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「坂の上の雲」〜ニコライ二世の憂鬱

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意外とノリノリで「坂の上の雲」について何日も書いてしまうエリス中尉です。
今日は、あのドラマのロシア人たちについて少し。

自分が覚えていないからって、「今までロシア人俳優が日本海大戦映画で使われたことが無い」
と言い切ってしまい、さっそく間違いであると指摘をいただいたわけですが、
ロジェストベンスキーは配役されたことがあっても、この人はありませんよね?(小声で)

ロシア皇帝ニコライ二世。
しかもこの俳優がまたそっくりなんだ。本物に。


ニコライ二世ご尊顔。

額の禿げあがり具合まで同じ役者を使うあたりが、
ここだけ妙にリアリズム。
このニコライ二世の「対日本感情」を表すシーンもなかなかです。

渡欧した伊藤博文を宮殿に呼びつけ謁見したときに、まず

「そちには日本で会って居るか」

と聞いてから、無表情で

「日本での滞在は思い出深いことばかりであった」

と言うのを、伊藤は好意的に受け取り、ホテルに帰っても

「こんなに皇帝が好意的であるとは」

と感激してはしゃいじゃったりするわけですが、実はニコライ二世、
伊藤と言葉を交わしながら、実はその脳裏に
皇太子時代に来日した時に滋賀県で警官に切り付けられ国際問題となった

「大津事件」

をフラッシュバックさせてるんですね〜。
怖いですね〜。


大津事件と言うのは、視察に大津を訪れたニコライ二世が、
津田三蔵という巡査に斬りかかられ、耳の上を負傷したという事件です。

この津田三蔵を死刑にするべきか否かで、日本政府の「司法介入」が起こった、と言う話は
別のエントリを立ち上げてお話しすることにして。

ここで少し気になることがあります。

この「坂の上の雲」(司馬廉太郎の小説)によると、日本国民の同情や政府、
ことに明治天皇の手厚いお気遣いが事態を収拾し、
ロシア側は国家としての抗議などの鉾は納めたものの、その後ニコライ二世は
拭いがたい日本と日本人への嫌悪を生涯持ち続けていたというのです。



「この事件から生まれたニコライ二世の日本に対する嫌悪が日露戦争を引き起こした」

とする歴史家もいるので、作家の司馬遼太郎が「坂の上の雲」で
こういうドラマとしての流れを補強してしまっても無理はないという気もしますが、
例によってこれも、あくまでも伝聞、「日本を恨んでいたに違いない」という憶測、
そのようなことから生まれてきたソースなしの単なる「噂」のような気がしないでもありません。


確かにニコライ二世が日本人を「サル」と言っていた、という証言などもあることはあるようですが、
少なくとも当人が残した書簡や日記には、そのような記述はないということです。

つまり、「わたしは聴いた」では証拠にならない、という法的解釈で言えば、シロです。


加えて事件後、大津事件の後に見舞いに来た日本人らに対し、ニコライ二世は非常に
紳士的に振舞い、日本側接客伴員を安心させようとつとめたという記録が残っていますし、
犯人の津田三蔵がもし死刑判決が出るようなことがあったら助命嘆願するつもりであった、
ということからも、この件でニコライ二世が日本を個人的な感情により
深く嫌悪していたという「証拠」はないのです。


まあ・・・・・もっとも、ニコライ二世はいやしくも大国であり文明国の皇太子ですし、
品性が上等であられたので、そのような私的感情を公に露わにしなかっただけで、
表向きたとえどのように振る舞っていたとしても、
内心実はどう感じていたかについては誰もわかりません。


大津事件のことをニコライ二世自身が記した文章には、

「振り返ると胸が悪くなるほど醜い顔をした巡査が
両手でサーベルを持って私を斬りつけようとしていた」

「醜い顔は私を追いかけてきたが」
(写真に残る津田はそれほど醜い顔ではない)

「日本の群衆は誰一人として私を助けようとしなかった」
(実際は二人の車夫が犯人の津田を押さえつけている)

という非常に感情的な文言があります。

さらに自分を救ったのは日本人ではなく同行のギリシャ国王子ゲオルギオスである、
との考えを最後まで固持し、後から二人の日本人車夫に勲章を与えたものの、
この事件のためで行われた礼拝で感謝を捧げたのは、常にゲオルギオスだけであったそうですし、
また、事件後、周りの日本人の気遣いには感謝の意を示しつつも、
日本人医師の手当ては断固として拒んだということです。


そして、こういったところから儀礼的な表面に隠された「想い」を
勝手に汲み取るのが、世間と司馬遼太郎というものなのですね。

普通に考えれば、殺されかけたのだから、嫌うなという方が間違っているし、
従って司馬があのように表現したとしても、当然かもしれませんけれど。


このニコライ二世、この「大津事件」に始まって、日露戦争には敗戦、
しかも即位記念の「庶民への大盤振る舞い会場」では、
詰めかけた群衆が将棋倒しで1400人が死亡、(ボディンカ事件)さらには
ラスプーチンなんかを信用したばかりにあちこちに敵を作り、民衆には恨まれて、
革命が起こり、流刑になったと思ったら、最終的には家族全員惨殺されて、
死体すら長い間隠匿されていたという・・・・・

・・・・なんというか、悲運としかいいようのない人物です。

もし、身の回りに居たら、ぜひお祓いしてもらうことを奨めたいくらいです。


「大津事件」はその悲劇の人生の前兆とでもいうべきものでしたが、
最終的に皇帝の命を奪うのは憎んでやまなかった(とされる)日本人ではなく、
自国のロシア国民であったというのが、皮肉と言えば皮肉ですね。


さて、絵を描いてしまったので順番に行くと、広瀬武夫とアリアズナを取り合った
ボリス・ビルキツキ。

アリアズナを取られそうになったので、
公衆の面前で何の技もないのに講道館有段者の広瀬に挑み、
かかなくてもいい恥をかいたにもかかわらず、広瀬を嫌いにならなかったボリス。

そんな都合のいい「いい人」が本当に存在したのか?と思ったら、
やっぱりこのあたりはすべて司馬先生の創作でした。

ただ、広瀬の留学時代、広瀬のことを

「タケニイサン」

と呼ぶ「ボリス」という青年がいた、という事実はあるようです。



拾い物画像なので素性はわからないのですが、どうもあの「パブロフの犬」
で有名になった犬、じゃなくてパブロフ博士が真ん中の人物のようです。
この写真にロシア海軍の士官候補生であったボリス・ビルキツキとされる人物が
広瀬と並んで写っています。

この写真を見る限り広瀬さんと女性を取り合うには若すぎですね。


広瀬武夫ですが、実際の彼は非常に男っぷりがよく、たとえば「レス」などでも、
歌を歌うとそれが玄人はだしの巧みさでしかも美声。
芸者たちが「岡惚れ」せずにはいられないくらいの魅力に溢れた男であったそうです。

男にも女にも惚れられた広瀬。
ロシア人女性、しかも軍人の娘であるアリアズナが異国の人にもかかわらず
「心に決めた」
というのは、当時の東洋人全般に対する人種偏見や、さらに敵国軍人であること、
いろいろなものを跳ね返すに足る男であったということでしょう。

ボリスがその後どうなったのかは調べてもわかりませんでしたが
開戦時、広瀬が友人のロシア軍人に出したこの手紙がボリスに宛てたものとされ、
彼がロシア艦隊の一員として日本と戦ったらしいということにはなっているようです。


今度、不幸にもあなたの国と戦うことになった。
何とも いいようがないほど残念である。

しかし、これは国と国と の戦いで、あなたに対する個人の友情は
昔も今も少しも変 わらない。
いや、こんな境遇にいるからこそ、却って親し みも増してくる。
平和が回復するまでは、かねて申し上げ たように、
武人の本懐をお互いに守って戦い抜こう。
現に、武夫は9日の昼には戦艦「朝日」の12インチ砲を指 揮して、
旅順沖の貴艦隊を熱心に砲撃した。

それさえある に、今度は貴軍港を閉塞しようと願い、
「報国丸」を指揮 して、今、その途上にある。
さらば、わが親しき友よ、いつまでも健在なれ。


そしてご存知のように、この後の第二次閉塞作戦において、
広瀬武夫少佐は戦死します。

その広瀬少佐は「一片の肉塊だけを残して」海中に消えたのですが、
それは隣に座っていた兵すら気づかないほど一瞬の出来事でした。

爆死の状況を当時の新聞はこう伝えます。

『明治ニュース辞典』―(1904年4月11日付毎日新聞)

”死体を収容しロシア軍が葬儀を営む”

4月1日、旅順に於いて日本海軍将校のために葬儀を営めり。

当時将校及び水夫、これを見送り、かつ楽隊を附せり。

この将校の死体は、福井丸の船首なる海上に浮かびしものにて、

頭上に砲丸にての大疵あり、その深さ一寸、外套の袖に金線あり、

頚には革紐にて望遠鏡をかけ、ポケットには短剣を差し居れり。

電報によれば、露人は該死体の広瀬中佐たる事は、

知らずして、葬儀を営みたるものならんも、

その広瀬中佐たる事は、当時船上に留めたる肉片が、

電報に伝へる頭部の深さ一寸の大疵と、符号する事、

並びに、外套の袖に金筋の入り居りし事だけにても、

疑ひなきがごとし。


「坂の上の雲」では、広瀬少佐であることをロシア人が知ったうえで葬儀を営み、
なぜかそこにボリスが参列していて

「さようなら・・・・タケオ」

と呟き涙する、ということになっていましたが、実際は違います。
ボリスが出席しなかったのは勿論ですが、その日本人将校の遺体が
ロシア人に親しまれた広瀬武夫ののものであるということも、
ロシア人は知らずに、しかしながら丁重に葬ったということであったようです。


ところで、ちょっと変な感じがしたのですが、この毎日新聞の記事によると、

「遺された一片の肉片の大きさと情報による頭部の傷の深さが一致するから」

広瀬少佐であろう、などと書いているのですが・・・・。

パズルのピースじゃないんだから、
「傷と肉片の大きさが一致したから」
って、なんだか素直に「ああそうか」って言えないというか・・・

・・・・・まあ、広瀬少佐だったんでしょうけどね。


この時引き揚げられた広瀬少佐の遺体が船の甲板にそのまま置いてある写真、
さらに葬儀の様子も実は映像としてロシアには残されているようです。
写真は不鮮明ながらインターネット検索で見ることができます。


この件が閉塞作戦直後にこのように報道されていたにもかかわらず、
割と最近になって(2010年)、

広瀬中佐の遺体は海中から引き揚げられ、
ロシア艦船上で丁重な葬儀を営まれていたことが、
日露文化センター代表、川村秀さん(東京)のロシア国内での調査で分かった。

というニュースがありました。



ロシア艦船が発見して引き揚げ、軍外(がい)套(とう)を着た状態で収容した。
頭部以外はほとんど損傷はなかった。
遺体は、広瀬がロシア駐在武官のころ交際した令嬢アリアズナの兄らが確認。
ロシア軍隊の軍旗、葬送曲を伴った完ぺきな栄誉礼をもって厳粛な葬儀が執り行われた。
遺体はその後、旅順のロシア海軍墓地に葬られた。
納棺の際にはアリアズナから贈られた懐中時計も発見された。
また、川村さんは、露テレビ局が製作して2005年に放送したドキュメンタリー番組から、
ロシア戦艦上に横たわる広瀬の遺体と葬儀、旅順のロシア海軍墓地、
アリアズナの肖像などの写真も確認。この日、その一部を披露した。


川村さんの話 広瀬は弾丸に当たって消えたと信じていたので驚いた。
あの時代は敵に礼を尽くすという騎士道や武士道の精神が機能していたことに感銘した。

(大分合同新聞/2010年02月07日記事)


文句をつけるわけではありませんが、なんだかよくわからない「新発見」ですね。
第二次閉塞作戦直後(作戦は3月27日)四月の毎日新聞記事で、
すでに「頭の傷と肉片が一致」「ロシア軍が葬った」と歴史的には明らかになっているのに、

「弾丸に当って消えたと信じていたので」

って・・・・弾丸に当って消えたのに間違いはないと思うのですが。

「アリアズナから贈られた懐中時計も発見された」

・・・・いつ発見されて、今それはどこにあるんですか?


この調査でもし「新発見」があるとすれば、アリアズナの兄(海軍軍人)が遺体を確認、
ということと、懐中時計は広瀬と一緒に見つかった、と言うことでしょう。

さらに言えば、その写真が世に出たことが一番価値ある新発見だとは思います。









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