今年も最後の日になりました。
恒例の人物ギャラリーで締めくくりたいと思います。
まずはブログタイトル通り、ネイビーギャラリーから。
酒巻和男海軍少尉
真珠湾攻撃の際、特殊潜航艇に乗り込んでハワイに突入した
10人の士官と下士官のうちの唯一の生存者でしたが、
その数奇な運命を世間の目に曝すことを望まず、ブラジルに移住して
ひっそりとその一生を終えた「捕虜第1号」酒巻和男海軍少尉。
説明のために自ら「捕虜第一号」を執筆したあとは沈黙を守り、
自らについて語ることも、媒体に露出することもしませんでしたが、
ジャングルから帰国してのちやはりブラジルに住んでいた小野田寛郎氏と
現地で対談をしていたことがわかりました。
その本をベースに氏の海軍への、あの戦争への、そして戦後日本への
考えや提言をこのシリーズではまとめてみました。
対日戦で4回目の哨戒において、特務艦早埼と対決した潜水艦「グラウラー」艦長。
負傷した自分がハッチから退避している間に全員の命が危ないと判断し、
ハッチを占める命令を下して自らを犠牲に部下の命を救いました。
この時海軍から彼に出された感状です。
名誉勲章感状
アメリカ合衆国大統領は議会の名において、1943年1月10日から2月7日までの
グラウラーの第4の哨戒におけるハワード・ウォルター・ギルモア中佐の
際立った勇敢さと義務をも超越した勇気に対して、名誉勲章を追贈する。
絶え間ない敵の脅威と対潜哨戒の中をかいくぐり、
ギルモア中佐は果敢な攻撃によって日本貨物船を1隻撃沈し、
その火災によって他にも被害を与え、執拗な爆雷攻撃を回避した。
2月7日の暗闇の中、敵の砲艦はグロウラーへの体当たりを試みて接近してきた。
ギルモア中佐は衝突を避けるために左に舵を切り、
11ノットの速力で敵砲艦に突っ込んで外板を切り裂いた。
沈みゆく砲艦からの機関銃弾を浴びたギルモア中佐は、部下に対して冷静に
艦橋から去るよう命令し、自らは危険を顧みず艦橋に残った。
敵の一斉射撃に屈しながらも最大限の努力を行ったギルモア中佐は、
最後の瞬間に「潜航せよ!」と当直将校に対して最後の命令を下した。
グラウラーは甚大な被害を受けたが、戦死した中佐に闘志をかきたてられた、
よく訓練された乗組員によって母港に無事生還した。
今年の夏、コネチカットのグロトンで原子力潜水艦「ノーチラス」を
見学してきたのですが、「潜水艦のふるさと」でもある
グロトンの海軍潜水艦基地が直接運営しているものなので、
大変充実した潜水艦博物館が併設されています。
その展示の中にギルモア中佐の写真を見つけて盛り上がったのですが、
そんな知識を持ってここを訪ねる人は、アメリカ人にも
滅多にいないのではないかと内心自負しています。
1943年に建造されたフルトン級潜水艦には「ハワード・W・ギルモア」と
名付けられましたが、魚の名前をつけるのが慣例の潜水艦にしては
これは異例のネーミングだとされています。
海軍軍人でありながら冒険家として有名だったバードJr.少将。
アメリカの「ハイジャンプ作戦」には謎が多く、これらについて調べるのは
まるで冒険ミステリー小説を読んでいる気分でした。
戦艦「フィリピン・シー」について調べていたら、これがハイジャンプ作戦に
加わっていたことを知り、芋づる式にバードJr.少将までたどり着きました。
でも、わざわざ取り上げる気になったのは男前の少将が若い時の
ボウタイ姿の写真を見つけてしまったからです(爆)
さて、ここからは陸軍関係となります。
小野田寛郎陸軍少尉
酒巻和男氏との対談をまとめた3編のうちの「小野田さん編」。
小野田少尉の終戦
ただ一人ジャングルで終戦を知らずに過ごした「最後の軍人」
小野田さんは、日本帰国後、他の誰も経験したことがない
不思議な世界に身を置かねばなりませんでした。
世間の人間が小野田さんを見る目は、良くも悪しくも偏見に満ちており、
その半生は、世間が求める「小野田さん像」への抗議と
戦いの日々だったと言えばいいでしょうか。
このころの小野田さんは、実に開けっぴろげにルバング島での
ことを語っており、まだそれほど世論に対して
警戒していなかったのではないかと思わされます。
二人の対談から、二人が帰国したとき、日本は彼らをどう迎えたか、
そして戦後の自虐する世代を二人がどう見ていたかを書きました。
酒巻氏は本当に写真が少なく、参考にできるのが晩年のはこれだけでした。
北本正路陸軍少尉
呉にある海軍墓地で善本野戦高射砲中隊の慰霊碑を見たことから、
日本軍が、ニューギニアの北岸で標高4000mの山越えをしていたことを知りました。
人呼んで「死のサラワケット越え」。
その牽引力として過酷な山越えを偵察を含めて何往復も行った
「マラソン部隊」の隊長は、オリンピックに出場したこともあるアスリートの
北本正路という陸軍軍人であったことを知り、シリーズ化したのが本編です。
戦後は市井の人として慎ましい余生を送ったようですが、今ほどテレビが
思想的に偏っていない時期、
「私は誰でしょう」
という人気番組に出演したこともあったようです。
氏がおそらくその生涯に書いた一冊の自伝には、マラソン部隊の隊長として
選んだ現地人の部下、ラボとの魂の交流が生き生きと描かれています。
ハリー・カツジ・フクハラ陸軍大佐
日系アメリカ人として「二つの祖国」を持ち、対日戦に参加した
軍人は数多くいました。
その通り「二つの祖国」のモデルになったハリー・フクハラ大佐。
やはり小説のモデルになったアキラ・イタミと共に、
日系二世たちの苦悩についてお話ししてみました。
舩坂弘陸軍軍曹
インターネット界隈では「チート」と言われて有名な(笑)
超人舩坂弘軍曹のチートぶりを扱いました。
わたしとしてはその超人ぶりもさることながら、彼の生存の
大きな原因となった、アメリカ海兵隊伍長クレンショーの存在、
そして彼と船坂軍曹の友誼にいたく感銘を受けてこちらを漫画にしてみました。
スナイパーに男性と伍して太刀打ちできる女性をバンバン投入したソ連。
その中からは何人かの英雄が生まれました。
中でも有名なリュドミラ・パブリチェンコ、ローザ・シャニーナ、
クラウディア・カルディナ・エフレモブナ、アーリャ・ モロダグロワ。
この4人を取り上げました。
2000人投入された女性スナイパーのうち戦後生きていたのはその4分の1、
という数字もさることながら、生き残った女性たちもあのクリス・カイルのような
戦闘トラウマに生涯苦しめられたという話もあります。
キャサリン・スティンソン
ここからは女性パイロット列伝シリーズから。
彼女の顔をことさら漫画風に描いたのは、当時のキャサリンが
「ス嬢」という略称で日本におけるアイドルとなっていたからです。
飛行家としての彼女そのものより、日本における、特に女学生の
彼女への熱狂ぶりが気になりました。
それから、横須賀鎮守で、海軍が彼女に献呈した壺が
その後どうなったかがわたしとしては気になります(笑)
エイミー・ジョンソンCBE
栄光に包まれた英国の高名な女性パイロットの墜落死。
彼女は暗号を間違えたため、祖国の軍隊によって撃墜されていた、
というのが最近明らかになったという話を書いてみました。
エイミー・ジョンソンの存在はアメリカではとても有名らしく、
子供向けの飛行家シリーズ本などにはイアハートと並んで登場します。
わたしはこの話で、雪の降りしきる1月5日に、墜落した彼女を
助けるために、軍艦の甲板から単身海に飛び込んで死亡した
海軍軍人の「海の男」魂に何よりも感銘を受けました。
名前のあとに「CBE 」とついているのは、彼女が
大英帝国勲章(Order of the British Empire)
のコマンダー位を授与されたからです。
この勲章を与えられた有名人には、ローワン・アトキンソン、
指揮者の尾高忠明、佐々淳行、スティング、蜷川幸雄がいます。
マリ-アントワネット・イルズ
フランスの飛行家ということで、結婚という形にとらわれない
フランス人気質というものを絡めながら、彼女の
不倫の恋などを語ってみました。
「恋に生き、空に生き」
このタイトルがトスカのアリアをもじっていることに
気付いて下さると嬉しいです。
来年も訪問記の合間にこういった人物を紹介していくつもりですので
よろしくお付き合いください。
それではみなさま、よいお年を。