引き続き、「遥かに故郷を語る 小野田寛郎・酒巻和男会談」
からお話ししていこうと思います。
このタイトルの「遥かに」とは、会談が行われたのが昭和52年で、
場所がブラジルであることからきたタイトルです。
小野田氏は帰国後、日本の喧騒を避けるようにブラジルに移住しており、
酒巻和男氏は戦後、ブラジル・トヨタの輸出業務を経て社長だったころです。
酒巻氏は戦後復員してきた時、しばらく久里浜にある収容所にいてから
故郷(徳島)に帰り、翌年にはトヨタに入社しています。
トヨタを選んだのは、
「自動車産業は将来伸ばさなくてはいけないし、伸びるべきものである」
その中で自分が役にたてばということだったようです。
その頃トヨタは「賠償指定工場」でした。
これは戦後、操業を認める代わりに、工場の重機や工作機械などを、
戦勝国や戦争で被害を受けた国に賠償金代わりに渡すよう
GHQから指定された工場のことで、トヨタの愛知工場がそうでした。
「シナに(工場を)取られるかもしれない」
という状況も覚悟していただったのですが、戦後5年で指定は解除となったそうです。
戦後の日本は酒巻少尉にとって戦争の爪痕で「惨憺たる有様」でした。
久里浜の収容所では、サイパンで軍属として働いていた朝鮮人の団体と
アメリカから復員してきた酒巻少尉らのグループが一緒になったのですが、
その晩、彼らは「我々は戦勝国だ」と言い出し、収容所に対して
要求を通すために騒いであわや暴動という事態にまで発展しました。
その収容所の司令官は、アメリカ人で酒巻少尉と旧知でした。
そこで、どうしたらいいかを話し合って解決したそうです。
その後、横須賀線で東京まで行き、そこから郷里に帰ったのですが、
そこでもまた朝鮮人が自らを戦勝国民だとして肩で風を切っており、
日本人の男とみると見境なく殴ったりひっぱたいたりしており、
酒巻氏も彼らに不愉快な目に遭わされた、ということを控えめに語っています。
●靖国神社に二度入った男
小野田氏はご存知の通り、終戦を30年間知りませんでした。
ちなみに小野田少尉は死んだことになっていたので、昭和20年8月20日、
戦争が終わって5日後に中尉に昇進していました。
胸部貫通銃創で戦死、ということにされて一旦靖国神社に入りました。
終戦時、小野田少尉がルバング島で率いていたのは、3名の部下でした。
昭和25年、部下のうち一人が投降し、その情報で3人が生きていることがわかり、
もう一度少尉に戻して靖国神社を「出されて」います。
その4年後、フィリピンの士官学校の卒業課題で「討伐実習」が行われ、
それに「引っかかって」部下の島田庄一伍長が「やられました」。
射殺された島田伍長は「戦死」扱いになっていますが、このときに
小野田少尉もきっと自決したんだろうということになり、
島田伍長と一緒にまた中尉になって靖国神社に入ったのだそうです。
小野田少尉が発見されたのは昭和49年のことですが、20年間、
ずっと靖国神社に「いた」ということになります。
その2年前、最後までルバング島での「諜報活動」を共にしていた
もう一人の部下、小塚金七上等兵が、こんどは現地の警察隊に射殺されます。
小塚上等兵も戦死扱いとなり、「最後の戦死者」と呼ばれました。
長年の密林生活を共にした部下であり戦友であり親友が戦死した時、
小野田少尉は
「復讐心が高まった。
目の前で30年もの戦友を殺された時の口惜しさなんてものはない」
と後年語ったそうです。(wiki)
酒巻氏との対談では、30年間ルバングで生き抜いてきたことは
「任務を、つまり自分が『うん』といったものを途中で投げるのは
男がすたるようなそういう意地が自分の性質としてありますね。
だけども、とにかく日本がもう一度この島を占領したら、そのときには
いわゆる先遺の諜者として立派に連絡を取りたい。
あの小さな島はいわば飛行機地で、それを秘密裏に取るのが任務ですから。
それまで生きて、島の情報をよく掴んでおくこと。
それまで生きておれ、という任務をもらったことが、努力して
生きながらえた一つの条件ですね。
それからもう一つは、それを持ち続けるために自分が健康だったこと。
もう一つ。
子供の頃は授業は聞かずによそ見して何にでも首をつっこむ、
知識欲の塊みたいでした。
その結果、初歩的、基礎的、原理的なことだけは幅広く知識を持っていたことが、
難関を切り抜けられた頭の方の部分かもしれません」
と語っています。
●なぜ終戦を「知らなかった」か
小野田少尉はルバング島で日本で起こっていることをラジオで聞いて知っていた、
皇太子のご成婚も、東京オリンピックも、新幹線開通も・・・、
しかし終戦だけは知らなかった、というのが帰国後話題になりました。
小野田さん自身、「情報将校として落第だ」と言われたこともあったそうです。
小野田さんがそれを知らなかった理由は、ベトナム戦争にありました。
ルバング島はグアムとベトナムをつなぐ一直線上に位置する島です。
北爆のために、戦略爆撃機B-52がグアムから多い時には17編隊、
すなわち51機も、島の上を飛んでいくのです。
島には南シナ海を500キロにわたって警戒するフィリピン空軍の
レーダー基地もあり、クラークフィールドの空軍基地の防衛を受け持っていました。
そこから出される電波の誘導でB-52がまずグアムからルバングに飛び、
そのあとベトナムに一直線に飛んでいくわけです。
こういうのを日常的に見ていると、戦争は終わっているなどとは
とても思えなかったということと、日本の繁栄は傀儡政権のもので、
満州に亡命政権があると考えていた(wiki)というのがその理由です。
昔、日本政府は満州に愛新覚羅溥儀を皇帝とする傀儡政権を置いていましたが、
小野田少尉の考えたその頃の日本は、そこに戦況不利になった政府が
亡命して「身を寄せていた」というものだったらしいのです。
さて、そんなこんなで靖国神社入りしてしまった小野田少尉、いや中尉。
日本ではもう日本兵はここにはいない、ということになってしまいましたが、
現地の住民は子供ですらその存在を知っていました。
なぜなら、一年に一度あえて姿を現して存在をアピールしていたからで、
その理由は「いることを教えなければゲリラの意味がない」からでした。
投稿のビラが撒かれたこともあったそうですが、それを信じるには
旧陸軍の軍人である小野田少尉には
「戦闘停止の命令が下りたかどうか」
にかかっていました。
なぜなら、小野田少尉は上から「戦争が一時状況不利になっても
三年でも五年でも待て」と命令されていたため、何を見ても聞いても
否定するしかなかったのでした。
●終戦を知ったとき
日本が負けたと知ったとき、小野田少尉の思ったのは
「なんだ、だらしない」でした。
たとえばドゴールのフランスは、ドイツ軍にパッと手を上げて、
お手柔らかに、と頭を下げておきながら実はいろいろと抵抗運動をしていました。
日本だって、敗戦のときにも50万80万人もの軍隊をまだシナ大陸や
南方派遣軍として持っていたのだから、再編すればまだなんとかなる。
もう少し頭を使ってくれてもいいのに、と思ったそうです。
そこで、俺は30年間何をやってきたのか、と拍子抜けした気持ちで、
大統領と会う(先日亡くなったときにNYTがサムライのようだと評した
刀を渡したとき)から、のんびりと川で髭を剃りながら、
「じゃあもうおれの知っているのは南方の気候と牛のことくらいだな」
仕方がないから兄貴の子供を頼ってブラジルでかぼちゃでも作って食おう、
このように思ったのが、その小野田氏がブラジルに渡ったきっかけでした。
日本に帰ることは、なまじそれまで日本の現在の様子を知っていたため、
もはや自分のいるところはないだろうという考えからなく、
いわゆるもう少し原始的なところに行くしかない、と思ったのです。
● 酒巻少尉の終戦
その点、酒巻少尉の迎えた「終戦」は、少し違いました。
いわば戦争が始まったとたんに酒巻少尉にとっては戦争は終わったも同然。
このことを酒巻氏は「我々(捕虜)は4年間先行している」と感じました。
つまり、日本は敗戦後、マッカーサー司令部の指令によって全てが処理され、
いわば日本人全部が捕虜、日本は巨大な捕虜収容所になったような状態になり、
酒巻氏はそれをすでに「シミュレーションしていた」と見たのです。
自分たちが4年前に感じたり、反省したり、止揚(aufheben、アウフヘーベン。
ヘーゲルが弁証法の中で提唱した概念。揚棄(ようき)ともいい、
違った考え方を持ち寄って議論を行い、そこからそれまでの考え方とは異なる
新しい考え方を統合させてゆくこと)してきたことと全く同じことが
日本では行われている、それではたとえ及ぼす範囲が狭くても、
わたしの知る限りのことをなして、日本を再建・復興させていこう。
まずは衣食住から、そして個人から、グループから。
そうすることが数百万の親友、先輩に対する我々の義務であると。
●なぜ将校になったのか
本日画像の元にした写真には、左手に小野田少尉の弟滋郎が写っています。
写真撮影当時小野田氏は曹長で、陸軍経理学校に進んだ弟は少尉と、
兄よりも階級が上となっています。
小野田少尉の長兄敏郎は東京帝国大学医学部・陸軍軍医学校卒の軍医将校、
(終戦時最終階級陸軍軍医中佐)、
次兄・格郎は陸軍経理学校卒の経理将校(最終階級陸軍主計大尉)。
小野田氏が徴兵で二等兵となり「星一つ」つけたとき、次兄に
「おまえ兵隊好きなのか嫌いなのか」
と聞かれたので、
「好きじゃないですよ、好きじゃないけど行かなきゃしょうがないだろう」
というと、幹部候補生の制度で将校になる気はないかと聞かれます。
他の兄弟が全員将校なのでそれもやむなしか、と思う小野田二等兵に兄は
畳み掛けるように、
「なったら軍服を着ている間は本官の将校と同じことをしなければならないよ。
それが嫌だと言うんなら、おまえ、今ここで死ね。軍隊は絶対逃げられん。
またそんなことがあったら親兄弟の面目型立たない。嫌なら死ぬしかない」
つまり、星一つついたときにやる気があるもないもやる気を起こすしかないので
幹部候補生を志願し、ここでも優秀だったので選抜されて
陸軍中野学校の二俣分校に入学したという経緯でした。
●小野田少尉の見た帝国陸軍
ここで少し言い訳なのですが、酒巻少尉の語った海軍のいろいろについては
知らないことは一つもなかったのですが、どうも小野田少尉が
陸軍の戦法について語っていることがいまいちピンときません。
なので、ただ抜粋でお茶を濁します。
「当時の陸軍の戦車の基本は、歩兵が正面でぶつかっているときに
本来使うべき騎兵の代わりに戦車が側背攻撃をするというのが主流だった。
当時の日本の戦車は、日本人が小さいから小さく速かったから、
側面から攻撃するようにということでより機動性ばかりを追求して、
正面突破や戦車戦のできない捜索連隊型の戦車しかなかった。
これは軽装甲で薄い。」
(あれ・・?これって、ヒトマル式のこと?)
「こんなだから歩兵の正面突破、とくに鉄条網の突破に苦労する。
砲兵がないから上海事変の肉弾三勇士みたいな犠牲がでる。
ただ、日本の戦車はディーゼルだったから外国軍に比して成功していた。
ソ連でもアメリカでも火炎瓶放られると燃えてしまう。」
もしかしたら日本の作る戦車はわりとよかったという話でしょうか。
ちなみにこのとき、自動車は当時全然ダメだったのに、飛行機は
結構いいものを作れたのはなぜだろうという問いに、二人は
出発点が同じ頃だったからだろう、と答えています。
ここで司会者が
「末期にソ連のT34とかドイツのティーゲルとか出てきたら、
もう比較になりませんでしょう」
うーん、司会者がなんかすごく水を得た魚のよう。
小野田「大型戦車でしょう。
日本は明治時代にイギリスから払い下げの狭軌(狭いレール)を安く買ったため、
東京の工場で大型戦車を作っても汽車で運ぶことができない。
トンネルや橋梁も通れない、だから大型戦車は(作るのを)あきらめてしまった。」
「第一次大戦の火力戦を見ていて、陸軍大学の教科書には
その戦訓で満ち満ちているのに、陸軍は基本兵制を日露戦争以来
全く変えていない。
傘型散開といって、軽機関銃を中心に狙撃手を二人つけ、10名は置いておいて、
向こうと撃ち合いながらいって、300mまでいったところで突撃という形。」
これも、予算がなくて重火器を後方において損害を少なくする、
というやり方だったそうです。
小野田少尉のおじさんという人は陸軍の技術将校で、
92歩兵砲とか、戦車、対戦車の車載戦車砲を作っていたそうですが、
「おじさんがせっかく研究してもね、今軍隊の予算には砲を作るお金がないんだよ」
といっていたそうです。
陸軍の砲兵火力がないんから昼間の戦争ができないんですね。
見えているから歩兵はやられてしまうので、夜襲しかないんですが、
向敵警戒機で見えないはずなのに機関銃を撃ってくる。
当時、陣地の前に小型マイクを埋めてあるんじゃないかと思って、
夜襲に成功して周りを探してみればその機械を取れるんじゃないかとか
考えたりしました。
それで予備士官の成績のいいのに将校斥候を命じたりするんです。
同じ教育を受けた連隊の一番優秀なのを使っていくしかないんです。
●小野田少尉の「見ていた」日本
小野田少尉はルバング島で新聞もラジオも手に入れていました。
しかし、終戦直後はフィリピンも不景気なので手がかりになるものがなく、
それもまた終戦を知らずに5年過ごす原因になったと言います。
5年すぎると、新聞紙などが落ちているようになり、日本語、英語、
そして中国語の(中野学校に推薦されたのはこの2ヶ国語が堪能だったから)
新聞から情報を断片的に得ては組み合わせて情報を整理するわけです。
これはまさに陸軍中野学校で諜報将校として勉強したことそのものでした。
ただ情報のなかった空白の5年間は、自分の思うようにストーリーを
組み立て、つじつまを合わせてしまったので、その結果
「敗戦」だけがその結論からこぼれ落ちてしまったようです。
小野田少尉はまた、東京オリンピックのときも経過を知っており、
金メダルが少ないとか、水泳が振るわなかったのを
悲しく思ったりしていたそうです(笑)
三島由紀夫の自殺も断片的な情報をつなぎ合わせて、
リアルタイムではありませんが知ったようで、
「どうしてかなあ、これが時代なのかな」
と不思議に思ったそうです。
興味深いのは横井庄一さんが出てきたとき、
兵器がないからってあんなに人間ばかりばらまいていっちゃ、
(戦地に兵隊が)残っているのも当たり前だな、
現にわれわれが残っているんだし、まだ方々にいるんだろう、
それなら心強い。しかし下手やったな、と感じました。
つまり、小野田少尉から見ると横井さんはやりそこなった、
捕まってしまった、と思ったということです。
このころは、小野田少尉に見せるために日本からの捜索隊がわざと
日本の新聞や週刊誌を置いていっていたのですが、それも
小野田少尉は、
「自分に見せるため(つまりおびき寄せて捕まえるために)
操作した情報を印刷したものを用意している」
と警戒していたので、すべての情報を鵜呑みにしていたわけではなかったのです。
●命令解除・投降
小野田少尉が日本が戦争に負けたことを知り、
日本に帰る決心をした経緯は、おそらくみなさんのご存知の通りです。
直属の上官の命令解除があれば、任務を離れることを了承する、
と言ったため、かつての上官である谷口義美元陸軍少佐が、
文語文による山下奉文陸軍大将名の「尚武集団作戦命令」と、
口達による「参謀部別班命令」で任務解除・帰国命令を受諾しました。
左が谷口元少佐。
翌日、小野田少尉は谷口元少佐にフィリピンの最新レーダー基地等の報告をしています。
このあとマラカニアン宮殿でフィリピンに「投降する」という形で
軍刀をわたし、(すぐにそれは返還された) フィリピン政府からは
潜伏期間の「殺人」は戦闘行為であったという恩赦を受けました。
小野田少尉にとっての大東亜戦争はこのとき終わったのです。
続く。