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Channel: ネイビーブルーに恋をして
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浜松基地エアーパーク〜SVA-9 と「イタリア野郎気質」

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ここエアーパークには、空自の使用機が基本的に展示されていますが、
自衛隊とは全く関係ないけれど、成り行き上飾っている飛行機もあります。

それがこのアンサルドSVA-9で、ご覧になればお分かりのように、
これだけが飛行機黎明期のバイプレーン、つまり二枚羽。
二枚羽の水上機が使われた「紅の豚」の舞台が、イタリアっぽかったことを
つい思い出しますが、このポップな色使いもまた、いかにもイタリアという感じですね。

このアンサルド社は、もともと機械製造をしていたイタリアの会社。
飛行機だけでなく艦船も第二次世界大戦時には作っており、
海軍の「日新」「春日」という同型艦はこの会社の製品です。

1903年にライト兄弟がエンジン付きの飛行機を飛ばしてから、航空機は
まさに戦争の参加をきっかけに大きく進歩していくことになるのですが、
第一次世界大戦が終わり、アンサルドは、航空機の航続距離をさらに
延ばすための開発研究を重ねていました。
そして、その試飛行の目的地となったのが

・・・・・・・・そう、我が日本だったわけです。

実験、というより当時は「冒険飛行」と言った方が実態を表していたのでは
という気がするほどに、長距離を飛ぶのには若干、いやかなり不安を与える機体ですね。

1920年2月14日。

この日はセント・ヴァレンタインの日ですが、ローマから二機のアンサルド・SVA-9
(スヴァと読みます)がはるか極東の地、東京を目指して飛び立ちました。

二機の飛行機にはそれぞれ二人ずつ、フェラリン、カッパニーニ、マッシュロ、マレットの
4人のパイロットが乗り込んでいました。

無線通信の無い時代、互いの連絡はいったいどうやったのかぜひ知りたいものですが、
それはともかく、二機のSVAは南回り、つまりインドを通過する航路で、
なんと16の中継地を転々としながら三か月後の5月11日、
この4人のイタリア人を乗せ、東京は代々木練兵場に無事到着したのでした。

うーん。

三か月で16都市。

この時の飛行距離は16万700キロm。
飛行時間にしておよそ100時間。

しかし、もう少し勤勉に、毎日たとえば6時間くらい飛んだとしたら、
たとえ何日間か休んだとしても

20日くらいで着かないかこれ?(笑)

エリス中尉の予想ですがね。
この4人のイタリア人パイロット、行く先々で大歓迎を受け、
地元の名士かなんかの開催するパーティに、これだけは勤勉に参加し、
その都度魅力的な女性にまめに声をかけ、
必ず4人のうちの一人が、甚だしきは4人全員がそれに成功したりなんかして、
そんなこんなでこんなに時間がかかったのではないのかと。

「お嬢さん。我が愛機の上から見た地中海の緑より、君の瞳は美しいベッラベリッシモ」
「あらアレッサンドロさん、いけません。わたしには夫がありますしそれに」
「いいではないですかいいではないですか。どうせ私はこのあと極東の、
地の果てのような辺境の地、日本に行ってしまう。(嘘泣き)
あなたとはきっと今夜限り二度と会うことはないでしょう。
それならばお互い運命の刹那を精一杯輝かしいものにしようではありませんかアモーレミオ」

てな感じで女性を口説きながら一都市二日滞在していたら、ちょうど三か月です。

イタリア人ですからね。

ある海自の自衛官から聞いた話ですが、イタリア海軍の制服を着てうろうろしている集団に
同じ水軍のよしみで声をかけ、自分の知っているところを案内し、最終的に

「女性のいる飲み屋」

に連れて行ったところ、彼らはもう水を得た魚となってそこの女性を口説く口説く。
口説いていなければお前らは死ぬのか?というくらいの勢いで、
その自衛官はお店のマダムから

「なんて人たちを連れてくるのよアナタは!」

と文句を言われたんだそうです。

まあ、つまりそういう文化の国の人が4人もいたら、当然そうなるのではないか、
つまりこの三か月は実質一か月半ではなかったのか?

と、たった今そう思っただけなので、この推論には何の根拠もございませんが。


しかも(笑)こんな歴史的な壮挙を為そうとしているわりには、
この人たち、ちゃんとした飛行記録も残さなかったらしく、飛行時間が
記述によって「95時間」「105時間」そして「100時間」とバラバラ。
最終的に「約100時間」としたのは「平均を取った」ということのようです。

さすがは今を生きるイタリア人のお仕事。
数々のヘタリア伝説を彷彿としてしまいますね。





翻って我が日本からの欧州への飛行はどうであったかというと、
こちらはこちらでいかにもお国柄というか、日本の「青雲の志」を地で行くような・・・・。

昭和6年といいますから、SVAの9年後、石川島R-3という民間機で、
なんと法政大学の学生が二名でローマまで126時間もかけて飛行しています。
中継地がどこでどのくらいの所要時間だったのかはわかりませんでしたが、
少なくとも中継地で女性を口説くなどということはなかったことだけは確かでしょう。


この立役者というか計画をしたのが「ノラや」などの著者、当時法政に奉職していた
小説、随筆家の内田百聞(けんは門構えに月)というから、世の中本当に面白いですね。
そのときの随筆を見つけましたのでULRを貼っておきます。

青年日本號


さて、ここでSVAに戻って、機体を見ていただきたいのですが、
なんとゴーヂャスな木目仕様です。

この1920年の飛行で、飛来してきた二機のSVA−9のうちの一機は、
日本に寄贈されました。(太っ腹!というか持って帰れなかったのか)

主翼が布であった、と記述されているものを読んだこともあるのですが、
これ、どう見ても「布」には見えないような・・・・。

その寄贈された一機がこれです、と言いたいところなのですが、
違います。
その寄贈されたSVA-9 は、戦前靖国神社の遊就館(当時からあったんですね)
に飾られていたというのですが、戦火で焼失してしまったのだそうです。

そして時は流れ、1970年。

「こんにちは〜こんにちは〜西の〜国から〜」

と、三波春夫大先生が歌った、あの大阪の万国博覧会。

あのときにはさりげなく目を見はるような文化事業が行われていたのですが、
(音楽で言うと、カラヤンもバーンスタインも、ロストロポービッチも来ていたらしい)
そのときこの万博でイタリア館に展示するためにこの焼失したSVA-9が復元されたのです。

それがこれ。

今、このエアーパークにあるのはそのモックアップなのです。
イタリア政府が「日本との最初の友好」の証であったこの複葉機を再現したことは、
何かとても意味のあることに思われます。

まあ、大阪万博当時、日本のイタリアとの共通の歴史的な思い出というと、

「今度はイタリア抜きでやろうぜ」

もう片方とこっそりこう言い合う「あれ」くらいですからね・・・・。



ところで、酒とバラの日々を満喫しながら三か月の冒険飛行を成功させた
(決めてかかってるし)4人のイタリア人。
日本で大歓迎されて、飛行機は一機寄贈し、帰りは船便だったわけですね。


その航路中、彼らは以前にもましてはりきって御婦人を口説いていたに違いない。
証拠もないのにそう決めつけるのは、彼らが「イタリア人の飛行機乗り」だから。

これ以上の理由はありませんでしょ?








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