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地下坑道と大階段〜呉地方総監部訪問

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さて、いよいよ呉地方総監表敬となりました。
後から前日副官にもらったスケジュール表はタイトルが

「広報時程」

となっています。
広報はこの行程を通じて広報担当がエスコートするからですが、
時程とはまた不思議な言葉を使うものです。
「日程」に対する「時程」なんでしょうが、自衛隊には
こうした「自衛隊用語」というものが沢山あるものなんですね。

潜水艦の見学は1300(1345)となっており、これも自衛隊の表記で
13:00〜13:45分のこと。
表敬は1400とあり、わたしたちが呉地方総監部の建物に到着し、
さらに応接室に通された時にはきっちり海軍5分前の13時55分でした。

自衛隊おそるべし。

ところで、せっかくですので今日は呉地方総監部の
歴史的な建物、第一庁舎についてご案内しておきましょう。

 

明治19年、海軍条例が制定され、全国の5つの海軍区に
「鎮守府」が設けられることになりました。

鎮守府とは、艦船と兵を常備し、海軍区を防備する中心機関をいいます。

この写真はその年の11月に起工し、明治22年7月開庁した初代庁舎。
「第二海軍鎮守府」とされ、安芸国安芸郡呉港に置かれました。

煉瓦造りの小さいながら壮麗な建築ですが、16年後の1905年(明治38年)、
芸予地震による震災で庁舎は半壊してしまいます。

2年後、初代庁舎の横に二代目となる鎮守府庁舎が竣工しました。
冒頭の現代の写真と比べていただければ、ほぼ同じですね。
この二代目が現在に続く「呉鎮守府庁舎」でもあります。

その後、ご存知のように昭和20年7月の米軍による大空襲で、
鎮守府庁舎も爆撃を受け、火災が起きて正面玄関上のドームが焼失しました。


 

注意していただきたいのが、写真左側に見える「第2庁舎」。
これは実は地震で半壊した初代庁舎を修理して使っていたらしいのです。
どう見ても初代は2階建てでこちらは平家ですが、
これは震災後修復の際被害の酷かった2階部分を撤去したからです。 

 

さらに不鮮明ながら、焼け焦げが作ったらしいレンガの黒い汚れが見え、
ドーム部分だけがなくなっているのが確認できます。
正面二階部分は御真影室だったはずですが、この写真で見ると
4本のエンタシスからなる装飾の手すりが失われたままです。

 

米軍の爆撃隊は、終戦後の占領を視野に入れて、海軍兵学校、
横須賀鎮守府庁舎、呉の長官庁舎は決して爆弾を落とさなかった、
といいますが、明らかにこのドームを目標に爆撃を行っています。

現に、終戦後11月に海軍官制が廃止になり、呉鎮守府が閉庁した後は、
やはりここをイギリス連邦軍が接収して使用しているのですが。

もしかしたら、爆撃機のパイロットが、

「後で使うから爆撃するなだあ?そんなもん全壊させなければいいんだろ?
俺はあのドームだけ狙ってピンポイントで爆撃してやるぜHAHAHA」 

「お、賭けるか?」

とばかりにゲーム感覚でやったんじゃないか、などとついつい考えてしまいますね。 
さらにはあまり考えたくはありませんが、その下に御真影室であることを
戦前の情報から聞き及んでいて、ただ戦意喪失のためにそこを狙ったとか・・。

爆撃当時御真影はどこかに避難させていたとは思いますけどね。 



ところで、このときいただいた鎮守府庁舎についてのパンフレットによると、

イギリス連邦軍は、占領が終了した後、昭和31年(1956)まで駐留し、
撤退の1ヶ月後に日本政府に変換された庁舎に呉地方総監部が移転した

とあります。

ところがWikipediaでは「1954年移転」とあります。
なぜこんな違いが生じたのでしょうか。 

組織の開庁が1954年であるのは確かであり、この写真が撮られたのも幸町、
つまり呉鎮守府庁舎のあったところです。


ところで余談ですが、進駐軍が「イギリス軍」ではなく「イギリス連邦軍」なのは、
その定義が

イギリス軍、オーストラリア軍、ニュージーランド軍、
イギリス領インド軍から成るイギリス連邦の占領軍

だからです。
イギリス連邦占領軍は、終戦から約半年後の1946年2月に進駐を開始し、
GHQの下で、中国地方および四国地方の占領任務を行っていました。
入船山の鎮守府長官庁舎に司令部を置き、ここを拠点として
地方の武装解除並びに治安維持などの占領統治を行いました。

(この件を調べていて、最初は中国・四国地方を占領統治するのが
中華民国軍の予定だったー組織力がなく中止ーことを知りました。 
公用語英語計画といい、ソ連と分割といい、敗戦後の日本が
これらの危機を乗り越えた奇跡と先人の努力に感謝するばかりです)

このイギリス連邦占領軍も、朝鮮戦争で駐留を延ばしましたが、
結局1952年にはイギリス連邦諸国と日本国との平和条約が締結され、
占領任務は終了し、占領に関わる部隊人員は全て撤退しているので、
つまり、この件は

呉地方総監部のパンフレットの内容が間違っていることになります。

 

 

1981(昭和56)年には初代呉鎮守府の建物が取り壊されました。
おそらくこのカラー写真はその直前のものであろうと思われます。 

そして1999(平成11)年12月。
呉地方総監部庁舎は改修工事を終了し、その際爆撃で失われた
ドームが復元され、今日に至ります。

さて、続いて、前回と今回の呉訪問の際地方総監部庁舎の
敷地内で撮った写真を中心にご紹介していきたいと思います。

確か正面からみて左側にも得体のしれない池があった記憶がありますが、
庁舎の右側にもこのような池がありました。

昔は防火用だった”ため池”なのでしょうか。
そういえば、旧海軍兵学校の敷地内(賜さん館のまわり)にも、
大きなため池がありましたっけ。

未だにそのまま池としてありますが、夏はボーフラがわかないのかと
妙な心配をしてしまいます。

これは、庁舎の左側を回り込んで坂を下っていったところです。
明らかに戦争中作られた防空壕の入り口らしき痕跡が・・。

おそらくこれらは上空から見たとき樹々に遮られて
見えない山の斜面を掘って作ったのでしょう。

この斜面にはこんな入り口がいくつかあり、中は
坑道が張り巡らされていたらしいことがわかっています。 

窓枠をサッシに替えていますがかなり古い建物です。
いろいろ外したり作り直したりしている部分が確認されます。
これも戦前の建築かもしれません。

ところで二階の窓に架けられたはしごの役目は・・?

こちらの赤煉瓦の建物群はどれも明らかに昔からのもの。
爆撃はやはり全く受けなかったようです。

おそらく全て防衛省の所有であり、現在も使用されているようです。

入り口部分をアップにしてみました。
看板の表示が正しければ、被服倉庫として使われています。

こちらは災害派遣用具庫となっています。


建物のそこここをアップにして壁面を見ると、所々にヒビがあり、
耐震性の問題もありそうなので、事務所とかではなく
いずれも用具庫や倉庫として使用しているようです。

建物二階、「運◯」という文字を消した跡が。
建物左側にも「航◯(こちらも読めない)」とあります。

庁舎のちょうど裏側から見ていることになるでしょうか。
ドームの位置を確認していただくとわかりやすいと思います。

この階段は「大階段」と呼ばれています。
今は通行禁止柵が設置されていて使われている様子がないのですが、
庁舎からいわば「表玄関」である港に降りていく道となり、
鎮守府創設当初、明治天皇が港に向かうときのために作られたのだとか。

天皇陛下の御ためなラバこそlこんなに一段一段が細かく、幅が広いのでしょう。

実際は、天皇陛下並びに皇族の方々は、このとき
わたしが歩いて降りた坂道を車で移動されたということですが、
結構急な坂なので馬車はかなり大変だっただろうなと思いました。

大階段を降りきったところが「表玄関」である港であり、
わたしが参加した殉職隊員の慰霊式はこの前の広場で行われたのですが、
そのとき儀仗隊がこの階段の右にあるトーチカのような建物の入り口から出てきました。

ここは戦時中、防空壕を兼ねた司令部となっていたそうです。
儀仗隊は儀仗が済むと隊列をなしてまたそこに戻っていきました。

この斜面を利用した坑道は、戦中は地下工場にもつながっていたと言われ、
そこに入っていくための入り口はまだそこここに残されているものの、
耐震性や安全性の観点から、今では全て埋められているそうです。

儀仗隊が入っていったところは単に待機所であったのか、
それともどこかとつながっているのかはわかりませんでした。

今はやはり倉庫として使われているということです。

 

ところで、前回の呉訪問のとき、大和ミュージアムで見つけたポスター。
大東亜戦争中の呉を舞台にしたアニメ映画だそうです。


ローグワンはもう観たので(息子にせがまれて初日に)、
これを年末にぜひ観にいきたいと思います。

『この世界の片隅に』本予告

 

続く。

 


 

 

 


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