タイトルはここ市谷法廷で行われた
極東国際軍事裁判、通称東京裁判の様子。
先日市谷でこの法廷跡を見学した時に、
偶然同じ位置から撮った写真と並べてみました。
ご覧のように、右側に裁判団の席、左が被告席。
二階バルコニーには傍聴人(おもに被告家族)が座り、
そのバルコニーの下が報道陣の席です。
わたしたちはこの時、この体育館正面の
「玉座」
の壇上に立って全体を見ていたわけですが、
この玉座は当然のことながら、ここが士官学校であった時代には
天皇陛下および皇族方のご臨席を賜るときに使用されました。
この部分に貼られている壁布は、当時のもの。
菊の御紋が入り、さらに意匠は菊(と藤?)があしらわれています。
実に精緻なこの織物、当然ですが手織りです。
「基幹部分は移設に伴い作り変えてしまった」
と言うことで若干感興を殺がれたとはいえ、
このような細部は当時のままです。
この組木の床ですが、どこかで見たことありませんか?
そう、「からくり箱」である箱根細工ってありますね。
この部分は箱根細工の職人の手によるものです。
うちも箱根旅行のときこのからくり箱を一つ買い求め、
たしか「37ステップ」を経て開けるという行程に挑戦しましたが、
行き詰ったときに
そこで放置したまま置いておく人がいて、
いったいどこまで進んだかわからないままになってしまい、
そこから押しても引いてもびくとも動かなくなり、
そのうち部屋の隅でホコリを被りだしたので、
泣く泣く処分しました。
今度機会があったらもう一度買ってきて挑戦したい。
できれば100行程くらいのものを・・・・・・・・・・
・・・・・って、無理?
ところで、この玉座ですが、前回の「見学記」のときに
次回のお楽しみ、と書いた「かいだんのひみつ」について。
この玉座につく天皇陛下のために、この裏部分には
天皇陛下専用階段
があります。
年に何回ご光臨賜るかわからないその機会のために、
わざわざ専用階段を設けているのです。
江田島の海軍兵学校にもやはり玉座がありますが、
確かここに上るための専用階段まではなかったような。
この江田島の兵学校大講堂は、
二階の「貴賓席」に行くためには専用階段があります。
そこは一般の観覧席とは仕切りで隔てられており、
戦後初めて一般人としてここを使ったのが
日本人ではない母親を持つ小沢一郎であった
というのが、なんとも虚しい話です。
因みにこの小沢一郎ですが、田中角栄が
「今朝鮮人の子供を預かってるんだが」と
小沢を指して言っていたことがあるそうです。
さて。
その階段画像もう一度。
といっても、はっきり言って写真では全くわかりませんね(笑)
この階段、実は陛下がそのおみ足をそこに乗せた途端、
膝を動かすだけで勝手にすいすいとその御体を押し上げてくれる
ような仕掛けがなされています。
少し大げさか?
つまり、見た目ではわかりませんが、上って初めてわかる。
階段の踏み板のの中央にわずかな凹みがあり、
さらにほんの少し傾斜をつけてあるのだとか。
それだけ言うからには実際に登らせてくれるんだろうな?
と期待したのですが、本日その計らいはありませんでした。
どうもツアーの参加人数によって上らせたり上らせなかったり、
違うみたいです。残念。
この件で思ったのですが、
どこの世界に権力者の一瞬の移動のためにこれだけの
「匠の技」を気配りにして注ぎ込むような国民がいるかってことです。
しかも、陛下ご本人が全く気付くかどうかもわからないレベルで。
全く、日本人とは「気配りのできる民族」であることだと
つくづくこの階段を見て思いましたですよ。
まあ余は日本人に生まれて本当によかったと思った。
(by夏目漱石)
記念館への入り口から玉座を望む。
この構図、遠近法がいまいちおかしいと思いません?
それは、この床が玉座のある部分に対して傾斜がついているからです。
玉座のある部分を高く見せるためですね。
だからたとえばこの二階観覧席から玉座を見たときにも
ほとんど同じ高さになるように見えるのです。
いやはや、この日本の匠を使った見事なまでの気配り。
というか、このフロアでは球技はできないってことですね。
それだけ気を配った玉座の設え。
極東軍事裁判のときにはここがどうなったかと思います?
なんと
同時通訳席
ですよ。
同時通訳と言えば、このときに通訳モニターとして働いた
日系アメリカ人を描いた大河ドラマがありましたね。昔。
「山河燃ゆ」。
山崎豊子の「二つの祖国」をベースにしたもので、
日中戦争やこの極東軍事裁判が語られます。
児島譲の「東京裁判」では、いよいよ刑言い渡しのとき、
東条英機の部分をアナウンスすることになっていた二世が
文官で死刑はありえないと言われていた広田弘毅の担当に
「死刑の言い渡しを通訳するのは嫌だから代わってくれ」
と頼み込み、頼まれた方が
「俺はビッグネームをやりたいから歓迎だ」
と快く引き受けたので広田に担当を変えたところ、
その広田が誰もが驚く「デスバイハンギング」の判決だったので、
わざわざ代わってまで広田を引き受けたこの通訳は真っ青になった、
というエピソードがあったのですが、その後知るところによると
このエピソードをこの大河では主演の松本幸四郎がやった模様。
今、この大河ドラマの配役を見ていたんですが、
チャーリー(沢田研二)エイミー(多岐川裕美)
マリアン(ヒロコグレース)米人記者(ケントギルバート)
陳美齢(アグネスチャン)
・・・・・・・・。
とくに、このケントギルバートは
戦艦大和の建造について調べていて殺される
なにこれ!
皆さん、これ観たくありませんか?
なんでも当時「史上最低の大河視聴率」だったらしいけど、
今ならかえって視聴率取れそうじゃないですか?
まあ、ちゃんと偏向捏造せずに制作さえすれば、ですが。
えらくモダンですが、反響板です。
冒頭の裁判中の写真と実際の写真をもう一度見比べてください。
裁判中の写真には天井から「吊り照明」がたくさん見えますね。
これは進駐軍、軍事裁判法廷の意向で
「昼のように明るく照明を照らすこと」
とされたので、そのために急設した灯りです。
画面の右側が裁判官席で、その後ろのカーテンを閉めていたため、
そして主にアメリカからは映画の撮影班も来ていましたから、
まるでハリウッドの映画撮影のように過度な照明がされました。
こんな明かり取りじゃまったく足りない!というわけです。
しかしこの過度な照明、夏は大変でした。
何しろ当時、
クーラーがここには備わっていなかった
のですから。
暑さの上に過剰な照明で報道陣は勿論のこと裁く方も裁かれる方も、
うんざりするほどだった、と児島譲の「東京裁判」には
当時の様子が描かれています。
床の組木もその当時のままのもの。
移設に当って、「どうしても使えなくなった」300枚余りは
代替の木に変えたそうですが、それ以外はすべて全部
一枚一枚番号を振って
元の位置にはめることに成功したそうです。
この写真でも傷がちゃんと組木の三枚に亘って
ついている様子などがわかりますね。
つまり、この同じ床の上を歴史的人物たちが踏み・・・・。
と言いたいところですが(笑)
これも冒頭写真を観ていただければわかりますが、
床には傷防止のためか絨毯のようなものが敷いてありますし、
被告人席も階段状のものを増設しているようですから、
実際に歩かれた部分と言うのはあまりないのかな。
ただ、この部分。
わたしが紹介ビデオを見るために座った席の近くですが、
ちょうどこの前から2番目の長椅子の角の部分。
ここに証言台がありました。
各被告が個人反証のときに座った、あの証言台です。
ここに・・・。
さて、ここには写真でもお分かりのようにガラスケースがあり、
そこに実際の資料や写真が展示されています。
判決を終えて出てきた被告たち。
下の写真の階段部分で撮られたものでしょう。
南次郎大将(前列左端)のお髭が立派です。
それにしてもさすがは一国の政治指導者たち。
そのコートをまとって立つ様子は皆堂々として見えます。
とくに元海軍大臣、嶋田繁太郎(南の右)、東条英機、
皆よろしいですね・・・・何がいいんだかわかりませんが。
左に立っているMPは、
オープレー・S・ケンワージー中佐
市谷法廷における被告たちの世話と監視にあたった
この下士官出身の憲兵隊長は、東京に赴任する前にマニラにいて、
あの山下泰文、本間正晴の処刑を見届けました。
「山下は軍人として立派に死んでいった。
わたしも軍人としてあのように死んでいきたい」
二人を畏敬していたケンワージー憲兵隊長の気持ちは
そのまま市谷のA級戦犯たちの扱いに表れました。
彼らを尊敬し、手厚く儀礼を以て接し、時には接見のときに
家族と少しでも長い時間会えるように計らいました。
それを日本人である被告たちがありがたく思わないわけがありません。
被告たちは判決が下り、ケンワージーと別れることが決まったとき
相談して彼に全員の揮毫を贈呈しています。
ここには「東京裁判は無効であり被告は全員無罪である」
と独自の判決書を出したラダビノッド・パル博士についての
少しの資料も見られました。
わたしたち日本人との関わり合いで、
偉大な知識の光明をこの世に遺してくれた。
決してわたしのこの評価は大げさなものだとは思いません。
パル博士がいなかったら、東京裁判の欺瞞性が
戦後の日本に膾炙し、同時に自虐史観から抜け出そうとする動きは
今よりさらに遅れたであろうことは火を見るより明らかだからです。
しかし、そのパル博士がインド代表判事に選出されたのは
ちょっとしたアクシデントによるものでした。
2009年と言いますからごく最近分かったことですが、
パル博士は休暇中の裁判官の穴を埋めるために
短期間裁判官代行を務めた弁護士で、
インド総督府の認める正式な判事ではなかったと言うのです。
これは国内手続きのミスと言うべきだったのですが、
ともあれこの偶然が日本にパル博士を与えることになったのです。
このミスに「神の配慮」を感じるのはわたしだけでしょうか。
この写真は珍しくカラーですが、誰かの(つまり処刑された7人のうちの)
遺族が、GHQにもし見つかったら叱責没収になることを覚悟で
こっそり写したものなのだそうです。
証言台にいるのは広田弘毅元外相のように見えますが・・・・・・。
写真自体は特に変わったものではありませんが、
この提供者の名前を見てください。
森山真弓元法務大臣。
森山元法相は当時津田塾女子大を出て通訳のアルバイトで
極東国際軍事法廷の現場にいました。
翻訳業務中の森山真弓(たん)。
彼女はこの後東京大学に入学し官僚になり、
自民党から法務大臣、文部大臣、内閣官房長官などを歴任します。
どうでもいいことですが、彼女と結婚することになった男性は
「君は飯は炊けるのか」と聞いたとか。
「相撲の土俵に女性を上がらせろ!」とか夫婦別姓とか、
なんだかちょっとフェミ臭いんでわたしはあまり好きじゃありませんが。
下の方に見える黒っぽい板の部分が
「修復不可能」で入れ替えた部分。
入れ替えた部分を本物そっくりにせず、
あえてわかりやすくしているあたりに「良心」を感じました。
市谷見学記、まだまだ続きます。