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午餐会〜幹部候補生学校部内課程卒業式

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江田島の海上自衛隊幹部候補生学校、部内課程卒業式、
卒業証書授与が滞りなく全員に行われました。 

優等賞状授与の後は、

「水交会激励賞」

が水交会専務理事である元海幕長赤星慶治氏によって渡されました。

幹部候補生学校校長の副官は、証書授与の間中横に控えて
一枚ずつ証書を校長に手渡す役目を行なっていましたが、
終了した後の壇上のお片づけも任務です。
彼の一挙一動は満場の注目を集めておりました。 

海自の副官は仕える将個人ではなく、その役職に配置されます。
つまり自分の任期中にボスが代わるということも制度上ありうるのですが、
将の任務の事務やスケジュール調整、面会する相手への連絡など、
マネージャー的な用務を一切取り仕切るという立場上、
その逆(将の任期中に副官が交代する)というのはないと思われます。 

続いて真殿海将補による校長先生式辞。
真殿校長の胸に航空徽章があるのに気がつきました。

前職は八戸の第二航空群司令でいらしたということです。 

村川海上幕僚長による訓示。

ここ呉の経理課長に始まって人事教育部、経理部長、総務課長、
補給本部長と一貫して経理補給畑を歩んできた初の幕僚長です。

呉地方総監池太郎海将。

ここからは「来賓の祝辞」ということになろうかと思います。
池地方総監の「愚直たれ」については当ブログでも取り上げましたが、
この日の壇上においても愚直に、この言葉を繰り返しておられました。

前回ご紹介した写真集「伝統の継承」の前書きには

伝統精神の真髄とするところは「真の正直」である
心に偽りのない徹底した正直者こそが真に強い自衛官であり、
真の勇者になりうる

と書かれていますが、これも池海将が好んで取り上げるもので、
草鹿仁一中将が兵学校校長時代に生徒に向かって語りかけた

軍人として職責のために絶対必要なものは何か
心に嘘偽りがあって迷いがあれば戦いに勝つことはできない
海軍の敢闘精神とは真の正直であることである
正直者こそが真のリーダーになる

という言葉からの引用です。

続いて江田島市長明岳(あきおか)周作氏。
12月に就任したばかりの新市長です。
ちなみに投票率は 68.62%で、当選票数は5976票だったとか。

グレーゾーンなどという言葉を使い、日本が置かれている防衛的現状についての
懸念を市長クラスの政治家がこのような挨拶で述べるのを初めて聞いた気がします。

江田島は、昔から兵学校とともに発展し、ともに生きてきた町です。

「今日ここを巣立っても、何度でもまた江田島の地に帰ってきてください」

市長はこんな言葉で挨拶を締めくくられました。

というところで閉式と相成りました。
来賓の方々の控え室は実は舞台裏にあったことが判明。

卒業生をコの字で囲むように家族が座っています。
家族席には小さな子供がちらほら見られましたが、式典の間、
結構長い時間、子供がぐずる泣き声が響き渡っていました(笑)

おそらく当のお母さんはその間いたたまれなかったと思いますが、
わたしと同行者はむしろ

「家族持ちの多い部内選抜の卒業式らしくていい」

と後で言い合ったくらいです。
それより、マスクせず手で覆わずに咳をしていた人の方が顰蹙だったかな。

式典が終わり、わたしたちは音楽隊が退場した階段(正面から見て右)
を降りて大講堂を後にしました。

講堂の裏階段踊り場天井の照明器具はしゃれていますが、
改装の時に取り替えられた現代の製品のようです。

おそらくこんな写真をわざわざアップするのは当ブログだけ・・
であろうと信じ、あえて撮った階段の上からの一枚。


 

大講堂を出ると、マイクロバスがお迎えに来ていました。
今から昼食会の会場まで移動です。 

大講堂をでて右側にずずーいと曲がっていく道は、
さすがのわたしもこのとき初めて知りました。

建物の入り口が近づいてくると、セーラー服も凛々しい海士たちが
護衛のように立っているのが見えて来ます。

こんなことのために(?)わざわざ正装して待機しているなんて・・(感激) 

会場の入り口から見える斜面に何か石碑があるのを発見したわたしは、
とりあえず後で読もうと写真だけ撮っておきました。

應谷山教法寺跡、とあります。

昔江田島のこの一帯は本浦と呼ばれる大きな干拓地でした。 
今でも古鷹山山麓、旧海軍兵学校を見下ろす地に、
浄土真宗本願寺派應谷山教法寺があります。

寛永12年(1635年)に開山した寺ですが、かつては現在地から
南西に400mばかり下がった位置、つまりここにあって、
当時の広大な境内には、五百人は収容できる大本堂を有していました。 

ところが、建立4年後の明治19年、突然の海軍兵学校江田島移転によって、
寺は立ち退きをせまられることになってしまったのです。

今なら考えられませんが、当時はお上の言うことには何人たりとも逆らえません。
海軍省の通知によって有無もなく、應谷寺はわずか25日の間に
すべての伽藍を解体し、更地として開け渡すことを余儀なくされたのです。

ここに石碑を作ったのは、せめてもの謝罪の気持ちからだったでしょうか。

会場入口となっている建物のロビーで目を引く立派な額。

「櫻花爛漫、か・・・・」

近くにいた男性がつぶやきました。
書道に詳しくないわたしにも、その天衣無縫な筆跡が
只者ではない書家の手によるものだと言うことだけわかります。 

風に吹かれ 空に舞い 海に散り 波に漂ふ

燃えたつ魂と さくら花を抱いた 

愛しき人と いつか会いまみえん この天地にて

白光 書

 

この内容から書いたのは女性ではないかと思ったのですが、
調べてみるとどうやらこれは

柏木白光(かしわぎ びゃっこう)

と言う女性書家の作品ではないかと思われます。
護国寺や靖国神社のためにも書を書いているそうです。

 

エントランスからわたしたちは昼食会会場の4階に移動しました。
ご存知かもしれませんが、自衛隊の建物には一般的にエレベーターはありません。
・・・まあどこかに一つくらいはあるのかもしれませんが、
4階くらいなら司令官であろうが校長であろうが、普通に歩いて登るからです。

靖国神社の本殿もこの度バリアフリー化でエレベーターをつける、
(ので寄付をお願いします)と通知がありましたが、
基本自衛隊には足腰が弱く階段も登れない人は来ない、
という前提で昔も今もやっておりますので、会場の4階まで
階段を登れと言われてびっくりした中高年もいたことでしょう。

・・・あれ?ベビーカーも見たけど、隊員が持ってくれたのかな?

広い会場(多分いつもは学生の食堂)の大体の場所にエスコートの
自衛官が連れて行ってくれますが、あとは自力で
お弁当に書かれた自分の名前を探して座ります。 

将官も来賓も、卒業生とその家族も等しく同じお弁当をいただきます。

我が子や夫の晴れ姿を見るために全国からやって来た家族と
卒業生は前日に水入らずで語らうことができたと聞きました。

卒業生が入って来ましたが、各自が自分の家族と一緒に
テーブルに着くことができるように配置されていたようです。 

国旗と海上自衛隊旗の前には海幕長や海将、向かいにも
ずらっと卒業生が並んでいましたが、この人たちは
なぜ家族と一緒ではないのでしょうか。

もしかしたら、成績優秀者とか?

ただ、上司(しかも一般の会社でいうと社長と重役たちに当たる)
と至近距離で向かい合ってご飯を食べねばならないというのも、
なかなか緊張するというか、大変なことではないかと思われます。

お弁当はお赤飯付き。
乾杯はお茶で行われましたが、向かいの方(酒飲み)は

「味が濃いのでお酒が欲しくなるなあ」

学生長が挨拶を行いました。
体力徽章バッジホルダーの・・・パイロットかな?

わたしはこの写真で初めて彼らの袖章が一般の自衛官と違い、
一本線に錨のマークがあるのに気がつきました。 

爽やかに話し始めたのは良かったのですが
だんだん言葉と言葉の間のタメが大きくなり、ついに

「失礼します!」

とペーパーを取り出して読み始めたのはギャップ萌えでした。

さて、和やかなうちに会食が終了し、卒業生の出発までの間、
元の控え室でしばし休憩ということになりました。

再びバスに乗ると、左回りで赤煉瓦まで移動していきます。
というわけで教育参考館横の特殊潜航艇前を通り過ぎているところ。

同じところで昼食を食べていた卒業生家族は看板を先頭に移動しています。
直接見送りの列に並ぶのかもしれません。

 

左回りで生徒館正面まで来ると、ここには海曹が整列していました。
各々が案内する受け持ちの来客を待っているのです。

バスは生徒館正面入り口のギリギリのところに突っ込む形で停車。
しばしの休憩ののち、いよいよ卒業生の練習艦乗艦を見送る恒例の行事が始まります。

 

続く。


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