今日はいわゆる終戦記念日。
二人の対談に沿って話してきましたが、この項をこの日に合わせてアップします。
小野田寛郎・酒巻和男対談から、二人が帰ってきたとき、かれらが
日本に「いかに迎えられたか」についてピックアップしてみたいと思います。
対談が行われたのは昭和51年8月29日。
小野田氏がルバング島から日本に帰ってきたのは昭和49(1974)年ですから、
まだ2年しか経っていません。
1922年生まれの小野田少尉は当時54歳で、 ブラジルに農場を持っていました。
対談をまとめた本に掲載されている不鮮明な写真には、
床の間もどきに観音像が飾られた畳の部屋で鍋を囲んでいる両者が写っています。
8月に鍋物、しかも全員がスーツを着ているのですが、対談が行われたのが
ブラジルであり、現地は冬だったわけですね。
酒巻氏はちょうど本日絵の参考にした写真の頃と同じ風貌をしており、
上等のスーツに恰幅のいい体型が、いかにも社長らしい貫禄を感じさせます。
この対談時、酒巻氏は58歳でした。
体型的に酒巻氏の3分の2位にしか見えない痩せた小野田氏は、
白の麻のジャケットの下におそらく赤い花柄のシャツ。
日本でこの格好をして白い靴を履いていたら、完全に
あちらの世界の人ですが、ブラジルで牛500頭飼っている農場主、
と言われれば合点の行くファッションではあります。
両者はこの対談以前にもブラジルで何度か会っており、初対面ではありません。
●日本の敗戦を知って
30年間潜伏したルバング島から羽田に帰国したとき、小野田少尉が
報道陣に聞かれた質問の中に
「戦争に負けたと聞いてどうお感じなりましたか」
というものがありました。
「30年遅れただけで、皆さんが30年前にお感じになったことと同じでしょう」
と小野田少尉が返すと、それ以上聞かれなかったそうです。
30年間、戦後日本の発展とは別の世界で生きてきた軍人に対し、
当然マスコミは、現代の文明や思想から取り残されているはず、
という先入観を持ち、それを裏付ける言葉を引き出そうとしました。
帰国してきたときに「天皇陛下万歳」と叫んだこと、天皇陛下が自分に対し
謝罪されるということを防ぐために謁見を拒否したこと、
30年間の間に現地の警察や軍人、米軍軍人を戦闘活動によって殺傷していたこと、
これらのことからその存在を「軍国主義の亡霊」とレッテルを貼ったうえで
血相変えて非難をする日本人が数多くいたのです。
しかし小野田氏はガチガチの軍国少年であったというわけではありません。
それどころか、予備将校になったきっかけも兄の「ならないならここで死ね」
という言葉ですし、中学校では運動部のことで学校と喧嘩して
ストライキを起こしたり、自由を求めて支那にわたったりという
「当時としては箸にも棒にもかからん野郎」
であったと述懐しています。
酒巻少尉は帰国してすぐ収監された収容所と、また帰郷する途上で、
朝鮮人の横暴を嫌というくらい体験したことから、敗戦の惨めさを
改めて味わったということでしたが、その点小野田少尉は
「戦争で負けて悔しくないのかと聞かれるから、
(日本は)もともと食えないから戦争したんであって、
食う道をひらくために、民族のために戦争をしたんだ、と。
負けて嬉しくはないけれども、みんながこうして復興して
ちゃんと食べられるようになりゃ、目的は達しているんじゃないか。
いまさら負けたものをとやかくいってみたってしょうがない」
ルバング島では負けているとは思っていなかったけれど、後から抜けていた情報が
パズルのピースのように埋まれば、たちどころに「つじつまが合い」、
合点がいったため、そのことにあまりショックは受けなかった、と話しています。
●帰国
酒巻少尉が戦後帰国したときには「捕虜になってきたこと」に対する
反感をぶつけられることは「いくぶんかあった」そうです。
「けしからん、腹切って死ね」はどちらかというと少数で、
マスコミの論調や、酒巻氏宛に送られてくる手紙の7〜8割は
「ごくろうさんでした」「お元気で」という激励でした。
しかし小野田少尉の場合は世論を二分するくらい極端で、中には
「国の予算を捜査と説得に一億円も使わせた」
「戦争はとっくに終わっているのにわざわざそんなところで暴れたりして、
(終戦が)わかっているのに自分勝手にやっていたんだろう」
というものもかなりあったようです。
この二人の違いについて、小野田さんが面白い分析をしています。
「酒巻さんを攻撃した人が(投降しなかった)ぼくのほうを褒めたわけ。
酒巻さんご苦労さんでした、お気の毒でした、という人はぼくが・・
(投降せずに戦っていたことを非難したということ)」
酒巻氏が捕虜になったことを責める人は、小野田氏が戦ったことを褒め、
酒巻氏が捕虜になったことをいたわる人は、小野田氏に
なぜ投降しなかった、なぜ戦い続けた、と非難したというのですが、
これはある意味真理を突いていると思われました。
酒巻氏には手紙での非難以外には直接の被害はなかったということですが、
小野田氏の場合、投書されたりマスコミに言われたりしたことの中には
なぜここまでと心外でならなかった例もかなりあったそうです。
帰ってきてまず病院に検査入院したのですが、もうその翌日には
「おまえは自分の部下を二人も殺してのこのこと日本に戻ってきたか」
「そんなものを匿っている病院は爆破してやる」
などという恫喝や脅迫がありました。
周囲は本人には知らせないほうがいい、と気を遣ったのですが、
当の本人が、そういうのも自分の身のためになり、
これから何かするにあたって注意にもなる、なにも知らずに事が大きくなるのは
困るから投書は隠さないで見せて欲しいと頼んだため、どんなひどい言葉も
全て本人には伝わっていました。
酒巻少尉が帰国したのは敗戦と同時でした。
小野田少尉の帰国の時ほど国民の「自虐症状」は深化していなかったものの、
そのかわりもっと直接的な、「昨日の軍神は今日の戦犯」といった悪意が
日本中に渦巻いていた頃でもありました。
詳しくは語っていませんが、酒巻少尉は極東軍事裁判にも出廷しています。
あの爆笑歴史創作ドラマ、NHKの「真珠湾からの帰還」では、
酒巻少尉が軍事裁判法廷で連合国にむちゃくちゃ糾弾されていましたが、
実際は戦犯どころか、
「ぼくら(捕虜)は極東軍事裁判では弁護団のほうにいたんです」
このことはどの資料にも全く書かれておらず、この対談での
酒巻氏自身の一言だけしかいまだに手がかりがありません。
「捕虜第1号」が、誰の弁護のために出廷していたのか。
そしてもし酒巻少尉がなにか証言したのだったら、何を言ったのか・・・。
●戦後日本の価値観
戦争に負けるとその国はそれまでの価値観が覆され、自虐的になります。
これは日本に限ったことではないのですが、日本の場合それを
連合国によって最初に東京裁判というショーでがつんとやられて、
あとはGHQの統治下で徹底的に刷り込まれたというのが大きかったでしょう。
過去のことは全部悪かった、過去の英雄も全部いけない、というわけで、
戦争に行っただけで「戦犯」と呼ばれ石を投げられたりするわけです。
国家指導者も、戦争にならないように奔走したりした者も指導した者も、
一緒くたに「軍国主義者」。
陸軍などは「陸軍の暴走」の一言でとくに満州での責任のすべてを片付けられる始末です。
そういう、戦後の日本人の手のひら返しのさまも、この二人の旧軍人は
実に冷静な(というか醒めた)目で見ているようでした。
ともあれ小野田少尉は、ルバング島からただ日本だけを見ていたときからは
考えられないくらい、帰国してから不思議な立場に置かれてしまいます。
つまり、
「現在日本で一番悪とされている軍国主義の権化」。
前回も書いたように、小野田少尉はなりたくて軍人になったわけではないし、
兄に言われて予備将校の試験を受けて受かっただけ、つまり
当時の祖国が直面していた国難がゆえに仕方なく軍人になっただけの人です。
帰ってきたときマスコミなどに「プロだから島で生きていられたのだ」
と言われるのには、小野田氏自身大変不満であったそうです。
「プロフェッショナル」というのは本人に言わせると、
「自分の選んだ道を自分の信用を確保するために、そして
明日のパンを確保するためにつらぬくこと」
であり、自分のはそれとはまったく違う、と。
自分は命令が到達しなかったという誤りのために島にいただけであって、
その間不本意ながらそこにおらざるを得なかったにすぎない。
ところが一方的に「小野田さん」にやんやと手を叩き喝采した人は、
その世間の思うところの姿でこれからもずっといろと要求してきます。
あるときは、自衛官上がりのタクシーの運転手と世相について話していて、
今の若い世代はだらしない、もっとスパルタ式にバンバンやればいいのに、
そして戦争前に戻すべきだ、というので
「それは違うよ、昔がよければ戦争に勝ってたでしょう」
というと、怒った運転手に
「あんたそんなことじゃダメだ、小野田さんを見習いなさい」
と叱責されたということもあるそうです(笑)
国家のためにも、何のためにもなっていない島での30年間を過ごし、
あらためて日本社会に戻ってきただけなのに、
なぜ「小野田さん」は特殊な身の持ち方をしなきゃいけないのか、
きれいな、出来た人間のような真似をして生活を誰が保証してくれるのか。
小野田氏の日本に対する不満はそんなところから来ていました。
●自虐する世代
酒巻少尉は、元海軍軍人らしく、自衛隊の呼称についてこういっています。
「先日ブラジルに日本から練習艦隊がきて日本および日系人が歓待して
いろんな行事をしたんですが、”自衛隊・自衛官”をポルトガル語で
何て表現したらいいか困りましてね。
直訳したらブラジル人にはなにかヘンで理解しにくいんです。
結局ブラジル語のナヴィーを使ったのですが」
ちなみに、この時の練習艦隊の自衛官を見て、現地の人が
だらしない、とブウブウ言っていたのだとか。
「制服着てブラジル人の女の子を抱えて歩いていた」
このころの練習艦隊ということは1950年生まれ前後でしょうかね。
むしろ、そんな豪快さんが自衛隊にいたなんて、今の自衛隊の
大人しさを見ているとまったく信じられないのですが。
続けて酒巻氏は戦後レジームの問題についてもこう言っています。
「戦争が終わって
30年も経っておりますのに、日本ではまだ占領下に与えられた
民主主義や憲法の問題もそのままになっております。
こちらのブラジルの日系の方が、日本の学校で君が代を歌うのが問題とか、
日の丸の掲揚がどうとか、えらい問題になっていると新聞で見まして、
多くの人がこちらでは不思議がっておるんですね」
なんということでしょう。
この対談の行われたのは1976年(昭和51)です。
巷に「およげ!たいやきくん」と「ビューティフル・サンデー」が流れ、
ロッキード事件が世間を騒がせていた頃から、40年経っても、
この問題においては日本は一ミリも変わっていないということではないですか。
まあもっとも、占領軍に与えられた憲法を物持ちよく半世紀以上護持し、
いまだに手をつけたら戦争が始まると騒ぐ連中がいるからには
当時もまったく同じだったのには間違いないですが、
わたし自身が全くそんな問題のない学校生活を送ったこともあって、
君が代日の丸問題についてはまだマシだったとなんとなく思い込んでいました。
酒巻少尉は続けて、
「独立国家として国家独自の骨格を作っていただきたいのです。
国家の目標、道標を、お茶を濁した格好で、30年も続いているのです。
これをできるだけ早くやらなくてはいけないというのに、
若い世代の一部の人が、過去の事柄について、
『たとえ一部分のことでも悪ければ全体がダメだ」と否定してしまう、
という問題があります」
と言っています。
この時の「若い人たち」というのは、つまり団塊の世代に相当します。
団塊の自虐が日本をダメにした、とはよく聞くことですが、
酒巻氏も同じようなことをこの時感じていたということでもあります。
●殺していいんですからね
帰ってきて一躍有名人になった小野田氏が悩まされたのは、
どこにいっても日本人が取り囲んでくることでした。
慰霊祭などに行かなければ「あいつは・・・」と言われるから
仕方なく行くけれど、新幹線ではくちゃくちゃにされてしまうので、
専用の車でいって、逃げるように帰ってくる。
地方に行くと色紙を頼まれて明け方までかかって書かなくてはいけない。
出版の見本市のためにパリに行った時も、観光に行くと
そこの日本人が集まってきて次から次へと写真を頼まれて、
誰か一人が「サインしてください」というと、サイン会が始まり、
パリにいるのに観光なんてできないという状態。
ここで小野田さん、今ならたちまちネットに上げられて炎上し、
四方八方から責められていたであろうひとことを口にしています。
(ならルバング島にいたほうがはるかに幸せだった?と水を向けられ)
「第一日本では嫌なことがあってもしゃくにさわるから報復なんて
そんな無茶なことできませんし。
ルバング島ではそれが良かったんですよね。
自分はたしかに殺されるかもしれないけど、しゃくに触ったら
殺していいんですからね。
そういうところに鬱憤のはけ口があったわけです。
日本ではそれができません」
いや、日本でなくても大抵の世界ではそれだめだから(笑)
この対談が、帰国からわずか2年後であったというところに
こういう言葉がまだひょいっとでてくる小野田氏の油断があります。
おそらくですが、程なく氏はこの言葉を永遠に「封印」することになったでしょう。
小野田氏のゴーストライターであった人物がのちに暴露したところによると
●島民を30人以上殺害したと証言していた
●その中には正当化出来ない殺人があったと思われる
●戦争の終結を承知しており残置任務など存在せず、
1974年に至るまで密林を出なかったのは「片意地な性格」に加え
「島民の復讐」をおそれたことが原因である
だそうですが、この殺害された30人の中には小野田氏の言うところの
「癪に触ったための鬱憤ばらし」の被害者、という人もいたのかなあ、と・・。
(; ̄ー ̄A ・・・・・。
それにしてもこのゴーストライター氏、小野田さんとなにがあったんだろう。
●「我、ことに於いて後悔せず 」
酒巻少尉は戦後も、敗戦までの日本にはいま(当時)にはない、
美しさがあったと信じていました。
日本人が素晴らしいと世界に認められる実績の一つとして、
例えば日露戦争における東郷元帥の采配などは、
「歴史の中で二つとない絶対的なものであった」
といいきっています。
素晴らしいもの、素晴らしい人物をたくさん擁する日本を、
戦争に負けたということから全て否定するのは当たらないと。
かたや小野田少尉は帰国時の空港でのインタビューで
「青春を無駄にして悔いはないか」
と聞かれました。
自身は自然の中で自分が「強くなった」ことを感じており、
何の制限も受けずに、肉体的には自然に、頭脳的には
命の取り合いという極限の状況で色々考えながら生きてきたことを
まったく悔いていない、と答えたそうです。
これを負け惜しみと言う人もいますし、先ほどのゴーストライターのように
島民を殺しておいてなんだ、と言う人もいるわけです。
ただ、本人は運命によって与えられたその環境の中で、
「命の取り合い」(殺すか殺されるか)と「命を繋ぐこと」によって法悦を感じ、
またそれゆえに生きてくることができたのだとはっきり言い切っています。
平和な世に生まれていれば選択せずに済んでいた道を、
小野田氏と酒巻氏は歩み、その結果一人は残留兵士に、ひとりは捕虜となり、
残りの人生を「元残留兵士」「元捕虜」として生き、この世を去りました。
どちらも自分の人生には悔いはないと明言しているとはいえ、
この二人がたとえもう一度生まれ変わってきたとしても、
二度と同じ人生を送らずにいられる国であれと祈らずにはいられません。