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掃海隊殉職者追悼式〜海上安全祈願奉納の社

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掃海隊の殉職者慰霊追悼式は、毎年5月の最終週週末に行われます。
わたしは今年の追悼式への招待状をいただいた時、あることに気づきました。

自衛隊員の殉職追悼は、一般的に自衛隊記念日に行われます。
金毘羅宮での慰霊碑建立に伴い、毎年ここで追悼式を挙行することになったとき、
昭和二十年まで存在した海軍記念日の5月27日の週に決められたのではないかと。

今年は5月27日の海軍記念日と追悼式が重なりました。
それは2006年以来のことです。
11年に一度の機会に立ち会うことができた光栄をわたしは一人で噛みしめました。

噛みしめながら空港に到着すると荷物台ではカツオがお出迎え。
ところで「オリーブカツオ」って何かしら。

香川県独特の丸い甘食みたいな山を見ながらいくこと小一時間。

金毘羅宮の座す裏の山道に入るとそこは鬱蒼とした竹林に囲まれ空気も違います。

なんたる疾走感(笑)

まずは金刀比羅神社の参道脇にある資生堂直営のカフェレストラン、
「神椿」の駐車場に車を停めました。

よくぞこのような場所をわざわざ切り開いたと思うくらいの鬱蒼とした斜面に、
カフェと駐車場からそこにいくためだけの橋があります。

鄙には稀な、という言葉がつい浮かんで来るくらい、おしゃれでセンスのいいカフェ。
さすがは東京・銀座資生堂パーラー直営であります。

車を停めさせていただくからにはと、まずここでお茶をゆっくりといただきました。

掃海隊慰霊碑はどちらかというと下から近いところにあり、
「神椿」からは結構な距離階段を降りていかねばなりません。

たてつけ前の会場には、呉地方総監と掃海隊幹部だけで執り行う
掃海部隊のための神事の用意がなされていました。

その様子を後ろから見ていたところによると、慰霊式とは別に、この度は
御祭神となられた掃海隊殉職者の御前に、現在の海上自衛隊掃海隊の安全を
祈願するのが目的ではないかと思われました。

慰霊碑前の広場には、後ろに道のある「門」があります。
搬入のためのトラックなどは、このギリギリ後ろまで入ることができます。

去年はたてつけ後にきたので気づきませんでした。

「海軍兵学校の櫻」と記された石碑が一本の桜の前に立っています。

これが海軍兵学校の桜です。
ここに掃海隊の慰霊碑が建った頃には海軍兵学校はなくなっていた訳ですが、
桜の由来については今回どこを探してもわかりませんでした。

現場で待っていると、海軍時代の第二種軍装、今の第1種夏服姿の
掃海隊幹部のみなさんが到着しました。

凛々しい純白の詰襟に身を包んだ幹部は、とてもこの後顔をあわせるなり

「そこで金箔ソフトクリーム食べたかったけど高かったのでやめました」

などといいだすようには見えません。

わたしは邪魔にならぬよう、この距離から見守ることにしました。

呉地方総監が到着し、斎竹を立てしめ縄をかけた祭場で
まずは修祓が行われます。

修祓(しゅばつ)とは神事の最初に穢れを払う儀式です。
神職の祓詞(はらえことば)によって祓い清めが行われています。

前列には呉地方総監、掃海隊群司令、副長に続き、
参加部隊の司令官、高松港に寄港している掃海艇の艇長が並びます。

この後は笙、篳篥、そして琴による(琴平だから?)奏楽とともに
降神、献饌、祝詞奏上、玉串拝礼、撤饌、昇神と式次第が進みました。

 

今回、祭礼開始前に権宮司から写真を撮っても構わない、という
お許しを頂いたのですが、神聖な行事でもありますので、
撮った写真の公開は控えさせていただくことにしました。

その後、幹部の皆さんは必ず昼食会を行う「神椿」へ。
もう昼食会は下の階で始まっています。

わたしたちはこの上の喫茶階でサンドイッチをお昼にいただきました。

サンドイッチはポーク、白身カツ、エビの三種類あったので、
エビと白身を二人で一皿ずつ取って半分こしました。
さすがは東京銀座パーラーの資生堂、ほんの少しだけ表面を焼いて
歯ごたえをカリッとさせたパンと具のマッチングは最高!

 

さて、ここで初めて今回の同行者をご紹介しますと、食べ物とインコの写真を撮ること
『でも』有名な?カメラマンのミカさん(仮名)であります。

掃海隊イベントに参加するときには毎回のようにご一緒させて頂いておりまして、
今回も追悼式と艦上レセプション以外の行程については、全て詳細を教えていただきました。

今回はふとその気になって、ここで売っていた金毘羅宮限定資生堂オリジナル、
「琴娘」というフレグランスを購入してみました。

昔お母さんの鏡台に置いてあった瓶のような懐かしい香りがします。



さて、例年この昼食会の後、幹部たちは本殿まで参拝に行くことになっています。

このこともわたしはミカさん(仮名)から伺いました。
彼女が参拝する呉地方総監を撮るために上で待っていたいというので、
神椿から本殿まで行ってわたしたちも参拝することにしました。

石段を登って行くと、まず穢れを祓う神様の祓戸社がありました。
ここは下から上がってくると595段目にあります。

「やっと着いた〜!」

と思ったら、実はここはまだ途中でした。
旭社と言いまして、天保8年(1837年)に竣工した社殿です。
ここは628段目。さっきからまだ30段くらいしか来てません。

ところどころにこのようなものがあったのですが、蜂のお家だそうです。
家を与えることで社殿や神木に巣を作らないように、という共存の知恵かと。

そういえば、慰霊式本番でも、蜂がね・・・・・。

鳥居の両脇にいた狛犬さん。
こちらは「阿吽」の「吽行」で口を閉じたタイプ。

狛犬さんのいる鳥居をくぐると本宮手水舎があります。
ここで口と手を清めました。

手を洗った後は改めて本殿への階段に臨みます。

真新しい金色のプレートには御本宮まで133段であることが書かれています。
観光キャンペーン「ゴールドプロジェクト」で階段の両側に一つづつ設置されました。

古来から信仰を集めた金刀比羅神宮の本宮近くには、当時の旅行デスクである「講」、
旅籠や米屋などが寄進した名残が残ります。

死後何年も半永久的に名前を残す方法として、大金を寄進した人だけで
こんなにいるということに想いを致すと、軽く思念が宇宙にトリップするのを感じます。

御前四段坂という階段の途中にあるお百度石。
願い事が叶うかどうかはともかく、少なくとも達成した暁には
足腰が鍛えられ健康になることは間違いありません。

四段坂を登りきり下を覗き込んでみる。
こちらは登り専門で、帰りは反対側にある下り階段を使います。

というわけで本宮に到達。
ちょっと嬉しかったのは、階段をこれだけ上がっても息一つ切れなかったこと。
今回に備えて走り込みをしようかと思っていたくらい自信なかったんですよね・・。

なんと、

「一般参拝者を装いデタラメな説明や案内をする不届き者がいるので気をつけてください」

という悲しいお知らせ。
自衛隊近辺のそういう人たちは、主に自衛官に絡んで嫌がられます。
今回も「ぶんご」でそれらしい人を見たなあ。

ちなみに神宮では神社全域でのポケモンGO禁止と(そりゃそーだ)
イノシシが出るので夜間の参拝はご遠慮ください、ということと、
「岩座(いわくら)」というパワーストーンの販売会社とは無関係である、
といったことがわざわざHPで断られています。

 

何をやった、岩座とやら・・。

わたしはここに修学旅行で来ているわけですが、境内の様子に全く記憶がありません。
石段を登っている時のことはなんとなく覚えているのですが。

そういえばここからの讃岐平野の眺めにかすかに記憶があるような・・・。
この時の宿で男子の部屋と女子の部屋の間にロープを渡し、カゴに乗せて
お菓子を交換した思い出なんかははっきりしてるんですけどね。

こんぴらと犬の関係は知りませんが、犬好きをターゲットにしたと思われる
「こんぴら狗みくじ」なるおみくじがありました。

南渡殿という長い廊下が本宮から三穂津姫社まで南北に渡っています。
長さは約40メートル、比較的最近の明治11年(1878)に建てられました。

祭典において本宮へ参進する祭員、舞人、巫女、本宮に進む参拝者が、この廊下を通ります。

樹齢何年だろうと思わず見上げてしまう巨大なご神木。

本宮の両側にある「金」に似た文字は、金毘羅宮の印です。

本宮のある一隅にこんなところがあります。
冒頭の写真も細部を見ていただくと、例えば大正8年の日付で

「帝国汽舩株式会社播磨造船所 造船部 職長・組長同志会 奉納」

というのがあったりします。


帝国汽船ははあの鈴木商店が拡充したもので、当初は播磨造船所という名前でしたが、
この前年度に「帝国汽舩株式会社播磨造船所」になっています。

その後帝国汽舩は播磨造船所と合併し、造船部は神戸製鉄所に営業を譲渡。
播磨造船所はその後石川島播磨重工となりました。
現在のJMU(ジャパンマリンユナイテッド)は、 IHI造船部門がユニバーサル造船と合併したものです。

この、忘れ物の帽子の置いてある舟形がなんなのかはわかりませんでした。

なんと、我が日本国海上自衛隊遠洋練習艦隊の奉納酒樽がこんなに。
「かしま」の他に「しらゆき」今はなき「くらま」の文字が見えます。

改めていうまでもないですが、金刀比羅宮は海の神様なのです。

三菱重工は昭和50年に開発した船舶用エンジンの発展を祈願して大きな額を奉納。

左から掃海艇「はつしま」、練習艦「せとゆき」、掃海艇「えのしま」、
そして練習艦「しらゆき」。

船の海上での安全を祈願する本宮は、海上自衛隊もその無事を祈って
ここで奉納を行なっていたことがわかりました。

 

続く。

 

 

 

 


掃海隊殉職者追悼式〜「慰霊祭」と「追悼式」

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いきなりですが、訂正があります。
追悼式前日、神職によって行われた祭祀について

「慰霊というより掃海隊の安全祈願ではないか」

と推察してみたのですが、文献を当たったところ、
それは全くの間違いであったことがわかりました。

今回は、そういったことを交えてお話しさせていただこうと思います。

 

戦後日本近海における機雷除去による掃海活動について書かれた
「掃海」(水交社発行)は、実際に掃海に参加した隊員の手記を中心に、
触雷事故の全ての状況を詳しく知ることのできる資料です。

そこに記された海軍兵学校69期卒の姫野修氏が行なった講演内容によると、

●昭和27年平和条約が初効し、日本が独立したのをきっかけに、
海上平安ゆかりの琴平に殉職者顕彰碑を建立することになった

●国家再建の尊い礎石となった殉職者の偉業を後世に伝え慰霊を行い、
遺族の方々をお招きして慰霊祭を行うことになった

●趣意書発起人は地元観光事業促進協議会会長を始め、
全国32の港湾都市の首長が名を連ねた

●当時の総理大臣吉田茂氏もそれを諒とし揮毫を快く引き受けた

●最初の慰霊祭は昭和27年6月23日に行われた

とあります。
顕彰碑に香川県の庵沼町産の巨大な石を選定したので、
琴平までトレーラー輸送するのに途中通過する橋という橋を
全て補強しながら進む必要があり、その作業のために
6月23日の慰霊祭当日、まだ石碑は金刀比羅宮の石段の中途にあり、
ついにその日には除幕式は行えなかったという話もありました。

折悪しくも前日に上陸したダイナ台風も影響を及ぼしたそうです。


また前回、追悼式が5月最終週週末になったのは、旧海軍記念日であった
5月27日に合わせたのではなかったか、と推論を述べたのですが、
このことも微妙に間違っていたことをお伝えせねばなりません。

それはもう少し後に譲るとして。
呉地方総監が本宮に拝礼を行うシーンを見るために、
本宮前で到着を待っていたのですが、待てども待てども総監は現れず。

そのうちに「立て付け」のリハーサルが始まる時間が近づいたので、
諦めて一気に一番上から慰霊碑前まで階段を降りてくると、会場では
ちょうど儀仗隊が最初の儀仗を行うために整列しているところでした。

音楽隊を始め儀仗隊、そして執行官である呉地方総監も、
ほぼ本番の通りに通しで行います。
違うのは、一種礼装に当たる制服を着ていないことだけ。

この一連のリハは、主に儀仗隊と音楽隊のために行われるもので、
後ろのテント前列には「地方総監」「国会議員」「遺族」など、
役割を書いたプラカードを下げた隊員が並んでいます。

予行に立ち会う自衛官も、必ずするべきところでは敬礼を行います。

 

弔銃発射の姿勢。
とにかく、儀仗隊の出来が追悼式の出来を左右するというくらいで、
フェイリアー・イズ・ノット・アン・オプション。(なぜ英語)
失敗は決してゆるされません。

それだけにリハーサルは入念を極めました。

とりあえず代役で一通り流れをリハするようです。
これは呉地方総監役が献花を行なったというところ。

最後の国旗降下までを通して行いました。
この国旗を掲揚、降下する隊員たちにも厳しくチェックが入りました。

終わった後も繰り返し行われる装填作業の練習。

 

この後、呉地方総監が参加しての「リハーサルの本番」が行われるのですが、
肝心の総監がまだ到着しておりません。

例年呉地方総監は食事の後「神椿」から本宮まで登って参拝を行い、
そこから降りてきてリハーサルを行います。
みんなが到着を待つ状態になってしばらくして、

「総監は現在高橋由一記念館のところを通過しております」

という状況報告が入りました。
これで皆が心の準備を行い(多分)、リハ本番に備えます。

呉地方総監池海将が、ご遺族(の役)を案内して入来するところから始まります。
この隊員さん、役得として、海将や一佐にこの通り丁重に扱われることになります。

式次第は国旗掲揚から。
儀仗隊は捧げ銃を行う前に、このように俯く姿勢をとります。

捧げ銃(つつ)は儀仗隊隊長の号令によって行われます。
練習艦隊の記事で、指揮官が「掛け声をかける」などと書いてしまいましたが、
正しくは掛け声でなく「号令」(当たり前ですね)。

また「号令をかける」という言い方も間違いで「号令は発するもの」であり、
「号令を発する」のは「号令官」というのが正しい、
ということをご指摘いただきましたので、ここに訂正させていただきます。

左手で銃の中央部を持ちながら上に引き上げて体の中央で構え、右手で銃の下部を持つ。

これが自衛隊における捧げ銃のやり方です。
興味深いのは、「捧げ銃」で調べると、どこの国の軍隊においても

「非武装時は敬礼を行う」

と書いてあることです。
つまり敬礼とは「銃がない時の捧げ銃」であり、捧げ銃とは逆に
「銃の敬礼」であることを改めて認識しました。

儀仗隊指揮官は幹部がつとめ、儀仗隊の先頭には一人だけ海曹が加わります。

地方総監は国旗掲揚に続き殉職者の霊名簿奉安を行います。
祭事でいうところの「降神」で、御霊に降りてきていただくための儀式です。

最初の追悼式が行われた昭和27年には、祭主は兵庫県知事が勤めました。

厳密には、昭和49年まで祭主は金刀比羅宮であり、遺族50名ほどに対し、
海上幕僚長が招待されて参加するという形になっていたそうで、
自衛隊の掃海部隊は第1掃群司令だけが代表で出席していました。

ところが、昭和50年からは

「慰霊祭」とは別に「追悼式」が

行われることになったのです。

実はわたしが昨日立ち会った神式の祭祀、あれが「慰霊祭」で、
かつては旧海軍記念日の5月27日に行われていました。
(つまり今回の慰霊祭は5月26日で海軍記念日ではなかったことになります)

なぜこんなことになったかというと、自衛隊に逆風が厳しかったこの時代、

「宗教色の強い慰霊祭を自衛隊が行うのは憲法20条に抵触する!」

と騒いだ連中がいたというのが理由でした。
そこで、祭事である慰霊式を追悼式の前日に行うことにして、追悼式は
祭主に代わる執行が呉地方総監によって執り行われることになったのです。

 

当時、この不条理な圧力に対して受け入れがたいとしたのは、
当然かもしれませんが、自衛隊ではなく主催者であった金刀比羅宮でした。
この時、呉地方総監が神社側を説得し、神社側は

「不本意ながら今の世情では仕方ない」

とこれに妥協したという経緯がありました。
このことは、当時の呉監管理部長の書簡に残されている事実であります。

こうして現在、掃海殉職者追悼式は、呉監の企画、準備、そして
執行の下で行われ、掃海隊群が追悼式の中心的役割を果たしています。

 

なお、神職によって行われる「慰霊祭」には、呉地方総監をはじめとする
海上自衛隊幹部などが「招待を受けて個人的に」参加している、
という形を取っているということです。

つまり慰霊祭は掃海隊の安全祈願のための祭祀ではなく、
あくまで永代供養されるべき殉職者の慰霊だったのです。

音楽隊は、弔銃発射の時に儀礼曲「命を捨てて」を奏楽します。

先日取り上げた小説「海軍」には、真珠湾攻撃で「九軍神」となった
特殊潜航艇乗員たちの葬列を送るためにこれが演奏されたとありました。

「命を捨てて 益荒男が 立てし功は あめつちの
あるべき限り 語り継ぎ 言いつぎゆかむ 後の世に」

このような時に演奏する曲は、陸自と空自には公式に存在せず、
必要に応じて隊長が適当な曲を選ぶことになっていますが、
海上自衛隊は海軍時代の儀礼曲を現在も採用しています。


第11代東京音楽隊長である谷村政次郎氏の著「海の軍歌と禮式曲」には
わたしも参加が叶った平成26年度練習艦隊による
ホニアラ島からのご遺骨帰還式典における捧げ銃の場面で、この
「命を捨てて」が演奏されたことが書かれています。

「多くの参会者の中で、この曲名を知っていた人はほとんどいなかったであろう」

おっしゃるように、自衛官以外では谷村氏とわたしだけだったかもしれません。

弔銃発射は捧げ銃(指揮官は敬礼)の状態から始まります。
音楽隊が「命を捨てて」をワンコーラス演奏するのがこの時です。

号令が発せられると、左に佩用した剣の着剣を行います。

着剣はほぼ一瞬で行わなくてはいけません。
この部分は何度か繰り返して練習をしていました。

着剣した銃を抱くように斜めに構え・・・・・、

「弔銃発射用意!」

銃を構え、第一斉射。
その後「命を捨てて」の最初8小節が、三倍速くらいで演奏されます。
それが終わると発砲、また演奏、発砲。

合計三斉射が行われ、クライマックスである弔銃発射は終わります。

指揮官の号令のタイミング、斉射のタイミング、指揮者のタイミング、
全てがぴったりと合って初めて滞りなく終了します。

呉地方総監が献花のリハーサル。

最初に行う呉監だけがリハを行います。

式次第には音楽隊の追悼演奏もあります。
この時のアナウンスでは、「軍艦」「海ゆかば」「掃海隊の歌」など、
確か4曲がコールされていたと思うのですが、本番では2曲でした。

コンパクトにすることで、高齢の方が多いご遺族に配慮したのかもしれません。

演奏が終わり、霊名簿を降納します。
これも祭事で言うところの「昇神」で、御霊にお帰りいただくのです。

国旗掲揚台に正対した儀仗隊の前で国旗が降下されます。
音楽隊は国歌を奏楽しています。

無事にリハーサルが終わったと思ったら、儀仗隊になんと
掃海隊群司令自らのご指導ご鞭撻が行われました。

「儀仗隊は慰霊式の花形なんだから・・・・」

という最初の言葉だけ聞き取れました。

あとは姿勢や間隔の取り方などについての注意が行われたようです。

さらに総監、群司令、司会など幹部がみんなで打ち合わせ。
本番の追悼式に向けて慎重に調整を行なっていました。

追悼式会場から退場する時、車のあるところまでは階段を登りますが、
白い制服の彼らが団体で歩くと、参道の注目が一斉に集まります。

神宮の一角に自衛隊の慰霊碑があることを全く知らなかった人が、
自衛官を見ることで初めてそれに気づく、ということもあり、
彼らの姿そのものが、広報の役に立っていると言えるかもしれません。

 

続く。

 

掃海隊殉職者追悼式〜「ぶんご」艦上レセプション

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金刀比羅宮での「慰霊祭」と立て付けが終わりました。
そこからまた再び車の置いてある「神椿」まで階段を登ります。

高橋由一記念館の手前に青銅の灯篭があるのですが、この中腹に
龍が巻きついています。

掃海隊群のマークは、このように龍が機雷を掴んでいるデザイン。
慰霊碑のすぐ近くに龍がいるのも何かのご縁でしょうか。

帰りに厩舎前の広場で神馬を馬子が散歩させているのを発見しました。
長い尻尾は神の馬らしく、流して先をカットしてあります。

「月琴号」というそうですが、実物は写真ほど真っ白ではありません。
・・・・フォトショかな?

運動のために綱をつけてぐるぐる歩くだけで、何かを地面に見つけ立ち止まると、
たちどころに馬子に結構手荒に叱責されていました。
神馬とはいえ、別に畏れ敬ってもらえるわけではないようです。

その横にあった奉納のプロペラ。
船のプロペラ、しかも大型船のサイズでとにかく巨大です。

寄贈したのは今治プロペラという会社だそうです。

ところであとでiPhoneをチェックしてみたところ、この日一日の歩行数は
1万2千681歩、距離にして7.8km、登った階段数は36階となっていました。

そのまま車で高松まで戻り、わたしはホテルにチェックイン。
部屋からは「ぶんご」が見えます。
予約の時に「できれば海の見える部屋を」とリクエストしたおかげでしょうか。

「ぶんご」後甲板には紅白の幕が確認できます。

部屋は角部屋で二方向が窓です。
ここに連泊できればよかったのですが、残念ながらこの夜だけでした。

部屋に帰って1時間あったので、シャワーを浴びて着替えてから現地には車で行きました。
埠頭にはレセプション招待で入っていく人の他に、船を見るために来た人たちが結構います。

入り口のデスクで受付をすると、皆胸につける名札をもらいます。
会場にはもうすでにたくさんの人たちがいて、すっかり盛り上がっていました。

「ぶんご」の甲板はとにかく広いので、天幕以外のところは露天のビアガーデン状態。
「かしま」とは違い広々としており、テーブルや椅子も設けられています。

さらには甲板に公開用の機雷が置いてあったりします。

先ほどまで「命を捨てて」をやっていたのとおそらく同じ音楽隊員が、
ここでは渋めのジャズ、 "There Will Never Be Another You"とか
”黒いオルフェ” "C ジャム ブルース”などといった曲を演奏していました。

みなさん、この方ご存知ですよね?
わたしはテレビを持っていないので話に聞いて初めて知ったのですが、
コメンテーターとして今やテレビで見ない日はない、といわれる
伊藤俊幸元呉地方総監・海将。

わたしが呉地方総監部に表敬訪問した時には、かつて広報であった頃のことを
楽しくお話くださった伊藤元海将ですが、退官後の人生も同じ広報畑。

わたしの知っている人は伊藤氏の出ている時だけテレビをつけるというくらい、
本音のコメントが受けているという話です。

名刺をいただいたら、そのうち一枚は裏が「特典付き」になっていて、
例えば大和ミュージアムはそれを見せるとタダ、というもの。
そのため、何枚も所望する人もいました(笑)

なんでも呉の観光と深く関わっておられるが故の”ご利益”だということです。

「呉でお会いした時の印象と今のご活躍に全く違和感がなくて・・・。
今みたいなご活躍をされるのも当然だと思ってました」

と申し上げると、

「またまたー、お上手なんだから」(〃'∇'〃)ゝ

と照れておられました。

海自で供されるお酒の升は普通木肌のものですが、「ぶんご」は塗り風です。

去年も驚きましたが、今年はまた一層パワーアップしたVIPテーブルの飾り彫りコーナー。
庭園を模した超大作です。

なぜか赤い鶴、リアリズムを追求した水面を泳ぐ錦鯉、そして欄干の橋。
そして今年の新機軸は、水戻ししたはるさめをブルーで色付けした滝の水流れ!

「ぶんご」給養の方々、ブラボーでございます。

宴たけなわには呉地方総監池海将の挨拶が行われました。

呉地方総監の数ある任務の中でも、掃海隊殉職者慰霊祭と追悼式は、
特に重要で大切なものではないかと想像します。

昨年度の追悼式も掃海隊群司令であった湯浅海将補。
これが最後の艦上レセプションになります。

司会アナウンスの女性の横に立っているのは、追悼式で司会を務めた二佐。
「ふゆづき」の引き渡し式の時、「ふゆづき」副長だった方です。

折しもその頃、「ぶんご」甲板から眺める瀬戸内の島々の間に、
夕日が沈んで行きました。

甲板の上から落日に見入る人。(誰か知りません)

海上自衛隊では、夕日が沈むのをのんびり眺める人はおりません。
なぜなら、この時に自衛艦旗の降下が行われるからです。

降下は海曹と海士の二人で行うことになっていて、この日は女性海士が当直でした。

えーと・・・これは何をなさっているんでしょうか。
とにかく楽しそうで何よりです。

陸自の人は知りませんが、海自の三人は艇長と隊司令という重職の方々です。

ラッパ隊の前に立つ士官の号令一下、喇叭譜「君が代」が始まりました。
海曹と海士、二人で旗を降ろします。

例によって、「ぶんご」の後ろに繋留している「あいしま」「いずしま」の後甲板からも
少しずれたタイミングで「君が代」のラッパが聞こえてきます。

左の「あいしま」では素早いタイミングで艦首旗を降ろします。
ネイバル・ジャックと呼ばれる艦首旗は、日中の停泊時に掲揚されます。

旗のおろし方は、手を大きく回すようにして、紐を引きます。
夕焼けとなり、あたりが暗くなって艦飾の電燈が色づいてきました。

この日は日差しは初夏のものでしたが、風がひんやりとして日陰は涼しく、
立て付けや予行の間も、比較的快適に過ごすことができました。
しかしこの頃になると、日が落ちて猛烈に気温が下がってきます。
船の甲板の上なので、海から吹き上げる風も強くて寒くなってきました。

それなのに((T_T)蒸し暑かった去年の記憶から、わたしはよりによって
肩の出た半袖のドレスを選択したため、会う人会う人に開口一番

「寒くないですか・・・?」

と聞かれる羽目になりました。
百人くらいに聞かれた気がします。

パーティでお腹がいっぱいになるようでは仕事人として失格である。

誰が言ったかは知りませんが、仕事人でないわたしはとりあえずカレーだけいつも食べることにしています。
「ぶんごカレー」はひき肉の中辛でした。

レセプションには東京から元将官の偉い人たちもやってきます。
水交会のおじさまたちもほとんどがOBですし、現役自衛官は気が抜けません。

「あーちみちみ、しっかりやっとるかね」

「は、ははー閣下!」

・・・みたいな?(あくまで想像です)

というわけで、いつのまにか「蛍の光」が鳴りだしました。
これを聞くと我々は何やら落ち着かない気分になって、会場を出ることになります。

舷側には舷門まで乗組員が立って、一人一人に挨拶をしてくれます。
写真は「ザ・先任伍長」みたいな貫禄の先任伍長の手を握りに行く元偉い人。

もうすぐ海将が退艦する予定なので、お迎えの車がやってきています。


さて、わたしはカレーとお刺身くらいはいただきましたが、
カメラマンのミカさん(仮名)は写真を撮っていて一口も食べず。

この日、久しぶりにお会いした元偉い人(←階級は忖度により秘す)が
わたしも一口も食べておりません、と端正な様子でおっしゃるので、
なぜか偉い人、わたし、ミカさん(仮名)、という超シュールなメンバーで、

うどんを食べに行くことになりました。

なぜうどんになったかというと、ここがうどん県だったからで、
「何か食べる」ということになったとき、他の選択肢を思いつかなかったのです。


そこでラッタルを降りたところにいた地元地本の方に教えてもらい、
わたしの車で「鶴丸」というお店に行きました。

偉い人は

「味がわからない時には基本である釜揚げを食べればよろしい」

とごもっともな正論通り釜揚げうどんを、そしてわたしは、さっき少しとはいえ
カレーを食べたのにもかかわらず、又してもカレーうどんを取りました。

さすが「蛇口をひねるとうどんが出てくる県」だけのことはあって、
このカレーうどん、カレーうどんのくせにコシがあってツルツルです。

うどんの後、ミカさん(仮名)がおでんをせっせと取ってきてくれて、
わたしも少しいただきましたが、三人でこれだけ食べたのに3600円、
というのには思わず安っ!とつぶやいてしまいました。

 

この時に中の人だった偉い人に伺った話は、それはそれは面白く、
全部ここに書けないのが残念なくらいですが、駐在武官だった任地での話や
ローカルジョークに、わたしたちは時間が経つのも忘れて盛り上がりました。

わたしとしては一番興味深かったのが、

「掃海隊に近々女性艇長が登場する」

という情報でした。

掃海隊には艇長を訓練する専門課程があります。
例えば今回高松に寄港していた掃海艇のうち一隻は、その過程を終えて
艇長として最初の勤務、という人が乗っています。
現在、この教育課程に女性隊員がいるのだそうです。

隊員にすら一人もいなかった女性が、なぜいきなり艇長になれるのか?

今回初めて知って驚いたその理由とは「居住区域の問題」です。

潜水艦もそうですが、居住区が狭い掃海艇は、男女の居住区を分ける余裕がなく、
主にプライバシーの問題が女性の進出を阻んできました。

かといって掃海畑に女性がいないわけではなく、「ぶんご」など広い掃海母艦には
今回の写真を見てもおわかりのように多くの女性隊員が勤務しています。

ここで発想の転換といいますか、

「艇長であれば個室が与えられる」

つまり、女性が掃海艇に乗るには艇長になればいいのです。
というか、女性が掃海艇に乗るには艇長になるしかないのです。

艇長の育成過程に進んだ女性隊員は、掃海母艦出身で掃海についてはすでに
経験を積んでいるということですが、ただでさえ荒っぽく、厳しい現場であり、
海自で一番過酷と言われるEOD(水中処分員)を含む掃海艇を女性が指揮することを
肝心の掃海隊員がどう捉えているのか、気になるところです。

 

さて、明日はいよいよ追悼式です。

 

続く。

 



 

 

甲標的甲型 と酒巻和男氏の再会〜グロトン・サブマリンミュージアム

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コネチカット州ニューロンドンのテムズ川沿い潜水艦基地。
そこに併設されたサブマリンミュージアムの前庭に、
その姿を見つけた時、わたしとTOは思わず息を飲みました。

「これは・・・」「もしかして・・・」

日本では江田島の海上自衛隊術科学校校庭に、
甲標的「甲」型があるのは何度も訪れて知っていますが、
まさかアメリカでこの特殊潜航艇を見ることになろうとは。

 

現在、江田島の海上自衛隊第一術科学校の敷地内にある甲標的は、
真珠湾攻撃に参加した5隻のうちの一つです。

みなさまもご存知のように、真珠湾で鹵獲された潜航艇の1隻目は
「捕虜第1号」となった酒巻少尉艇です。

2隻目はその直後見つかりましたが、そのとき捕虜であった酒巻少尉は
収容所で読んだ新聞のニュースでそれを知り、潜航艇の写真も見たということです。

酒巻氏によると、それは司令塔に二発の砲弾の貫通孔のある艇でした。

そして3隻目が江田島にある潜航艇で、戦史叢書によると、
昭和35年7月15日、真珠湾口外1.6マイル、水深約40mの海底から米軍が発見し
引き揚げられ、翌36年7月、我が国に返還されました。

この潜航艇には自爆の跡はなかったということです。

これが見つかった当時の江田島の潜航艇の姿。
この様子では、おそらく中に乗員のご遺体も残されていたことでしょう。 

 

甲標的甲型は魚雷の発射管を2門、このように前部に備えていました。
搭載していた魚雷は九七式酸素魚雷で、空気を注入することによって発射しました。

 

ところで、ここにある潜航艇はどういう由来のものなのでしょうか。

 

現地にあった簡単な説明はこのようなものです。

第二次世界大戦中、日本軍の「タイプ A」(甲のこと)、
二人乗りの小型潜水艇は、母潜水艦に背負われ(piggy back)、
作戦海域まで運ばれて運用された。

タイプ A小型潜水艇は、真珠湾攻撃に始まり戦争中を通じて
投入されたが、概ねその攻撃は失敗に終わった。


これでは、その由来も鹵獲の場所も状況もわかりません。

 

しかしサブマリンミュージアムのHPには詳細が記されていました。

 

日本軍は1930年始めに小型潜水艇の開発を始めた。

タイプ "A"はおそらく、第二次世界大戦中に海軍が開発した
もっとも最先端の小型潜水艦であった。

これらは特別仕様の船舶または潜水艦によって
行動海域に運ばれるように設計されていた。

5隻の同タイプの"A"潜水艦が真珠湾攻撃に参加したが、
すべて失われている。

1943年5月7日、潜水艦救難艦USS オルトラン(ASR-5)は、
ガダルカナルの北海岸沖で日本の特殊潜航艇を発見した。
潜航艇はククム湾に引き揚げられ、その後ガダルカナルまで曳航された。

1943年6月、潜航艇はニュー・カレドニアのヌーメアに到着。
便宜的にHA-8と識別された。

この潜水艇はHA-8 だけでなくHA-10、HA-30と3つの識別番号がつけられている。

その後、この小型戦史艇はグロトンの潜水艦基地に運ばれ、
1943-1944年の間、国債を売るためのプロモーションに使われていたが、
それ以来ずっとここグロトンに残されたままになっていた。

現在、タイプAの潜航艇は4隻が現存し、世界で展示されているが、
ここにあるものはそのうちの一つである。

鹵獲した特殊潜航艇に彼らはHAという名前をつけて識別していたようですが、
酒巻少尉が載っていた筒(日本側は潜航艇をこう呼ぶこともあった)は

HA-19

とされていました。
どうして最初に鹵獲した甲標的が19なのかいまいちわかりませんが、
ここにある甲標的に三つも識別番号がついていることを考えると、
これも単に便宜上以外の何ものでもなかったのでしょう。 

リンク先の英語のwikiによると、鹵獲後酒巻艇は”国債を買いましょうツァー”で
全国を見世物になって巡業し、その後はフロリダで展示されていました。

アメリカ政府はこれを国家歴史登録材に登録していましたが、
キーウェストの博物館がこれを売却に出し、1991年にテキサス州の
太平洋戦争国立博物館に引き取られることになりました。

同じ年、酒巻和男氏はテキサスで行われた歴史会議に参加し、
その際自分がかつて乗った特殊潜航艇と再会しました。

酒巻氏がそのときどんなことを考えたのかはもちろん、それを見て
どのようなことを言ったのか、その時の様子はどうだったのかについて、
詳しくはありませんが、こんな新聞記事が現在残されています。

WWII’s first Japanese prisoner
shunned the spotlight

(終生表舞台に出ることがなかった二次大戦の捕虜第一号)


 

ところでついでだから書いておきたいのですが、日本版のwikiの
酒巻和男のページ、捕虜になってすぐ撮られた酒巻少尉の写真に

「 両頬にはアメリカ軍兵士により煙草の火を押し付けられ拷問された痕が見られる」

と書いているのは実にまずいというか正しい情報ではないと思います。
前掲の新聞記事にも同じ写真が掲載されていますが、そのキャプションには

「酒巻は写真を撮るポーズをする前に、自分でタバコを押し付けて頰を焼いた」

と書いてあります。
どちらが正しいかは、酒巻氏本人が

「日本に何らかの形で写真が伝わり、新聞などに載った場合、
それが自分であることを少しでもわからなくするため」

自分でタバコを押し付けて焼いた、と言っているので明らかなのですが。

日本側のこの捏造記事は一体何を目的にしているのでしょう?

まあ、あのインチキ嘘八百番組の「真珠湾からの帰還」でも、
酒巻氏が戦後自分のことをほとんど語らなかったのをいいことに、
拷問されて戦犯裁判で糾弾されて、と全てを捏造しまくりだったわけで(怒)

日本人捕虜がアメリカで虐待されていたということにしないと
都合が悪い団体がマスコミ界隈にはどうやらあるようですな。
例えばテレビだとNHKとかNHKとかNHKとか。 

 

さて、ついつい腹立ち紛れに脱線してしまいましたが、この新聞記事です。
ここにわたしは初めて、晩年の酒巻氏の写真を見ることができました。

堂々たる体格はブラジルトヨタの社長だった頃のままに、
豊かな白髪に老いてなお知的な光を宿すまなざしは、
酒巻氏が戦後おそらくひと時も忘れることができなかったであろう
あの特殊潜航艇と再会したこの瞬間、悲痛に曇っているのが見てとれます。

なぜか日本の媒体ではまったく言及がない酒巻氏と甲標的の再会ですが、
この時の酒巻氏の心中は、その言動を何も伝えるものがなくとも、
この記事の最後の一文で全てが言い表されていると思われました。

「He wept.」 (彼はすすり泣いた)

 

 

コントラ・ロータリングと英語で説明されていた甲標的のスクリュー。
撮っている時には気づきませんでしたが、シャフトにスズメが停まっています。 

これは二重反転スクリューのことで、2組のスクリューを同軸に配置し、
各組を相互に逆方向に回転させる仕組みです。

2組のプロペラで飛行機にももちろん使われますが、これは、
機体や船体にかかるカウンタートルクを相殺するという働きがあります。

コントラペラは特に魚雷によく使われます。
魚雷は、魚雷発射管から撃ち出すという制約上、
本体直径より大きすぎる安定板を採用できません。
小さな面積の安定板でスクリューの反動に持ちこたえることは難しく、
スクリューの反動で本体が回転してしまい推進効率が落ちてしまうのです。

このため二重の反転するスクリューを採用して反動を消すのです。

甲標的は魚雷ほどプロペラの大きさに制限はないとはいえ、
まるで葉巻のように艦体が細く、プロペラを大きくすると
反動も大きくなるので、この機構が採用されたのでしょう。

プロペラを回転させる動力は、前部に配置された600馬力の電動機から
ギアを介して送られました。

なお、プロペラを囲むようにしてつけられた丸いガードは、
港湾に張り巡らされた防潜網からスクリューを守るものです。 

 



アメリカには「歴史的海軍艦船協会」という団体があって、国内に残る
歴史艦の情報管理を行なっていますが、そのHPには、この甲標的
(ここでは HA-30と呼ばれている)の戦歴はこのように残されていました。

日本側の資料これらのものが見られないのは何とも情けないことです。
 

 

1942年11月7日

0600

   日本の潜水艦I-16(伊16)はガダルカナルの甲標的発射地点に到着

1942年11月11日

0200

   ヤマキテイジ中尉とハシモトリョウイチ兵曹が甲標的に搭乗

0349

   伊16 は、海面にPT-ボートを発見、潜航する

0421

   甲標的、ケープエスペランスから10.8マイルの海域で射出
   射出時に舵がダメージを受け、3分後に操縦不能となる
   ヤマキ中尉は浮上し、任務を打ち切ることを決定

   カミンボ湾への途中で2隻の敵船を発見し、魚雷を二本とも発射した

1900

   マロボボ海岸に到着、両名ともに生還


(出典:サブマリンミュージアムHP)

1944年5月1日

   ガダルカナルの北部海岸のAruligo Pointの近くに陸揚げされた
   海底20フィートの海底から8人の海軍工兵隊シービーズによって引き上げられた 

 

この写真の後ろに見えているのは輸送船山月丸。
山月丸についてはガダルカナルの戦績について研究されている方のブログに詳しいです。

山月丸

 

それにしても・・・・。

わたしがこの実物を見て絶句したのは、経年劣化したものをさらに再現したとはいえ、
それだけではない、その艦体の作りのあまりに粗悪なことでした。

 

司令塔の壁面がいびつなのは遺棄された後海岸に打ち上げられ、
それを引き上げたり曳航したりという経過を経たもので仕方がないとはいえ、
鋲も、溶接部分も手作り感満載の拙速建造に見えます。

甲標的はソナーなど搭載されておらず、索敵は潜望鏡を覗くために
浮上せねばなりませんでしたが、構造上縦横に動いて常に安定せず、 
その状態で潜望鏡から索敵を行うのは至難の技。

たとえうまく発見しても敵艦の進行方向、速度などの諸元の割り出し、
魚雷発射の方位、タイミングの算定は艇長が暗算で行うのです。

いかに兵学校出で理数系に強くても、酸素不十分な艦内では
とても正答率が良くなるとは思えない絶望的な状況ではないですか。

成功率の低さを精神論のバイアスで補っていた非科学的な戦法と言いましょうか。

それは自死を伴う特攻を軍が命令として下す、
という外道の戦法を選んだ史上唯一の民族である日本人の、
ある意味非合理に振り切れたダークサイドの象徴であるようにも見え、
わたしはコネチカットの空の下、無性に情けないような、あるいは腹立たしいような
悲しみの気持ちに苛まれながら、その前に立ち尽くしていました。

 

 

MS14号艇の触雷〜掃海隊殉職者追悼式

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もう少しご報告が先になるかと思いますが、今週末、またしても呉におりました。
メインの用事の合間に、前にもここでご紹介した「艦船クルーズ」に、
しかも念願の夕暮れクルーズに乗ることができたのですが、呉軍港にはつい先日
その甲板上でのレセプションが行われた「ぶんご」が停泊していました。

掃海母艦「ぶんご」は呉が定係港なので当たり前なのですが、
高松での記憶がまだ新しいので、海の上から見る「ぶんご」の甲板に一週間前
自分がいたことが何か不思議な気持ちになったものです。

さて、その高松でのことをお話ししていきます。

レセプションから一夜が明けました。
「ぶんご」と掃海艇たちを見ながらお風呂に入れる部屋で目覚めます。

まだフェリーポートには人気がなく、静かな港の海面が朝日を照り返しています。

ここから見る「ぶんご」たちがもっとも美しく見える時間。
艦首には日の出とともに掲揚される艦首旗がもうはためいています。

 

ふもとから自衛隊の出してくれたバスに乗り金刀比羅宮に到着。

バスの到着地から会場までは、階段を少し降りていきます。
会場前には白い詰襟の自衛官が立っていて、ご挨拶をいただきました。

ちょうどこの向かいにあるお土産屋では、ちょっと休憩もさせてもらえるので、
それを知っている「常連」さんたちが、何人か開式までの時間を過ごしていました。

制服の自衛官がいて、さらにたくさん人が入って行くので、
参拝客は何事だろうと首を巡らせて眺めていきます。

右側の割烹着のような白衣を着た方は、金刀比羅神宮専属のカメラマンで、
昨日の神式の慰霊祭の写真も撮っておられました。

そこに儀仗隊が到着。
会場入りするのもちゃんと一列に並んで行進してきます。

慰霊碑の広場に続く道には「はやせ」の主錨が展示してあります。
掃海母艦「はやせ」については、この前の晩、うどんをご馳走になった偉い方から
最初の国産掃海母艦として「そうや」と同年度に建造された、と伺いました。

「そうやというと南極に行った船ですか、と聞かれるんですが、
実は自衛隊の『そうや』は機雷敷設艦だったんですよ」

やはり国産初の機雷敷設艦「そうや」は、掃海母艦の機能も持っていたそうです。

さて会場入りしようと思ったらなぜか長蛇の列が。

今まで追悼式の後には、金刀比羅宮内の建物で会食を行なっていたのですが、
そこが老朽化したため、今年は昼食会場をふもとの料理旅館に移すことになって、
昼食代を会場入りの際に徴収していたからでした。

わたしの真横は、儀仗隊の待機場所になっていました。

追悼式という儀礼でもっとも要となる儀仗隊は、何度も正面に出て、
捧げ銃やあるいは弔銃発射を行うたびにここに帰ってくるのですが、
隊長は全員を鋭い目でチェックし、少しでも服装に不備があると、
近づいて注意したり、乱れを直してやったりしていました。

一人の儀仗兵(って言ってもいいよね)はゲートルのベルトを
土踏まずのところに引っ掛けていなかったため、ベルトが穴から外れてしまい、
注意されてそれを直していたのですが、彼がそれをしている間、
代わりに銃を持ってやるのも隊長の役目でした。

わたしは前日の立て付けの時に追悼式の流れを写真に撮っておき、
本番はカメラを手にしないと決めていたのですが、それ以前に、今回は
写真など撮りたくとも全く物理的に無理であることがすぐにわかりました。

この写真を見ていただければお分かりだと思いますが、今年の配置は
全天候型で、会場全体にテントで屋根を作り、さらに今までの対面式から
全員が前を向いて座ることになったため、前の人の頭とテントの隙間から、
わずかに向こうが見えるだけで、霊名簿の奉安や後納はもちろん、慰霊碑も、
儀仗隊も、国旗掲揚も、献花をする人の姿も全く見えなかったのです。

 

あとでミカさん(仮名)と、ご遺族の方々と献花台との距離を近くするための
仕様変更だったのだろうか、などと話し合ったとき、彼女は

「変な野次馬がはいって来にくいのでこれもよかったんじゃないですか」

と肯定的でしたが、わたしが最もこのレイアウトで問題であると思ったのは、

● 掃海隊幹部の席が参列者の後方で、人々の目に触れなかったこと

● ご遺族の方々の後ろ姿しか見えなかったこと

の二点でした。
掃海隊員たちにとって後ろの方に追いやられているような位置は不満でしょうし、
参列者とっても彼らの姿が目に入るかどうかでは儀式の印象が全く違います。

そしてご遺族が膝に抱えていた遺影や、ご遺族のご様子すら、人びとの
目に止まらないまま式が終わってしまうというのもあまりに残念な気がしました。

 

そして、苦々しく思ったのは、列席者のほとんどが白いテントと人の背中と
テントにひっきりなしに飛び込むハチを眺めながらアナウンスを聞くだけなのに対し、
興味本位で入り口まで入ってきた非招待者が、そこから遠慮会釈なく、なんとiPadで
式の様子を撮りまくっている姿だけは、なぜかほとんどの席から見えていたことです。

つまみ出してやればいいのに!などという雑念が浮かんで慰霊に集中できないのも
視界が極端に遮られていたせいかもしれない、などとわたしは考えました。

というわけで、追悼式は終了。

今回の行事について特筆するべきことがもう一つあるとすれば、今回あの

民進党の玉木雄一郎議員が

艦上レセプションにも、追悼式にも招待されていたことです。
少し前までれんほーに「男が泣くな」と言われたくらいしか
話題に上がらなかった玉木議員ですが、今や例の加計学園問題で(悪い意味で)
有名になってしまいました。

特区については、民主党政権で格上げをしたのに取り組みを進めず、
現政権になってスピーディに推進を図ったので、物事が進み出した、
というのが実際のところだとわたしは思うのですが、野党にすればそれは


「それは加計学院理事長が安倍総理の”お友達”だったからだ」


この野党連中がわざわざ使う「お友達」という言葉が
虫酸が走るほど気持ちが悪く、吐き気がしてくる今日この頃です。


玉木議員は、既得権益側の親族から献金をもらって、獣医学部の創設を妨害し、
さらにそれを政争に使っている、とも世間ではいわれているようですが、
そんな中、艦上レセプションなどにのこのこ出てきて、ただでさえ保守系で
アンチ民進の多い自衛隊支持の人々に取り囲まれる勇気を果たして持っているか?

もし現れたらさぞ面白いことになるだろうとワクワクしていたのですが、
さすがに白真勲議員ほど面の皮は厚くないようで(笑)レセプションは欠席。
追悼式には出席していましたが、平凡で通り一遍、心のない弔意の言葉を、
メモなしで述べてさっさと引き上げました。

悪意でいうのではないですが、どうせ、この追悼式出席も、
国会で政府追及の枕に使うネタとしか考えてないに違いありません。

 

儀仗隊の皆さんは、最初から最後までこの姿勢で待機していました。
顔が痒くても虫が寄ってきても掻いたりできないのはもちろん、
(ここは今の季節虫が多く、顔の周りを飛び回る)
首を動かすこともできず、本当に大変だと思います。

海士の帽子は鍔がないので眩しいでしょうし・・・本当にお疲れ様でした。

会場入り口には本日寄せられた電報が掲示してありました。
自民党の国防部部長である寺田稔先生はじめ、国会議員のものです。

昼食会場までのバスに乗るまでのわずかの時間に門前の屋台に寄りました。
ここにきたら一度はこの冷たい生姜入りの甘酒を飲みたいので・・。

昼食会場になったホテルは、地元の温泉旅館といった感じです。

この昼食会に先んじて、会場ではご遺族の方の紹介が行われました。
すなわち殉職隊員との関係と、隊員がいつ殉職されたかという説明です。

慰霊式に出席されたのは殉職隊員の甥、弟夫妻、長女夫妻、兄など、
7家族、12名という数のご遺族で、出席者は年々減少しているそうです。


この出席者のうちお一人が、朝鮮戦争時の昭和25年10月17日、
元山沖で触雷したMS14号内で殉職された中谷坂太郎海上保安官の兄上でした。

朝鮮戦争における掃海活動については、日本側に依頼してきたバーク少将自らの

「日本掃海隊は優秀でわたしは深く信頼している。
北朝鮮軍が敷設しているソ連製機雷の危険について、
国連軍が困難に遭遇した今日、日本掃海隊の力を借りるしかない」

という言葉を聞いた海兵74既卒のMS14号艇長の言葉が残されています。


この掃海艇の触雷について少しお話ししておきましょう。

元山沖で緊張と疲労の一週間の掃海活動を続けていた時、鋭い音がして、
MS14号艇は喫水の深い後部に触雷し、木っ端微塵になりました。

艇長が真っ先に思ったのは、

「前方を進んでいた艇が無事なのに、なぜ後方にいた俺の艇だけがやられたんだ」

ということだったそうです。

海に投げ出された乗員を救助したのは米軍の小型艇でした。

点呼を取ると一名を除き全員が揃っていました。
艇長が掃海面にきた時、全員を上甲板の待避所に待機させていたのです。

しかし、たった一人、夕食の支度のために艇内にいた中谷隊員だけが
不幸にして触雷に巻き込まれてしまったのでした。

中谷隊員は艇の司厨員で、

「今夜はご馳走しますよ」

と言いながら下に降りていき、そのまま危禍に遭い、その後の捜索でも
遺体を発見することができませんでした。

その時に掃海活動を共にしていたMS06号のある乗員は、
お互いの艇が掃海索を接続する時、双方の艇乗員同士で雑談をかわした際、
ブリッジから見下ろすMS14号の烹炊所で、中谷隊員が

「揺れないで食う夕食は久しぶりだから、頑張って美味しいのを作らなければ」

と快活な声でいうのを聞いて、彼の人柄の良さを感じると共に、
張り切って美味しい料理を作ろうとする気持ちが彼を後甲板ハッチ下の
貯蔵品庫に向かわせたのだろう、と追想しています。

「総員が避難した前甲板から一人だけ抜け出て後方に向かった彼の頭には
『美味しい夕食を皆に』だけが溢れていたのでしょう。
献立が決まった時、彼は無意識に歩き出して下に降りてしまったのだと思います」


朝鮮海域に日本掃海艇が派遣されたことは当時政府によって秘匿されていました。
その活動は日本国民に伝えられず、隊員及びその関係者には、
厳格な箝口令がしかれていたといいます。

中谷隊員の場合もそうで、MS14号が触雷沈没した時、政府は殉職者並びに
重症者に対しても補償の措置をとっていませんでした。
そのため、バーク少将の手配により、GHQの問と保証金という措置が取られました。

10月25日に行われた海上保安庁葬には中谷隊員の遺族は出席できず、

「『米軍の命令による掃海だったことと死んだ場所は絶対に口外しないように』
と言われ、『瀬戸内海の掃海中に死んだことにしよう』と皆で申し合わせた」

と証言しています。
掃海隊の慰霊碑には、中谷隊員の名前は刻まれたものの、
殉職場所と時期については記されることはありませんでした。

殉職後29年経った1979年の秋、戦没者叙勲で、中谷隊員には
勲八等白色桐葉章が贈られましたが、その時においてなお、
勲章の伝達は内輪にしてほしいとの内閣の意向で新聞発表は取りやめ、
所管の海上保安部長が遺族の自宅を訪れて伝達したといいます。

それでも藤市さんは、

「叙勲によってやっと坂太郎の殉職が公認された。
これで晴れて弟の史を語ることができる」

と話したとされます。


確かこの中谷氏だったと思うのですが、昼食会場までのマイクロバスの中で、
遺族の家に今回NHKが長時間取材をするために滞在していった、
ということを話しておられるのをわたしは耳にしました。

NHKというテレビ局に対して、わたしはこのような取材をした結果を
自局の主張のために切り貼りして都合よく使うつもりではないかなどと、
猜疑心に満ちた目で見てしまわずにはいられないくらい、信用していません。

隊員の殉職という一事を「素材」として勝手に物語を作り上げ、その結果、
遺族の気持ちをかき乱すようなことをしなければいいが、と
わたしは淡々と取材を受けたことを語るご遺族の声を後ろに聞きながら、
ひとり要らぬ心配をしていました。

 

続く。

 

高松港 海上・陸上自衛隊一般公開イベント

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慰霊式とそれに続くご遺族を囲む昼食会が終わりました。
現地でお会いした所属防衛団体のおじさまたちとロビーでお茶を飲んでから、
わたしたちはまだ陽の高いうちに高松に戻りました。

埠頭にいってみると、一般公開している「ぶんご」の横では、なんと香川地本が
装備を大々的に投入し、渾身の広報活動を行なっている最中でした。

軽装甲機動車の天井に子供を乗せてあげるという大サービスです。
まあ、中に乗せるわけにはいかんので、色々考えた結果天井だったんでしょう。

しかしそれでも、特に男の子にとってはその辺の遊園地より楽しいかもしれませんね。

危なくないように、上と下でじえいたいのおにいさんが手を貸してくれます。
あとは二人で敬礼のポーズをして、両親のカメラに収まるというもの。

どうせなら戦車や装甲車だともっと男の子の心をくすぐったと思うのですが、
銃を持たせたくらいで大騒ぎする連中がどこにでもわいてくるから仕方ありません。

写真撮影の前に迷彩服も貸してもらえます。
偽装網をかけた車両の前でポーズをとる未来の自衛官。
気合入ってるねえ、特に左の弟・・・あれ、これもしかして女の子?

オートと呼ばれるバイクの座席に座ることもできます。

「ぶんご」は昼休みを除く朝から夕方まで、この週末一般公開されました。
地本の方に伺ったところ、一日に7〜8千人の見学者が訪れたとのことです。

なんども自衛艦に乗っていますが、オトーメララの中を開けていたのを見たのは初めてです。

「ここに人が入って操作するんですか?」

という見学者の質問に対し、

「操作はここではなく、この下の階でするんですよ」

隊員さんが説明していましたが、抱っこしてもらって中を見ていた男の子、
それを聴くと真剣な様子で

「そこ(下の階)見せて」

じえいたいのひと「うーん、それはね・・・ちょっと見せられないんだー」

こども「・・・・・・・」

じえいたいのひと「でもね、ぼくがおおきくなってじえいたいにはいれば見られるよ!」

こども「いやだ」(言下に)

リクルート活動、失敗。

EOD、水中処分員の潜水用スーツも展示してあります。
先日神戸基地隊で、EOD出身の司令官が教えてくれたところによると、
スーツの厚さは色々あって、薄いものはわずか2mmというものもあるそうです。
やはり分厚ければ分厚いほど、浮力がついてしまうようですね。

「ぶんご」の女性乗員たち。
カメラが向けられると反射的にVサインをするところは実に普通の女の子です。

昨日艦上レセプションでVIP用のテーブルがあった格納庫は、帽子を被らせてもらい
旗の前で写真を撮らせてもらう撮影コーナーになっておりました。

若い女性が二人三人と連れ立って見学に来ているのを目撃しましたが、
出会いの少ない自衛官にとって、この一般公開は貴重な出会いの機会。
一般人からだけでなく自衛官からのナンパもありだと思うんですよね。

いや、別にけしかけるわけではありませんけど。

自衛隊もその辺りを決して制限するものではない(はずな)ので、こういった
「ふれあいコーナー」には、独身の若い隊員を配置しているような気がします。


ここ、火災発生の時につける防具の装着を体験できるコーナー。
先ほど主砲の下を見せてといって断られ、拗ねていた少年、
嬉々としてヘルメットをつけてもらっています。

それをやはり嬉々として眺め、写真を撮る両親。
なかなか好奇心旺盛な少年で、将来有望です。

こちらは制服を着て記念写真を撮るコーナー。
この子は「けいれい」のなんたるかを全く知らない様子。

「はい、カメラに向かってけいれいして〜」

「?????」

甲板には説明用の機雷が展示されていますが、暑いせいかあまり人がいません。

掃海隊群司令、湯浅海将補。

掃海隊群司令というのは掃海隊全体のトップです。
そんな偉い人が、甲板に気さくな様子でお一人で立っておられました。

この時、湯浅司令が練習艦隊司令であった頃の話題になったのですが、
練習艦隊で行われる海外でのレセプションについて、面白い話をお聞きしました。

「パーティが終わると、我々はお客様に退出してもらうために『蛍の光』を流します。
ところがあれを『そういう曲』だと思ってるのは実は日本だけなんですよ。
『蛍の光』を流しても『いい曲が流れているねー』と思うだけで出ていかない」

「あれを聴いて『帰らなきゃ』という感覚が日本人はDNAに組み込まれてますからねー。
じゃ海外では、パーティのあとどうやって客を『追い出し』てるんでしょうか」

「電気を消して暗くしてしまうんですよ」

「はあ〜」



海将補は司令と名のつく配置になって、初めて取材を受けたとき、
カメラがええ〜っというくらい至近に迫ってきたので焦りまくったそうです。

「あ、俺今鼻毛とか出てなかったかなっとか・・。(わたしたち爆笑)
正面から撮られるの、苦手なんですよね」

というわけで、写真は斜めから撮らせていただきました。

当ブログにかつて海将補のお写真をあげたのもご存知で、

「また(わたしの写真をブログに)載せられますか」

とおっしゃるので

「もしお嫌いでしたら顔にモザイクかけましょうか」

とお聞きすると笑いながら

「それは大丈夫です。
今日の(一般公開の)ことも発信してやってください」


群司令のご許可、いただきました。

そろそろ公開時間が終わりかけていたので、舷門に向かうと、
まだこの時点でブリッジの見学をするために列を作って待つ人がこんなに。
中ではなく外付けの階段を登って艦橋を上がることになっていました。

わたしは日向灘で夜の10時ごろの誰もいないブリッジを見学しているので、
今回は遠慮させていただきました。

高松港の埠頭にはご覧のような素晴らしいローズガーデンがあり、花真っ盛りでした。
「ぶんご」から出たわたしたちは、いってみることにしました。

バラのアーチは実に立派なもので、子供たちも大喜びで中に入っていきます。

わたしたちが撮りたかったのは、そう、これ。

「薔薇とぶんご」。

去年も同じ時期に艦上レセプションのためにわたしはこの埠頭にきているのですが、
このバラ園については全く気づきませんでした。

自衛隊は「ぶんご」と掃海艇の到着、一般公開を広く広報していたので、わざわざ
これをみるために足を運んできた地元の人々がたくさんいるように見受けられました。

そのあと、「ぶんご」の前でミカさん(仮名)が地元高松のおなじみさんたち
(自衛隊や艦艇ファンで、例年駆けつけてくる固定メンバーがいる)と話していると、
「ぶんご」艦上で物品搬入が始まりました。

アナウンスが「物品搬入、はじめ!」というと、たくさんの隊員が出てきて
皆で作業に取り掛かります。

搬入というからには、陸上から艦上に荷物を乗せるのが目的です。

前に見学させていただいた経験から、今吊り上げているのははジュースなどではないかという気がしました。

クレーンの運ぶ荷物周りにいて、荷物に牽引索をかけたりする隊員は
必ずヘルメット着用で行うことに決まっているようです。

 

ところで、この搬入作業を至近距離で食い入るように見ていた一般女性がいたのですが、
あまり近いと自衛隊の人に邪魔だと思われるのではないかという気がしました。

 

彼女もそうだと思いますが、自衛隊にはかなり熱心な「追っかけ」がいるようです。
掃海隊追っかけ、特定の艦追っかけ、とにかく自衛官なら誰でもという追っかけetc、
陸海空どの分野にも固定ファンがいて、どんな僻地にも追いかけてくるらしい。

今回わたしはある隊司令と話していて知ったのですが、自衛官たちも毎回のことなので
「固定追っかけ」の存在は皆目の端っこでちゃんと認識しているのだそうです。
しかし、これもその時の話で感じたのですが、だからといって、

追っかけが好意的な目で見られているかどうかは全く話が別です。

男のミリオタ、(粘着系)と女の追っかけ(粘着系)に対しても、国民の自衛隊である
自衛官の皆さんは決して邪険にしたり乱暴に追い払ったりすることはありませんが、
特に恋愛市場で追っかけが相手にされることは、一般的な男性の心理から鑑みても
まず金輪際ありえない、と、わたしは長い人生経験と老婆心から言わせていただきます。

一般的に、男は追いかけられるより追いかけることを本能的に求める動物なのよ。

週末の高松港ではヨット教室らしきヨットが一列に並んだり円を描いたりしていました。
こんな日にヨットに乗るのはさぞ爽快でしょう。

なんかストーリーを感じさせるショットですが、これは全くの偶然です。
「赤灯台」を撮ったらこんな構図が写っていました。

「赤灯台までいってみましょうか」

「いいですね」

わたしたちは突堤までの一キロほどの道を歩き始めました。

遊歩道のベンチを支えているいるかさんが可愛すぎる。

灯台までの舗道はマラソンにもってこい。
わたしたちが歩いて行くと、掃海隊の乗員が走っているのとすれ違いました。

自衛官というのは基本走っていないと死んでしまう動物みたいなものなので、
結構な歳の偉い人でも嬉々として毎朝走ったりしているそうですが、今回、
この高松の港からママチャリで金刀比羅宮まで走ってきて、さらには当然のように
本宮まで上がっていく途中という自衛官(EODらしい)にお会いしました。

世間的にはご高齢の退官した「偉い人」も、追悼式の会場で顔をあわせるなり、
息一つ切らさず涼しい顔で

「今上までお参りにいってきたばかりです」(ニヤリ)

 

自衛官という人種、やっぱり普通じゃないわ。

近くに行くと、かなり年数が経っていることがわかります。
赤いのはガラスのタイルをはめ込んでいるかららしい。

「赤灯台」はあくまでも通称で、正式には

「高松港玉藻防波堤灯台」

というそうです。
初灯が昭和39円12月というからもう50年以上ここに立っているんですね。

1日目は二面の窓から海の見える絶景の部屋に泊まることができたのですが、
二泊目はどうしても部屋が取れず、仕方なく近隣の安ホテルを取っていました。

日程ギリギリになって、予約サイトでたまたま安く「ファミリールーム」とやらが
出ていたのを見つけ、元のをキャンセルしてこちらに泊まることにしたのですが、
このファミリールーム、部屋に入ってみると・・・、

地方の温泉旅館そのままの間取りをした古色蒼然たる和室でした。

「どんな部屋か見たいー」

といってチェックイン後ついて来たミカさん(仮名)に

「隣の部屋にお布団敷いてもらって泊まりませんか?マジで」

といきなり誘いをかけるわたし。

「一人でこんな温泉みたいな部屋に泊まるのなんだか怖いんですよ〜」

しかしていよく断られ(そらそうだ)、お布団一つを広い部屋の真ん中に敷いて
寝たわたしですが、怖いも何も、その日は疲れ切っていたため、

横になって目をつぶった次の瞬間、朝になっていました。

その日の晩はホテルのフレンチダイニングでちょっと贅沢にディナーを取りました。

こうして追悼式の一日が終わりました。
しかしわたしにはまだ次の日に大事な海自的用事が残されています。
それは、掃海艇の体験航海でした。

 

続く。

 

掃海艇 体験航海〜出航

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体験航海は高松港での自衛隊広報活動の一環として最終日に行われます。

わたしは午前中の航海に乗せていただくことになり、ホテルをチェックアウトして
車で埠頭に向かいましたが、埠頭の駐車場は朝にもかかわらず満車だったので、
少しだけ離れた市民駐車場の地下に車を駐めました。

駐車場を出ると、このような謎のオブジェがある広場を横切っていきます。
どうも中に入ることができるようですね。

横から見ると、ヤシの実を象っているのがわかります。

台湾のアーティスト、リン・シュンロン氏の作品で、タイトルは

「国境を越えて・海」

といい、内部備えてある銅鑼は鳴らすことができるそうです。
銅鑼の音もアートなんですね。

これは瀬戸内国際芸術祭の2016年度出品作品だそうです。

またやってきたよ、「ぶんご」。

「ぶんご」一般公開に備えて、もう地本の方々がスタンバイしています。
一応手荷物検査も行うようですね。

本日乗せていただくのは、「いずしま」です。
「いずしま」には「あいしま」の上を通り抜けていきます。

「いずしま」に乗艦すると先日神戸でもお会いした隊司令がお迎えくださいました。
司令は艦内にどうぞ、といってくださったのですが、出航の様子が見たかったので
甲板に上がらせていただきました。

艦橋前のデッキの最前列、「ぶんご」の隊司令の挨拶も見える上席です。

体験航海に参加する青少年の少なくない人数が、自衛隊入隊が決まり、
地本の手配で優先的に搭乗させてもらっているのではないかと思います。

例えば、自衛官と並んでVサインをしている彼らも。

確かこの青年たちが隣にいた時、

「海上自衛隊志望ですか?」

と聞いてみたところ、彼は隣の子を指差して、

「(彼は)海自志望です」

と教えてくれました。

参加者には早速海軍毛布(?)が配られ、それをシートにして座り込む人も。
わたしの連れは、インコ越しに「ぶんご」を撮っています。

出航準備はこうしている間にも着々と進んでいきました。
乗員が持っている黄色と黒のサンドバッグみたいなのは、
出入港時に舷側に吊るす防舷物です。

「あいしま」に乗り込んでいるカメラマンが待機中。

まず互いを繋留している舫を外し、それを甲板に置いていきます。

艦橋の前にいる人たちは、いざ出港になると視界を遮らないように全員
床に座ることを要求されました。

「ぶんご」の上の少年たちは全員がデバイス持参。
今時のお子さまは恵まれておるのう。

「ぶんご」の自衛艦旗近くにはここからお見送りをする群司令のお姿が。
緑のストラップは副官です。

周りの見学客に群司令自らあれこれと説明をしておられる模様。
こんな全ての人にフレンドリーに話しかける司令官もあまりいないような気がします。
お人柄を感じますね。

少年たちも「はえ〜」って感じで聞き入る群司令の話とは・・・?

お互いを繋いでいる舫が外され、防舷物を手で持って舷側の一番出っ張ったところに吊るします。

舫が解かれてあっという間に「いずしま」艇体は「あいしま」から離れ出しました。
その瞬間、「ぶんご」の群司令の横で控えていた喇叭手が信号ラッパを吹きました。

群司令、敬礼。
副官は群司令に一瞬だけ遅れて挙手を行います。

望遠レンズ持ってくればよかった、と思った一瞬。

次の瞬間、船首旗である日章旗が降下されました。
選手旗は停泊中に揚げるものであり、出航と同時に降ろされます。

あっという間に「ぶんご」と「あいしま」の姿が遠くなり、「いずしま」は
爽やかな埠頭の風を受けながら、後進で港を離れていきました。

出航したので、艇内探索に出かけます。
まずは司令官席に座る隊司令の様子を。

こちら艇長でございます。
先日うどんを一緒に食べた元偉い人から

「今女性隊員がいる」

と聞いた、艇長養成のためのプログラムを終え、最初の勤務が
この掃海艇であるということでした。

ミカさん(仮名)に写真を撮られていたので、ついでにと思い、

「そのまま目線こちらにください〜」

と声をかけると、

初めての艇長職、頑張ってください。

そして操舵席の海曹の皆さん。

昨日「ぶんご」でVサインをしていた女性隊員が

「明日体験航海でウグイス嬢やるんですよ」

と言っていましたが、彼女がそうかな?
掃海艇にはもうすぐ艇長が誕生しますが、女性隊員がいないので、
こういう時には「ぶんご」から出張してきます。

体験航海ですから、乗組員は航海中、艇内の設備について最大限理解してもらうべく
張り切って装備の説明や実演を見せてくれます。

20ミリ機銃には、テッパチにカポックというフル装備の隊員さんが所定の位置につき、
これは機雷を処分するための銃であるという説明がされた後、
実際に音だけ出して撃っているフリをしてくれます。

「どうだ!当たったか〜っ!」

「当たりませんでした!」

「ばかもの〜!当たったと言わんか〜!」

コントやってんじゃねーし。

ところで、わたしは最初から一人でやってきている彼に目をつけていました。

というと人聞きが悪いですが、実に体格がよく、真面目そうで、
地本の人が見たら喉から手が出るほど欲しい自衛官向きの人材に見えたのです。

バルカン銃の展示の時に近くにいたので、独自にインタビューして見たところ、
彼は自衛隊、しかも海自に大変興味を持っていることがわかりました。

彼が自衛隊向きの人材であるという印象には全く同意見のミカさん(仮名)は、
展示の終わった、しかも地本経験のある海曹さんにスカウトをさせました。

これがきっかけで彼が自衛隊に入ってくれれば、なんか嬉しいな。

さて、次はラッパの展示です。

「これはラッパで〜す」

とはさすがに言っておりませんが、まあそういう感じです。

ここでもインコ越しに喇叭手を撮っている人が・・・。

「起床」「君が代」「出航」などを合間に説明も全部こなしながら吹きます。
一人で喋って一人で吹くので、喋った後唇を整えるのに時間がかかり、
(信号ラッパは音程を息の吹き込み方だけで取るので、唇のコンディションが大事)
さらには、喋りながらなので

「あれ・・・?どんなだっけ」

と隣の隊員に聞いたりしておられました。
何もかも一人でやらなくても、説明は別の人にやらせればよかったのに、
という気もしましたが、一人でなんでもやるのが掃海隊ですからね。

続いてのコーナーでは、ダメコン関係の装備の展示をやっていました。
火災の時に現場に入るための酸素マスクを被らせてもらえます。

首から吊っている黒いバックパックみたいなものの中には、
酸素発生器が入っているそうです。

聞いたら見せてもらえました。
1時間酸素を発生させて、密閉した機器で使用する空気缶。

この商品に書かれている「エムエスエイジャパン」という会社は解散したそうです。

後甲板の掃海具があるところも見学できます。

この後、少し後に出航した「あいしま」とすれ違う時、
互いに発光信号を送り合うという展示も行われました。

オロペサ型掃海具と一緒のところを撮らせてもらったEODさん。
一般公開の展示のために、航海中ずっとスーツを着ておられました。

任務上日差しが強烈なところが多いので、帽子はハット型です。

さて、体験航海はあくまでも「体験」ですから、40分ほどその辺りを廻ってくる、
という程度の航海です。
だからこそ掃海艇に一般人を乗せることができるということができましょう。

観艦式で掃海艇が一列になって進んでくるところを見た人はわかるでしょうが、
駿河湾での掃海艇はそれこそ木の葉のようにふわふわと浮く感じで、
ヘリ搭載艦や輸送艦などの大型艦に対して逆行して観閲を受ける時、
甲板に登舷礼のために立っている乗組員がよくぞふらつかないものだというくらい揺れます。

日向灘の「えのしま」で初めて自衛艦上での船酔いを経験したわたしは、
掃海艇に一般人を乗せて長時間の航海をすることはまず不可能だと思っています。

それだけに、この短い時間の、瀬戸内海の内海だけを走る体験航海は
一般人に掃海艇に乗ってもらうための大変貴重な試みと言えましょう。

再び甲板の人々に座るようにというアナウンスがありました。
入港に当たって、隊司令が「ぶんご」の群司令に対し敬礼するということになっています。

赤いストラップの隊司令と、緑の隊付きが並んで双眼鏡をのぞいています。

「ぶんご」甲板には出航時と同じく、群司令、副官、喇叭手が待機していますが、
群司令はこの時も見学者に色々と説明してあげている様子・・・・・。

先ほどラッパ展示をしていた海曹が「入港ラッパ」を吹鳴すると、
隊司令、隊付きが敬礼を行います。

周りの、まるでタイタニックの生存者を乗せたカルパチア号の甲板みたいな様子が
なんとも敬礼とギャップがありすぎてシュールですね。

 

さて、ここからは入港作業が始まります。

 

続く。

 

 

 

 

掃海艇 体験航海〜入港と接舷

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さて、長々と語ってきた高松での掃海隊シリーズも最終回になりました。
先日は神戸に掃海艇の見学に行ったし、昨日は昨日で
掃海艦の除籍式典に立ち会う機会があり、最近すっかり掃海関係づいています。


さて、体験航海。

瀬戸内海の静かな湾内を遊覧船のようなコースでちょこっと回ってくるなんて、
日向灘の荒波に揉まれる掃海艇でライトに船酔いの洗礼を受けたわたしとしては、
こんなの掃海艇に乗ったうちに入らないんだぜ!と思わないでもありませんでしたが、
今回は自衛隊の過酷な部分をアピールすることが目的ではないのです。

あくまで「掃海艇のおしごと」について世間の皆様、特に自衛隊に入ってくれそうな
青少年に宣伝するのが大きな目的なので、

「あれ?たったこれだけなの?」

というくらいの方が、ある意味効果があるといえましょう。

艇内を一通り見終わり、展示を見たら、艇はもう岸壁に帰ってきており、
あっという間に入港作業にかかりました。

測距儀を覗きながら岸壁までの距離を読み上げているのは先任伍長?
その前にはわたしが目をつけた(前回参照)青年の姿あり。

ぜひ海自に入ってね〜!


さて、着岸作業の邪魔にならないように艦橋前デッキの最前に座ると、隣に
5歳くらいの女の子とその弟、というきょうだいが座っていました。
わたしは子供たちに

「あのお兄ちゃん見ててごらん。
今から岸に向かって手に持ってるもの投げるよ」

舫を繋ぐためのサンドレットを構えている隊員を指差して教えました。

第一投、投げました!
この腕のしなりをご覧ください。

やっぱり何回も陸上で練習してから甲板デビューするのかしら。

ボール型のサンドレットが岸壁に届くや否や、岸で待っていた地本の
陸・海・その他の三人が引っ張る作業に入ります。

紐を持ってはだーっと走り、先で離してまた岸壁に戻り、
紐を持ってだーっと・・を三人で繰り返すのがパターン。

「ぶんご」艦上では掃海隊群司令がまたしても説明の真っ最中。
今回いつ見ても海将補は(敬礼しているときでなければ)説明中でした。

そこに、先ほど「つのしま」の後に出航した「あいしま」が帰ってきました。
朝の位置とは入れ替わり、「あいしま」が外側に繋留するようです。

「あいしま」でサンドレットを構えている艇員発見。
これはもしかしたら「つのしま」甲板に向かって投げるつもりでしょうか。

「てええええええいっ!」

海上迷彩と青メガホン「おおおお〜」

ちゃんと「つのしま」甲板に落下したようですね。

もう一度投手を変えて行うようです。

「せいやああああっ!」

「きま・・・ったっ!」

「おー」「なかなかやるやん」

「あいしま」乗員が投げたサンドレットは、赤いヘルメットを装着した
「つのしま」甲板の隊員に回収され、あっという間に繋留されました。

気のせいか、「あいしま」の一般搭乗者は「つのしま」より少なく見えます。

「あいしま」は掃海艇には普通についているバウスラスタを駆使して、
じわじわと横にスライドし、艇体を寄せてきました。

 探照灯の近くで見張りする乗組員。

「つのしま」艦橋デッキには、隊司令と艦長が出てきています。
接舷作業、しかも一般人を乗せた艇同士の接舷ですから慎重な上にも慎重に。

サンドレットで投げ渡された細い舫を、繋留するための舫に繋げ、
腰を入れて引きまくります。
軍手などの手袋が必須だと思うのですが、この人は素手でやってますね。

隊司令の腕組みがなんか怖い。

この掃海隊司令は、伊勢湾でのマイネックス機雷除去訓練の時、
報道陣にレクチャーをしていた方だと記憶します。
あの時は2佐でしたが、今は呉の第3掃海隊の司令であり1佐です。

何回聞いても、何回調べても、掃海隊群の編成は理解が難しく、
掃海隊「群」の下にあるのが1、2、3といきなり飛んで101掃海隊、
というのがまずよくわかりません。

掃海隊群は横須賀がヘッドですが、各掃海隊は横須賀、佐世保、呉にあり、
例えばこの「あいしま」は第3掃海隊の所属になります。

ところが、「つのしま」は42掃海隊所属で、同じ掃海艇なのに所属が全く別。
戦後自衛隊に掃海隊ができてから、どんどん編成が組み替えられて、
その辺の資料を見ただけでは一体どの番号の隊が「生きて」いるのかわからず、
これも素人には全体像が把握できない理由です。

どなたか地方隊の掃海隊群の組織票が見られるページ、ご存知ないでしょうか。

 

というわけで全くわからないなりに、腕組みしている一佐が「掃海隊群の隊司令」で、
同じ隊司令という階級でも命令系統的に上の方にいるらしい、と理解しました。

「つのしま」と「あいしま」の間の舫はピンと緊張したまま、
ゆっくりと艇体が近づいていきます。

「つのしま」の甲板にいる人だけが赤いヘルメットを装着しています。

はい接舷〜。

接舷後、第3掃海隊司令が「つのしま」幹部に操艦についてのアドバイス中。

一般人が興味本位で立ち聞きすることではないと考え、わたしは
音声が一切聞こえない操舵室の中からその様子だけを撮らせていただきました。

この後司令にご挨拶してから、退艦しました。
実はこの頃にはすでに「つのしま」にいた体験乗艦参加者は退艦しており、
わたしたちは「あいしま」の乗艦者が全員降りてから最後にラッタルを降りることに。

今気づいたのですが、この時には岸壁側にいる「つのしま」のラッタルに
「あいしま」のバナーがかかっています。

午後にもう一度体験航海が行われるので、その時に元のポジションに戻るようです。

 

さて、ここで改めて、平成14年度以降に今の形になった、ここ高松での
掃海殉職者追悼行事への掃海隊群の取り組みについて書いておきます。

当時の記録によると、追悼式については

「可能な限り多くの隊員を参列させる。若年隊員、ついで参列未経験者を優先する」

「艦艇部隊だけでなく、航空掃海部隊からの参列を促す」

「隊員に最も近いところの一般国民である家族や知人の追悼式への参列を奨励する」

「儀仗隊員はそれにふさわしいものを選び、十分な準備と心構えをさせて臨む」

とあります。
若年隊員が優先されているかとか、航空掃海部隊の参列が行われているかについては
どうも理想的にはそうであるが、実際は諸事情により無理、となった感があります。


最後の儀仗隊員についての一行について少し今回の関係で書いておくと、
何年か前の儀仗隊隊長が、当ブログの今シリーズに登場している関係で、
たまたま以前さるところで知り合ったその母上からメールをいただきました。

それによると、慣例的に儀仗隊指揮官は

「ぶんごの新任3尉が勤める」

ということになっているのですが、その時には”体型的に”
急遽彼女のご子息にに役目が回ってきたので、その幹部は
鏡の前でなんども姿勢をチェックし、メトロノームを買って
歩調を合わせる練習を繰り返すという研鑽の結果、

「伝説の儀仗隊指揮官」(ミカさん仮名談)

というくらいその指揮官ぶりは美しく決まっていたということです。

「ふさわしい者を選び、十分な準備と心構えをさせて」・・・・・・

その通りになったというわけですね。

このレポートには、艦上レセプションにも触れてあるのでこれもご紹介しましょう。

「追悼式と関連付けた海自主導の広報活動として、呉監と共催で実地する」

「招待者は従来の選択に加え、近在の海自OB、隊員家族など関係者を含める」

「一般公開時の展示を活かすとともに、MH-53Eを後甲板に搭載した状態で行う」

 

15年くらい前の記録ですので、違ってきている点があるのは当然ですが、
その頃はヘリを搭載して艦上レセプションの時に見せていたってことでしょうか。  これも先ほどの「航空部隊も」というのと同じくらい現在では顧みられていない気がします。   そしてもっと驚くのが、自主広報と内部では呼ぶところの一般公開についての留意点です。   「聴覚、資格に訴える展示と説得力のある説明」   として、
『機雷の実物及び模型の展示と実務経験者による説明』、
これは現在も行われています。
しかし、
「ヘリの搭載・展示と第111航空隊員による説明」
さらには
「EOD展示訓練」
として、
「『ぶんご』前甲板からのラペリング訓練」   ふえええ〜、こんなこと本当にやっとったんですかね。
今やってくれたらもっと人が集まりそうな気がしますが、それこそ
人が集まりすぎて収集がつかなくなるからやめになったのかしら。   それから、個人的にふむふむ、と納得してしまったのが   「隊員の制服上陸*各隊員は少なくとも一回は制服で上陸」   とあることです。
金刀比羅宮でも感じたように、彼らの制服姿は何よりも自衛隊の宣伝になるわけですが、
これが現在も通達され実施されているかどうかはわかりません。   最後に自主広報である今日ご紹介した体験航海について。   「募集広報を主眼として実地」   「極力募集対象者に的を絞り実地、それ以外は一般公開に勧誘」   「午前一回、午後一回を標準、午後に一回追加とするよう計画」   とあります。
やはり体験航海の第一目的は募集対象者への広報だったのね・・・。   つまり、わたしのように”息子を自衛隊に入れるのに失敗した母”なんてのは
最も参加者として対象外という説もありますが、そこはそれ、
こうやってせっせと「広報」しているので、大目に見ていただければと思います。

退艦後、ミカさん(仮名)が地元の顔見知り(本当に知っているのは顔だけらしい)と
あれこれと話しているのを横で聞いていましたが、ちょうど昼になったので、
二人で埠頭にある「ミケイラ」というシーサイドレストランに行きました。

ボウルにたっぷり入ったサラダを二人で分け、メインにパスタをいただきました。
美味しくて安くて、海の真ん前の明るくてお洒落なお店なのに、日曜の昼間に
満席になる様子もないというのは、関東住まいのわたしにはちょっと信じられません。

とにかく「ミケイラ」、素晴らしく素敵なカフェレストランでした。

デザートは控えめに超ミニサイズのアイスミルクを。

窓越しに「ぶんご」がよく見えるのですが、昼過ぎに掃海隊群司令が私服で姿を現しました。
午前中の体験航海には「ぶんご」艦上からお見送りと敬礼をしておられましたが、
その任務を最後に、午後は横須賀に帰られるようでした。

お昼ご飯を食べ終わり、最後に埠頭に出てみると、午後の体験航海がもう始まっています。
朝乗った「つのしま」の外側の「あいしま」はすでに出航した後のようです。

午後もたくさんの人を乗せて、掃海艇の体験航海は大盛況のようでした。

群司令の見送りがないせいか、実にあっさりとした感じで岸壁を離れていくように見えます。

わたしは空港に向かう時間となったので、ここで高松港の掃海隊群に別れを告げました。

「ぶんご」の向こうに、朝と同じように後進しながら岸壁を離れていく
掃海艇「つのしま」の姿を見ながら、わたしは高松港を後にしました。

 

というわけで、何日かお話ししてきた追悼行事に関連する体験記を終わります。
最後になりましたが、参加に当たってご配慮をいただきました関係者の皆様、
現地でお世話になりました全ての皆様にこの場をお借りしてお礼を申し上げます。


 

終わり。



掃海艦「はちじょう」除籍 最後の自衛艦旗降下

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高松で行われた一連の掃海隊員追悼式から帰ってすぐ、
掃海艦「はちじょう」の除籍が横須賀地方総監部で行われました。

この式典に参加させていただきましたので、ご報告します。

「はちじょう」は掃海「艦」。
掃海艇より大型の掃海任務を行う艦です。
英語でも名称は

掃海艦 Mine Sweeper Ocean (MSO)

掃海艇 Mine Sweeper Coastal (MSC)

となっており、掃海艇の「中型」に対し「大型」に分類されます。
大型艦が「大洋」、中型艦が「沿岸」となっていますが、つまりは
大型はより深々度の機雷に対応すると考えれば良いでしょう。

かつては「中型」より小さい「小型」(MSB、BはBoats)掃海艇もあり、
対応困難な浅海域・内水域の掃海や、MSCの安全確保のための
前駆掃海を担当する役目を負っていました。

掃海ヘリコプターや遠隔操縦式掃海具がそれに代わるようになったため、
90年には小型の掃海艇はなくなりましたが、この小型艇について
高松のうどんの夜(笑)、ご一緒した「偉い人」から、

「小型艇には台所がないので、母艇が調理した料理をバッカンという
缶に入れて、みんなに順番に手渡しで配っていた」

という話を聞いて、わたしはもう胸キュンで萌えたものですよ。
また、「みほ」という母艇の後ろをコガモのようについていく様子から
彼らは「カルガモ艦隊」とも呼ばれていたそうで・・・(;´д`)

 

前置きが長くなりました。

掃海艦の建造目的は、一言でいうと深々度機雷への対処でした。
掃海艦構想に関わった当時の研究開発幕僚の追想録によると、
当時その対処能力を有していない状況から、

「現実的に起するかもしれない脅威に対抗するための演習」

を行う必要を想定して、米海軍の機雷戦過程に留学した幕僚が
米軍の司令官と鋭意構想を進め、米側からも

「東京湾外域における空母の運用を考えてもぜひ正式に要望する」

という掃海艦建造へのゴーサインを取り付けた、ということらしいです。

この時代においても(もしかしたら今も?)アメリカ海軍の「お墨付き」
というか「要望」が、新造艦建造の後押しとなったってことですね。


ともあれ、東西冷戦構造の終焉の時期に計画された「やえやま」という名の
掃海艦が初めて海自に導入されたのは、平成5年のことでした。

そして「はちじょう」は2番艦「つしま」に続く「やえやま」型の3番艦です。
姉二人は、「やえやま」=2016年6月28日、「つのしま」=同7月1日と
すでに除籍となっており、最後の木造製掃海艦となった末っ子の
「はちじょう」も、ついに今日をもって引退することになったのでした。

 

「はちじょう」の除籍に伴う自衛艦旗変換の儀式は横須賀地方総監部の
船越岸壁と呼ばれる、地方分遣隊所在基地で行われます。

昨年、実は「やえやま」除籍が同じ船越岸壁で行われることになり、
わたしにも出席のチャンスがあったのですが、その時アメリカにいたため
涙を飲んでお話をお断りしたという経緯がありました。

今回の「はちじょう」除籍に立ち会うことになったため、
わたしは初めて船越岸壁にくることができたのでした。

 

写真の台地が今工事中ですが、ここには護衛艦隊指令部ができるそうです。
グーグルマップで空から見ると、今工事中のこの部分は広大な空き地で
くず鉄が大量に放置されているのがわかります。

 

自衛隊基地入り口のセキュリティは民間の警備会社が請け負っているのですが、
これがだねえ・・・。

わたしはある方のおかげで来賓として呼ばれたという形であり、
後から考えると、別に門の前で待っていなくてもよかったのですが、
来賓以外の入場者と報道陣と一緒に開門まで門のところに立っていました。
その後、わたしの名前を名簿と照合した自衛官が

「中に入って受付で名前を言ってください」

というのでそのまま入っていこうとしたら、警備の人が入れてくれないんだよ。

「いや、来賓なので中で受付するらしいんですけど」

といっても、それでは入れることはできない!の一点張り。
押し問答のすえ、「臨時」と書かれたタグをもらって中に入っていき、
さらに中で赤いリボンをもらってそれも付けるという妙なことに。

とはいえなんとか無事に中に入れたので、ホッとしました。

除籍になる「やえやま」の前には式典に出席する幹部と音楽隊の姿が見えます。

掃海艇、掃海艦の後甲板は岸壁より低いのが普通。
そのため、自衛艦旗降下のために甲板にいる乗組員たちがよく見えます。

まだ人が集まっていないので、後甲板にいる乗員たちを見にいきました。

この後自衛艦旗を降下し、それを持った副長に続いて下艦したら
それが彼らにとって最後になるのです。

最後の自衛艦旗降下を待ちながら、皆どのような思いを持つのでしょうか。

赤いリボンと黄色い入門証をダブルでつけた怪しい来賓(笑)


お誘いくださったのは高松でもご一緒だったミカさん(仮名)ですが、
中に別の知り合いがいて、撮ってあげると言われたので撮ってもらいました。

基本自分の写真を撮ることに全く興味がないので、実は珍しい一枚です。


自衛艦旗降下を撮るために、艦尾近くの岸壁はカメラを持った人でいっぱいでした。
わたしも実はここにいたかったのですが、なまじ来賓なのでそれはできず(涙)

その代わり、ミカさん(仮名)がyoutubeにあげた動画を共有させていただきました。
どうぞご覧ください。

この写真を撮った時にはまだ来賓が席についていない頃だったので、
乗員も整列はしていますが、皆リラックスした様子で岸壁の様子を見たりしています。

ところで白いシェルフみたいな物体はなんなのかしら。

時間通りに返納式は始まりました。
わたしの席は「はちじょう」と書かれたラッタル越しに乗員が見える位置です。

このラッタルのバナーですが、基本的に船が除籍になるともう役目が済むので、
式典に参加している人が手を挙げてもらうことができるようです。

この日二枚あるうちの一枚のバナーを持ち帰った方は、
「やえやま」の初代艦長で、もう退官されたという男性でした。
岸壁で伺ったところによると、もちろん「やえやま」のバナーも
去年の除籍の後ちゃんと持って帰られたということです。

初代艦長ということは、艤装艦長から始まって掃海艦が自衛隊に
生まれる瞬間の目撃者であったということになるのですが、それから四半世紀が過ぎ、
その方が今日ここに最後の「やえやま」型掃海艦の終焉を見届けることになったのです。

自分が艦長を務めた木造製掃海艦の最後の一隻が海上自衛隊の籍を解かれる日。
元艦長にとってもその感慨はひとしおであることとお察ししました。

舷門には海曹と海士が一人ずつ。
腕章をしていますが、もちろん最後の当直となります。

ということは、この二人が自衛艦旗を降下するのでしょうか。

群司令、隊司令などはテントの中に座り、その他は外で式典を見守るようです。
音楽隊員は遠く見えませんが、練習艦隊の時と同じ服装をしているように見えます。

長旗がはためいているのに気づきました。
こんな風に揚がっている長旗を見るのは初めてです。

そういえば長旗とは旧海軍時代から

「海軍将校が指揮する 艦船に掲げられる」

と決められています。
艦船の長が幹部である掃海艦なので、これが掲揚されているというわけです。

ちなみに自衛隊の旗章規則によると、

第26条

個々の自衛艦等を指揮する者が、幹部海上自衛官である場合には、
当該自衛艦等に長旗を掲揚するものとする。

とあります。

長旗は艦長が下艦すると同時に降下されたと思うのですが、
いつ降ろされたのか結局その瞬間を見逃しました。

執行は横須賀地方総監ということになるようです。
来賓はじめ全員が席に着いてから現れる横須賀地方総監、道満誠一海将。

道満海将は(『も』という感じ?)潜水艦出身です。

式の開始となって次の瞬間、自衛艦旗の降下が始まりました。
もっと色々とセレモニーがあるのだろうと思っていたので、実のところ結構驚きました。

わたしのところからは、こんな光景が見えていました。

アナウンスをしていた女性隊員が珍しい白のスカート姿です。
こんなバージョンもあったんですね。

さて、冒頭のyoutubeをご覧いただいた方はお気づきだと思いますが、
通常、自衛艦旗降下のときに吹鳴される喇叭譜「君が代」ではなく、
音楽隊による国歌「君が代」の演奏が行われています。

この理由は明白で、護衛艦旗が艦に授与され、副長に掲げられて乗艦し、
初めて掲揚されるときに演奏されるのは国歌「君が代」ですから、
返納の時にも喇叭譜でない「君が代」でないといけないのです。


ただ、ふと、日常の喇叭演奏で「喇叭譜君が代」が演奏されるのは、
国歌「君が代」演奏の代用或いは簡易版として喇叭譜が存在しているからなのか、
あるいは、日常においては喇叭譜「君が代」こそが「正式な君が代」なのか、
ということについて考えてしまったのですが、正解はわかりませんでした。

 

さて、この後、降下された自衛艦旗を先頭に、総員がいよいよ
永遠に「はちじょう」から去る時がやってきます。

 

続く。

 


 

 

 

掃海艦「はちじょう」除籍〜自衛艦旗返納

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掃海艦「はちじょう」除籍に伴う自衛艦旗返納式についてお話ししています。

 

掃海「艦」の建造に至る過程について、面白い話を見つけました。

専守防衛の我が日本国自衛隊が新しく装備を導入する時、そこにはあくまでも
「カバーストーリー」といいますか、つまり「建前の必要性」が必要になります。

掃海艦が企画されようとしていたころ、日本は西側諸国の一員として
冷戦を「戦って」おり、そのために、P3Cを増やし、イージス艦を整備し、
そう、掃海艦を建造するという必要があったのです。

防衛力整備達成のために必要なのは建前、いや理論武装です。

そこで掃海艦の整備に必要となったのは、ソ連の高い機雷敷設能力、
特にロケット上昇式の深々度機雷に対する「脅威論」でした。

「我が国の重要港湾のほとんどが本州の太平洋岸に集中しており、
通行船舶の輻輳、集中するチョークポイントも、その多くが
外洋につながる深々度海域を多く含んでいるため、もしここに
ソ連の有する深々度機雷が使われたら大変なことになる!
だからこそ深々ど機雷排除機能を持つ掃海艦が必要なのである!」

というのが、この場合の「カバーストーリー」となり、それは
内局にも大変歓迎されたといわれます。

ソ連の軍事的能力の高さは、当時の日本にいて否定できるものではなく、
それさえ言っておけば公式には反論・議論の余地もなくなるというわけです。

そもそもソ連がそんなことをする意図やその可能性があるかについては、
中の人に疑問を持つ向きがないでもなかったらしいのですが、(そらそーだ)
それを論証することもまた不可能、とうわけで、内局の部員の中には

「騙すなら、最後まで気持ちよく騙してね」

と冗談半分、実は本気で囁く者もいたという話でした。

 

閑話休題、

時は流れ、冷戦構造は終了し、時代の流れから掃海艦は次第に減勢に転じました。
現在建造中の「あわじ」型掃海艦は、「やえやま」型とほぼ同じ大きさでありながら、
艦体を木造からFRP構造に変えたため、基準排水量が3割低減し船体が長寿命化しています。

「あわじ」型のカバーストーリー、いや建造目的は、科学の発展に伴い日々開発される
新型機雷に対応するため、となっています。

さて、国歌「君が代」の演奏とともに、「はちじょう」の自衛艦旗が降下されました。
左手に三角に畳まれた旗を掲げ、副長がラッタルを渡ります。

副長を先頭に、「はちじょう」の乗組員が後に続いて退艦を行います。
この時の音楽はもちろん行進曲「軍艦」。

ところでこれを「総員退艦」と称してよろしいのでしょうか。
そういうと、何か今からよくないことになりそうな気がするのですが・・・。

掃海艦の乗員は全部で60名。
これが掃海艇となると48名となり、多めの一学級(しかも昔の)規模となります。

たったこれだけが一つの艦で、訓練と一日のほとんどをともに過ごすのですから、
掃海部隊が「家族」というような緊密な一体感で結ばれていたとしても当然です。

乗組員は、テントの前に整列し、自衛艦旗を掲げた副長は
前列一番左側でその姿勢のまま待機。

掃海艦からの60名の退艦はあっという間に終了し、行進曲「軍艦」は
中間部に入る前に終わってしまいました。

最後に退艦した艦長が、副長の前に歩みます。

自衛艦が就役するとき、防衛大臣、あるいはその代理から自衛艦旗が艦長に授与され、
艦長はそれを副長に渡し、最初に乗艦させます。

除籍はその逆で、乗員に先駆けて副長が自衛艦旗を艦から降ろし、
それを艦長が受け取って、執行官に返納することになっています。

「はちじょう」最後の艦長の手に副長から自衛艦旗が渡されました。

艦長は受け取った自衛艦旗を左手で掲げ、互いに右手で敬礼を交わします。

しかるのち、二人で正面にむきなおり・・・・、

艦長が受け取った自衛艦旗を持って中央に進み出ます。

まずは中央台の前で敬礼。

除籍の時にまで防衛大臣及びその代理が出席することは普通ないようです。
ということは、防衛省から受け取った旗を、自衛隊に返還するということになるのでしょうか。

横須賀地方総監に、自衛艦旗を返納する艦長。

地方総監はそれを横に控えていた副官に手渡します。
副官はそれを台の横に用意されていた白木の箱に納め・・・・、

持ち去ります。
この箱は、この後、車のハッチバックに置いてあるのを目撃しました。

そののち、地方総監からの訓示が行われました。

「『はちじょう』は、平成6年3月24日、『やえやま』型掃海艦の3番艦として就役した。
以後、23年間の永きにわたり、機雷戦部隊の主力艦として各種任務に従事し、
海上自衛隊の任務遂行に大きく貢献した。

23年間における総行程28万8千190マイル、総航海時間3万9千783時間。
二ヶ月に及ぶ、東日本大震災への派遣を含む災害派遣2回、
生存者捜索救助2回、航空機救難5回、海外派遣3回、
実機雷処分3回などの業績は、歴代艦長以下、乗組員が不屈の精神と誇りを持って、
一丸となって任務邁進した賜物であり、
海上自衛隊における掃海業務の発展に大きな足跡を残したことに
深い感謝と敬意を表する。

さらに、諸君が『はちじょう』最後の乗組員として、
有終の美を飾ったことに対し、その労をねぎらいたい。

まもなく、それぞれが新たな配置に向かうことになるが、
『はちじょう』乗組員であったことを誇りにし、
海上防衛の一旦を担うべくさらに精進努力することを期待する。
最後に、『はちじょう』の輝かしい業績と諸君の健闘に対し、
重ねて感謝と敬意を表するとともに、諸君の一層の活躍を祈念し、訓示とする」


東日本大震災発生時、「はちじょう」はシンガポールでの合同訓練に向けて航行中でした。
震災発生の一報を受け、すぐさま急遽引き返し被災地へ向かったと聞いています。

その時の「はちじょう」と「やえやま」の災害救助活動については、
このブログに詳しく書かれています。

EOD JAPAN is SUPER INDUSTRIAL


横須賀地方総監に敬礼をした艦長は、振り向いて乗組員に正対し、

「ただいまをもって〇〇を解く。
『はちじょう』乗組員、解散!」

と声をかけ、その後乗組員の

「(敬)礼!」

という号令に対し、敬礼をしたまま左右に体を巡らせて総員を見回しました。
『〇〇』のところは聞き取れずわからなかったのですが、「任務」だったのでしょうか。

「まわれ〜みぎっ!」

もう一度号令が下され、全員が「はちじょう」の方をみて最後に敬礼を送ります。
これは「はちじょう」との別れに際し、その労をねぎらう敬意と感謝の意を表す敬礼です。
艦体に対して敬礼が送られるのは、もしかしたら23年の歴史で最初で最後のことかもしれません。

この時のマストからは、すでに長旗は降ろされていました。

そして、自衛艦旗が降ろされ、乗組員のいなくなった「はちじょう」。
気のせいか、もうすでにそこからは魂が抜けかけているように見えます。

解散した乗組員たちは、艦首側でこれから記念撮影をするようです。

テントの中の方々は三々五々語らったり、写真を取り合ったりしていましたが、
わたしは記念写真を撮る彼らの写真を撮るためにそーっと近づいてみました。

昔護衛艦の引き渡し式でお会いした陸自の方から、

「戦車などを導入するときでも、別にこんな式典はしないので少し驚いた」

という発言を聞いたことがあります。
海自は船舶と基本同じ慣例を導入しているので、導入にも除籍にも海の儀礼にしたがって
荘重ともいえる儀式を行うことは海軍以来の伝統となっています。

しかし、そういえば、海自であってもヘリや固定翼機の導入にあたって、
広く人を招いて式典を行うなどという話は聞いたことがありません。

 LCACもかつてのカルガモ艦隊のMSBももちろん SAMも行わないのですから、
こういう一連の式典で遇される艦艇の基準はなんなのだろうとふと思います。

とにかく、これが海軍以来の伝統であり、その度ごとにこうやって
集団写真を撮るわけです。

海軍関係の資料を読んでいたとき、

「海軍というところは何かというと集団写真を撮る団体で」

と元海軍軍人が書いていたのをこの光景を見ながら思い出しました。

掃海艦「はちじょう」、最後の乗組員の、最後の記念写真です。

何枚か真面目な写真を撮り、最後に

「笑ってください」

と注文をつけられて。
皆さん、とってもいい笑顔ですね。(特に3列目右から2番目)

 

続く。

よこすかYYのりものフェスタ

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掃海艦「はちじょう」除籍式典についてご報告の途中ですが、週末に
恒例のよこすかYY(わいわい)のりものフェスタに行ってきたので
ちょっと割り込みます。

週末の朝、「はちじょう」の時にも現地で会ったイベント仲間?から、
今日の午前中行くというメールをもらい、朝早くならそんな混雑もないだろう、
とすぐさま支度をして横須賀に出かけました。

当日の気温は27度、梅雨入りしたというのにはっきりいって夏日です。

岸壁では海自ゆるキャラ、パセリとピクルスが皆さんのお出迎えをしております。

ピクルスは確か某国から亡命、じゃなかった留学している王子だったと思うけど、
王族ならば自動的にこちらでの階級も幹部となるはずなのに、なぜ海士の制服?

などと、いきなり厳しくツッコミを入れるわたしであった。

後ろから見た体型のバランスの悪さがじわじわくる・・・・。

救難ヘリの地上展示は、操縦席に座らせてもらえます。
ずらりと並んだ希望者は見る限り全員が男性でした。

一般公開されていたのは「いかづち」。
この時間(0930)にはまだガラガラで、甲板の上も比較的空いています。

見学できるのはおそらく甲板だけで、艦橋は公開していないでしょう。

さすがは自衛隊!と思わず心の中で褒め称えた水補給コーナー。
水分補給をこまめに!とアナウンスでよびかけつつ、紙コップの水を配っていました。

「六甲のおいしい水」とかでないのは飲んでみて明らかでしたが、<(_ _)>
とにかく冷たく冷やした水で喉を潤すことができるのは嬉しい心配りです。

「しらせ」の持って帰ってきた南極の石に触れるコーナー。
今年は南極の氷の展示はありませんでした。

ふと思ったのですが、「しらせ」に乗るのも、普通の自衛官なんでしょうかねえ・・。

小さいサイズの制服が変身コーナーには用意されております。

「みんなとーっても似合うYo!!」

とかいってるペンギンが可愛い。

艦番号1.74 の「ちびしま」については、何年か前ここでも詳しくご紹介しましたが、
今年来てみたら、大々的に台が仕様変更になっておりました。

展開式の救命ボートにはちゃんと「ちびしま」と書いてあるのが泣かせます。

台座のブルーは「海」という設定で、コーナーに穿たれた三角の窓から、
ミニ潜水艦、おそらく「ちびしお」とか「ちびりゅう」とかいうのが見えていました。

わざわざミニ潜水艦を投入して来た理由は、おそらくこれ。
今回ののりものフェスタ、なんと潜水艦「ずいりゅう」の展示があります!

のりものフェスタで潜水艦を見るのは、同行者によると初めてのことらしいです。

ここでふとわたしは昨年末赴任した横須賀地方総監の道満海将が、
潜水艦出身であることを思い出しました。

潜水艦の艦首旗は艦首にはない、と_φ(・_・

何か見られて困るものに覆いをかけているとみた。

見学は、ラッタルを渡って甲板の上を歩き・・・。

セイルの方まで行ってラッタルから退出するというコース。
実になんてことのない見学ですが、それでも独特の材質の甲板や、
セイルを間近でみられるのは一般人にとって貴重な体験です。

岸壁には自衛官が一人、ラッタルで立ち止まって写真を撮っている人に
撮らないでください、と注意するために立っていました。

ところが、そこにやって来たおじさん、なぜか向こう岸壁に停泊している
「うらが」についてその人に質問を始めるんだこれが。

「あの船は何?」

「あれは掃海母艦うらがですね」

「あの中から掃海艇がでてくるの」

「いや、それは違います」

俺は掃海隊員じゃねえええ!

という彼の心の叫びが聞こえてくるほどに、おじさんは潜水艦員の彼に向かって
くどくどと掃海について質問を続け、しまいには

「わたしはそれは知りません」

ときっぱり言われて去って行きました。

「・・・・・大変ですね」

一人残った自衛官に思わず声をかけると、彼は視線を海にやったまま、

「・・・・ありがとうございます」

その言葉にいろんな思いが込められているのをひしひしと感じました。

あとで同行者たちにそのことを報告すると、

「あー、よくある話ですね」

「自衛官ならなんでも知ってるだろうって思ってる人多いよね」

「僕なら救出に行きますよ」

「えー、どうやって助けるんですか」

「横から別の話題を振る」

「そうそう、すみません、あそこにあるあれのことなんですけど、とかいって」

みなさんイベントに行き慣れているだけあって、色々と経験してらっしゃいます。

フィンの翼端にはライトらしいものがあったのに今更気がつきました。

気温はぐんぐん上がっていきます。
そこで海上自衛隊横須賀地方総監部はこんな装備を投入してきました!

下に水タンクを備えた噴霧式の扇風機で、前に立つと霧ヶ峰、
じゃなくて霧が吹き付けて大変涼しいという実に日本的な仕組みです。

わたしの知り合いは早くに地方総監部に到着したのですが、その時には
すでに開門され、どんどんと人を入れていたと言います。

何年か前は門前に長蛇の列ができていて、おじさんたちが
「日陰に並ばせないとダメだ!」とかブーブー怒ってたんですよね。

あとで広報の隊員が今年は早く入れることにした、といっていました。
毎年反省に鑑み状況を変えていこうとする姿勢、さすがは自衛隊です。



さて、わたしの今日のお目当は、横須賀音楽隊のミニコンサートです。
ヘリポートの横のスペースで、一日二回のコンサートを行います。

野外、しかものりものフェスタの一環として行われるコンサートなので、
当然ながらプログラムは、大変楽しいものになりました。

まず、1曲目はアース・ウィンド・アンド・ファイアのナンバーから、
ファンキーな「ゲッタウェイ」。

2曲めはフルートをフィーチャーして、「ワンノートサンバ」。

個人的にわたしが贔屓にしているカオルくん(なぜファーストネーム)も
バリッとソロを決めてくれました。

三曲めは「美女と野獣」メドレー。

横須賀音楽隊のボーカル、中川麻里子士長の最初の歌は、なんと

「残酷な天使のテーゼ」。

うーん・・・彼女の声と歌い方には、正直少し厳しい選曲だったかも・・・。
なんでもこなすのが自衛隊音楽隊とはいえ、人には、というかボーカルには向き不向きがあってだな・・。

歌っていない間、ずっと椅子に座って待機していた中川士長。

彼女にはこちらの方が向いていたかも・・・。

トロンボーンの「ミナミ」さんもソロで活躍。
最後の曲、キェンセラのオリジナルはマンボとかチャチャですが、
今日はなんと16ビートでのアレンジです。

「ユウキ」くんのトランペットソロは、途中で「キャラバン」入り(笑)

中川市長の曲で今日一番よかったのはアンコールの

「夢を叶えてドラえもん」

でした。

指揮はもちろん、横須賀音楽隊長、植田哲生三等海佐。

プログラム終了後、客席に向かって指を立て、「もう一曲」。
もちろん最後は行進曲軍艦で終了です。

のりものフェスタ中、音楽隊のコンサートは午前と午後一回ずつ行われます。
後からyoutubeなどを見たところ、午前と午後では少し曲目を変えていたようです。

ふと港内に、EODのゴムボートがいるのに気づきました。
小さいのにちゃんと自衛艦旗を掲げている不思議なボートです。

同行者が

「じゃー、何かジャンクなものでも食べますか!」

と目を輝かせていうので、お昼には少し早かったのですが、焼きそばを食べることにして
屋台に並んでいたら、わたしたちの寸前で売り切れ、新しく作り出しました。
時計を見たら、歯医者に行く息子をピックアップするのに戻らなくてはいけない時間。
わたしだけ焼きそばは諦めて、同行者に別れを告げることにしました。

物販テントの上にかかっていた「にんたいちゃん」とは?

自衛隊応援グッズ「にんたいちゃん」

一般公開されている「いかづち」の出口にいる隊員さんたちは案外暇そうです。

こういう日は舷門に立っていてもリラックスしていられるかもしれませんね。

この頃には「いかづち」の前も、潜水艦も見学のための長蛇の列ができていました。
画面の左から右端までずっと人が並んでいます。

この時のアナウンスでは

「護衛艦に入るのに待ち時間は40分、潜水艦は約1時間」

と言っていました。
護衛艦はまだいいとして、1時間並んで潜水艦の甲板を20m歩くだけとは・・。
ディズニーのアトラクション並みの虚しさ、いや何でもない。

もし、今日のりものフェスタに行こうと思っている方がおられましたら、
午前中、せいぜい10時までに入場することをオススメします。

今から複合艇がパフォーマンス、じゃなくて軍港の警備に出るようです。

ヴェルニー公園を歩いていたら、手を振りながら愛想を振り向いていましたが、
くるりとターンして全速力だとこんなにいけてるんだぜ!みたいに飛ばしていました。
やっぱりパフォーマンスだ・・・。

船首がほとんど浮き上がっています。
海上迷彩と言い、黒いカポックといい、かっこいいよねえ・・・。


さて、ヴェルニー公園で、スカレーくんで有名な横須賀海軍カレー本舗のテントを探しました。
先日「はちじょう」の除籍式典でご一緒したカレー本舗の方と、
そこに手伝いのためにいるというミカさん(仮名)に挨拶するためです。

時間がなかったので、本当に挨拶だけでしたが、せっかくなので本舗で

「横須賀海自カレー コンプリートボックス」

を買わせていただきました。
とにかく、誰が買うんだろうと思うくらい(わたしが買ったんですけどね)
立派な装幀を施した本のようなボックスに・・・、

8種類のカレーが収められています。

先日除籍になった「はちじょう」のカレーがありますが、本舗さん的には
「はちじょう」が除籍になってもカレーは永遠に販売するのだそうです。

その理由は、また後日。

この日の晩、噂の「はちじょう」ポークカレーを、こんにゃく麺にかけていただきましたが、
(カレーをご飯にかけないなんて、邪道だ!って?)まったりとして大変美味しかったです。
他の艦艇カレーを味見するのが楽しみです。


よこすかワイワイのりものフェスタ、今日も横須賀で行われていますので、
みなさまよろしければ(できれば早めに)足を向けてみてください。

 

 

 

掃海艦「はちじょう」除籍〜甲板の上の男たち

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さて、掃海艦「はちじょう」除籍に伴う艦旗返納式のレポートに戻ります。

前回、現場では聞き取れなかった艦長の「〇〇を解く」の◯に入るのが
「指揮」であることを、unknownさんのコメントでも教えていただいたわけですが、
これは、艦長たる指揮官が今まで「指揮を取っていた」状態から、
総員が艦艇の除籍と同時に「指揮を解かれる」ことになることを宣言しているのです。

ちなみに着任の際、指揮官は例えば

「海軍中尉エリス、ただいまから掃海艇『ちびしま』の指揮を執る」

と宣言し、離任に際しては、「指揮を解く」ということになるのです。

なお、前回戦車や飛行機、無人のSAMなどに、このような儀式がない理由について
ブログ上で疑問を呈したところ、

「そこが“住み処”であるや否や」

がその分かれ道ではないか、というご意見をいただきました。

この話が大変興味深いものであったので、そのまま転載させていただきますと、


護衛艦や掃海艇、潜水艦勤務の発令は、

「護衛艦〇〇乗り組みを命ずる」

です。
科長以上は「補職の職」となり、

「護衛艦〇〇□□長を命ずる」

になります。
乗り組みの士官、乗員とも、船が勤務場所であり、家:住み処になり、
居住区があり、風呂も食堂もあり、食事も支給されます。

住民票も船の定繋港がある場所、例えば「はちじょう」乗員ならば、
横須賀市田浦港町国有無番地というところに届け出ます。

従って、「乗り組み手当」が支給されますが、独身者には、
下宿を持っていても、住居手当も通勤手当も支給されません。
ただし、保護すべき(養育する)家族ができた場合は、
そこに住むことが認められ、住居手当は出るようになりますが、
やはり本人は船に起居することが義務づけられているので、通勤手当は出ません。

船乗りにとって、船は単なる職場ではなく、海に生きるために乗員の命を守る住まいであり、
乗員は一家であり、憩いの場でもあり、究極のときは死に場所なのです。

戦闘機や戦車が同様に“死に場所”であっても、そこで日常を過ごしたり、
年月の単位で乗っていることはないでしょう。

こうして考えていただくと、船がどんなに特殊な勤務場所がわかっていただけると思います。

 

独身者は船に住むことを義務付けられるため手当が出ない、というのはかなり驚きました。

ともあれこのような船乗りの思想が根底にあるからこそ、艦艇の就役にも除籍にも、
いろんな思いと願いを込めた丁重な儀式が必要となってくるのでしょう。

 

さて、護衛艦旗返納の儀式が終わり、乗員が皆で記念写真を撮ったところからです。
この後、来賓と幹部の記念写真撮影が行われ、わらしべ長者並みにトントン拍子の()
偉い人扱いを受けていたところのわたくしも、一緒に写真に収まり、式典は終了しました。

写真を撮り終わった乗組員は全員でまず艦長を胴上げ。
周りの人たちも胴上げに合わせて手を挙げています。
実際に胴上げしているのは六人くらいでしょうかね。

「え?次、俺?」

階級が見えませんが先任伍長かな?

急いで写真撮影台の上から撮ったのですが、艦長ほど高くは上がりませんでした。
その理由は主に体重いや何でもない。

式典の間と違って、自衛官も自由に写真を撮ることができるので、皆が
スマートフォンで「はちじょう」最後の姿を収めていました。

改めて喫水線を見ると、燃料と機材がなくなった「はちじょう」のそれは、
こんなに艦体が浮き上がっています。

燃料は式典のため岸壁に横付けするだけのギリギリしか入っていなかったそうです。

23年もの間、何回も何回もペンキを塗り重ねられた艦首部分(ここだけ金属)は
地図のようなまだらな模様を艦体に浮かび上がらせています。

ここ倉島岸壁には自衛艦以外の船もいるようですが、敷地内工事現場の土を運搬するためでしょうか。

掃海関係の幹部だけで記念写真を撮るようです。

掃討具、これはS−7 の1タイプとなります。
この「やえやま」型と「うわじま」型掃海艇が搭載している機雷処分具で、
中深度の掃海を行うために1990年に開発され導入されたものです。

魚雷型をしているのは、流体力学的により優れた形を追求したからで、
ここからも見えている先端部分には、

超音波水中映像装置(イメージング・ソナー)

が搭載され、映像を光ファイバーケーブルを通して取り込むことができます。

新しい掃海艇には日進月歩で新型の装備が搭載されるので、
おそらくこの掃海具も、艦体とともに廃棄処分になるのだと思われます。

先日ご紹介した週末の「よこすかワイワイのりものフェスタ」の時には、
吉倉桟橋に繫留してあった「うらが」がこの時にはここにいました。

掃海母艦として、「はちじょう」の除籍を近くで見守っていたのでしょう。

気がつきませんでしたが、もしかしたら「うらが」からは護衛艦旗の降下を
乗組員がともに見送っていた可能性もあります。

のりものフェスタの時、潜水艦「ずいりゅう」の横に立っていた潜水艦乗員に
散々「うらが」のことを質問して困らせていたおじさんがいましたが、
あのとき「うらが」は一般人に姿を見てもらうためにわざわざあそこに移動したのでしょうか。

それなら、「うらが」に興味を持ったおじさんのような人がいたということは
自衛隊にとって『狙い通り』だったという考え方もできます。

まあ、おじさんの場合は質問した相手が大いに間違ってたんですけどね。

別の桟橋には「えのしま」もいます。
今年の3月に「あわじ」型掃海艦のネームシップが就役するまで、最新型の掃海艦艇で、
むろん掃海艇としては未だに最新型です。

港に「軍港めぐり」の遊覧船が入ってきました。
風に乗って聞こえてくるアナウンスを垣間聞くと、船内では
先ほど「はちじょう」の除籍が行われ、護衛艦旗が降ろされた、
というようなことを言っているようでした。

式典に使われた式台には、「はちじょう」の艦名プレートが掛けてありました。
ラッタルに掛けるバナーと同じく、こういうものの行き先は決まっておらず、
そのときその時で手を挙げた人がもらえるらしいのですが、今回、
このプレート、誰が持ち帰ることになったと思いますか?

それは、わたしがのりものフェスタでも購入した「はちじょうカレー」を
「はちじょう」艦長、もとい、「はちじょう」最後の艦長と一緒に持って
一緒に写真を撮っている、こちらの女性です。

本日の式典に、わたしはミカさん(仮名)とこちらのミカさん2(仮名)、
三人でやってきたのですが、ミカさん2(仮名)は皆さんもご存知、
スカレーくんでおなじみ、横須賀海軍カレー本舗の方であります。

この時には、艦長にプレゼントするためにカレーを授与しているのですが、
その後、プレートの行き先を決める段階になって、彼女が、
というか横須賀カレー本舗さんがその引き取り先に決まったというわけです。

海自カレーは呉と同じく横須賀でも主に本舗さんで発売されていて、
「はちじょう」カレーも、レシピを「はちじょう」の給養部から直伝され、
それを再現したレシピをレトルト並びにレストランでも出しています。

横須賀カレー本舗

HPトップ中央に「はちじょう」カレーの説明が。

ここを見て、以前一度行ったことのあるミリタリーショップが
カレー本舗の経営であることを初めて知りました。

本舗のミカさんによると、除籍になっても「はちじょう」ポークカレーは
廃番にせず、永久配備を続けるそうです。

この「はちじょう」ネームプレートとともに・・・。

「はちじょう」任務経験のあるみなさま、「はちじょう」プレートに会いたくなったら、
その時にはいつでも横須賀カレー本舗へ!(宣伝)

わたしが艦尾付近の写真を撮っていると、年配の一般男性の団体が
まとまって「はちじょう」に乗り込んでいくのが見えました。

まさか、一般人に中を見学させてくれるとか・・・・・?

近くにいた自衛官に聞いてみると、

「あれはこの『はちじょう』を作った造船関係の方々なんですよ」

わたしは衝撃のような深い感動を覚えました。
海上自衛隊が、23年前にこの掃海艦をゼロからその手で作り上げた方々を
自衛艦旗返納という、別れの式典に招待していたということに。

「そうだったんですか・・・・皆さんもう退職なさった方ばかりですか?」

「お二人だけまだ現役の方がおられるそうですが、そのほかは皆リタイアされたようです」

岸壁から見ていると、この方々は感慨深げに甲板の上を一回りし、
若き日に自分が手がけた艦体に時々話しかけるように手を触れながら、
最後には全員で甲板の上の記念写真を撮っておられました。

技術者、自衛隊側の設計者、もしかしたら木造の艦体を造った船大工・・?

一人一人がどのような形でこの最後の木製掃海艦に関わったかはわかりませんが、
一つ確かなことは、23年前、この同じ艦上にあったときに若く働き盛りであった人々が、
人生を重ね、そのほとんどが引退して、今ここに艦の終焉を見届けにきていることです。


このとき、彼らの心中に去来する23年の歳月の流れはどのようなものだったでしょうか。
わたしは甲板の上の男たちの姿を、なぜか泣きたいような気持ちで見ていました。

 


続く。



 

掃海艦「はちじょう」除籍〜艦名と艦番号 塗装抹消作業

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去る6月6日に除籍になった掃海艦「はちじょう」の自衛艦旗返納式について、
お話ししています。


さて、こんな時でないと掃海艦についてお話しする機会がないので、
前回の防衛装備調達のためのカバーストーリーという話題についてもう少し。


当時、自衛隊は、新型掃海艦のあるべき姿を米海軍の掃海艦「アベンジャー」
その目標として据えていた、といわれています。
そのため、「頭脳」に相当する戦闘指揮システム、「目」であるソナー、レーダー、
「手」たる機雷処分用の水中ビークルを米海軍から一括導入しようと考えていました。

もちろん国産化の努力はしてきたものの、技本でのS-7、S-8の開発に失敗し、
一旦断念することになったので、やむをえず、といったところでした。

当然ながら予算がかさんでどうにもならなくなり、結局米海軍からの調達は

「全く実現性のない深々度対応のソナーと軍用GPSを除き」

断念することになりました。
(つまりこの二つは米海軍から調達したってことですねわかります)

 

ともあれ、これで深々度機雷排除能力を持つ掃海艦が
極東地域にも存在することになった!と大喜びしていたら、
あれよあれよとソ連は崩壊し、自動的に冷戦は終了してしまいました。

つまり掃海艦導入のための建前は結果として建前のまま終わったのか?

それについて、掃海艦の建造に関わる元海幕の装体課にいた元自衛官は
このようなことを言っています。

「ソ連は西側との軍拡競争で経済的破綻を来して破れた。
つまり、地勢的な特徴を鑑み自衛隊が配備した兵力は、これもまた
ボディブローのようにその破綻に効き目を表したのである。

我々は兵力整備をもって冷戦を戦い、勝ったと言っても過言ではない」

 

正直、当初の建前とは全く別方向の勝利宣言という気がしないでもないですが、
冷戦というものを大きな目で見た場合、要するに宇宙開発を含む
軍拡競争による米ソの潰しあいという構図であったのは歴史の示すとおり。

その中でどの程度ソ連が日本の配備に対抗して「浪費」したのかは今となっては謎です。
しかし、あの石原莞爾の言葉を借りれば

「槌は槌でも小さな槌」(笑)

ながらに、とにかく自衛隊は勝利の鉄槌の一部となり得たということでしょうか。

さて、記念撮影、胴上げが終わり、掃海艦建造に携わった人々が甲板で別れを告げると、
自衛艦除籍において、ある意味もっともドラマチックといっても過言ではないイベントが行われます。

総員退艦したはずの艦上にまだ白い制服の乗組員の姿が見えますが、
これは最後の点検をしているのかもしれません。

そう、コメント欄でも予告をいただきましたし、先日の元艦長と横須賀カレー本舗の方が
「はちじょう」プレートを受け渡ししているシーンの後ろにも写っていたように、
除籍艦の艦体に書かれた艦名と艦番号を塗りつぶすという作業です。

先ほど退艦し、白い制服から作業用のブルーのつなぎに着替えてきた何人かが
なんの予告もなく、サクサクという感じで作業に入りました。

いわゆる来賓とか高級幹部の皆さんは、この時すでに岸壁から姿を消し、
(おそらくどこかで昼食会か何かがあったのだと思う)
赤リボンをつけてうろうろしているのはわたしだけでしたが、
カメラ関係の方々は、自衛艦旗降下と同じくらいこのシーンを待ち望んでいたはずです。

塗りつぶし係?の隊員たちは、灰色のペンキを長いローラーに付け、
艦尾の「はちじょう」から消していきます。

「やばい、『ちじょ』になった」

この瞬間近くのカメラ持ちがツッコミを入れていました。
おじさん、頭に浮かんだことをなんでもいっちゃう人とみた。

上にペンキを載せるのは案外に簡単な作業らしく、あっという間に艦名は消えていきます。
二人でほとんど全部消してしまいそうになったとき、左端で見ていた隊員くんが
最後に自分もやらせてほしい、といったらしく、ローラーを受け取りました。

「『はちじょう』艦名塗装作業、終わり!」(^_^)v

続いて同メンバーによる艦番号の塗りつぶし作業、かかれ!

・・・なのですが、さて、どうやって塗りつぶすかねー、とまずは
作業計画について皆さんで相談しているところ。

「3」は岸壁からなんとかなるのですが、右二つはブラシが届きません。

ちょうどタグボートが到着しました。
作業が終わった「はちじょう」を岸壁からドナドナしていくための船です。

それを見ながら隊員さんたち、

「(岸壁と艦体の間に)船入りませんかね」

「マストが舫に引っかかるからダメだろう」

自衛隊でも現場ではこんなこと言い合っているなんてと、親近感を持ちました。
そんなもんわたしでもダメに決まってると思うぞ。

「おい、海に落ちるなよ!」

という声をかけられつつ、とりあえず右端にブラシが届くかチェック。
やっぱり無理みたいです。

この時、もし彼が海に落ちたら、溺者救助がどのように行われるのか、
そういう事態を見てみたいと瞬間ですが思ったことをここに懺悔します。

岸からは無理ということがわかり、甲板から塗ることが決定。
隊員が急いで甲板に上がり、長いブラシを受け取ります。

おお、これならなんとか上から消すことができそうだね。
ただしこの態勢はものすごい腹筋と腕力を駆使していると思われ。

みている方は簡単だけど、こんなことを普通にできるのも、
彼らが常日頃走りまくって体力をつけているからこそ、ってことで、
わたしは自衛官の鍛えっぷりを垣間見た気がして猛烈に感動していました。

ちなみに全くこちらからは見えませんが、向こう側の艦番号は横付けした船上から塗ったようです。

応援が駆けつけ、落ちないように足を抑えてくれています。

「艦番号を塗りつぶす」

という作業に記念としてぜひ関わりたいという方もおられます。

一度でいいからこの作業をやってみたいと熱望していたミカさん(仮名)に
ついにその願いが叶う日がやってきました。
作業前最初のひと刷毛を塗るローラーを隊員に持たせてもらったのです。

「落ちないでくださいね!」

今度は先ほどよりも真剣な声があちこちから飛びました(笑)

岸壁の周りはこの通り、いかにも凶暴そうなくらげだらけだし。
しかし次の瞬間、

「お、重〜〜い!」

という彼女の叫びが・・・・・・・。
乗組員たちがなんてことない顔で持っていたローラー、言われて見れば
先端部分は金属製で、それがこんな長いのだから重いのは当たり前。

自衛官が使う作業用グッズは、基本一般ユーザーに全く配慮してません・・。

皆がハラハラしながらみていると、なんとか苦労して艦体にひと刷毛を刻みました。

わたし「全然消せてないし」

本人「内心番号を消したくないという心理の表れってことで・・・・・」

甲板からのローラー班は、苦労しつつもこのまま右二つの数字を消すことができそうです。

ふと気づくと、甲板にオレンジのベストをつけた隊員たちがたくさん上がってきていました。

 

この後、岸壁を離れてタグボートで繫留海面(岸壁にはつけないらしい)に
ドナドナするための作業を行う港湾の隊員たちが乗り込んで作業をしているのです。
舫は最後のものを残してもうはずし始めています。

このタグボートには「はちじょう」乗員らしき二人が乗っていました。
左舷側の艦番号塗りつぶし作業は終了したようです。

ベルト部分を持ってもらって「3」の上は消しましたが、この先が届きません。

岸壁に寝そべり、ブラシを思いっきり突き出して残りを。
これなら落ちる心配はなさそうですが、後ろの人が足を抑えていました。

自衛隊のカメラマンも記念にひと刷毛。
最初カメラを下げたまま塗ろうとしましたが、さすがにそれは無理ってもんでしょう。

ベルトを掴んで引き戻してもらっていました。

「俺も俺も〜」

こちらの海曹さんは後ろから抱きしめてもらう「タイタニック」スタイルで。

BGM ♪えんだ〜いやああ〜♪ ってそれは「ボディガード」や。

岸壁からの最後の塗装はこんな体勢で。
寝そべっている隊員さんの作業服にはペンキのシミがたくさんついていますが、
これはペンキ塗り作業専用の作業服ってことでしょうか。

これで元の番号がすっかり読み取れなくなりました。
最後に、うっすら残っていた白い部分を消して、作業終わり。

艦番号のなくなった「はちじょう」をバックに、副長が最後の記念写真を撮っておられました。

 

いよいよ最終回に続く。

 

 

掃海艦「はちじょう」除籍〜最後の舫を放す手

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調達艦、除籍艦のリストを見つけました。

本年度に除籍になる掃海艦艇は、今回お伝えしている
掃海艦「はちじょう」一隻だけとなりますが、ただし来年に就役予定の

「あわじ」型掃海艦「ひらど」

が今年進水を行い、ことしの調達にカウントされることになるので、
掃海艦艇の総数は23隻のまま変わらない予定です。

ここで今後10年の掃海艦艇の調達&除籍情報を書いておきます。

(ただし、お節介船屋さんのご指摘を受けて改めて中期防衛力整備計画の資料を見たところ、
掃海艦艇の増減には触れられておらず、護衛艦6隻、潜水艦5隻、その他5隻としか
記載されていなかったので、以下資料が防衛大綱からの引用でないことをお断りしておきます。
資料の確実性については、引き続き調査していきますので、とりあえずこのまま掲載します)


17年度 【掃海艦艇23+1-1】 就役:ひらど(除籍:はちじょう)

18年度 【掃海艦艇24-3】 就役:なし(除籍:くめじま すがしま のとじま)

19年度 【掃海艦艇21-1】  就役:なし(除籍:つのしま)

20年度 【掃海艦艇23+1-3】就役:29MSO(除籍:ゆげしま ながしま なおしま)

21年度 【掃海艦艇21+1-1】就役:30MSO(除籍:とよしま)

22年度 【掃海艦艇21+1-2】就役:31MSO?(除籍:うくしま いずしま)

23年度 【掃海艦艇20+1-1】就役:32MSO?(除籍:あいしま)

24年度 【掃海艦艇20-2】  就役:(除籍:あおしま みやじま)


この間、高松で乗った「つのしま」も、隣にいた「あいしま」も、
何年かの間には除籍することが決まっているわけですね。

掃海艦艇の寿命は、一般的に掃海艦、及び掃海管制艇で24年、
掃海艇ではそれより大幅に短い20年となっているようです。
FRP素材になって寿命が延びたと思っていたのですが、思ったより
掃海艇の予想寿命が短いのに少しビックリです。

この表を見て気がつくのが、調達予定とされているのが、
退役していくのが全て掃海艇なのに対し、「?」の部分も含めて
全てが MSO、掃海「艦」であることです。

これは、これからの機雷掃海は掃海艦が主流になっていくと考えていいのでしょうか。

この資料によると、今後の10年で掃海艦艇はこれまでの上限25隻から、
7隻も減少の18隻体制になっていくとのことです。

これは掃海という業務そのものの規模が縮小するということなのか、
艦艇一隻の掃海能力が向上したということなのか。

(この部分の数字については、中期防衛力整備計画のP31に記載) 

ところでついでに、皆さんも興味をお持ちだと思うので、この際
護衛艦の調達と除籍計画についても転載しておきます。

2017年度 【護衛艦46+1 】 就役:あさひ(除籍:なし)

2018年度 【護衛艦47+1】  就役:26DD(除籍:なし)

2019年度 【護衛艦48+1-2 】 就役:27DDG(除籍:やまゆき まつゆき)

2020年度 【護衛艦47+1-3 】 就役:28DDG(除籍:せとゆき あさゆき しらゆき)

2021年度 【護衛艦45+2 】就役:30DX×2(除籍:なし)

2022年度 【護衛艦47+2 】就役:31DX×2(除籍:なし)

2023年度 【護衛艦49+2 】就役:32DX×2(除籍:なし)

2024年度 【護衛艦51+2-1】就役:33DX×2(除籍:はたかぜ)

  いかがでしょうか。
これからわかることは、掃海艦艇の縮小に反比例するように護衛艦数は増し、
現在の基本47隻体制から54隻までの増加を目標としているということです。

こちらも一般的な寿命を書いておくと、「はつゆき」型が34年、
それ以外が39年ということになっております。

少し時間を戻して、艦番号塗りつぶし作業の時に見守っている人々。
ほぼ全員がカメラ持ちでしたが、そんなにたくさん残っているわけではありません。

さて、艦番号の塗りつぶし作業が終わりました。
いきなり生気を抜かれたが如くの姿になってしまった(と感じる)「はちじょう」が
いよいよ最後に岸壁を離れる瞬間が近づいてきています。

燃料がほぼない状態で、岸壁から繋留地点まで引かれた「はちじょう」は
解体業者に引き取られる日まで、わずかな時間を港内で過ごしますが、
岸壁をそれで塞ぐわけにはいかないので、どこか邪魔にならないところに繋ぐようです。
確認はしていませんが、おそらく投錨せずに繋留するのでしょう。

 

前回ご紹介した横須賀海軍カレー本舗さんは、解体される前になんとか
木製の艦体の一部を欲しいものだとおっしゃっていましたが、それは
もはや自衛艦籍のなくなった艦のことなので、自衛隊ではなく、そのあとの
解体業者との話になってくるはずです。

最後の木造製掃海艦の木の一部、ぜひこの世に残して欲しいものですが・・。

オレンジのカポックをつけた港湾業務の隊員たちがその準備中。
操舵室の上とかに立ってる人がいますが何をしているんだろう。

左舷側にはもう曳船がスタンバイしているようです。

先ほどまで艦名と艦番号の塗装作業を行なっていた隊員たちが、
番号がなくなった艦体の前で最後に集合写真を撮っていました。

 

撮っているのはミカさん(仮名)ですが、彼女に自分の携帯を渡して撮ってもらっています。

彼らの後ろの艦上では作業が進み、杭から舫が外されつつあります。

舳先から出ている舫の先には、女性隊員が確認のためか舫を外すためか、
(こちらは違うことがあとで判明)立っています。

向こうに立っている男性は、初回にもお話しした最初の木造製掃海艦である
「やえやま」の初代艦長を勤めた方で、昨年その「やえやま」が除籍になった日も
やはりこの同じ岸壁から、その最後の姿を見送ったと聞きました。

初代艦長は、ほとんどの来賓や関係者がいなくなってからも岸壁に立ち続け、
さらには全員で基地をでた後にも、フェンスの外から、引かれていく
最後の「やえやま」型掃海艦、「はちじょう」の艦影を見つめておられました。

まるで少しでも長くその姿を記憶にとどめようとするかのように。

艦上の曳航準備が整い、ついに最後の舫が放たれる時がやってきました。
塗装作業をした「はちじょう」乗組員が、それを行います。

この舫を外せば、残る陸との繋がりは艦首の一本だけになります。

「はちじょう」が最後に陸とつながっていた絆を放つ作業。
出航する時にはいつも艦上にいた乗組員にとって、岸壁から「はちじょう」の舫を外すのは
もしかしたら最初で最後のことだったかもしれません。

艦上の作業員は日常の任務としてそれを行なっているという様子でしたが、
地上から舫を離した隊員の左手に、わたしは万感の過る一瞬を見た気がしました。

そして最後の舫を乗組員二人で一緒に取り、同時に手離した瞬間。

さほど大きくない掃海艦(しかも燃料も機材も外した状態)は、
タグボートの索たった一本で軽々と岸壁を離れ、動き出しました。

艦上の人たちは繋留地点に到着したら・・・あれ?どうやって戻るんだろう。

1、タグボートに縄ばしごで乗り移る

2、輸送船がお迎えに行く

3、最後の力を振り絞って「はちじょう」が救命ボートを下ろす

4、泳いで帰る

あー、最後まで見ていればよかった。

ペンキを塗っていた人数からさらに減って、この3名が最後に舫を離しました。
正式に決まった儀礼ではないと思いますが、「はちじょう」を見送るようです。

もう自衛艦籍になく、艦名も艦番号も消された今、これは「はちじょう」ではなく、
そうであったところの除籍艦ですので、艦上からもなんの挨拶もありません。

見ている三人も、会話しながらとリラックスした佇まいです。

岸壁を離れてすぐ、敬礼しながらの記念写真を撮ってもらう一人。

「敬礼なしでも撮ってね」

 

こうしてこの日、わたしは掃海艦「はちじょう」の最後を見届けました。
最後に、元掃海隊指揮官だった方のメールの一部をご紹介して終わりたいと思います。

 

自衛艦は、艦旗を掲揚し、乗員が乗り組むことにより命を与えられ、
そして旗を降ろし、乗員が去るときに命を閉じるように感じます。

船の乗組員になることは、飛行機や車を操縦したり、乗り降りすることとは、
かなり違う次元のことだと思います。
宇宙船と同じく、そこは命のカプセルのように、外界から独立して自己完結する世界です。

海の上で勤務する者にとって、最大の“敵”は、海であり、大自然です。
陸棲生物である人間が、海で生活するのですから、当然です。

そうした感覚が、海軍軍人をして、国籍を問わず、敵味方を問わず、
「Blue Mafia」という信条の絆や、独特の共通した雰囲気や
面差しが生まれるのではないかと思います。

「スマートで、目先が利いて、几帳面で、負けじ魂」を持っていることは、
海の怖さを知り、海と共に生きるための知恵であると思います。



終わり。

幻の駆逐艦「岩波」と「41フォーフリーダム」〜サブマリンミュージアム グロトン

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コネチカット州はグロトンにあるサブマリンミュージアム、
前庭にある残りの展示品を全て紹介していくことにしましょう。 

サブマリンミュージアムの正確な名称は、

The United States Navy Submarine Force Library and Museum
(アメリカ合衆国海軍潜水艦隊図書館・博物館)

と言います。
実は展示もさることながら、潜水艦に関する蔵書や資料が閲覧できる
図書館となっており、その隣の潜水艦隊の軍人がしょっちゅうここに
出入りしている様子なのも、このためなのではないかと思われました。

テムズ河畔はご覧のように崖の山が迫っていて、
それゆえ水深が深く、潜水艦母港に選ばれた地形なのだと思いますが、
ミュージアムの敷地に迫った小高い崖の上にはマストが立てられ、
国旗の両側に、潜水艦隊旗と博物館の旗が掲げられています。 

創設は1955年。
元々は、ゼネラル・ダイナミクス社のエレクトリックボート部門が、
当社で手がけた潜水艦などの資料を展示しているだけの博物館でした。

このゼネラルダイナミクス社の創業者はジョン・フィリップ・ホランド


この名前、聞いたことあるでしょう?
そう、SS−1となった米海軍最初の潜水艦「ホランド」にその名前を残す人物で、
GD社の最初の社名は

「ホランド魚雷艇会社」(Holland Torpedo Boat Company)

といいました。
1964年に博物館と図書館が海軍の潜水艦隊に寄付され、
そのときにここニューロンドンのグロトンに展示物が移転し、
元から海軍が持っていた展示品と合わせて公開されることになりました。

その後、引退した原潜ノーチラスが譲渡されてここに展示されることになり、
潜水艦博物博物館としては世界でも有数の規模となったのです。 

一度ご紹介しましたが、ミュージアム建物の前には

敵対艦潜水ミサイル UGM-84

が実に躍動感を感じさせる飛翔の様子で展示されています。 

崖を背に、そびえ立つポラリスA-1ミサイル

ポラリスは冷戦期にロッキード社が開発した潜水艦発射弾道ミサイルです。
2段式であり、固体推進薬を使用し、核弾頭を搭載していました。

前にもニューヨークのイントレピッド博物館にあった潜水艦に
搭載していたこのポラリスについてお話ししたことがあります。

ついでに、JFKがこれを最初に搭載した潜水艦を見学したとき
腰の悪い大統領のためにハッチにエレベーターをつけた話もしましたっけ?

ポラリスもポセイドンも過去のミサイルとなり、
現在の潜水艦ミサイルの主流はトライデントで、他には英海軍が運用しています。

ポラリスミサイル発射管のハッチです。
赤い凹と凸の組み合わせが実にアーティスティック。

USS SAM RAYBURN (SSBN-635)

の16の発射管のうちの3番管のハッチです。
原潜「サム・レイバーン」は1989年に除籍になりました。
廃艦の背景には、第二次戦略兵器制限交渉を受けて
原潜を削減すると決まった、という政府の決定があります。 


5インチ艦砲は、見ての通り、第二次大戦中の潜水艦の搭載。

USS FLASHER (SS-249)

はガトー級潜水艦で、この博物館を当初運営していた
ゼネラルダイナミクス社の建造によるものです。

ところでこの「フラッシャー」にはこんな逸話があります。

「フラッシャー」は1945年9月の就役後、対日本戦で大きな戦果をあげました。
あげすぎて、

 第二次世界大戦において10万トンを超える敵艦を撃沈したアメリカ海軍唯一の潜水艦

つまりアメリカ海軍でナンバーワンの潜水艦ということになっているのですが、
この記録には一部捏造操作があるらしい、じゃなくてあるのです。


それはこういうお話。

「フラッシャー」は帝国海軍の駆逐艦「イワナミ」を撃沈したことになっており、
そのため撃沈総量が10万トンを超す大台に乗ることになりました。

んが、そんな名前の駆逐艦はそもそも存在もしていないのはみなさんご存知の通り。
(多分岩波書店を知っているアメリカ人がいたんじゃないかな)

ところが「フラッシャー」、当時の情報システムではバレないと思ったのか、
しれっと駆逐艦「イワナミ」をカウントしたばかりでなく、戦後も
その記録を抹消せず現在に至ります。

いや、抹消しようよ。

もうインターネットで調べれば誰でもその嘘がわかる時代になったのだから、
いい加減に数字を訂正しておいた方が身のためだと思うんですが。

「イワナミ」がカウントされなければもしかしたらランクが下がるとかで
意地でもこのまま行こうと思っているのかもしれませんが、
それでは同時に捏造の証拠も残ってしまうんだけどそれはいいのか。

手前のアンカーは、

USS STURGEON (SSN- 637)

のもの。
変わったシェイプをしていますが、潜水艦の艦体に
ピタリと張り付くような形をしているのだそうです。 

スタージョン(チョウザメの意)もエレクトリックダイナミクス社の建造で、
ここグロトンで生まれ、ニューロンドンを母港としていました。 

冒頭写真にもあげましたが、我が日本の艦船と事故を起こしたことがある

USS GEORGE WASHINGTON (SSBN- 598)

のセイルです。
1981年、東シナ海で浮上したとき、日本の貨物船と衝突して貨物船は15分で沈没。
しかし事故発生から報告まで24時間もかかったことで日本側から非難が起きました。

米原子力潜水艦当て逃げ事件 

しかも、ジョージワシントンも、アメリカのPー3Cも乗員の救助を行わなかったため、
乗組員の救助のために護衛艦「あおくも」が出動することになりました。
この事故では、結局2人が行方不明となっています。

セイルにはこの事件の時に傷ができたというのですが、この角度からはわかりません。

ミュージアムのページにあるこの写真には、少し破損部分が確認できました。
(セイル後方に波打っている部分)

これが日本船と激突した跡か・・・・・・。


セイルにはポラリスミサイルのシルエットが16描かれていますが、
これは撃墜マークのようなものではなく、単に十六発のミサイルを
この潜水艦は搭載しているという意味だと思われます。

「ジョージ・ワシントン」はアメリカ海軍で初めて弾道ミサイルを
搭載した潜水艦であったので、それを誇らしげに表現したのかもしれません。 

こちらはあの!原子力潜水艦「ノーチラス」のプロペラ。

夏に見学した時には最初の原潜「ノーチラス」について
色々とお話してきたので改めていうまでもないですが、彼女は「オペレーション・サンシャイン」
で、南極の氷の下を潜り、北極点に達するという偉業を成し遂げた原潜です。

このプロペラで、通信が途絶え、少しでもミスると艦体をこすって全員おしまい、
というような狭い氷のトンネルのような海底をくぐり抜けていったのです。

 

館内には天井から吊られたトマホーク巡航ミサイルを見ることができます。
ミサイルが潜水艦から最初に水中発射されたのは1982年のこと。

水中を巡行して海面に達したトマホークミサイルは、その翼を広げ、
そのまま空高く飛翔していきます。(なんか詩的な文句だな)

そしてコンピュータと人工衛星のコントロール下、目標に到達し、爆破します。

説明がありませんでしたが、レバーの形状から察するに潜望鏡のスコープ部分でしょう。

これでテムズ川を眺めることもできます。
ちなみに川はこの位置からはずっと右手を流れているのですが、
この部分は入り組んだ川溜まりで、沼のように水が溜まっている部分です。

 

再び外に出てみましょう。

フォーティワン・フォー・フリーダム(自由のための41隻)

と書かれたモニュメントがあります。
アメリカ人は国を護るという言葉を「自由を得る」と言い換えるのが好きです。
で、この41隻とは何かというと、

ジョージ・ワシントン級原子力潜水艦 SSBN598〜602 

イーサン・アレン級原子力潜水艦 SSN608〜618 

ラファイエット級原子力潜水艦 SSBN616〜626 

ジェームス・マディソン級原子力潜水艦 SSBN627〜636 

のことで、現役当時からこれが彼らのキャッチフレーズだったようです。
全部足しても数が合わなかったのですがまあいいや(適当)


ちなみにジョージ・ワシントン級は初の弾道ミサイル原子力潜水艦です。

艦隊弾道ミサイル潜水艦(FBM: Fleet Balistic Missile Submarine)

というのが正式名称で、1959年12月に1番艦が就役して以来、
冷戦期のアメリカに、巨大な核火力と強力な抑止力をもたらしました。

1960年代のマクナマラ国防長官の核抑止政策のもと、

「自由のための41隻(41 for Freedom)」

は冷戦下の水中核戦力におけるアメリカの優位の維持に寄与したといわれています。

潜水艦ミュージアムは、誰でもこのレンガに名前を残すことができます。
博物館の支援システムで、一番小さなレンガがわずか125ドル。 

大きなレンガでも275ドル!
少しだけ心が揺れ動きましたが、だからといって縁もゆかりもないここに名前を残しても、
と思い、すんでのところでレンガ購入を断念しました。

日系人らしい家族のもの、ノーチラス乗員だったと称する人のもの、
ETCM SS、つまり潜水艦技術者のチーフだった人・・・・。

「4隻のボートを助けた」

と自分の海軍時代の功績を盛り込んでいるものもあります。

ミュージアムのお土産ショップには楽しい潜水艦グッズがたくさんあり、
わたしは潜水艦基地のマグカップと潜水艦模様の入ったカードを買いました。

もし潜水艦乗員の知り合いがいたらお土産に買って帰りたかった
駐車場のノーティスボード。

 
”潜水艦乗員専用駐車場

違反者には魚雷発射いたします”

 

 

 


呉軍港めぐり〜夕呉(ゆうぐれ)クルーズ

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「いせ」転籍に伴う懇親会と佐世保へのお見送りからそう日を分かたず、
わたしはまたしても呉に行っておりました。

スケジュールの合間に1時間ほど大和ミュージアムで時間を潰し、
(先日高松で伊藤元呉地方総監にいただいた無料パスポートがお役立ち)
その後ミュージアム前の広場でTOを待っていると、ターミナルから
艦船クルーズの人が6時過ぎの便に乗りませんか?と客引きにきました。

おお、これはあの、自衛艦旗を一斉に降下する軍港を見ることができるという
「夕呉クルーズ」のこと?

「まだ乗れますか?」

と聞くと、

「乗れないということは、ま・ず・ありません」

と力強く太鼓判を押されました。
まあ、それだからわざわざ外に客引きに来てるんだとは思いましたがね。

落ち合ったTOも筋金入りのクルーズ好きなので、参加は一も二もなく決まり、
わたしたちはまずチケットを買っておいて指定の時間にターミナルに向かいました。

ターミナルで待っていると、江田島から到着したフェリーから、
自衛官らしい雰囲気の私服の人たちが降りて呉の街に散っていきました。
これが呉の夕方の日常風景なんですね。


時間が来て、外で待っていたわたしたちが船に乗り込むため歩いていると、
わざわざ追い越して先頭に割り込もうとする一団がいました。

中国人みたいだなと思ったらやっぱり中国人でした。

前回は午前中に乗った軍港めぐり(正式名は艦船めぐりだけど)ですが、
今回は待望の日没クルーズです。

この日はまだ海の上を渡る風は冷たかったものの、素晴らしい夕焼けが見られそう。

呉地方総監部の発着所内に休んでいる支援艇も、夕日を受けて。

前回こちらの「ファルコン」一隻だった建造中の船が2隻に増えてる!

ポンツーンにブロックを積んでいた同型艦の「スワン」がもうこんな形に!
造船作業というのがこんなに進捗が早いとは初めて知りました。

この奥でもさらに一隻大型艦を建造中。
"ORIENT ARROW"という船名が読み取れます。
他の船ブログでは「オリエント・スカイ」という名前の船があるという記事を見つけました。

姉妹船でしょうか。

クルーズでは「大和の大屋根」の説明も必ず行われます。

3月ごろまではこの上にブロック工法のパーツが山盛りになっていましたが、
この時にはほぼ何も乗っていない状態でした。

さて、いよいよ自衛隊基地に差し掛かります。
最初に見えてくるのは練習艦「しまゆき」。

今年の練習艦隊には参加していませんが、かつて初めて女性艦長を戴いた練習艦です。

続いてはこの安定感のある後ろ姿。
船が女性ならまさに安産体型?の輸送艦「おおすみ」。
向こうには「しお」型らしい潜水艦の姿が確認できます。

掃海母艦「ぶんご」にはこの直前に高松で乗ったばかりでした。
全く違う場所でつい先日あの甲板の上にいたのに・・・と少し不思議な気分です。

先日横須賀で潜水隊員を困らせてたおじさんが言っていたように、
後ろのハッチから掃海艇が出てくると思う人がいても無理は・・さすがにあるな。

そもそも母艦で運べるようなものだけで掃海ができるなら、誰も苦労せんわ。

「かが」は先日「いせ」を見送った岸壁に「いせ」の代わりに入って、
ずっとそこを居場所としているようです。

やっぱりこうしてみると空母だわー。ヘリ空母だわー。

クルーズは自衛艦旗降下の時間にちょうど折り返して帰ってくるペースで行われます。
これはまだ往路なので、自衛艦旗の周りにも人影はありません。

「かが」後部にはSeaRAM(近接防空ミサイル)が設置されています。
ファランクスCIWSと似ていますが、それもそのはず、設計を踏襲しているのだとか。

この反対の右舷側にはCIWSがあって、解説の方は

「ミサイル(SeaRAM)と銃(CIWS)」

とあっさり説明していました。

護衛艦「いなづま」と敷設艦「むろと」が並んでいます。

先代の艦番号482も名前は「むろと」で、本艦は4年前の2013年から就役しています。
先日「そうや」という名前の機雷敷設艦があったという話を高松で伺いましたが、
敷設艦の命名基準は「岬」なので、「そうや」は

「つがる」「むろと」「えりも」

という流れで、宗谷岬からと付けられたことになります。

南極探検でおなじみの「宗谷」はどうも海峡の方からみたいですね。

ただし、敷設艦といっても「そうや」以外、この「むろと」もですが、
電纜敷設艦(でんらんふせつかん)といって、水中機器やケーブルを敷設するものなので、
掃海隊群ではなく、海洋業務・対戦支援群の所属になります。

色々と秘密なものを敷設する関係上一般公開はされませんし、その任務についても
自衛隊以外に詳細が伝わることがない怪しい艦です。

そもそも、海洋業務以下略という群そのものが

「対潜水艦線に必要な海洋データ(水質、水温、潮流、海底地形等)を
収集・分析・研究して護衛艦、航空機に資料として提供することが主たる任務」

ですので、いわゆる一つの潜水艦隊ばりに秘密の塊だったりするわけです。
もちろん「むろと」の任務も明らかにはされていません。

ここに勤務になっている幹部の前職とか見てると、他から来た人はほぼゼロ。
全員が海洋業務群出身で、いかに特殊な職かが現れている気がします。

アレイからすこじまが見えてきました。
夕方なので、潜水艦がほぼ全部帰ってきて繋留されています。


最近某所で呉の古地図をみる機会があったのですが、驚きましたね。
この呉軍港のあたり、全部海だったんですよ。
今陸地になっているところを埋め立てて港にしてしまったのは海軍だったのです。

この近辺もそうで、昔は海の中に「鳥(からす)小島」なる島があった場所でした。
多分カラスの巣になっている小さい島があったのでしょう。
島でもないのになぜ「小島」なのかという理由を初めて知りました。

かつて海だったところには今では岸壁ができ、潜水艦基地となっています。

 

この2隻も、実は海洋業務群所属となります。

「ひびき」と「はりま」は、海洋業務・対潜支援群の第1音響測定隊所属。
こちらも謎のベールに包まれた「音響測定艦」となります。
命名基準は「灘」。

音響測定艦だから「ひびき」をつけることを前提に、灘に決まったんでしょうね。

ちなみにこういう特化した名称の軍艦を持っているのは日本国自衛隊だけで、
例えばアメリカ海軍では単に「海洋監視艦(Ocean Surveillance Ship)」だそうです。

こちらももちろん潜水艦探知を行うわけですから、日頃の訓練においては隣の潜水艦群とは
「天敵」ということになります。

潜水艦基地があるので、音響測定艦も敷設艦もここ呉に置かれているのだと思うのですが、
対潜部隊の隊員と潜水艦隊員とは仲が悪い・・・なんてこと、あるのかな(笑)

護衛艦「あぶくま」と訓練支援艦「くろべ」。

訓練支援艦とは、対空射撃訓練支援用の艦で、無人標的を射出する役目です。
先ほどの「しらゆき」は練習艦として最初の女性艦長が就任しましたが、
こちらは1990年に最初の女性自衛官が通信士として乗り組んだ自衛艦であり、
「しらゆき」より5年も前に、同じ女性隊員が艦長になっています。

「しお」型潜水艦の横を通りかかったら、舷門で番をしている海士くんが
こちらから盛大に自衛艦旗を降るのに答えて手を振ってくれました。

「わーい!手を振ってくれてる!」

喜んで一層大きく旗を振り回すわたし。
気がつくと、右舷側に一列に座っている中国軍も手を振ってました(笑)

ただし向こうからはきっちり双眼鏡でチェックされていたようです。

ところで今更気がついたのですが、自衛艦旗って基本航行中は掲揚だけど、
潜水艦は揚げなくてもいい、となってるんでしょうか。

X舵(左)と十字舵(右)。

「はえー」という感じで我が日本軍の艦艇群に見とれる中国軍団。
独裁国家である貴国の軍には、軍施設を気前よく外国人に見せる度量はまずあるまい(笑)

ちょうど潜水艦基地の前で船が向きを変えた頃、夕日が沈み始めました。

船のデッキ後方には船上で振るための旭日旗の小旗が用意されています。
当然ながらわたしとTOは一本ずつ手にして、人の姿が見えると振りまくっていたのですが、
案内の方からは

「自衛艦旗降下のときには振らないでください」

と前もって注意がありました。

中国人たちはわたしたちが旗を振るのをまじまじと見ていましたが、
さすがに自分たちが手に取ることはしませんでした。

「むろと」の艦首では、艦首旗降下の用意です。
艦首旗は日没と同時に降下されます。

「いなづま」は海曹二人で降下を行うようです。
旗の降下に当たっては、自衛艦旗はもちろん艦首旗も、それを扱う者は必ず
作業服から制服に着替えて行います。

このとき初めて知ったのですが、このようにたくさん艦艇があるところで
自衛艦旗の掲揚降下を行うとき、合図を出す役割の艦艇があります。
その艦が揚げるのが、この黄色とブルーの旗。

これをなんというのか、説明があったのですが聞き逃してしまいました。
この旗の動きを見て、「時間!」という、とか決まっているのでしょうか。

ちなみに、マストに上がっているのは代将旗。
掃海隊群司令、護衛隊群司令又は練習艦隊司令官たる1等海佐の乗り組んでいる自衛艦に揚げられます。

「かが」の後方に差し掛かるとき、降下の準備が整い、合図を待つ状態でした。

「いなづま」の乗組員は皆上陸してしまったのですか?

「かが」の後方を船が差し掛かったとき、「じか〜ん!」と
声がかかりました。
たくさんいるので、どこの艦艇の声が聞こえてきたのかはわかりません。

「かが」の甲板にはさすがに何人か人がいるんだろうなあ。 

「うみぎり」には呉阪急ホテルで二回も半熟卵を乗っけた「うみぎりカレー」を
食べたという関係で、大変親しみを感じております。

オランダ坂の上には当直士官がやはり白い制服で立ち、格納庫には
作業服の隊員たちが敬礼をしているのが確認できます。

着替えるのは旗を扱う三人とラッパを吹く人だけでいいみたいですね。

「ドーソードードーミー ドーソードードーミー
ミーミーソー ミーミーソー ミードミソーソミードドドー
ソーソソソーソー ミードーミードー (繰り返し)
ドーソードードーミー ドーソードードーミー
ミーミーソー ミーミーソー ミードミソーソミードドドー」

おなじみの喇叭譜「君が代」が、軍港中の艦艇、それこそ
小さな掃海艇から巨大なヘリ搭載型護衛艦に到るまで、呉軍港中の艦艇から
少しずつずれて聞こえてきました。

 

わたしのような人間にとって、これを至福の時と言わずしてなんというのでしょうか。
呉においては、海軍がここを文字通り「作って」以来、ごくわずかな間をのぞいて、
同じ場所で、同じ時間に、同じ旋律が1日2回連綿と奏でられてきたわけですから。

ちなみに現在でも海上自衛隊で使用されている「君が代」は明治28年に制定された
信号喇叭譜の第一号「君カ代」と全く同じものです。

 

余談ですが、これに対し、陸空自衛隊は警察予備隊ができた時

「旧軍のものは一切使用しないで、新しい感覚で」

と念を押されて急遽警視庁音楽隊によって作曲されたものを使っています。
元東音隊長の谷村征次郎氏によると、これは

「毎日国旗の掲揚降下をする習慣がなかった陸軍出身者ばかりだったので
あまり抵抗がなかったものと思われる」

ということですが、旋律の出来そのものについては作った本人がのちに

「まあおざなりのものを作ったがあれだけは今でも気が咎めてならない。
あれは旧に復するべきと思う」

と言っていた(−_−)とも著書に書かれています。

陸上自衛隊 ラッパ君が代

さて、あなたはどうお感じになりますか?

ちなみに陸軍で演奏されていた時、「君が代」は今の海自のテンポよりかなり早かったそうです。

「ドーミドー」

自衛艦旗降下終了です。
「しまゆき」には降下と同時に電灯が点きました。

そして港に帰ってきた頃、「てつのくじら」のフィンが光っているのが見えました。
夜になると「てつのくじら」は識別灯を点けるんですね!

その晩は「五十六」で夕食を取りました。

たっぷりのシラスが乗った冷奴(木綿)とか。美味しかったです。

おまけ*帰りの飛行機から見えたこの可愛い島は・・?

 なぜかこの日はすぐ近くに「風の塔」が見えました。

 

みなさん、呉に行ったら、ぜひ夕呉クルーズに!
旧軍からの海軍伝統を体感できるこの艦船めぐり、熱烈おすすめいたします。

 

 

初夏の味覚・鮎料理と明王院の太鼓回し

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表題とは関係ないのですが、息子が今学校で募集したボランティアに参加していて、
その写真が引率者から送られてきたのでちょっとご紹介します。

場所はカンボジア。
プロジェクトは現地の家族のために家を建てること。

一週間で、しかも経験のない青少年が作る家というのも驚きですが、
ボランティアに家を建てて欲しいと申し込む人もいるのだそうです。

作業はリヤカーで建材を運ぶところから。

現地の大工さん?に作り方を指導されながら。

窓がつきました。
ガラスをはめるのか、網戸かはわかりません。

日中の作業の合間には、現地の人々との交流活動が持たれたようです。
説明はありませんでしたが、古老の知恵を知る会、みたいな?

地元学校への慰問もあり、すっかり仲良くなって最終日には泣いてしまう子もいるとか。

しかも家は予定より一日早く落成したとか・・・。
落成祝いに新居をデコレーションし、家族に引き渡し。
家を受け取る家族は祖父母と息子夫婦と孫という構成だそうです。
男たちは畑を耕して糧を得ているものの、貧しくて家を建てられませんでした。

ボランティアは今週で終わり、息子は羽田に帰国してきますが、話を聞くのが楽しみです。

 

さて本題、初夏の味覚、鮎を楽しむために京都に行ってまいりました。

まず前日夜、とある小料理屋が企画した「蛍を見ながらハモ鍋」のお席に。
坪庭に130匹の蛍を放つために前もって客から「蛍基金」を募り、
窓に乱舞する蛍を見ながらお酒と鍋をいただくという企画です。

水を打つたびに蛍の光が窓の外を乱舞する様子は大変風情がありました。

「こんなに一生懸命光っても、メスはこの中に1匹もいないんだよね」

「・・・で、目的を果たせないまま・・・」

「なんで蛍すぐ死んでしまうん?」

「そのセリフは禁止!」

その晩は市内のホテルに泊まりました。
ホテルの前にあった元小学校。
廃校になってしまった後も、趣のある校舎は市民のコミュニティの場として、
企画展を行うスペースやカフェになっているそうです。

校庭では盆踊り大会も行われるとか。

向かいの幼稚園跡では清掃局が資源物の回収を行っていました。

さて、この日は朝からレンタカーで郊外に遠出することになっています。
四条の角にあるレストラン菊水の建物、角の窓が昔は鏡だったんですよねー。

この日借りたのはアウディ。
国産の小型車に比べると、随分出足が鈍いなという印象でしたが、
京都の小路を走る時に威力を発揮しました。

で、市内を走ったのですが、京都ナンバー、特にタクシーの運転マナーがひどい。

関東ではウィンカーを出したらたいていの車は前に入れてくれますが、
京都の車は逆にスピードを出して、間に入れまいと前の車との距離を詰めるわけ。

右折するために車線変更しようとして3台の車にそれを立て続けにやられ、
こちらはウィンカーを出す車を普通に前に入れていたら、
先導してくれるはずの地元の人の車とあっという間にはぐれてしまいました。

まあナビがあったのでなんてことないんですけどね。

目的地となる料亭の横には神社があり、そこの境内に車を止めました。

これが本日鮎をいただく予定の料亭「比良山荘」でございます。
料亭の前の溝には清流といってもいい綺麗な水の流れが走っていました。

夏は鮎、秋は松茸、冬は熊料理がここの売り。

まずは冷たいジュンサイの一品が出されました。

「あの人ジュンサイみたいな人ですね、っていうことがあるらしいですね」

「してその心は」

「捉えどころのないというか、ようわからん人というか」

「少なくとも褒め言葉ではないね」

八寸では”なれ鮨”、筍や梅の蜜煮など。
右下は鯉こくの卵部分でしたが、これが意外なくらい鯉という感じがしませんでした。

ハモの焼き物(焦げ目が香ばしくてまた美味しい)と鯉の洗い。
弾力があり噛み応えのある刺身でした。

そしていよいよみなさんお待ちかねの鮎。

箱の蓋をとると、竹の木片を燻す煙が立ち上り、皆は一斉に歓声をあげました。

一人3匹づつ、と言われて、皆熱いうちに我先にと箸を延ばします。
実はこの前の晩の蛍ナイトでも鮎が出されたのですが、うちのTOは頭を残し、
女将さんに

「鮎の頭残すなんて勿体無い!」

と怒られ、わたしが彼女に

「明日の鮎では頭も食べるように、ちゃんと見張っておきます」

と、とりなしたという前振りがありました。
しかし、ここにきて鮎の頭を残すなんてことは、罰当たり以前に
本当に鮎を食べたことにすらならないのだと、彼も実感したようです。

鮎は器と趣向を変えて次々と出てきます。

頭から齧る鮎は、ほろ苦さはあっても、さっきまで清流を泳いでいたため、
コケ臭いなどということは全くあり得ません。

ひたすら清浄で、パリッとした皮の下に馥郁たる香りの柔らかな白身があり、
それらの食感も手伝ってえも言われぬ至福の味わいです。

同行した同好の士は、わたしたち夫婦をのぞいて全員が日本酒をガンガン飲みながら
盛んにうまいうまいと口の端に乗せながら鮎を楽しみました。

メンバーはその業界では誰でも知っている IT関係の会社の社長とその社員や、
Nのつく銀行から民間に出向し京都生活をエンジョイしている人などで、
つまりやたら口の肥えた美味しいもの好きの飲兵衛さんばかりだったのですが、
その人たちが一様にボキャ貧となって(笑)ひたすら鮎にかぶりついています。

結局、一人が大ぶりの鮎を7匹ずつ食べたことになるのですが、
誰も多いといったり残したりしませんでした。

そしてメインイベントというべき、シメの鮎ご飯登場。
板さんが直接土鍋を持ってきてくれます。

焦げ目がついているので後から乗せたものかもしれません。
ご飯には炊き込んだような味がついていました。

頭と尻尾を取ってしまい、(ご飯には頭は入れない方がいいらしい)
身だけをご飯に混ぜ込んでいただきます。

お味噌汁は鯉こく。
お汁の表面に脂が浮かぶほど、脂が乗っている身はとにかく甘かったです。
ご飯の美味しさは言わずもがな。

デザートがまた一風変わっていました。
木の芽の味のアイスクリームの上に、甘みのない道明寺を乗せて一緒にいただきます。
赤い実は山いちご。

部屋の床の間には、清流を泳ぐ鮎の姿が描かれた額がかけられていました。

掛け軸の下にはガラスの熊さん。
これはこの比良山荘の冬の名物が、熊肉の料理であることからです。

「クマー?」(AA略)

最初に聞いた時にはびっくりしましたが、冬眠前の熊は美味しいらしいですね。
ここでは熊鍋のことを「月鍋」(月の輪熊の月)と称するそうです。
この辺りの熊は害獣でもあるので、肉や漢方薬の(胃とか)材料にするために
年間に決められた数を捕獲することが許されています。

同行の方々はこういった味覚を求めて、年に何度もここに足を運ぶのだとか。

 

食後は一同で近隣の神社仏閣に足を向けてみました。
まずこの料亭の隣の「神主(じしゅ)神社」。

狛犬さんの苔むし方が神社の古さを物語っております。

案内によると、貞観(じょうがん)元年、つまり859年の創建だということで、
なんと1158年前にできたことになります。

貞観というと富士山が噴火し、貞観の大地震が起こったという頃ですね。

この社殿は文亀2年(1502)の建立ということですが、重要文化財と言いながら
祭礼が行われている様子がなく、神殿も舞台も虫食いだらけになっていました。

「こんなので大丈夫なんかね」

「保存しようってつもりが全く感じられませんね」

ここで神楽などしようものなら、床を踏み抜くか、天井が落ちてきても不思議ではないような・・。

近くの渓流には足を水につけたり、山菜採りをしている人たちがいました。
この川は琵琶湖に向かって流れていく上流にあたります。

話を聞いた時はなんとなく京都だと思い込んでいたのですが、実は滋賀だったのです。

地主神社はこの奥にある「明王院」の鎮守だということで、
ここにもお参りさせていただくことに。

寺の鎮守が神社って、普通のことなんでしょうか。

手水を使おうとして体長2mくらいの蛇がいたのでびっくり。
どうも蛇は水を飲みにきていたようです。

「蛇は不動明王の使いだっていうね」

そういえばここは「明王院」・・・・。

本堂にもその周辺にも人の姿はなく、見学者は照明のスイッチを自分で点けます。

歴史ある寺院らしく奉納されたされた古くからの板絵を見ることができます。
右側の色褪せた合戦の絵は延長か延喜か・・・。
とにかく、鎧をつけた武士が合戦をしていた頃に奉納されたもの。

右で鬼と相撲取りが首に縄をつけて引き合いをしている絵は、
万治2年(1659)に奉納されました。

左は安政2年(1855)、京都の井筒屋小兵衛という人の奉納。
美術品のように保存をする気もないらしく、掛けっぱなしにするうちに
次第に描かれた絵が消えてしまった右側の額は、人々の服装から平安時代のものです。

これもほとんど消えかけていますが、天保15年(1844)の寄進。
元号が変わる頃、変わった直後に行われた奉納が多いのですが、気のせいでしょうか。

本堂の片隅に、時間があれば写経を行ないお納めください、というコーナーがありました。
ただし、持って帰らないように、とのことです。

本堂の床が、こういう無数の傷跡のようなもので覆われているのに気づきました。
まるで鎌倉彫の表面みたいです。

明王院は「葛川太鼓回し」という儀式を行うことで有名なのだそうです。

太鼓をとにかくぐるぐる回すのですが、太鼓の胴を床に付けてはいけないとか。
よくわかりませんが、回すだけ回したら上にお坊さんが乗って床に飛び降りるらしいです。

回廊の外側に太鼓回しに使う太鼓が収納してありました。

隣のラック?には回しすぎて縁が破れた御用済みの太鼓が。
きっと歴史のある(太鼓回しの初代太鼓とか)ものに違いありません。

なんのために太鼓を回すのか?

というとそれは修行のためらしいです。
なぜそれが太鼓でなくてはいけないのか、とか、
太鼓とは叩いて音を出すものだと思うのだけど、なぜ叩かず回すのかとか、
疑問をいい出したらキリがないのですが、そういうことも含め、地元には
理由については詳しい話は伝えられていないようです。

わたしとしては最初にやりだした人の単なる思いつきだった、に1和同開珎。


無理やり最初の話題にこじつけると、息子の学校のボランティアにも特に理由はありません。
そこに助けを求めている人がいるから、わざわざ飛行機でカンボジアまで行き、
一週間を費やして家を建てる意味があるのです。たぶん。

というわけで、初夏の鮎を楽しんだついでに、比叡山の僧の
伝統の荒行(ってか奇習)を知ることになった小旅行でした。

 

 

 

 

 

 

米海軍サブマリナーの肖像 その1

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「潜水艦のふるさと」を自称するコネチカット州グロトン。
海軍潜水艦基地に併設されたサブマリンミュージアムには
伝説のサブマリナーを紹介するコーナーがあります。

以前、わたしは敵銃弾に傷ついた自分の収容を拒んで潜行を命じ、
壮烈な戦死を遂げた「グラウラー」艦長、ハワード・ギルモア中佐について
一項を費やしてお話ししたことがあります。

このコーナーではギルモア艦長の遺品も見ることができます。

銀縁のメガネ。
アメリカ海軍の軍人が眼鏡をかけていたというのはちょっと意外です。

指揮刀とベルト、そして中佐の階級がついた肩章。
サブマリナーの徽章もおそらく艦内に残されたのでしょう。

戦死した二人と傷ついた艦長を艦橋に残し、今潜行して行く「グラウラー」想像図。
潜行を命じたギルモア艦長は苦悶の表情を浮かべて最後の瞬間を迎えます。

ここニューロンドンの潜水艦基地にあった潜水学校の同級生と。
1942年、中佐の戦死直前に撮られたもので、階級章から判断すると
真ん中の人物がギルモア中佐ということになります。

さて、それではそのほかにここに名前を残しているサブマリナーを
紹介していきます。

 

ジョン・フィリップ・クロムウェル大佐 
Jhon Phillp Cromwell 1901-1943 

軍機と共に艦に残ることを選んだ司令官

潜水艦隊司令としてクロムウェル大佐が座乗していたのは

旗艦「スカルピン」 USS-191

ギルバート諸島攻略のための「ガルバニック作戦」に参加したスカルピンは
艦長フレッド・コナウェイ中佐の指揮のもと、1943年11月、
トラック諸島へと哨戒を開始しました。

「スカルピン」はレーダーで探知した船団を民間船と思い込み追撃しましたが、
実はそれらは日本本土へ帰る軽巡洋艦「鹿島」と潜水母艦「長鯨」、
その護衛の駆逐艦「若月」と「山雲」だったのです。

「山雲」による猛烈な爆雷攻撃によって「スカルピン」は漏水し、
おびただしくソナーも破壊されました。

コナウェイ艦長は、生存のチャンスを得るために意を決して浮上し
決死の砲撃戦を挑みますが、「山雲」からの初弾が「スカルピン」の
艦橋に命中して艦長以下幹部が戦死。
最先任となった中尉が艦の放棄と自沈を命じ、総員退艦が行われます。

しかしクロムウェルは、日本軍の捕虜になった時に自分の知っている
最高機密情報が敵に渡ることを良しとせず、C・G・スミス・ジュニア少尉以下
11名の乗組員とともに艦に留まりそのまま艦の運命に殉じました。

 

「スカルピン」の生存者はその後2隻の空母、「冲鷹」と「雲鷹」に分乗して
日本本土へ連行されたのですが「冲鷹」に乗艦した20名は12月2日に
「セイルフィッシュ」 (USS Sailfish, SS-192) の雷撃で沈没した際に19名が死亡し、
残る1名は通過する日本軍駆逐艦の船体梯子を掴んで救助されました。

ちなみに現地の説明には「山雲」という単語は全く見られません。


リチャード・H・オカーン少将
Richard Hetherington O'Kane 1911-1994

敵撃沈記録歴代一位の艦長

オカーン少将はギルモアやクロムウェルのように戦死したわけではありませんが、
艦長として乗り組んでいた潜水艦「ワフー」が自爆してその後捕虜になり、
終戦まで大森捕虜収容所に収監されていました。

「ワフー」が沈んだ時、オカーンは突如現れた日本海軍の駆逐艦に
果敢に攻撃をを加えていたのですが、発射した魚雷が戻ってきてしまい、
(そんなことあるんだ)自分で自艦を撃沈してしまったのです。
これが本当のオウンゴールってやつですね。

爆発の瞬間オカーンはコニングタワーのハッチを閉めたため、
そこにいたオカーン始め15名が助かりましたが、全員が艦とともに沈みました。

この時のイメージがイラストで表現されていました。
オカーン艦長を含むコニングタワーの生存者たちが、
爆発の煙がどこからともなく漂ってくる艦内で
脱出の準備を行なっているところです。

しかしこんな経験をしたら人生観が変わるだろうなあ・・・。 

 

潜水艦長としては 敵船団の真ん中に位置して前後の船を攻撃するなど
革新的ないくつかの運用戦術を開発し優れた戦果を挙げ、撃沈した敵船舶の総数
24隻総トン数93,824トンは大戦中のアメリカ潜水艦艦長の中でトップです。

戦後帰国したオカーンはトルーマン大統領から名誉勲章を授与されました。

戦後は潜水艦畑で教官職も務め、潜水艦部隊の指揮官として
数多くの勲章を授与されています。

死後、アーレイバーク級駆逐艦の28番艦には彼の名誉を讃え、

オカーン(USS O'KANE DDG-77)

とつけられました。
潜水艦一本だったご本人には駆逐艦は少し残念かもしれませんが、
潜水艦には人名は命名基準となっていないので、仕方ありませんね。 



ジョージ・レーヴィック・ストリート三世
George Levick Street III  1913−2000

「サイレント・サービス」


ストリートという単語は普通ですが、この名字は珍しいですね。

ストリート三世は戦死してないし捕虜にもなっておりません。
ただ、指揮官として優秀で、たくさんの日本の船を沈めました。

Silent Service S01 E11: Tirante Plays a Hunch

 

この「サイレントサービス」という一連の映画は、実写と演技を織り交ぜ
ドキュメンタリーのような作りで大戦中の潜水艦を語るシリーズです。

実話かどうか知りませんが、捕虜にした朝鮮人が英語でお金を要求し、
その代わりに日本軍の情報をペラペラ喋ったという設定で、これは実写らしい
「ティランティ」が「白寿丸」を攻撃する様子が映っており、
一番最後にはストリート艦長と副長のエドワード・ビーチがゲスト出演してます。

このシリーズは海軍省の制作によるものですが、ストリートは
番組制作に技術顧問という形で協力していました。 

イラストは戦闘中潜望鏡を覗き込むストリート艦長の勇姿。 

ストリートは86歳で亡くなりましたが、遺言によって遺体は火葬され、
遺灰は海に散骨し、残り半分はアーリントン国立墓地に埋葬されました。


ヘンリー・ブロー
Henry Breault 1900-1941

仲間を救うために沈む艦内に戻った下士官

肩書きも何もないのは、彼が士官でもましてや艦長でもなく、
潜水艦勤務の一水兵だからです。

 

ブローという名前はおそらくフランス系であり、ヘンリーではなく
アンリであったのではないかとも思うのですが、それはともかく。

ブローは潜水艦という兵種ができて最初に乗り組んだ海軍兵士です。
1900年の生まれで17歳の時、「Oクラス」潜水艦の5番艦、
「O-5」(SS-66)の乗員となりました。

彼の肩書きにはTM2がつきますが、これは「トルピードマン2」の意です。

1923年、O-5は潜水艦隊、O-3  (SS-64) 、O-6  (SS-67) 、
およびO-8 (SS-69)を率いてパナマ運河を横断していました。

その時同海域をドック入りするために航行していた蒸気船「アバンゲイレス」が
操舵のミスを起こし、 O-5に衝突してしまいます。
衝撃でO-5は右舷側のコントロールルームに近くに10フィートもの破孔ができ、 
メインのバラストタンクが破損しました。

艦体は左舷側に向かって鋭角に傾き、そして右舷側に戻り、
その後艦首部分が先から13m海中に没します。

蒸気船はすぐさま救助活動を行い、指揮官を含む8名を海中から拾い上げました。
彼らのほとんどは上層階にいて素早くハッチを登ることができた者でした。

近くにいた船舶も救助を行い、何名かを救い上げましたが、
O-5はわずか8分後に沈没。
掬い上げられたのは16名で、艦内には魚雷発射係であるブロー始め、
機関長のブラウン、そしてさらに3名が残されていました。

爆発が起きた時、ブローは魚雷発射室で作業をしていましたが、
ちょうどラッタルを登ろうとしていたところでした。
素早くメインデッキに抜けたブローは、そのとき機関室で
ブラウンが仮眠をとっていたことを思い出しました。

彼は機関長の所に戻り、とっさにハッチを閉めて海水の流入を防ぎました。
そのまま登っていけば艦を脱出できたのにもかかわらず。

ブラウン機関長は目を覚ましていましたが、総員退艦の命令が出たのを
全く知らず、呆然としていました。
二人の男たちはコントロールルームを抜けて艦尾を目指しましたが、
前部電池室にも海水が入ってきていて通り抜けることはできません。

彼らは水かさが増す魚雷発射室を通り抜け、バッテリーがショートして
誘発を起こさないようハッチを閉めながら進みました。


サルベージ作戦と彼らの救出作業はすぐさま始まりました。
ココ・ソロの潜水艦基地からは現地にダイバーが派遣されました。

生存者の反応を求めてダイバーは艦首から順番に艦体を叩いていきましたが、
魚雷発射室に来た時、中からハンマーで艦体を叩く音を確認しました。

当時は現代のような潜水艦の救助設備がなく、方法というのは
クレーンか浮きを使って泥から艦体を引き上げるしかなかったので、
その時にたまたま近くにあったクレーンを使ってダイバーが艦体の下に
ケーブルを渡し、それを持ち上げるという方法がとられました。

しかし、一度ならず二度までもケーブルが破損し、救助は難航します。
全ての関係者が不眠不休で必死の作業に当たった結果、10月29日の深夜、
事故が起こってから31時間後に、O-5の艦首は持ち上がり、
魚雷室のハッチが開けられて二人の男たちは生還したのです。

ブローは名誉勲章、海軍善意勲章、防衛庁の勲章、救命勲章などを授与されました。

米国の潜水艦O-5における事故の際に発揮された勇気と献身のために。
彼は自分の命を救うため艦外に脱出することをせず、
閉じ込められた乗員の救助のために魚雷室に戻り、魚雷室のハッチを閉じた。

彼が栄誉賞を受けた時の大統領カルビン・クーリッジ(写真)はこう言って
彼の英雄的な自己犠牲の精神を称えました。

 

 

続く。 

 

アメリカ海軍サブマリナーの肖像 その2

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コネチカット州グロトンにあるサブマリンミュージアム。
かつて叙勲されたサブマリナーの顕彰コーナーで見た
サブマリナーをご紹介しています。


冒頭にあげる絵を描くのに、各個人の写真を検索するのですが、
最もご本人がかっこよく見える写真を選ぶと、
海軍兵学校時代の写真や若い時の写真になってしまいます。

というわけで、イケメンだった若い頃の画像になってしまった

 

ユージーン・B・フラッキー
Eugene Bennett Fluckey

「ラッキー・フラッキー」

フラッキーというのは「ラッキー」を含む縁起のいい名前ですが、
実際にも彼は「ラッキー・フラッキー」と呼ばれていました。

上の「メダルオブオナーギャラリー」の中央に掲げられたのは
彼が艦長だった潜水艦「バーブ」の対日戦「戦果」です。 

93歳まで長生きしたことだけでもかなりラッキーな人生だったようですが、
それよりアメリカ海軍的には、フラッキーが潜水艦長として
その撃沈した敵船舶(つまり日本の船ということになりますが)
の総トン数が歴代一位ということがそのあだ名の由来のようです。

日本軍では撃沈の統計を取りその順番をつける、
という習慣がないのですが、 アメリカでは潜水艦でもこのように
トン数、隻数でランクをつけため、戦果を水増しするために
ありえない名前の日本駆逐艦をでっち上げる事例も起こりました。

ただでさえ確認が不正確になるので、戦時中の成績と戦後の
双方の資料で検証した実数が違ってくるのは当然のこととなります。 

フラッキーの撃沈した総トン数は

16 ⅓ 隻(4位) 95,360トン(1位)

なのですが、戦時中は

25 隻 179,700トン

となっていました。
ちょっとこれ・・・あまりに違いすぎません?
どちらも二倍とは言わんが、それくらい水増しされているではないの。

ちなみに総撃沈隻数で1位とされているのは前回紹介したリチャード・オカーンで、

24隻  93,824トン

こちらも1980年に再調査されるまでは31隻、227,000トンとされていました。


ところで、フラッキーが総トン数で1位になった理由というのは
ちょっと考えてもわかりますが、撃沈した船が大きかったからです。

フラッキーが艦長を務めた潜水艦「バーブ」は5回の哨戒で
数多くの輸送船を撃沈しましたが、大型タンカーを含み、
空母「雲鷹」がその中に含まれていました。

1944年9月17日、船団を護衛してシンガポールを出発、
台湾に向かう「雲鷹」に「バーブ」は艦尾発射管より魚雷を発射、
艦中央部と艦後部に命中しました。

雲鷹の生存者約760名は護衛艦に救助されましたが、乗組員約750名、
便乗者約1000名のうち推定900名が戦死。
艦橋にいた艦長や副長は脱出したものの艦長は行方不明となりました。

 

フラッキーは「バーブ」を指揮して樺太で上陸作戦も行なっています。
1945年7月22日、乗組員で上陸部隊を編成し樺太東線に爆薬を仕掛けて
16両編成の列車を吹き飛ばしたというものです。

Silent Service S01 E26: The Final War Patrol

例の潜水艦ドキュメンタリーシリーズ「サイレントサービス」では、
18:30あたりからこの作戦について語られています。
爆薬を持ったまま転んだ隊員を皆がそろそろと引き起こす様子がリアル。 

この作戦は、第二次世界大戦中唯一の、潜水部隊による上陸作戦でした。

上陸作戦のためにフラッキー艦長は艦のあらゆる配置から志願者を募りましたが、
ボーイスカウト出身者を特に選んで編成したという話です。

なお、この番組の最後にはフラッキー(この時は大佐)本人が出演しています。

フラッキーは、名誉勲章を叙勲されていますが、上陸作戦に対してではなく、
以下のような作戦の成功に対するものでした。

 

彼の指揮するバーブは落命の可能性とアメリカ軍軍人としての
義務の限度を乗り越えて大胆かつ勇敢な攻撃を行った。

1月8日、フラッキー中佐は2時間の夜間戦闘で敵の弾薬搭載船などを撃沈したあと、
1月25日には大胆にもナンカン・チャンの港沖に集まる30隻の敵船の
真っ只中に乗り入れるという偉業を成し遂げた。
この海域を抜けるには1時間は見積もる必要があり、
また暗礁や機雷の存在も考えられたが、彼は

「戦闘配置!魚雷発射用意!」

の号令を出して(略)弾薬船は周囲をも巻き込むほどの大爆発を起こした。
バーブは高速で危険水域を抜け出し、4日後には安全水域に艦を移動させた。
英雄的な戦闘行為の締めくくりを、日本の大型貨物船撃沈で締めくくった。
アメリカ海軍はフラッキー中佐と彼の勇敢な部下に対し、
ここに最高の栄誉を与えるものである。 

 

ローソン・パターソン・ラメージ
Lawson Patterson Ramege

「隻眼のサブマリナー”レッド”」


ラメージはアナポリス1931年組、同期にはマケインがいます。
赤毛の人がほとんどそう呼ばれるように、彼のあだ名も
「レッド」であったと言います。

赤毛が喧嘩っ早いというイメージは確かにあるような気がしますが、
ラメージはイメージ通りだったようで、アナポリス時代、
喧嘩が原因で(どんだけ派手にやったのか・・)右目を傷つけ、
そのため極端に視力が落ちてしまいました。

片目だけの視力でまず失われるのは距離感だといわれます。
飛行機はもちろん、潜望鏡で外界を確認する潜水艦でも
視力が悪いのは大きなハンディとなるのですが、運の悪いことに
ラメージの志望は潜水艦乗りでした。 

適性検査では視力が原因ではねられてしまいますがどうしても諦められません。
強く願えば神に通じるというべきなのかどうか、視力試験前に、

彼は視力検査表を間近で見ることに成功しました。(偶然だぞ)

そこで検査表を暗記し、右目のための検査カードを、
あたかも右目で見るふりをして実際には両目で見て

念願の潜水艦配置に合格しました。
このことはとご本人が後から白状したんだそうですが、
これ実のところ、偶然なんかじゃなく、わざわざ見に行った、
つまり故意犯だったんじゃないかと激しく疑われますね。

結果良ければで、のちに名潜水艦長になったから
こうして後から笑い話半分の英雄譚みたいに本人も吹聴してますが、
もし潜水艦艦長になった後、視力が原因による大きなミスが起っていたら、
おそらく本人はこのことを墓場まで持っていったに違いありません。

潜水艦長として潜望鏡を覗くとき、彼は自分なりのコツを編み出し、

「焦点は常に近接に合わせた。
そうすれば、弱い方の目で観測しても目標を完全に観測することができた」

というイマイチよくわからない方法で任務をこなしていたようです。 

「グレナディアー」「トラウト」に続き「パーチー」艦長になった彼は、
 1943年、「途方もない潜水艦の波状攻撃」を日本のミ11船団に対して行いました。


この時ラマージは艦橋に陣取り、大胆にも艦を浮上させたまま船列の間に割って入り、
至近距離から19本の魚雷を発射するという前例のない攻撃を行いました。
日本船はこれに対して備砲で反撃し、ついには体当たりを試みています。

「炎上する日本船の合間を縫って、冷静にシーマンシップを発揮し、
魚雷と砲撃で礼を返した」

彼はのちにこの時の交戦についてこう語りました。

 

ポール・フレデリック・フォスター
Paul Frederick Foster 1889−1972

「史上最初に敵艦を撃沈した潜水艦長」


わたしは戦史というものを、あくまでも客観的に見ることをモットーとして
どんな事例も扱っているつもりなのですが、このサブマリナーシリーズなどで
日本の船を沈めて、その成績がトン数で1位だの隻数で1位だの、
その数で勲章をもらったりしている事例を調べていると、
正直決して穏やかな気持ちでいられず、なんとなく胸のざわめきを感じるのは、
これはもう日本人として致し方ないことだとだと思います。

そして、たとえば前回お話しした、

「軍機を守るために艦と運命を共にしたクロムウェル艦長」

の乗っていた「スカルピン」の生存者42名が、「冲鷹」と「雲鷹」に分乗して
日本本土へ護送される途中、冲鷹は「セイルフィッシュ」 (USS Sailfish, SS-192)
の雷撃により撃沈されてほぼ全員が死んでしまったわけですが、
この事実に対して、ザマアミロとかいうタチの悪い感情まで行かないまでも、
少なくとも「因果応報」という言葉を思い浮かべずにはいられないわけです。


ちなみに「山雲」に撃沈された「スカルピン」の生存者は当初42名。
護衛していた大型輸送船「龍田丸」を撃沈したカタキであったことから
(龍田丸は乗組員便乗者約1500名全員戦死)海上の彼らに対して
「冲鷹」乗組員は報復しようとしたのですが、艦長がそれを制止しています。

その「冲鷹」が米潜に撃沈されたのは、艦長の命令によって救助した潜水艦乗員に対し、
艦上でコーヒーとトーストを与えた直後のことであったといわれます。


さて、長々と何が言いたいかというと、このフォスター中将は
そのメダル授与の功績が対日戦ではないので、少なくとも
この微妙な感慨を持たずに済む、ということです(笑)

フォスターが名誉勲章を与えられたのはなんと

ベラクルスのアメリカ占領(1914年)

での功績に対してでした。

トランプが大統領になって「アメリカファースト」のスローガンのもと、
メキシコ移民を防ぐための壁を作るの作らないのという話もありましたが、
アメリカとメキシコというのは、昔から隣同士で色々ありましてね。

仲が悪い隣国同士で、経済力の低い方が高い方に移民としてなだれ込み、
それが問題になる、というのも世界各地で共通の事例です。

メキシコ革命の時には、アメリカの水兵がタンピコでメキシコ兵に拘束された、
というタンピコ事件がきっかけとなり、アメリカ軍が出動、
戦闘ののち、ベラクルスを半年間占領するという事態になったことがあります。
ちなみに、タンピコ事件でメキシコは、アメリカに一応謝罪したにも関わらず、

「誠意を表すために星条旗を掲揚して21発の祝砲発射を行え」

とさらに威圧され、頭にきてその要求に従いませんでした。
これをアメリカは攻め込むきっかけにして占領までしてしまったのです。

いやこれね、アメリカさん、もしかしてメキシコが従わないのをわかっていて、
こんな無茶な条件を突きつけたりしてません?

左から4番目のすらっとしたのがヴェラクルスの時の少尉だったフォスターです。 
メンバーは USS 「UTAH」 (BB31)の乗員で、この戦いの時フォスターは
「ユタ」の砲撃を指揮しました。 

フォスター左


海軍兵学校卒業後、フォスターが乗務した潜水艦はUSS G-4(SS26)。
第一次世界大戦ではUSS AL-2(SS41)でドイツのUボートを撃沈し、
これが初めて敵艦を撃沈したアメリカの潜水艦となりました。

つまりフォスターは「初めて敵艦を沈めた潜水艦艦長」だったわけです。 

 

その後は軍関係のブレーンとしてルーズベルト政権のために働き、
終戦後中将として海軍を引退しました。

 

サミュエル・デイビッド・ディーレイ
Samel David Dealey 1906-1944

「サブマリナーズ・サブマリナー」サブマリナーズサブマリナー」


彼にはたくさんのあだ名がありました。

「トルピード・トタン・テキサン」(魚雷を持ったテキサス人)

「デストロイ・キラー」(駆逐艦ゴロシ)

そして、

「サブマリナーズ・サブマリナー」、潜水艦乗りの中の潜水艦乗り。

それほどまでに潜水艦に乗っているのが似合っていた男。
ということは、日本の艦船をいやっというほど沈めたということでもあります。

彼が指揮した潜水艦「ハーダー」の通商破壊作戦における武勲は目覚しく、
最も輝かしい5度目の哨戒では、駆逐艦2隻(「水無月」と「早波」)を撃沈、
ほか2隻を大破させた功績によって、名誉勲章を授けられました。

「潜水艦乗りの中の潜水艦乗り」らしく、ディーレイ艦長は
潜水艦に乗ったまま、壮烈な最後を遂げています。

 

1944年8月、「ヘイク」とともに哨戒していた「ハーダー」は、
民間船の護衛で付きそう第22号海防艦と第102号哨戒艇を発見しました。

 

第22号海防艦に潜望鏡を発見されたので「ハーダー」は魚雷を3本発射。
しかしいずれも脇ををかすめ、逆に海防艦から攻撃を受けます。
海防艦は爆雷を投射器から12個、軌条から3個「ハーダー」に向けて投下しました。

やがて攻撃地点から多量の噴煙や重油、コルク片が浮かび上がりました。
潜水艦「ハーダー」が15発の爆雷全てを浴び、撃沈された瞬間でした。


ディーレイが1943年に授与されたネイビークロス。

1945年8月22日、彼の功績に対して名誉勲章が与えられましたが、
授与式で勲章を受け取ったのは未亡人と三人の小さな子供達でした。

 

このとき「ディーレイ」を撃沈した第22号海防艦と第102号哨戒艇は、
いずれもその後、大東亜戦争を無事に生き残ったということです。

 

 

 

 

掃海艇「つのしま」〜阪神基地隊初訪問

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阪神地区在住であった時には、自衛隊基地が比較的近くにあることなど
夢にも考えたことがありませんでした。
呉地方隊の管轄でもあり、阪神地方の防衛基地である阪神基地隊に、
今回初めていく機会があったのですが、住んでいた時には通り過ぎるだけだった
この地域が実際にどんな様子であるか、生まれて初めて知ることになりました。

伊丹空港から空港バスで阪神甲子園、(関西の人間なら誰でも知っている球場前の駅)
そこから魚崎まで阪神電車、駅からタクシーと乗り継ぎます。
車上から見る景色が、工場しかないのにまずびっくり。

「宮水」といってこの地方には酒造に向いた上質な水が出ることを、関西在住の子供は
何かと聞かされて育ち、大関や白鹿の名前に聞き馴染みがあったりするわけですが、
この辺にも「灘の酒造」として「菊正宗」「月桂冠」などの酒造会社が並び、
わたしなど、目を丸くしながら、今更のように「灘五郷」などという教科書の言葉を
思い出したりしていたわけでございます。

そんな工場街を海に向かって進んでいくと、突如現れる阪神基地隊。
警務分遺隊もあります。

渺茫という言葉がつい浮かんでしまいました。
ここにこんな基地があったんですねえ・・。

 

この日の主眼は掃海艇の見学であったわけですが、
見学の前に掃海隊司令によるレクチャーが行われました。
わたしのように多少知っている、という者は同行者の中では少数派で、
ほとんどの人が「掃海」という業務について全く知らないも同然なので、
掃海業務の歴史と現在についてをざっと説明したこの講義は、
皆にとっても有益であったはずです。

ただ一つ、わたし自身が調べたこととの相違がありました。

初期の機雷として、アメリカ独立戦争の時に使われたものを

「ブッシュネルの浮遊機雷」

として図まであるのですが、ここで散々()お話ししたように、ブッシュネルのは
「タートル」であり、彼がイギリス軍に見つかった時に、

「トルピードだぞ!」

と言いながら爆発物を流したのでそれが「魚雷」の語源になった、
という事実はあるものの、この図の機雷はブッシュネルのものではなく、

「インファーナル・マシン」(地獄のマシン)

と呼ばれていた浮遊機雷で、ブッシュネル作ではありません。

 

まあ、説明している方も割とどうでもいいことなのであっさりと通過しましたし、
ましてやここにいる皆が間違って覚えたとしても問題はないと思ったので、
最後まで何も指摘しませんでしたが。

さて、解説が終わり、皆で岸壁に移動です。

コンパクトな基地なので、レクチャーが行われた建物から外に出て、
駐車場を横切り、防波堤を越えればもうそこは岸壁。
見えているのは阪神高速湾岸線。

昔よく車で通った道ですが、こんなだったんですね。

ここには「すがしま」型掃海艇3番艦の「つのしま」がいます。

岸壁には艇長と機関長が案内のために待機してくれていました。

停泊中の自衛艦なので、艦首旗(国旗に似ているけど似て非なるもの)
が揚がっています。

「すがしま」型掃海艇は1996年から8年間にわたって12隻建造されました。
いずれも船体は木製で、米松などの素材からできています。

 

最新型の「えのしま」型からは FRP素材になり、木製の船を作れるような
「職人」もいなくなっていることから、次級の「ひらしま」型とともに
最後の木製掃海艇群となるのではと思われます。

掃海艇は自力で接岸、離岸ができることは、何度か乗艦して確かめましたが、
そのための水噴射式「バウ・スラスター」が喫水線に見えています。

機関長にあとで伺ったところ、水の噴射の力バランスを変えることで
動きを調整することができるのだという説明でした。

噴射する水はもちろん海水を吸い込んで吐き出す方式です。

乗る前に岸壁で大変目を引いたリヤカー。

これ、どう見ても配備されて一週間以内だろっていう。

さて、乗艦しました。
ここからは見えませんが、マストには星一つで上下にラインのあるの隊司令旗が揚がっています。

今日は信号旗のラックにはカバーがかかっています。
風力計は両舷ともにゼロ。

艦橋のCICにやってきました。
掃海艇の場合は、CICが操舵室であり電信室でもあります。


自動操縦もできるということですが、ボタンやスイッチなどの佇まいは
護衛艦などに比べるとアナログっぽいなという感想です。

操舵を行う舵輪は、今やこんなにコンパクト。
この前には、止まり木のような椅子が設置してあるので、そこに座って
この写真を撮ってみました。

「昔はものすごく大きなものだったんですよ」

見学者は二手に分かれ、一方は艇長が、わたしたちのグループは
機関長が案内をしてくださいました。

機関長は昨年の夏からここに勤務しているそうです。

掃海艇の艇長席は赤と青のツートーンカラー。

かたやこちらは赤の隊司令席。
隊司令はマストに旗が揚がっていたように、二佐の職です。

掃海艇は触雷を避けるために木造の船体であるわけですが、
艦橋内にも極力木製のものを採用しているせいで、
何かオールドファッションな雰囲気です。

正面の黒板は、訓練予定とその日の必要情報を書き込むもので、

0930 神戸港出港

1115 明石海峡通峡

などとスケジュールが掲載されています。
あとは天候と潮の高低、そして「ネザ」「チョリザ」「ミザ」など、
海自お馴染みの呪文を書く欄があります。

この日は休日で稼働はしなかったはずなので、翌日の予定でしょうか。

巨大な補給艦も、イージス艦も、そして掃海艇も。
使っているジャイロレピータの形と大きさは皆同じです。

これ自体がコンパスなのではなく、マスターコンパスは大抵別の場所
(下の階)に設置されています。
そこからレピータの方に信号が送られてくるようです。

船内の火災、ガス、浸水などの以上を知らせるパネル。
赤が火災で、ブルーは浸水だろうと思われます。
ブルーのボタンは最下層階にしかありません。

紙の海図がチャートデスクの上に広げてありました。
阪神基地隊のある東灘近隣の地図であることがわかります。

左下に突き出している島には神戸空港があります。
今回神戸空港利用も考えたのですが、1日の就航数が少ない上、
阪神基地隊までの所要時間は伊丹と変わらないことが判明しました。

見学モードなので、一般人にわかる説明が掲示されています。

簡単にいうと

ペルシャ湾での掃海を通じてそれまでの掃海艇の短所を痛感したため、
その問題点を克服せんと、企画設計されたのが「すがしま」型である

と書かれています。

情報処理装置である

NAUTIS-M   NAUTIS-M1

の搭載によって、核装備武器を一元的に統括することになったほか、
機雷探知機には

TYPE2093

を採用して精度をあげ、さらにはバウスラスタ、シリング舵の搭載によって
それまで難しかった定点保持、航路保持を可能としました。

かもめプロペラという言葉につい目を惹かれました。
これは船舶プロペラを専門とする会社のことらしいです。

可変プロペラとバウスラスタはここの製品であるらしく、
使用に際しての注意事項が書かれていました。

(変節ダイヤルは一度に10度以上回すなとか)

船の上からみた阪神基地隊全貌。
後ろの長い建物は、隣の工場です。

 CICの見学を終わり、内部の階段を下に降りて、安全パネル上では
士官室となっている艇長の部屋を見せてもらいました。

木製ベッドと机のせいであまり自衛艦の中らしくありません。

甲板に案内されました。
ここには20ミリ機銃、M61バルカン砲があります。
バルカンは製品名で、 GE社のガトリング砲が一般名称です。

「機雷を掃討するためのもので、武器ではありません」

でも、もしそれが必要なことがあれば、武器として使うのもやむなし?

「下に向けると甲板に当たりませんか」

「角度が固定されていてそうならないようになっています」

同行していた一尉がどのように撃つかを見せてくれました。
リングの上に立って、肩とうでを銃身の後ろのホールに当てて、
体ごと移動すると、銃身はグルーっと回転し、
体の動きにつれて砲身も上下します。

アメリカで見た対空砲とこの辺りは全く同じ仕組みです。

銃は誰でも扱えるわけではなく、免許というか資格が要るそうです。

海面にある機雷を撃つ銃が甲板にあるというのは角度的に
狙いがつけにくくないかと思ったのですが、説明によると
バルカンの射程距離は何キロも先の機雷を狙うだけあるそうですし、
しかも1分間に6,000発の弾丸が発射されるというものなので、
それだけ20ミリが降り注げば一発や二発は機雷みたいな
小さな目標にも当たるのだろうと思われます。  

さて、我々はここで甲板を後ろに移動し、掃海具を見ることになりました。

 

続く。

                                                                                  

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