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ヤング大佐と「海戦」、キャラハン兄弟と「ミズーリ」特攻

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「カッシン・ヤング」について説明した項のコメント欄でunknownさんに
「ファイアコントロール」とはつまり銃撃統制室だということを
教えていただいて、その上で初めて気がついたことがあります。 

その時にこの写真をご紹介したわけですが、そもそも
展示艦となっている「カッシン・ヤング」の前の説明版の写真に 
なぜこのファイアコントロールのメンバーの写真だけがあったのか、
ということをわたしは最初の項において考えませんでした。 

しかし、彼らが「銃撃統制室」のクルーだった、ということを念頭に置いて
その日の記述を改めて読んでみると(自分で言うのも変ですが)

1945年7月29日、特攻機が右舷に激突し、その際銃撃統制室に
ひどいダメージと火災が生じ22名が死亡45名負傷

ということだったですね?
つまり、 ここに写っている銃撃統制室のクルーは全員亡くなった可能性があるのです。


そう思って改めて写真を見ると、また違った感慨が浮かんできます。


さて、「フレッチャー」級駆逐艦「カッシン・ヤング」の名前になったのは
カッシン・ヤング大佐(1894−1942)ということはすでにお話ししました。
重巡洋艦「サンフランシスコ」の艦長として第一次ソロモン海戦で
壮絶な戦死を遂げ、その戦績を称えて駆逐艦に名前を残しました。

 

いつもなら似顔絵を描きたいところですが、今回は実際の写真です。
なぜかというと、この人が俳優のボー・ブリッジスに瓜二つで
わたくし結構驚いてしまったもので。

ってそれだけの理由かい!

と言われそうですが、 ちなこれがボー・ブリッジス。

ね?似てるでしょ?
だからなんだって話ですが。

ブリッジス大佐じゃなくてヤング大佐は海軍兵学校卒業後、
戦艦乗り組みと潜水艦にも少し勤務し、司令として、
先日来お話ししていたグロトンの潜水艦基地に赴任していたこともあります。

真珠湾攻撃の時にヤングが艦長を務めていたのは工作艦「ヴェスタル」でした。
日本軍の爆撃による爆風で彼は海に吹き飛ばされましたが、隣にいた
「アリゾナ」が炎上し始めたのを見て、ヤング艦長は油の海を泳いで艦に戻り、
「ヴェスタル」を「アリゾナ」から引き離して被害を防ぎました。

彼はこの英雄的行為に対し、名誉勲章を授与されています。

 

1942年9月、ヤングが艦長として乗り組んだ「サンフランシスコ」はソロモンに進出。
11月13日、ダニエル・キャラハン少将が座乗する旗艦として、第三次ソロモン沖海戦で
阿部弘毅少将率いる日本艦隊と遭遇し、激しい砲撃戦を繰り広げました。

この海戦で「サンフランシスコ」は軽巡洋艦「アトランタ」 (USS Atlanta, CL-51) を
誤って攻撃したのち、日本側の戦艦「比叡」と一騎打ちの状態になるも、
日本側のもう一隻の戦艦「霧島」からの三斉射が「サンフランシスコ」の艦橋を直撃して、
ヤングはキャラハンら任務群幕僚とともに戦死を遂げたのでした。


当ブログでは、この第三次ソロモン海戦において、「鳥海」に従軍記者として
乗り組んでいた作家の丹羽文雄の「海戦」をご紹介したことがありますが、
この作品中「サンフランシスコ」について書かれた部分を抜粋してみます。


やがて甲巡の艦尾の方も燃えはじめた。まん中が黒く切れている。
煙であろう。
燃える艦首が海に映る反射であろう。
白みをおびた赤い油絵具をどろりと海上に落としたようであった。
すきとおる紅蓮の焔であった。生涯忘れられない色であった。
生涯思い出すたびに、心臓の一部が針を立てられるような痛みを覚えるであろう
鮮やかな色の印象であった。
燃えながら敵は討っていた。(略)

「つっこんでくる。つっこんでくる」

そう言われてみると、左舷に向かいサンフランシスコ型甲巡が
艦首をこちらに向けて、ぐんぐん接近してきた。
すでに敵艦は後半身を火焔につつまれていた。
火焔を背負い、うき出した艦橋前の砲門からぱっぱっと閃光を放ち、射ってきた。
はげしい気魄が私の胸をつらぬいた。倒れるまでの必死のつっこみ方であった。
切ない呼吸のように三斉射をあびせてくる。

私はこの時になって、初めてどきっとなった。
自分の身にせまる危険を感じた。
私をめがけて突進してくるように見えた。
火焔を背負った敵艦は全身で怒鳴りながら、喚きこむように接近した。
砲口から吐く最後の火には人間の執念がこもっていた。
兵たちも黙ってしまった。
伝声管の兵は蓋をしめて、その上に軽く手を乗せていた。
びっくりしたように三斉射しながらぐんぐん距離を詰めてくる敵艦を眺めていた。
旗艦のはなった弾が敵艦のすぐ前のところに落ちた。
ものすごい水柱をあげた。

散布界をこちらから一つにかためて見るので大きな水柱になって見えた。
敵の姿は消えた。
しかしすぐ姿を現したが、敵は後半身をやられているので、 
操舵の自由を失っていたのであろう。
体当たりに突っ込んでくるより他に舵がとれない、悲しい身振りであった。
討ってきた。泣くばかりに討ってきた。

私は奇妙な瞬間を待った。
射たれることが判っているのに身動きをしないのだ。
無抵抗に最後を待っていた。

 

あらためて本職の作家というのはものすごいものだと感心してしまうのですが、
丹羽が見たこの情景の中で、カッシン・ヤング艦長は壮絶な戦死を遂げ、
その名をこの駆逐艦に残すことになったのです。

更に言えば、ほとんどが廃棄された大量の「フレッチャー」級駆逐艦の中で、
たった4隻の博物艦の一つとしてその名前が現在も人々の耳目に触れているのは
海軍軍人であったヤング大佐にとってまことに本望というべきかもしれません。


ところで、本稿で述べたダニエル・キャラハンと、日本の特攻機搭乗員を
海軍葬で葬った「ミズーリ」のウィリアム・キャラハン艦長を混同し、
別項で同じ人物であるかのように書いてしまったわたしですが、
その件をコメント欄でご指示いただき、「ミズーリ」のキャラハン艦長が
ダニエル・キャラハンの弟であったことを初めて知りました。

こちらが「ミズーリ」艦長であったウィリアム・マッコーム・キャラハン。
彼もボー・ブリッジスと弟のジェフ・ブリッジスくらい似ていません。
この兄弟は同じ高校を卒業し、同じように海軍兵学校を経て
海軍軍人になり、どちらも戦闘艦の艦長という道を選んだわけですが、
年齢にして二人は7歳も違います。 

Daniel Callaghan 

ともかく、この件について改めてお詫びとお礼を申し上げるとともに、
そのことを知ってから一つ思い当たったことがありますので書いておきます。 


艦隊司令として「サンフランシスコ」に座乗したダニエル・キャラハンの戦死は1942年です。
ウィリアム・キャラハンが海軍軍人として、兄の仇を取るような気持ちで
日本軍と戦ってきたであろうことは想像にかたくありません。

しかし彼は、自艦に突入し果てた敵国の特攻隊員を、

"The young Japanese airman had done his job to the best of his ability,
with honor, and deserved a military funeral.

「この若い搭乗員は彼の能力の全てを尽くして仕事をしたのだ。
その行為は敬意を持って、海軍葬で弔われるのに値する」

として海軍葬を執り行ったということで有名になりました。

クルーだった人物は後年、この時のことをこう語っています。

「わたしは遺体を回収し、他のクルーにこれを海に投棄していいかと聞いた。
キャラハン艦長は

”いや、遺体はシックベイ(医療区画)に降ろせ。明日葬儀を行う” 

といった。

搭乗員の上半身はデッキの上に散らばっている状態だったが、
残りの下半身は別のクルーがもうすでに海に投棄してしまっていた。
上半身だけを検査のためにシックベイに運んだ後は、クルーが記念のために
衣服やヘルメット、スカーフ、ジャケットをそれぞれ持ち去った。

検査が終わって、遺体は錘のために弾薬のケースと一緒にキャンバスの袋に入れられた。

翌日、日本のパイロットの海軍葬が行われた。
遺体は乗員が一晩で縫った日の丸の国旗に包まれていた。
従軍牧師が祈りを与え、6人の乗員が儀式に則って遺体を投下し、
そして弔銃の発砲が行われた」

ある乗組員はまたこう記しています。

「少なくないクルーにとって、このことは当時苦々しく思われた。
しかし、今ならあのことを誇りに思える」

2001年のミズーリ式典の段階でも、なおアメリカ人の中には
このことを良く言わない層がいて論争があったそうですが、
彼の息子は

「父は死ぬまでそれは正しいことだと信じていた」

と語っています。
また、ある提督はキャラハンのことを

「 戦時には勇気というものは強いリーダーシップをもつ個人の行動により測られる。
キャラハン艦長の見せたリーダーシップの質というものは 、
我々海軍の幹部が後に続くべき理想の具現であったとも言える」

と絶賛しています。
  

 

そしてキャラハン艦長が海軍葬でセレモニーの時に述べた言葉はこうでした。

「この勇士は勇気と献身を我々に示した。
祖国のために戦ってその身を犠牲にすることによって」

 

 

キャラハン艦長の立場に立ってみるまでもなく、
彼の個人の怨讐を超えたこの判断が、いかに軍人として、いやそれ以前に
人間として高潔なものであったかを考えると、
我々もまたこの人物の強さと勇気に賞賛を送らずにはいられません。

弟のウィリアム・キャラハンは1991年、93歳の長寿を経てなくなりました。
彼が冥府でダニエル・キャラハンと再会することがあれば、
半世紀ぶりに出会う兄は、自分を殺した敵国の兵に敬意を持って海軍葬を行った
弟の話を聴き終わってにっこりと頷き、

「それでいい。俺はお前を誇りに思うよ」

と彼を抱きしめたに違いない、などとわたしは夢想してみたりします。

 

 

 


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