最初にここ江田島に来た時には、憧れの聖地を踏んでいること
そのものに胸が潰れるくらいの感動を覚えたものです。
その後なんだかんだで数回もやってくると、当初ほどの感激は
もう感じなくなってきていたのですが、今回は特別です。
写真や映画でしか知らなかった卒業式が、ほぼ昔のままに
行われているのを目の当たりにしたわけですから。
現地でお会いした旧知の元将に、卒業式は初めてだと申し上げると
「江田島の卒業式は本当にいいものですよ。一度は見る価値があります」
ここ江田島を巣立ったそのご本人がこのようにおっしゃるということは、
海自幹部にとってそれは特別なものであり続けているということなのでしょう。
最近の海上自衛官の傾向として、海曹は士官になりたがらないと言われます。
給料はそう上がらないし、転勤が増え、引越しと単身赴任ばかり。
責任も同時に増えて下からの突き上げもある等々の理由だそうです。
この前日、五十六でご一緒した女性は自衛官とお付き合いしているのですが、
その点についての彼女とその彼氏の意見は
「准尉というのが自衛官として最も幸せな人生が送れる配置かもしれない」
ということでした。
んー、わたしにはイマイチわからないのですが、その心は、
幹部のメリットと(士官である)海曹のメリット(転勤がない)
をどちらも持っている、ってことなのかしら。
まあ、ということで、いわゆるB幹部になろうとする海曹は
滅多にいない、などという風評を耳にすることになるわけですが、
実際にそのB幹部、部内選抜の幹部候補生卒業式をこうして見る限り
言われているほどこれが忌避されているようには思えないんですよね。
実際に一定数部内選抜の卒業生がこれだけいるわけですし。
国を守る仕事がしたくて自衛隊に入ったとはいえ、
彼ら一人一人にとってはそれも職業選択の結果です。
彼らがそれぞれ仕事に何を求めるかは千差万別であるのは当然。
海曹から幹部になることを「損」と考える人もいれば、自分の仕事に
損得以外の何か(これは人によって違う)を求める人だっているわけです。
某知恵袋で、海上自衛官の夫がB幹を目指すと言い出したので応援したいが
周りからはデメリットしか聞かない、という妻の相談を見ました。
それに対して、元自衛官であるという回答者の一人が
「そんなことは自衛官であるご主人は当然知っているはず。
幹部を目指す理由はお金の問題だけではないだろう」
と答えていました。
それをやりがいとか挑戦などという陳腐な言葉に当てはめたくはありませんが、
少なくともこの日卒業式に臨む幹部候補生の顔を見た限りでは、彼らが
楽と肩書き(≒お金)を秤にかけた結果ここにいるようには思えませんでした。
海上自衛隊もまた軍隊で階級社会ですから、防大・一般大卒のA幹部と
B幹部の間には厳然たる格差があるのが現実です。
しかし、海上自衛隊は、彼らが士官になるためにここを巣立って行くにあたり、
その門出としての卒業の儀式で彼らを遇する事において
A幹部との間に全く差異を設けていないことにわたしは改めて気づきました。
このことは、海曹の幹部候補生の卒業式というものに失礼ながら
一抹の物足りなさを(兵学校時代の再現という意味で)感じながら
今回江田島にやってきたわたしの考えを変えたと言っていいでしょう。
部内選抜を受けた海曹長たちは、1年間の(ですか?)
厳しい幹部候補生学校での日々を過ごし、晴れて卒業するその日、
ここ江田島で、かつての兵学校と同じで、かつA幹部と寸分変わらぬ、
大講堂での証書授与や表桟橋からの船出という伝統のもとに旅立ちます。
そのことが彼らの士気をどれほど軒昂たらしめることでしょうか。
もし、この卒業式がなければ、一般的に「割りが合わない」と言われる
部内選抜幹部を志す海曹の人数も今より少なかったかもしれない、
とすら全てを見届けたわたしは今思っています。
さて、前回練習艦隊の写真が大変好評だったので、
「しまゆき」が単縦陣の最後尾にピタリと並ぶ寸前のシーン
(つまりわたしが表桟橋で撮った最後の写真)を上げておきます。
コメントにもありましたが、本当に美しい光景だと思います。
「まきなみ」「あさゆき」「しまゆき」
わたしも旧海軍に思い入れる立場から、(というか戦後の”配慮的変更”に
感情的に反発する気持ちから)艦名は漢字でないと!という派でしたが、
こういうのを見ると、ひらかなの艦名っていいものだと無条件で思いますね。
まあ、帝国海軍も艦体に「くか うやし」とか「アキヅキ」とか書いていたしな。
練習艦隊がまっすぐ一列になるかならないかの頃、わたしどもは
担当の自衛官に車に戻るように促されました。
本当のところ、もう少し表桟橋に居たかったのですが、
「混雑するのでその他(家族)の方々はその場にいてください」
というアナウンスを聞いてしまうと、デレデレしていて
彼らを待たせるわけにはいかないという気になり、
急いでマイクロバスまで戻りました。
海将クラスの車だと思いますが、副官が隣に乗り込んでいます。
もし間違いがなければ、これは海軍時代からの慣習のはず。
*・゜゚・*:.。..。.:*・'(*゚▽゚*)'・*:.。. .。.:*・゜゚・*
かつて陸軍の副官は絶対にボスと並んで座ることはしなかったそうですが、
今の陸空はきっと海軍式リベラルでやってるんだろうな。
早々にバスに乗り込んだわたしたちですが、同乗のグループが
なかなか帰ってきやしねえ。
カッターのデリックのあたりも家族の方々は自由に歩き回れるようです。
海曹のグループが整列していました。
ここでも帽振れしていたんですね。
内火艇に乗って出航する候補生たちにすれば、
岸壁一帯からたくさんの帽子が振られるのを見ることになります。
前の車が行ってしまったので、次はこのバスが動きます。
なんども言いますが、ここから赤煉瓦まで歩いても大した距離ではありません。
しかしバスに向かって自衛官が敬礼してくれるという超特典付き。
これだけとっても来賓扱いは堪えられません。
というわけで、赤煉瓦の正面玄関到着〜。
わたしの同行者は、この後小用の港まで送ってくれと交渉しています。
「わたしは全然構わないのですが、上に聞いてみないと」
と運転手の海曹さん。
わたしは当初の予定通り駐車場まで乗せてもらってタクシーでもよかったのですが。
この人が上にお伺いしてくれている間、少し時間があったので
わたしはここぞと玄関周りの写真を撮り始めました。
お天気が良く、絶好の赤煉瓦日和です。
中央玄関のホール。
ホール中央から右手、大講堂がわの廊下を望む。
ため息が出るほど美しい佇まいです。
かつてここを錨のバッジを詰襟につけた海軍兵学校の生徒が
往き交う様子がありありと想起されます。
わたしが熱心に写真を撮っていると、比較的年配の海曹が
建物によほど興味のある来客だと思ったのか(その通りなんですけど)
話しかけて来て説明をしてくれました。
なん年前かに行われた大改装の時に、内部の壁や扉などは全て新しく
取り替えられましたが、もちろん全てではないのだと。
例えば、この部分、正面ホールから木の床部分に上がっていく「たたき」
というべき部分の上のしきりなのですが、
「ガラスをみてください。明治時代にはめられたものが残っています」
いくつかのガラスは透かして見る向こうの物体が歪んで見えます。
「じゃ、海軍兵学校の生徒は全員このガラスを通して外を見ていたんですね!」
説明してくれた人はなんだか妙なことを言う人だみたいな顔をしましたが、
わたしにとってはそのことがどれほどの感慨を呼び起こすか・・・。
左から2枚目以外はオリジナルのガラスだったと思います。
変える必要のない部分はできるだけそのままにしてあります。
改装もできるならば全く内装に手を加えずに行いたいところでしたが、
耐震構造を施す必要があったので、多くの部分を取り替えざるを得ませんでした。
しかし、床は昔のままです。
昔の軍艦の甲板の床がそのまま使われていると何かで読んだことがあります。
この床もかつての海軍軍人たちが(以下略)
正面玄関に立って左を見たところ。
ライトアップのための照明がありますね。
窓にも注目。
窓の木の桟は取り替えられたものです。
窓の下部分をアップしてみます。
花崗岩の窓枠の下部に、切り込みの筋があるのがお分かりでしょうか。
雨が降ったとき、雨水が窓枠からレンガに雨染みをつけないように、
ここを伝うようにする工夫なんですよ。
床下の空気抜きも多分昔のまま。
動物が入り込まないように?網戸のようなネットが張ってあります。
さて、わたしが前回江田島に来たのは、兵学校同期会に同行したときでした。
一般には見せない宮様の宿舎や建築物をみて、ホールで呉音楽隊の演奏を聴き、
いよいよ出発直前、バスは教育参考館と赤煉瓦の間に停まり、
トイレを利用する方はどうぞ、という計らいがありました。
その時、わたしに
「トイレからずっと奥に行ったら『同期の桜』がありますよ」
と教えてくれた人がいて、わたしはカメラだけ持って飛び出し、
トイレに向かって全力疾走して切羽詰まった人と勘違いされた
(に違いない)ということを、ここでもお話ししたかと思います。
結局その時「同期の桜」かどうかわからないままに撮った木は
あとで調べたら違っていたという残念な結末だったのですが、
今回は、もう余裕で(勿論走らずに)中庭を見にいくことができました。
ここまでやって来た(いろんな意味で)ことに感無量です。
もっともわたしも最初からこの写真を撮ろうと思っていたわけではなく、
卒業式が始まるのを待っている時に、ふと思い出して、
去年卒業した幹部の母(知人)に
「今江田島なう」
と「頭痛が痛い」みたいな舞い上がったCメールを送ったところ、
「同期の桜見ました?」
と返事が来たので思い出しただけなんですけどね。
中央ホールから左手の廊下に出て真ん前にあったのがこの桜木。
写真で見たように周りを石で囲んであったのでこれだろうと思い、
母に確かめたらそうだというお返事。
さらに念のため説明してくれた海曹さんにも聞いて見たところ
「そうだと言われていますね」
とのことで、これがあの「同期の桜」決定です。
これが咲いているところを是非見たいものだが、
果たしてA幹部の卒業式の日には咲くのだろうか。
(独り言です)
海曹に小用の港までバスで送っていただき、わたしたちは
呉行きのフェリーに乗り込むことができました。
帰りのフェリーにはある元将の方(前の方々とは別将)が
現在お勤めの会社の社員を多数引率してこられたらしく、
フェリーのデッキから見送りの自衛官に全員で手を振っておられましたが、
後ろで見ていたら元将の方だけは「見えない帽振れ」でした。
親指とその他の指を合わせ、ゆっくり円を描くように・・。
さて、というわけで、江田島で体験した特別な時間、
幹部候補生学校の卒業式の見学記を終了します。
来訪に当たってお世話になりました関係者の皆様方には
この場をお借りしてお礼を申し上げる次第です。
どうもありがとうございました。