発表以来大きな反響を引き起こし、映画化、ドラマ化された
「永遠の0」のプロローグとエピローグを覚えておられますか。
あれはたしか終戦直前だった。正確な日付は覚えていない。
しかしあのゼロだけは忘れない。悪魔のようなゼロだった。
こういう出だしで始まる「タイコンデロガ」の5インチ高角砲の砲手の独白によって
主人公宮部久蔵の特攻死が、この小節の最後に語られます。
黒煙を吐いたゼロはいきなり急上昇した。
ゼロは燃えながら上昇し、期待をひねって背面になった。
そして空母上空に達すると背面のまま、逆落としに落ちてきた。
俺たちはなす術もなく、悪魔が上空から降りてくるのを見ていた。
「永遠の0」は、その描写のほとんどを実際の戦記から収集し、
それを一つのストーリーに紬ぎあげるという手法でも話題になりましたが、
主人公宮部が特攻したのち、その遺体を海軍葬で弔うという栄誉で報いた空母の艦長とは、
戦艦「ミズーリ」のウィリアム・キャラハン艦長がモデルであり、
「ミズーリ」の甲板に突入した飛行士は、鹿屋航空基地を出撃した
第五建武隊の石野節雄二等兵曹(乙特飛)であったらしいとわかっています。
作者が、宮部の突入した米軍艦を空母「タイコンデロガ」という設定としたのは、
数多く散華した特攻隊員の、特定の誰か(例えば石野二飛曹)が
宮部のモデルになってしまう、ということを避けるためであったと思われます。
空母「タイコンデロガ」CV-14は、幾度か特攻機と遭遇し、一度は突入を受けました。
最初の遭遇はレイテ沖海戦を支援するために進出していたフィリピンでのことです。
「タイコンデロガ」の航空隊はここで「レキシントン」の航空隊に加わり、
重巡「那智」を撃沈することに寄与しています。
このとき航空隊は、日本機を6機撃墜したと主張しており、それゆえ、
11月5日に特攻機が急襲してきたことを
「The enemy retaliated by sending up a group of kamikaze aircraft.」wiki
(日本軍は 神風機のグループを報復として送ってきた)
と表現しているのですが、戦争に報復もへったくれもあるか、って気もします。
これが彼らの言うように報復だったのか、あるいはその前から計画されていた
特攻作戦だったのかは、もはや知るべくもありません。
日本側の資料によると、この日出撃した特攻機は4機。
左近隊 大谷寅男上飛曹(乙飛)
三浦清三九二飛曹(特丙飛)
白虎隊 道坂孝男二飛曹(丙飛)
住本種一郎二飛曹(丙飛)
の四人です。
この人数の少なさと、二人で一つの隊を名乗っていることを見ても
報復のために急遽結成された特攻隊であった可能性はなきにしもあらずですが。
ちなみに、左近隊の三浦二飛曹は特別丙種飛行予科練習生、
(海軍特別志願兵制度で海軍に入隊していた朝鮮人日本兵・台湾人日本兵)
すなわち朝鮮人日本兵であったということになります。
この日の特攻隊のうち2機は、Combat air patrol (CAP) 、戦闘機による
哨戒網を突破し、さらには対空砲火をくぐり抜けレキシントンに突入しました。
現在これも博物館になっている「レキシントン」には
この日突入に成功した特攻機をほぼリスペクトするかのような
説明を掲げています。
旭日旗に「ライジングサン」というタイトルまでつけて・・・。
これに在米朝鮮人の団体が噛み付かないことを祈るばかりです(笑)
このとき「レキシントン」に2機が突入しましたが「タイコンデロガ」は
運良くこの攻撃から逃れただけでなく「2機の撃墜を記録」しています。
日本側の記録と数が一致しますね。
その後、11月12日から13日にかけての「タイコンデロガ」航空隊の
「tallied an impressive score」(記録された大戦果)
とは次のようなものでした。
軽巡「木曾」、駆逐艦「初春」「曙」「沖波」「秋霜」、7隻の民間船撃沈
その後、サマール沖海戦において「タイコンデロガ」は重巡「熊野」を撃沈しています。
「ハルゼー提督と台風」の項でお話しした、あの台風の被害のときには、
「タイコンデロガ」も同行していましたが、無事でした。
1945年初頭、「タイコンデロガ」は台湾沖まで到達していました。
1月21日正午、空母「ラングレー」に零戦1機が突入。
その僅か数秒後、雲間からもうもう一機が「タイコンデロガ」に向かってきました。
Kamikaze attack on USS Ticonderoga (CV-14) - 21 January 1945
零戦はフライトデッキを通り越し、第25番の130ミリ砲座付近に突入し、
そこでハンガーデッキに達する爆発を起こしました。
映像でもおわかりのように爆発によって炎が炎上した「タイコンデロガ」では、
消火のために乗員が必死の作業を行いました。
キーファー艦長は賢明にも、炎を煽る風を抑えるために艦のコースを変え、
誘爆を防ぐために、幾つかのコンパートメントに注水を命じました。
ダメコンの係に、最後には左舷への注水をさせ、消防士や航空機誘導員たちは
消火をするとともに、炎上している航空機を海上に投棄する作業をしています。
そのとき、新たな特攻機数機が「タイコンデロガ」に向かってきました。
砲手は対空砲でそのうち3機を撃墜しましたが、4機目は対空砲火をくぐり抜け、
右舷側のアイランド(艦橋)近くに激突しました。
写真を見てもわかるように、突入したときの穴から、ハンガーデッキで起こっている
火災のあげる猛烈な黒煙が立ち上っています。
彼のもたらした爆弾は航空機を炎上させ、ここで100人以上の乗員が死亡し、
キーファー艦長もこれによって重傷を負いました。
これほどの被害にもかかわらず、「タイコンデロガ」乗員は14:00には
火災を制圧し、なんとか帰港することができました。
冒頭の写真は、このとき突入した零戦の機体の破片です。
このように、わざわざ日章旗を思わせる額に入れてくれているのは
大変ありがたいのですが、「ホーネット」の艦内の部屋の一部にあって、
わたしのように隅々まで展示物を見て歩くような熱心な見学者でもないと、
目に止めることはまずない状態というのは残念なことだと思います。
この破片は、ノルバート・ケッツアとジョージ・アーネットという
衛生兵の名前で寄贈されたそうですが、どちらの人物もこの日、
この一連の「カミカゼ・アクション」で戦死しているそうです。
激突の際、「タイコンデロガ」艦上に散らばった破片から
乗員が「記念に」持ち帰ったらしい、幾つかのものが展示されていました。
模型は激突したのが零戦であるということを示すための展示です。
日本語の上下がわからないのか、縦向きに展示されたのをちゃんと戻してみました。
バネ巻き上げのネジ部分に付けられていたらしい金具、三菱のマークのプレート。
左の「胴 頭手足」とあるのは文字が擦れて見えません。
乗員の持ち物か、それとも機体の一部だったのか、磁石と、
2機のうち最初に突入した零戦の
「パート・オブ・ライジング・サン」
今日もなお、鮮やかな紅をとどめています。
これはなぜここにあったのかよくわかりません。
妙に新しい感じのする「日向」の水兵用帽子。
このとき、「タイコンデロガ」に突入した特攻機、零戦隊は、
日本の記録によると、全部で6機ということになっています。
「ラングレー」に突入した1機を加えると、アメリカ側の記録、
「2機突入、3機撃墜」
と完璧に数字が合うことになります。
この上で特攻隊の官姓名をあげておきます。
第1航空隊
第3新高隊 川添実大尉(海兵69)
斎藤精一大尉(海兵72)
小川昇一飛曹(甲飛11)
右松岩雄一飛曹(丙飛16)
一航零戦隊 堀口吉秀少尉 (函館高水)
藤波良信飛長(特乙飛)
「ラングレー」に突入したのが一航零戦隊のうち一機で、「タイコンデロガ」に
向かってきた4機は第3新高隊の零戦であろうことはほぼ確実でしょう。
しかし、「ミズーリ」に突入した 特攻機のように、
アメリカはこの日の特攻作戦についてそれ以上の調査を行っていないので、
二隻の敵空母に突入することができた合計三機の零戦が
このうちの誰であったのかは、おそらくこれからも謎のままです。