重巡洋艦「セーラム」の後甲板には、一つ目を引く構造物があります。
艦載航空機を釣り上げるクレーンです。
これがまた大きくて・・・戦艦「マサチューセッツ」のデリックより大きいかも。
第二次世界大戦当時の海戦思想における重巡には、
敵水雷部隊への雷撃や艦隊の防護、長距離哨戒や襲撃、特に
高速空母任務部隊の護衛、敵地上部隊への砲撃、水陸両用作戦の火力支援など、
思いつく限りの様々な任務が割り当てられていました。
日本海軍がワシントン軍縮条約の後に充実させた重巡洋艦群に、
(妙高とかね)アメリカ海軍は結構痛い目に合わされたということもあって、
「打倒!帝国海軍の巡洋艦!」
を目標に、特に重砲を積んだ結果が、この「デモイン」級ということになります。
米軍の重巡が日本軍に沈められた少なくない原因が、搭載している飛行機のための
航空燃料に引火したことだったというのを受けて、「デモイン」級はそれを避けるため、
航空機の格納庫そのものをわざわざ後部に持ってきたということです。
それだけに日本との戦闘が終戦によって建造中に終わってしまったのは、
特ににっくき日本の重巡に向かって大重量の(152キロ)砲弾を
三連装主砲でぶち込んだる!といきごんでいた設計者は、
特に拍子抜けしたというかある意味がっかりしたのではなかったでしょうか。
当初航空機を搭載するつもりだったのでカタパルトも2つつく予定でしたが、
「セーラム」完成の頃にはシコルスキーの艦上ヘリが水上機の代わりに登場したため、
カタパルトの代わりにこのようなプレートが設置されることになりました。
おそらく米海軍初のヘリ搭載軍艦ということになるかと思うのですが、
それにしても謎の装備です。
このステージのようなプレートの上にヘリが降着する・・はず。
それにしては目印もないし、外側下がりになってるし、
当時のヘリ(HO3S) は果たして問題なく着艦できたんでしょうか。
プレートには台ごと平行移動させるための装置が確認できますが、
もしかしたらこれ、ここをスライドさせることしかできず、
格納庫に入れる時には
直接クレーンでヘリを下に降ろした
とかだったんじゃあ・・・・
ちなみに、このプレート下の一帯は塞がれていて見学はできなくなっていました。
どなたかこの仕組みご存知の方おられますか。
「セーラム」は重巡洋艦としてもかなり艦体が大きく仕上がっていて、
全長218m、満載排水量約21,000トン。
「青葉」型重巡が185.17m、基準排水量は9000トン、
「妙高」型でも203.76m、基準排水量 14,743トン、
ということを考えると、同じ大きさの主砲を積んでいても桁違いです。
それもこれも、新型のこの三連装砲を搭載したことと、防御力を上げるため
重量を増した設計を行ったからだと思われます。
例えば主砲塔の装甲は最大で203.2mm。バーベットは160mmというもので、
これも明らかに日本の重巡からの攻撃に耐えるための仕様でした。
これも比較しておくと、重巡「高雄型」の主砲塔の装甲は25mm。
文字通り桁違いの防御を施していたことになり、万が一ガチで海戦を行なったら
日本側が防御しきれず撃ち負けていたのはほぼ確実かと思われます。
この写真にも見えますが、甲板には昔ハッチだった部分に出入り口が設けられています。
どれどれ、ということで一応覗き込んでみます。
こんなですが、一応階下に行くこともできます。
ただし、わたしはとりあえず甲板の見学が終わるまで下には降りない、
と堅く決意していたので、写真だけ撮って艦首側に移動を始めました。
マストに登って行くためにはここを上がって行きます。
まずは左舷から、上部構造物の間を進んでいきます。
雨の後だと思うのですが、水はけが悪く、甲板のあちらこちらに
このような水たまりができてしまっています。
左舷側に吊られた短艇。
手前の機械はロープの巻き取り機、ウィンチかなんかでしょうか。
これ大丈夫か?って感じの荒れ放題。
何もしなければ海に浮いている鉄の塊である船はこうなってしまうんですね。
さすがに廃墟好きを自認するわたしもこの惨状には胸が痛みます。
これは4年後スクラップコースかなあ・・・。
全てがサビでえらいことに・・・・。
右舷側に立って上を見上げたところ。
ドアの黄色い『Z』は
戦闘中または保安上必要とする場合、閉鎖する
というマークです。
右舷に立って後方をみたところ。
舷側にそって38口径長5インチ対空砲があります。
これは連装両用砲で型番はMk.13。
全部で6基装備していました。
艦首部分には
を搭載しています。
これはアメリカ軍が恐れた「カミカゼ」攻撃に特化して開発したものです。
発射速度、追随性能に大変優れていたとされ、「セーラム」に搭載された
2連装の他に単装のものも開発されています。
対空砲としてはボフォース40ミリやエリコン20ミリ機関砲が
第二次世界大戦中は有名ですが、三重の対空火砲網をさらに
潜り抜けて突入してくる特攻機に、まず兵士たちの心が受けたダメージは
計り知れないものがあったといわれています。
そこで、アメリカ海軍ではまず発射速度が早く、半自動砲である
当機種が開発されたのです。
この運用には全部で11名の砲員を必要とします。
全体を統括する砲台長が1名、操縦手が各1名で2名。
装填と給弾には砲一つにつき2名ずつが当たりました。
この写真で後方に出ているスロットが回転式弾倉で、
給弾手は弾薬庫や揚弾つつから弾薬をだし、ここに装填しました。
対空砲の射手になったつもりで照準をのぞいてみました(笑)
銃口が艦首のガズデン旗を狙っているようですが、これはたまたまです。
最近特にNHKとか旧民主党界隈では
「日本の旗ならどんな扱いをしても別に構わない」
という独自のプロトコルがあるみたいですけど(嫌味)
当ブログは国際プロトコルに則って、他国自国問わず旗には敬意を払っておりますので、
決してわざとこうなるように写したというわけではありません。(言い訳っぽい?)
艦首部分と艦首木の周りには足を踏み入れられないようになっていました。
やはり錨鎖などが危険だからでしょうか。
さて、前回ドイツの潜航艇「ゼーフント」について調べていて知ったことが一つ。
この重巡「セーラム」とこの周辺一帯は、
という「セーラム」艦内の展示を含めた施設であり、
その施設の設備として、昔はこのミニゴルフ場が目玉になっていたらしいことです。
週末しか公開していない今ではゴルフ場も使われておらずこんなことになっていますが、
昔はちゃんと18ホールあり、
「キルロイのミニゴルフ」
という名前までついているのだそうです。
「キルロイ」とは、ジェームス・キルロイというここフォーリバーの造船業者。
彼に敬意を評してこの名前がつけられたのだそうですが、
キルロイといえば英語圏では皆が想像するのが
「KILROY WAS HERE」(キルロイ参上)
という落書きです。
日本人の我々にはアメリカの、第二次世界大戦中のミームなど知るよしもありませんが、
あちらこちらで当時はこの落書きが見られたものだそうです。
発祥は、アメリカ海軍の軍人たち。(他にも起源説はいくつかありますが一応)
彼らは戦地でも行く先々でこの絵やあるいは字を落書しました。
ドイツでは捕虜の装備の中から頻繁にこれが見つかったため、
「キルロイは連合国のスパイである(しかも超腕利き)」
という報告がヒトラーにまで上がっていたというから笑ってしまいます。
で、そのキルロイ氏なのですが、彼はここフォーリバーの造船所の検査官で、
検査したリベットに「検査済み」の印をチョークでつけるのが仕事でした。
(もちろん仕事はそれだけではないと思いますが、一応)
当時、造船所の工員には据付けたリベットの数に比例して賃金が支払われたため、
印を消して二度カウントさせるという画策が横行し、キルロイ検査官は対抗上
消しにくい黄色のクレヨンを用いてこの文言を船体のあちこちに記しました。
「KILROY WAS HERE」
この頃、船は細かな箇所までは塗装されず軍に納品されていたため、
通常は封鎖された区域などに整備のため立ち入った海軍軍人たちは、
殴り書きされた謎の署名「KIlroy 」を頻繁に見つけることになりました。
いつしか軍の中で「キルロイ・ワズ・ヒア」は語り継がれて伝説となり、
彼らは進駐地や作戦などで到達した場所にこのフレーズを残していったのでした。
そしてそれを見た軍人もまた別のところに・・・。
え?なぜそんな落書きを残すのかって?
現在街で落書きしている人にでもその理由を聞いてみればいいんじゃないでしょうか(笑)
つまり、ここクインシーのフォーリバーは、当時のアメリカ人なら
誰でも知っていた「KILROY WAS HERE」の発祥の地なのです!
ってまあ、我々にはそれがどうしたとしか言いようがありませんが。
続く。