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入間T−33A墜落事故〜「コクピットの会話」

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浜松基地のエアーパークシリーズの途中ですが、
このT−33Aにはわたしは非常な思い入れがあります。

このT−33が墜落した事故について、かつて二編に分けて考察し、
エントリにまとめたことがありました。

流星になった男たち 入間T‐33墜落事故 前半

流星になった男たち 入間T‐33墜落事故 後半


いまだに毎日閲覧数の多いページなのですが、これはつまり、
今日もこの墜落事故に興味や関心を持つ人が多いということの表れだと思っています。

この飛行機を前にすると、この二人の自衛官たちのことを思わずにはいられません。
この事故をきっかけに、このT−33は飛行停止処分が出され、ほどなく全機退役しています。

この時には言及に至りませんでしたが、この事故原因は、

漏れた燃料に電気系統からの火花によって着火し、火災が発生したもの(ウィキぺディア)

とされ、パイロットは勿論のこと整備にも責任が無かったとして、
現地警察は容疑者不詳のまま航空危険容疑で書類送検されました。

T−33はロッキード社のジェット練習機で、初飛行が1948年、
墜落した機は航空自衛隊発足の1954年の製造と言いますから、すでに44年もが
経過していたのですが、機体そのものはモスボール(密封したうえ窒素充填し劣化を防ぐ)で
保存されていたため、まだ耐用年数に余裕があったということです。

しかし、この経年が事故原因何の関係もなかったのか、ということについて
わたし自身はかなり懐疑的にならざるを得ません。
当然整備がプリフライトチェックもしたはずなのに、「燃料漏れ」などを起こしているからです。


さて、この二人の自衛官についてのわたしの思いは、この、
特に後半のエントリに集約されていると思うのでそちらを読んでいただくとして。

この事故について色々調べる過程で、ひとつのうっすらとした疑問がわいてきました。

いろいろと資料を見ても、この時殉職した二人自衛官、どちらが主操縦していたかについては
全く言及されていません。
先日観た「タスキーギ・エアメン」では教官が前席に居ましたが、旧軍の練習過程では
必ず練習生が前席に坐り、「後ろから頭を棒でたたかれていた」といいますから、
もしその流れを汲んでいるとすると、「訓練対象」、つまりこの場合の年次飛行消化者は
前席に乗っていたと考えることができます。

(自衛隊の年次飛行についてわからなかったので、推論です)

練習機は前席後席共に操縦が可能なので、この事故を報じる際、「どちらの操縦が」
ということに全く言及されないのだと思いますが、実際はどちらか一人が操舵していたわけです。

ということで、操縦していたのは前席の中川二佐であると仮定して話を進めます。



日常的に操縦していないとはいえ、中川二佐はベテランで、だからこそ
全くバランスを崩し、高度を保つこともできなくなった機体を河原に墜落させるように
ぎりぎりまで操縦し続けることができたのだろうと思います。

わたしの疑問というのは、後席の門屋三佐の脱出の可能性でした。

機を操っている中川二佐はともかく、
門屋三佐はまだ高度があるときに脱出すれば命は助かったはず。
これを何よりも熟知してたであろう中川二佐は、もしかしたら最後の瞬間、
門屋三佐に脱出を促していたのではないか、という疑問です。


疑問が生じたきっかけは、ある元自衛官との会話でした。

管制塔と通信を開始してから、記録が残されているのはイマージェンシーのコールだけです。
わたしはこういう練習機についてその仕組みを知らなかったので、
当初二人は、事故後全くこの間私的な会話はしなかったのだと思っていました。

ところが、あるとき海自の元パイロットとお話しする機会があり、事故に話が及んだので、
このことを聞いてみたところ、この元パイロットは、管制塔との通信とは別に
彼らは同乗者同士で会話をしていたはずだ、とおっしゃるのです。


「その会話は記録に残らないのですか。ブラックボックスのようなレコーダーは」
「ありません」
「じゃあ・・・」
「当然相手に言ったと思いますよ。『先にベイルアウトしろ』と」


その時ふとこんなことを考えました。

二つのエントリで述べたように、事故機は二度のベイルアウト宣言をしています。
一度目は入間川に機首が差し掛かったときでした。

しかしこのときにベイルアウトは行われませんでした。
このことについてわたしは、

「目の前に広がる景色と機の角度から、パイロットが今は機を捨てられないと判断した」

という風に書いたのですが、もし二人の間にこのような会話があったとしたら、
あるいはこう云う風にも考えられないでしょうか。

「一度目のベイルアウトは、中川二佐が後席の門屋三佐に脱出を促すためだった」


高度はその時360m。射出できる高度の限界まであと60mです。
中川二佐はもしかしたらこう言ったのかもしれません。

「お前だけでもベイルアウトしろ。もうぎりぎりだ」

そして、門屋三佐の返事を聴く前に通信をオンにし、一度目のベイルアウト宣言をしたのではないでしょうか。

このときお話を伺った元パイロットは、やはり一人が「先にベイルアウトしろ」といい、
それに対してもう一人は

「そんなこと、できるか」

(実際は階級が下ですから「そんなことできません」だったのでしょうか)
と答えたと思う、とおっしゃっていました。

もしその通りで、なおかつわたしの推測もまた正しければ、ですが、
中川二佐が後席の部下だけを脱出させるためにベイルアウトをコールした後、
門屋三佐は、上官の命令にこれだけは「背いて」、
自分が一人だけ助かるために射出レバーを引くことはしなかったということになります。

ベイルアウトの衝撃が、推進力の失われていた事故機の操舵に与える影響を
あるいは考慮したためだったかもしれません。


そして、中川二佐は一度目のベイルアウトのとき、わたしが当初考えたように

いったんはベイルアウトしようと思ったが状況を見てやめた

のではなく、

門屋三佐だけを脱出させ、自分一人で最後まで機を操ろうとこのときすでに覚悟していた、

ということになるのです。


実際は、コクピット内の最後の会話は誰にも聞かれることなく、二人は死亡しました。
最後に二人がどのような会話を交わしていたのかは永遠の謎となってしまいました。


しかし、考えれば考えるほど、わたしにはこの二人の自衛官が、
どちらもが死を覚悟の上でこのように・・・・・

一人は相手を生かそうとし、一人は相手だけを死なせまいと・・・・

振る舞ったのではなかったかと思えてきて仕方がないのです。



なお、事故機は最後の瞬間高圧送電線に接触し、これを切断したのですが、
これによって停電の大被害はあったものの、もしこの接触が無かったら、
機はその向こうの狭山大橋に激突したことになり、もしそうであれば
確実に通行中の人命が失われていたであろうということです。


中川二佐と門屋三佐は、殉職後すぐに一階級昇進しましたが、その後、
もう一階級ずつ特進して、それぞれ空将補と一等空佐になっています。









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