところだけは
しっかり司馬の原作を強調しようとする制作姿勢そのものに
不自然を通り越して悪意すら感じてしまったのはわたしだけでしょうか。



百歩譲って、このドラマは秋山真之のいる海軍を描くことを主体にしたというのなら、
なぜせめてロ将軍と東郷の邂逅を描かなかったのか。
これは、司馬の原作にもあり、このシーンを楽しみにしていた視聴者も
相当いたのではないかと思われるのですが。


「惻隠の情」「日本の武士道」の具現として伝えられる、
このあまりに有名なエピソード群をあえて無視して、司馬史観の中から
「人間秋山真之」の反戦、平和思想(笑)について延々と時間を使って表現する。
こういうところにも、やはり「NHKの操作」を感じてしまうのです。


そういえば、NHKはこのドラマを制作するのに

「韓国」「中国」でロケし、スタッフも現地から協力を仰いだ

そうですね。
これゆえ、内容や表現の自由に制限がかかった、と考えるのは
少々穿った考え方でありましょうか。

もしかしたら、この両国民に見せるわけでもないのに、
しかもこの両国民は我が日本国民のように製作費に寄与してもいないのに、
「遠慮」や「配慮」した結果、原作にも史実にもないできごとを
創作し思想を介入させている、ってことはありませんか?


わたしは思うのですが、NHKはこういうことをしたいのなら、
「坂の上の雲」という原作のあるものではなくて、一から自分たちで作り上げて、
好きなだけそういった思想を開陳すればいいのではないでしょうか。


司馬遼太郎は生前「坂の上の雲」の映像化はこう言って許さなかったと言います。

「なるべく映画とかテレビとか、
そういう視覚的なものに翻訳されたくない作品でもあります。
うかつに翻訳すると、誤解されたりする恐れがありますからね」

今回、NHKが

故人の意志にそぐわない形で映像化する事は絶対にないと確約し、

遺族や司馬遼太郎記念財団からの映像化の許可を得たということです。
それから担当脚本家が自殺したり、NHK自身の不祥事など(笑)様々なトラブルが重なり、
放送が開始するまで異例なほどの月日が経ってしまいました。
完結まで実に10年かがりでの制作という事になります。


まあ、日清日露戦争だけを美化し、大東亜戦争を無謀の一言で決めつけ、
なによりも秋山真之が「軍人としてはやや不適格なほどに他人の流血を嫌う男」
であるとした司馬史観と、NHK史観との間には、かなりの親和性がありますから、
生きて本人がこのたびの「坂の上の雲」を観たとしても、
もしかして、そう異論はなかったのではないかとわたしは思っておりますけれども。






 

静浜基地航空祭〜F-2と「対日貿易摩擦」

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というわけで、「静浜」とは、正式な名称であり「浜松基地」とは別のものであったことが
地元民みゆみゆさんの指摘によって明らかになりました。
しかも、秋に浜松基地祭があるという情報までLizさんにいただき、恐縮至極です。


今回の航空祭、息子とTOは初めての経験で、非常に感動していたのですが、
それでも息子は、かなり待機時間の暑さが堪えた模様。
全てが終わり、バスが東名高速の渋滞に巻き込まれ、予定時間を二時間近く過ぎて
解散地に到着したときに彼が言ったのが

「もう二度と行きたくない」

確かにわたしのようなモチベーションを持って臨むわけでなければ
あの状況でああ言うのももっともです。
たとえば去年の秋田・大曲の花火大会の後、わたしも息子もやはり
「もう二度と観なくてもいい」と心の底から思ったものです。

特にわたしは、TOが会場までどれだけ歩くのかを教えてくれなかったため、
当日履いていたサンダルのせいで、足がズタズタになってしまっていましたし、
花火の感動もさることながら、そのために払う労力の辛さだけが記憶に新しいうちは
「楽しかったけどあんなに大変なのだったらもういいや」
という気になっていたのですが、つい最近、去年の主催者からのお誘いがあると、
あら不思議、気がつけば嬉々として「行こう行こう」といつの間にか快諾しておりました。

喉元過ぎれば、といいますが、人間って、肉体的苦痛は時間が経つと忘れるけど、
その時の楽しみや喜びが大きいとそちらの方が記憶として強く残るんですね、
息子にとっての航空祭も、きっとそんな感じになると思います。




さて、これまでのおさらいですが、婆沙羅大将のコメントにより、
RF-4のRはreconnaissanceのRであるということも判明しました。
ちなみに、reconnaissance in force で、英英辞典だと

(an offensive operation designed to discover
or test the enemy's strength (or to obtain other information))

「敵の力を発見あるいは試したりするために(あるいは他の情報を得るために)
企画された攻撃作戦」

となります。
これが

reconnaissance vehicle

となると、情報とは関係なく四輪駆動の装甲車全般を言いますし、面白かったのは

reconnaissance by fire

これは

「敵が移動または応射してその存在を暴露するように仕向けるために、
敵の位置とおもわれるところへ射撃する偵察手段」。

というわけで英語全般だと「偵察」にまつわる軍事的意味合いですが、
実は、この言葉、フランス語では「偵察」という意味より

「感謝」

という意味合いがあるので、非常にこのギャップが面白く感じます。

フランス語ではreconnaître という動詞は非常におなじみで、こちらは

「認識する」

という意味です。
なぜフランス語だとこれが「感謝」になるのかは、エリス中尉、
そこまでちゃんとフランス語を勉強していないので()わかりませんが、おそらく

「他から受けた行為を『認識』すること→『感謝』する」

という流れではないかと思われます。


というわけで、偵察機であるRF-4の展示飛行が終わり、4番目の展示となったのが
F-2戦闘機です。



この戦闘機を語るとき、どうしても「日米貿易摩擦」という言葉が浮かんできます。
(わたしだけかな)

この「日米貿易摩擦」とは、第二次世界大戦敗戦後、
日本の経済成長と技術革新に裏打ちされた国際競争力の強化によって、
アメリカに大量の日本製品が流入し、対日貿易赤字が膨れ上がることによって起こった摩擦、
・・・・・・・・・というよりアメリカが一方的に

「てめーら、植民地にもせず独立させてやった恩を忘れて、
ご主人様から搾り取るたあイイ根性してるなオイ」

と感情的なバッシング(『ジャパン・バッシング』ですね)をした、という事案ですね。


1965年以降、その傾向は顕著となり、繊維、鉄鋼、カラーテレビ、80年代に入ると
自動車・半導体・農産物(米・牛肉・オレンジ)が舞台となり、
更に1985年にアメリカの対日赤字が500億ドルに達したことをきっかけに、
日本の投資・金融・サービス市場、すなわち事実上、
日米間経済のほとんどの分野で摩擦が生じるようになりました。

話は、82年にF-1の後継機である「次期支援戦闘機(FXS)」の開発が決まったときに遡ります。

ここでまたもや寄り道ですが、この「支援戦闘機」、
エリス中尉がこの世界に首を突っ込み出してすぐ「なんじゃこりゃあ」と鼻白んだ「自衛隊用語」
なのですが、何のことはない、これは「攻撃戦闘機」のこと。

当時、空戦に特化して開発されたF-86に対して初めてこの呼称がひねり出されました。
「軍隊」=「自衛隊」、「戦艦」=「護衛艦」と同じく、対地攻撃能力を付与された「攻撃機」は
専守防衛を掲げる日本で、「諸外国への配慮」「国内世論対策」から避けられ、
苦肉の策として「支援戦闘機」という名称に定められたわけですね。

「攻撃」はダメで、「戦闘」はOK、という線引きもいまいちよくわからないのですが。

で、この「支援」。
何を「支援」するのか、とかねがねわたしも思っていたのですが、つまり

地上部隊(陸上自衛隊)や艦隊(海上自衛隊)を空から「支援」する

から「支援戦闘機」・・・・・・・orz


こういうのって、いつも思うのですが「自衛隊」という呼称に全てが集約されている、
つまり「言葉の遊び」「建前」に過ぎないんですよね。
全く本質ではないところでつまらんことをやっている、というのか。

これって、戦時中の「敵性語言い換え」みたいでしょう。
ご存知ですか?
英語が敵性語とされたので、いろんな外来語が「言い換え推奨」された時期があるんですね。
余談ついでに、面白いのでこれをいくつか紹介すると


カレー=辛味入汁掛飯

コロッケ=油揚げ肉まんじゅう

キャラメル=軍粮精(ぐんりょうせい?)

噴出水=サイダー


どう考えてもこの類ですよ。「支援戦闘機」。
ついでにもう一つ、音楽関係者として涙なくしては読めない「言い換え」を紹介。

サックス=金属製曲がり尺八

トロンボーン=抜き差し曲がり金真鍮ラッパ

コントラバス=妖怪的四弦

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

コントラバスの言い換え考えた奴、絶対なんか悪意持ってるだろ!
と思わず勘繰ってしまいますね。
まあ、いくら言い換えを推奨したところで、当時とはいえ音楽家が、
特に海軍軍楽隊の皆さんがこんなしちめんどくさい呼称を使うわけがありません

・・・・・・・いや、案外面白がって逆にバンバン使っていたかな。
海軍だし。さらに音楽家だし。




とにかく、この次期支援戦闘機FS-Xの調達に関して、当然のことながら
国内生産か外国機輸入かで大きく二派に分かれて対立が起こります。

・・・・あれ?最近なんだか全く同じ話を別の機でしたような・・・・。


国産においては三菱重工業が大変な意気込みを以てこれに名乗りを上げるのですが、
この三菱の航空機産業への挑戦ともいえる意欲を、

「戦前戦中に零式艦上戦闘機や戦艦「武蔵」を生み、
戦後復興や高度経済成長を牽引してきた三菱は
『日の丸戦闘機』が再び大空を舞うことを夢見ているのではないか」
(ウィキペディア)

とこれを見る向きもあったということです。


輸入派の言い分は何と言っても生産コストが国内では高くつくこと、
そして国内の航空機技術に対して全幅の信頼は置けない、ということでした。

しかしながら国内生産も最終的なエンジンだけは輸入に頼るしかなく、
ここで「日米貿易摩擦」が問題となってきます。

すなわち、
「たった100機程度の飛行機の、しかもエンジンだけ売ってくれる」
アメリカの会社が、この対日貿易に対してピリピリしている時期ゆえ
実際には現れなかったことが、国産への大きな制限となったのでした。

当初、FS-Xについては、「国内開発」「現有機の転用」「外国機の導入」、
この三つの選択肢があったわけですが、そんなこんなで日本は
「国内開発」から「国内」を消し、これらのどれでもない

「国際共同開発」

を選択するしかなくなったのでした。(/_;)


共同開発にあたり、アメリカはまず国防総省から視察団を三菱によこしました。
その際、彼らが最も驚いたのが

主翼を新素材の一体成形で製造する技術(炭素系複合材

でした。
鉄より強くアルミニウムより軽く、そして整形がし易くて溶接の必要がない。
そのほかにも三菱の研究陣がアメリカ側に示したレーダー技術(フェーズドアレイ)
やその他の最先端技術は、視察チームをして

「日本は『ニュー・ゼロファイター』を作るつもりだ」

とその意欲と志を評価させたということです。



その後、共同開発は「アメリカが日本からの要求に応じて」受け入れる、
という形で決定されます。

ところが。

ここで「日米貿易摩擦」が大きくその企画に影を落としてくるのです。
当時経済は日本の一人勝ち状態で、レーガン政権における「レーガノミックス」
(このころからこんな言い方をしていたのですね)
は財政赤字拡大を生む一方。
アメリカは苦し紛れになりふり構わず、やくざの恫喝にも等しい
「スーパー301条」をちらつかせるなど、日米の経済関係は最悪でした。

この共同開発に対し、対日強硬政策を取ろうとする議員の一派が外圧を掛け、
その決議案にこのような付帯条項を突きつけてきます。

    ●F-16のソース・コードの供与を制約す
    ●生産段階での米国の仕事分担率は最大限に確保を目指す
    ●日本からの技術を必ず提供するとの保証を設ける

その後のブッシュ大統領の声明においても
   
   ●アメリカ側ワークシェアが「総生産額の約40パーセント」
   ●日本側は、アメリカ側が入手することを希望するすべての技術を、
    すでに合意された手続きにしたがってアメリカ側に移転する

これはつまり、日本が独自に築いてきた特殊技術を無条件に提供し、
アメリカ側はF-16の核心を「ブラックボックス」化することを許されるという
「不平等条約」のようなものでした。

国産推進派の不満が至るところで噴出し、
日米マスコミも「ジャパン・バッシング」の一環だとしてこの件を報じました。


そんな経緯を経て製作に入ったわけですから、三菱を中心とする日本側の研究陣が
意地でも「実質国産」と呼ばせてみせる、との執念をもって渾身の開発を行ったのも
当然と言えば当然であったでしょう。

機体形状はベースとなったF-16とほぼ同じではあるものの、
「パッと見た形状以外、すべてが違う」というものになったのも、
すべてはそのこだわりと自負の表れというものかもしれません。

なお、この「国産機」は、航空自衛隊の要求を満たすための改造や再設計箇所が
至る所に見られる作りとなっています。


さて、実はそうとは知らず行ってきた浜松基地の「エアパーク」に、
このF-2の開発に関しての展示と開発機XF-2のモックアップががありました。
その写真を撮ってきたので、明日明後日と「ミッドウェー海戦特集」を挟んでから、
淡々とそれをアップしたいと思います。

本日説明した「政治的ウラ」を知ったうえでそれを見ると、日本側技術陣の
執念ともいえるこだわりが垣間見えて感慨深い内容となっています。






 

或る海軍大尉のミッドウェイ〜嵐水雷長・谷川清澄

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谷川清澄(たにがわきよすみ)
大正5年 福岡県大牟田市出身
昭和9年4月、海軍兵学校に入校
昭和11年4月、病気療養のため66期生として卒業

重巡「三隅」「筑摩」、戦艦「陸奥」乗り組みを経て
昭和16年駆逐艦「雷」に航海長として着任

同年4月駆逐艦「嵐」に水雷長として着任
海軍大尉に昇進

同年6月ミッドウェイ海戦、
8月ガダルカナルに先遺隊を輸送
昭和18年海軍兵学校教官

昭和20年横須賀航空隊教官で終戦を迎える
同年5月少佐に昇進

戦後は復員輸送に従事後、
海上自衛隊に入隊

昭和48年佐世保地方総監で退職
最終階級は海将

今日はミッドウェー海戦71周年記念企画として、元海将、元海軍少佐、
そして元「雷」航海長である谷川清澄氏のお話を聞いてまいりました。
ミッドウェー海戦のこと、「敵兵を救助せよ!」で有名となった「雷」のこと、
そして戦後のことを二日に亘ってこの講演のお話からまとめてみました。

谷川氏はいまだに矍鑠とした元海軍軍人らしい佇まいの老紳士で、
冒頭画像における若き日の超美青年の面影を残し、
「美しく老いた」
という言葉がまさにぴったりとあてはまる素敵な方です。

インタビューは「女ひとり玉砕の島を行く」の著者である笹幸恵氏によって
対談形式で行われました。
以下、エリス中尉の聞き書きによる構成でお送りします。




■チェリーマークの海兵時代

私のいた66期は200名いましたがそのうち6割が戦死しました。
「軍人半額25年」だと自分でも言ってきたのですが、
どういうわけかその四倍生きています。

今年で95歳になります。

生まれは佐賀でしてね。
佐賀と言うのは「尚武の国」で「軍人に非ずば人に非ず」
みたいな気風があり、また海が好きだったので
兵学校を受験しました。

祖父は私を東大に入れて裁判官にしたかったようです。
その祖父が受験中に亡くなったり、病気をしたりして、
結局兵学校は三回受験することになりました。


兵学校時代に楽しかったこと、ですか?
羊羹食ったことくらいかな(笑)

私が4号生徒のときの1号はあの62期でしてね。
獰猛(ネーモー)クラスだったのでそりゃ殴られました。

入校して日記に「正」の字で殴られた数を数えていたんですが、
夏休みに数えてみたら2千発殴られてました。
馬鹿馬鹿しくなってそれから数えるのをやめたんですが、
一号時代だけで少なくとも5千発は殴られてるでしょうね。

辛いとは思いませんでした。
「日本のために尽くす」と決めていたので。

・・・・・・・・え?

ハンサムだなんて、私、初めて言われましたけど(笑)
もしそうなら、この時期殴られ過ぎて顔面が「修正」されたんでしょうかね。



ここの宮司(徳川泰久氏)のおじさんの徳川 熙(ひかる)は
同級生でした。

(15代将軍・徳川慶喜の九男。
呂101潜水艦先任将校(水雷長)として戦死した)

数学はできなかったですけど、気宇壮大な人物でした。
我々が身の回りのことを考えているときに、
世界のことを考えている、といったような。


この写真(兵学校時代のもの、優等生のマークである
桜の襟章をつけている)チェリーマークですが、まあ

そういうときもあった

ということです。
勿論、そうでないときの方が多かったですよ。


■イケイケドンドンの初陣


昭和16年の12月8日、開戦は「雷」航海長で迎えました。
その時香港沖にいたんですが、皆逸っていてね。

そのときイギリスかアメリカのフネを見つけたので

「あいつをやっつけて戦果第一号だ!」

と追い掛け回しました。
でも、着弾しても沈まないんですよ。
木造の船だったので。

でももう、皆イケイケドンドンになってまして、
目の色変えて追いかけているうちに、
有効弾着距離の4000以内に入り込んでしまった。

はっと気が付いたら敵の三隻の「三角形」のど真ん中に
いて、敵は三発撃ってきました。

慌てて煙幕を張ってのた打ち回りながら逃げ何とか生還しましたが、
今から考えてもよく助かったなと思いますよ。

今日は目の前にもきれいな女性がいらっしゃるので
少し言いにくい話なんですが・・・・。

上海に行って上海陸戦隊の戦闘を経験した先輩と話したとき、

「大砲の音は物凄いぞ。
あれを聞くとタマがどこにいったかわからなくなるんだ」

と言っていたのを思い出して、そのとき探してみたのですが

ありませんでした。

思うんですが、戦争をするときには
必ず生死を超越した、「覚めた」人間が一人いないと危ない。
わたしは自分がそうなりたいと思っていましたが、
このときはそれどころじゃありませんでした。

当時23歳の航海長です。


■敵兵を救助せよ

私は酒は呑みませんが煙草を嗜みます。
一度飲んでみたい煙草がありましてね。
「ウェストミンスター」といって煙が本当に紫なんです。
「香港攻略が終わったら買えるな」
と本当に楽しみにしていたのに、そのまま上陸せずに
ジャワに移動になってしまいました。

ウェストミンスターを味わう機会も煙と消えました。


(このジャワ、スラバヤ沖で、「雷」は撃沈され漂流中の
英海軍の乗員を救助し、そのエピソードは、近年
助けられた乗員が広めたこともあって有名になった)


工藤俊作艦長は180センチ、体重100キロくらいの巨漢でね。
普段は黙っているときの方が多い、落ち着いた人物でした。
しかし、決断が鮮やかでしたね。
いける、と思ったらぱっとやる。

あのときも心配ない、と思ったからあの指令が出せた。

はっきりしておきたいのはあの時敵兵を救助したのは
「雷」だけではなかったんです。
「電」「山嵐」「江風」
皆同じように敵兵を救助しているんです。

向こうも一生懸命戦ったのですから、たとえ敵兵でも
まだ浮いている生存者を救助するのは当たり前のことであって、
特別なことをしたわけではないのです。

すっかり美談のようになってしまっていますが、
当時の日本海軍では普通の行為だったと思います。


(工藤艦長は甲板の敵将兵に向かって
『只今から諸子は帝国海軍の名誉あるゲストである』
と語りかけた)

私はそれを聞いていません。
この間血眼で見張りをしていましたからね。
もし何か見落としていて起こったらハラキリものですよ(笑)


■ミッドウェイ海戦


駆逐艦嵐乗り組み時代、横須賀に停泊していたときです。
見慣れない飛行機が飛んでくるのを見ました。
B−25の編隊が東京に向かっていました。
聯合艦隊は「追いかけろ」と慌てて指令を出したらしいんですが、
それがドゥーリトル隊だったんですね。

この東京空襲を受けて聯合艦隊はミッドウェイ海戦を決意するんですが。

聯合艦隊と機動部隊が呉に集結させられたので我々も行きました。
するとね、制服を着て歩いていると、一般の人が

「海軍さん、今度ミッドウェイでするそうですね。勝ってください」

と声をかけるんですよ。
もうびっくりしてしまいました。
道行く人が知ってるなんて、この作戦大丈夫なのか?
と本当に不安になりましたよ。

(このエピソードは、映画『聯合艦隊』で、芸者が『ミッドウェーミッドウェー』
と言うのを主人公が聞いて愕然とするというシーンに採用されていました)

今にして思うんですが、この頃聯合艦隊は
機動部隊が出て行けば勝っていたので慢心していたんじゃないか。
やるべきこと、情報収集を潜水艦でするとか、
そういうことを全くしないで突入してますからね。

艦隊が北西からミッドウェイに向かった進路を
「13度に取れ」と言うんです。
13とは縁起の悪い数字だな、と思いました。

聯合艦隊の動向は皆偵察されていましたね。
「嵐」のとき、艦長は有賀幸作でした。
カタリナ飛行艇が偵察に来ていたので、
「落とすんでしょうね」と聞いたら「もちろんだよ」
と言うんですが、結局見逃した。

なんか、こういうのも「慢心」の表れかなと。

ミッドウェイでいつ負けると思ったかって?
負けてからですよ(笑)

このとき、私は一介の水雷長でしたが、

「何してるんだ」

と非常に疑問に思ったことがありましたね。
空母というのは甲板に一つでも穴が開けば機能は停止しますから、
航空機で爆弾を落とせばいいのに、
わざわざ爆装を雷装に変えさせたんですよ。

「虚しい」

こんな言葉がよぎりましたな。
馬鹿みたいな攻撃をしているうちにやられてしまった。

本当に上層部が馬鹿に見えました。
なんでこんなことやるんだろうって。
私は平凡な、平均的な人間で決して人より図抜けた眼力を
持っているわけでもなんでもないと思っていますが、
その私ですら「お粗末な作戦」だと思った。

目の前の飛行甲板に一発落とせばいいのに、
あんなに簡単にやられるはずないのに、って。
悔しかったですよ。

有賀艦長は腕利きでしたから。上層部の信頼があってね、
例えば南雲長官なんか「有賀がトンボ釣りしてくれなきゃやだ」
っていつもご指名でした。

トンボ釣りというのは空母にくっついて海に落ちた飛行機を拾う
駆逐艦のことです。
海戦のときには駆逐艦なんて見向きもされませんからね。

この海戦のときは赤城の後ろにトンボ釣りとして待機していた。
甲板の整備員が目の前で爆撃にやられるんですよ。
片手や片足が吹っ飛ぶのがこちらからも見えました。

もう・・・・涙もでませんでしたよ。
「嵐」は小さいフネだから見向きもされません。
だから食事なんか取るんですが、出された握り飯が
全く喉を通らないんです。

悔しくて、かわいそうで。
もう、地獄絵でしたね。


■白い服の人

翌日、赤城を魚雷処分することになりました。
3000メートルの距離から撃つんですが、
涙が出てもう止まりませんでした。
不思議なことに真っ直ぐ進んでいた魚雷が
あと500メートル、と言うところで海面に顔を出しました。

2秒くらい遅れて、また海中に沈んで命中しました。

「魚雷はさようならの挨拶をするために顔を出したんだろうな」

皆で言い合いましたよ。
一発目は命中しましたが沈む様子がない。
よっぽど堅牢にできていたんだなと思いました。


二発目を撃ち込む前に双眼鏡で見ていたら、
艦橋から一人、白い作業服がでてきて
ポカーンという感じでこちらを見ているんです。

昨日乗員の移送作業をしたんですが、
何かの理由で乗れなかったんでしょうか。

2発目を撃ち込んだら赤城は沈みだしました。


以来30年、あの時の白い作業服がしょっちゅう夢に出てきました。
30年経った頃から見なくなりましたが・・・・。


■90歳から話すことにした


私はもう95歳です。
全く、なぜ私だけがこんなに生きているのかわかりません。
亡くなったクラスメートは靖国に祀られていますが、
その壁のあたりから今こちらを見ながら

「谷川の奴、全く話が下手だなあ」

と笑っているかもしれません。



私は戦後、80歳くらいまでは海軍の先輩のことを
かれこれ批判するのは畏れ多いし間違いだと思って
控えていたんです。
でも、そういうことを避けていると、たとえば自衛隊や、
幹部候補生に講話してもあまり感動してもらえない。

90歳になったときにはっきりなんでも言うことにしました。
思ったことを言わなかったら死んでも死にきれませんから。

南雲さんはね、愚将で、悪将だったと思います。

山本さんも・・・悪将は少し言いすぎかな、でも愚将でしたね。

当時の幕僚たちはやるべきことをなにもやらなかったんです。
海戦のイロハというべき「二度索敵」なんかもやらせなかったですから。
本当に参謀は馬鹿揃いとしか言いようがないです。
あんなので勝てるわけがないんです。

お粗末な計画で優秀で立派な搭乗員の命が多く失われた。
全く無駄遣いとしか言いようのない愚挙でしたよ。

アメリカの参謀なんかとはものを考える次元すら違っていた。

例えば、何の意味もなく人事を動かしてしまう。
組織ってのは、特にフネの組織なんてそんなに動かすもんじゃない。

レベルの低い水雷長が来てしまう。
皆が「今だ」って思う瞬間に、行かないんです。
それを見て皆「違う」と思う。
うまく言えないが、空気が悪くなるんです。
士気が落ちるとでも言うんですかな。

もし私が指揮官だったら、ですか?

私が指揮を執ることになったら、いつも日露戦争のときの
加藤参謀や秋山参謀がどうしたか、生きていたらどうされたか、
こんなことを指針にしたでしょうね。

真珠湾攻撃も、もし空母が無いということがわかったら
その時点で引き下がって空母を見るまで待ったかもしれない。
だいたい明らかに空母が避退していなかったんですから、
「戦艦やっつけた!バンザイ」じゃ子供ですよ。

日露戦争からこの戦争の間に何かが「劣化した」としたら、
それは「人心」じゃないかと思います。
軍縮で300人クラスが50人になったりして、
人数の変動が多かったころが指揮官になってますからね。
それと大正デモクラシーなんかも原因じゃないでしょうか。
そういう「変な変化」があると、軍隊は弱くなるような気がします。

負けたことを隠したり、あれもダメですね。

中央と艦隊、さらに艦隊と軍令部の関係が悪かった。
これも勝てなかった原因だと思います。
陸軍と海軍が仲が悪かったこともそうですよ。

名古屋の飛行機工場ですが、道を隔てて
「海軍工廠」「陸軍工廠」が分かれてるんです。
なんで一緒にやらなかったんですかね。
道一本向かいにいるのに技師同士の付き合いすらなかったって。
意見交換なんかも勿論しなかったですよ。
こんなのを見ても勝てるわけなかったって思います。

有賀さん、あと木村晶福さんは名将でしたね。
ピカイチでした。
有賀さんは、いつも水虫の手入れなんてしてるんですよ。
煙草をふかしてばかりでね。
でもいざとなるとぱっと変わりました。
その指示が全てにおいて的確で当を得ていました。

私だけでなく「男に男が惚れる」とでも言うのか、
「この指揮官のためなら死んでもいい」と思っておりましたよ。

大和の艦長などにしてわざわざ死なせるなんて、
本当にもったいなかったとしか言いようがありません。




後半に続きます。

(2013年3月16日、靖国神社遊就館での講演をもとに構成しました)





或る海軍少佐の終戦〜谷川清澄

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昨日に引き続き、海軍少佐、谷川清登氏の講演内容を編集してお送りします。

が、その前に。

先日、旧日本軍のものとみられる不発弾が発見され、自衛隊の処理班が
爆破処理に携わったというニュースがありました。

わたしは運転中で、正午のニュースとして放送されたものを聴いたのですが、
NHKラジオではごく淡々と、爆破処理の様子を伝え、鉄道路線が止まったことなど、
報道としてまっとうに伝えるにとどまりました。

なのでそれ以上の感想を持つこともなかったわけですが、
テレビ報道ではアナウンサー()がまた何か言ったようです。


ある読者がそれに対してこのような感想をお寄せくださいました。


エリス中尉様

  こんばんは。 今夜は、サッカーがオーストラリアとPKで・・省略・・世間が沸いておりますが、 昼間のうちは、東京北区の高射砲弾不発弾処理関連のニュースが、
交通関係への影響等で比較的大きくテレビで取り上げられておりました。   NHK(・・・まぁ、落ち着いて、話しはこれからです。)の夕方の首都圏ニュースでも、 取り上げられており、トン数の土砂が入る様な、沢山の大きな土嚢袋で防護した中で、 爆破処理される映像が映し出されましたが(見ましたか?)、そのニュースの中で、 女子アナのお姉ちゃんの一言が、グッと来ました。

曰く、 「これらの負の遺産は(それに関する処理の為の影響は)何時までつづくのでしょうか・・」   負の遺産、詰まりそれを生み出した一連の出来事と私、関係有りませーん。
理解する気も有りませ−ん。
私という存在は出自からして、それらのものとは「隔たって」「きれい」 (彼女の見た目の事では有りませんよ)なのでーす。 

そんな様に聞こえました。   不発弾は迷惑です。
有り難がる人はいないでしょう。
しかし、お前、お前も日本人なら、その負の遺産を背負えよ。
100%被害者面するのは止せ。そう思う私でした。
この時、コメントするなら、「処理関係者の皆様、お疲れ様でした。」ではないでしょうか?   因みに、以前何かのテレビ番組で、この不発弾処理に当る陸自の隊員達に付く
「危険手当」の金額を見た事があるのですが、
専門の隊員が不発弾の先端の信管を慎重に外す様な、非常に危険な作業をしても、
手当てとしては確か5千円しなかったと思います。 どういう計算に基づいてのものか解りませんが、安過ぎますよね? 多分、「お役所の単価」ですから、今でも殆ど変わらないのでは? お疲れ様な事です。


ありもしなかった「軍による強制連行された慰安婦」という「負の遺産」を捏造し、
それを今の日本に「背負わせたい」民族と、その国に肩入れし彼らの立場で
日本を非難するマスコミ。

そんなマスコミのいうこの場合の「負の遺産」っていったいなんなのかしら。
日本は「負の遺産」を=たとえ捏造であっても負うべきで、
しかし、自分(つまりマスコミ)には何の責任もないと。

皆さまは、この件いかがお感じになりましたか。





さて、遊就館で行われた谷川氏の話に戻りましょう。

ミッドウェイとともに
日米攻守が逆転した転換点となったガダルカナルの戦い。

谷川大尉のいた「嵐」は、この北方輸送作戦に10回参加しています。
艦長として優れた判断力で上層部の信任も厚い
有賀幸作少佐がその腕を見込まれたのでした。

「嵐」は1942年の8月7日、あの坂井三郎が航空戦で負傷し
片目を失ったときの海兵隊のガ島上陸を受けて、
グアムに待機していたあの一木支隊をトラック島に輸送しています。

その後8月21日に一木支隊は包囲殲滅させられる運命です。


世に「一木支隊の幽霊」という有名な話があります。

軍隊の者はみな知っていたのだそうですが、この一木支隊の幽霊が、遠く離れた日本の、
旭川第7師団で8月20日、彼らが激しく戦っている最中目撃されたという話がありました。

抜刀乗馬の将校を先頭にした一団が近づいてきたと思ったら、
かき消すように消えた様子を二日に亘って何人かの歩哨が上に報告しています。


それでは、谷川氏のお話をどうぞ。


■ガ島補給作戦

目に見えて劣勢になってきていました。
補給船もどんどんやられてね。
「嵐」は生き残りました。
10回くらい行きましたが20回は生かされたフネもありましたね。

飛行機も、もうゲタバキ(水上艇)で敵に応戦するしかないんです。
見ているとね、敵の飛行機に向かって、
鈍重なゲタバキ機が果敢にも向かっていくんですよ。
相手は30機くらいなのに一機で向かっていくんです。
目の前でそれらがバタバタ落とされていくんです。

もう可愛そうでね。

なんでこんなくだらん戦闘をやらせるんだ、と腹が立ちました。



有賀さんは輸送艦の艦長として優秀でしたから引っ張りだこでした。
だから「嵐」も何度も攻撃にさらされています。

一度爆弾が当たりましてね。
しかも水雷機関の補給室だったんです。
そこにあった93式魚雷に当って・・・・、
93指式魚雷ってのは酸素魚雷ですから、酸素に引火して
燃えだしたんです。
わたしは水雷長で、艦橋の上から見ていました。

ああ、もう死ぬな、と思って見ていたんですが、
不思議なことに「すっ」と火が消えた。
あそこにはほかに8本魚雷がありましたからね。
その一本が爆発していたらフネは轟沈していたでしょう。

本当に、戦争とはわけのわからないことが多いです。

・・・え?

その時ですか?

だらーっとしていましたね(笑)

(前ログ参照)

死ぬのをこのころには全く怖いとも思わなくなっていた。


■教官着任、そして終戦


「嵐」は帰国してドックに入りました。
私はその後兵学校の教官を江田島で8か月、
岩国でも8か月やりました。

(写真を指されて)ええ、この写真のどこかにいます。
どこにいるかわかりません。
こちらの教官だけの写真も、どこかにいますが、
どこにいるかわかりません。

このとき教えたのは水雷術です。

(会場にはこの時の教え子が3人来ていた)

5月1日、少佐に昇進しましたが、写真は撮っていません。
え?残念?
なんでですか(笑)


4月に第5航空艦隊西海航空隊に配置されて、
航空魚雷の実用実験や整備、調整の指揮をしていました。

そして終戦を迎えました。


8月15日、掩体壕の上に乗せる木を取りに山にいったんです。
すると、別荘の奥さんが

「玉音放送があるらしいから聞きましょう」

と誘ってくれて、そこで放送を聞きました。
でも、何を言っているかわからないんですよ。
わからなかったけど、戦争が継続するならこんな放送するわけないので
たぶん負けたんだろうな、と理解しました。

五航艦の軍紀も士気も低調でしたね。
他部隊から聞こえてくるのは
「大日本帝国は不滅なり」なんて言葉ばかりで、
倉庫に泥棒すら入ったりしたんです。

わたしは「負けたら負けたで敗戦を自覚して立ち直ればいい。
それをいつまでも『負けていない』とは男らしくない」
と考えましてね、それを全部隊に電報で発信しようとしました。

「光輝ある海軍が敗戦で軍規を乱し、
威信を失墜したことは誠に遺憾である
気合を入れなおし、有終の美を飾り再建を目指そう」

こんな文を送ろうとしたら、通信員が
「そんな電文は発信するわけにはいきません」
と拒否するのです。
私は拳銃を突きつけ「発信しなければ撃つ」といいました。
電文を打たなければ本当に撃つつもりだったのです。

あわてて参謀が飛んできて「軍法会議だ」と騒ぎましたが、
私はもし参謀が拳銃を抜いたらこちらも撃つつもりでした。

結局参謀は黙って出て行き、電報は発信されました。



第五航空艦隊といえば宇垣纏司令長官が、
「最後の特攻」を行いました。

基地に帰ると飛行場に艦爆の「彗星」が10機並んでいて、
これから宇垣長官が自ら飛行機に乗って沖縄に特攻する、
というのです。

なぜ長官自らが特攻機に乗るのか理解に苦しみましたが、
その時は「まだ戦争は終わっていないのかな」と思いました。

でも、今から考えるとあれはいけませんよ。

死にたいのなら一人で死ねばよかったんです。
部下を道連れになんて、人間に対して失礼です。

宇垣さんは、ダメですよ。


■アベノミクスは男をあげた



昔もそうですが、日本は今も上がダメですね。
今の政治なんて酷いものです。

民主党なんて、あれ日本の政党だろうか?
って感じでしたからね。

ただ、アベノミクスは男を上げてるみたいですね。
何とか頑張ってほしいと思いますよ。

後、どうしても生きている間に見たいものがあります。

天皇陛下が靖国神社にお参りされる姿です。

77期に陛下のいとこがおられますね。
(久邇宮邦昭王・くにみやくにあきおう)
この方に何とか陛下にお参りを賜れないかお願いしてるんですが、
どうも実力がないということで難しいようなことをおっしゃる。


320万人もの方が国を護るために死んで靖国にいるんです。
なぜ天皇陛下がそれをされないのか、
わたしはもはや棺桶に片足を突っ込んだような人間で、
それを実現するにはもう力がありませんが、
このことが今の一番の心残りですね。





2013年3月16日、靖国神社遊就館における講演を
構成しました。


取りあえずすずめ食堂

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今日、ニコン1の使い方教室に行ってきました。

が、この写真はそれとは全く関係のない、「初撮り」写真です。
使い方がわかってからもう一度撮りますので、
「使用前使用後」を比べる判断にしていただければ幸いです。

まだ全然絞りとかシャッタースピードとかわかっていないので、
そのつもりでご覧ください。

mizukiさんのリクエストにお応えして取りあえず第一弾やってみました。





一羽でチュン。



二羽でチュチュン。



三羽揃えば牙を・・・・剥くわけないだろーがっ!

あれ、これもしかして・・・・親子?



ガラス越しに撮ると、ガラスの汚れが・・・・・orz
この後、反省してガラスを磨きました。



ほかのものが写りこんでしまっています。



お母さんと子ども入店。



お皿の横にいるのに、自分で食べないで、
お母さんに口の中に入れてもらっています。





仔スズメは色が薄いんですね。
ずっと羽を震わせています。



仔スズメがこっちを見てる!





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