ボストンティーパーティ博物館についてのお話、最終回です。
わたしたちのパーティが乗り込み、三つの茶箱をボストン湾に投げ入れた
エレノア号という船は、実際にティーパーティに参加し、茶箱を投げ入れた
実際の船を資料に基づいて再現したレプリカです。
ただしゼロから造り上げたのではなく、1936年に造られた船(左下)を
改造して現在の形にし、ここに展示してあるのだそうです。
「歴史の浅い国」といわれるアメリカの、その誕生に関わる出来事ですから、
それだけに史実を語り継ごうとする意志は他国より強くなるのかもしれません。
船を降りれば終わりかと思ったらとんでもない。
さすがに28ドルもの見学料を取るだけあって、この後、
まず桟橋で先ほどのルーシーさんの説明がまたひとしきり行われます。
桟橋には当時の商船が積んでいた貨物一式が再現されていました。
レモンがやたら目立ちますが、例えば1772年には、35万個の注文に対し、
200万個以上のレモンがボストンに荷揚げされたという話があります。
イギリスは植民地に対し、自分とこでできた余剰品を売りつけてたんですね。
茶法では、関税なしでアメリカに茶を売ることを認める法律だったため、
アメリカの業者が扱うより安い茶が国内に入ってきて、そのため
国内の業者がやっていけなくなったというわけです。
ティーパーティ当日、60人から90人といわれる名もない男たちは、
顔を消し炭で塗ってインディアンのふりをし、迅速に、そして静かに
斧で各船のハッチを壊して船内に入り込み、340ものお茶の箱を海に投下しました。
重さにすると46トン、被害総額は現在の価格で140万ドル(一億五千万円)。
まあこれだけ放り込めば、海水も紅茶の色になったかもしれませんね。
この様子を、1000人もの見物人は、ただ黙って、静かに眺めていたそうで、
事件の現場となったグリフィン湾には、ただ斧が木を打ち破る音だけが響いていました。
全てを終えた後、「愛国者」たちは肩に斧を担ぎ、街を行進しました。
自宅からそれを見ていたイギリス軍のモンタギュー提督は、彼らの列が通り過ぎる時、
「おお、諸君は結構なことをしてくれた!
そのインディアンの衣装でさぞ面白かったことだろう。
しかし、覚えておくがよい。
諸君はいずれバイオリン弾きに金を払うことになるぞ」
"pay the fiddler"というイディオムは、自分でしたことは自分に返ってくる、
とか、天に唾を吐く、という意味で使われます。
これに対し、それを聞いていたジョン・アダムスは
「これを聞いた時が我々にとって全てのうち最高の瞬間だった」
つまり効いてる効いてる、と日記に書いているそうです。
冒頭写真の船首飾り、フィギュアヘッドは船の名前と同じ「エレノア」です。
そのエレノアが誰だったかについてはおそらくみなさんもあまり興味がないと思いますが、
船を表す代名詞が女性形であるわけは、昔船の名前に船主なり偉い人の
関係者の女性の名が使われたからであったことがわかります。
博物館の後ろ側にはボストンのフィナンシャルディストリクトを控えます。
何か面白い絵があったのでアップにしてみました。
イギリス側のプロパガンダで、タイトルは
「ボストニアンが”税男”にやったこと」
ロイヤリストだった税関員ジョン・マルコム(アメリカ人)がパトリオットである
靴屋を殴ったとかで、愛国者たちが彼を「リバティツリー」の前に引き摺り出し、
服を脱がせてタールを塗り、鳥の羽をまぶして(靴屋との諍いに理由があるらしい)
税関の手数料を放棄するように迫りました。
彼が拒否すると、リバティツリーに吊るすぞと脅しをかけ、
さらには耳を落とすといわれて泣く泣くいうことを聞いたとか。
この絵では沸騰したお茶をマルコムの口に無理やり注ぎ入れていますが、
これはイギリス側の制作だったからで、イギリス側から見ると文字通り
「アメリカに煮え湯を飲まされた」
みたいな表現のつもりだったのでしょう。
この事件は英米双方で報道されましたが、たがいが相手を
非難しまくったであろうことは想像にかたくありません。
ちなみにマルコムはその後イギリスに移民したということです。
まあそうなるでしょうな。
1774年、ノースカロライナ州イーデントンの女性41人が茶会事件に呼応して
お茶をボイコットする声明を出しました。
これを「イーデントン・ティーパーティ」と言ったとかいわなかったとか。
ちなみに、2009年、アメリカの保守派が「ティーパーティ運動」と称する
ポピュリスト運動を打ち出しましたが、なぜティーかというと、
Taxed Enough Already(もう税金はたくさんだ)
だからだそうです。誰うま。
船を降りた後、皆はしばらくそのへんをウロウロして見学などを行います。
トーマス・ハッチンソン(上)とサミュエル・アダムス。
ハッチンソンは直轄植民地で著名なロイヤリストの政治家でした。
イギリス政府が植民地に押し付けた税法には反対していたのですが、
ジョンやサミュエル・アダムズからはイギリスの税を推進する者として
敵認定され、さらにはイギリスからも独立運動のきっかけを作ったとされ・・。
マサチューセッツに対する愛をイギリスに対する無批判の忠誠に捧げたことで
板ばさみとなり、結果どちらからも憎まれてしまった悲劇のロイヤリスト。
晩年は不運にもイギリスに追放されてしまったそうです。
当時の貨物は人力で滑車を使って積み込んだわけですが、
ここには改良前と改良後、二つの滑車が再現されています。
左の滑車では持ち上がらない茶箱が、右のでは軽々と。
なんかこういうの物理の授業でやりましたよねー。
中国茶でも高価なスーチョンなどの茶は小さな箱に入れられましたが、
安い茶は大きな箱で運送したため、それらは平均150キロくらいの重さになりました。
滑車でも使わないととても船の上には上げられません。
グリフィンズワーフはティーパーティの現場となった港。
建物の反対側になんと別の船がありビックリしました。
こちらのパーティから少し遅れて今は茶箱を放り込んでいるようです。
埠頭にあった行き先札には
「レキシントン」「ケンブリッジ」「セーラム」「コンコルド」
など、ボストンではおなじみの地域が書かれています。
向こう側の船の扇動人は若い男性。
手にしたカップで合間に何か飲みながら仕事をしております。
スターバックスのマグを使ったりせず、昔のビアジョッキのようなマグに
間違いなくコーヒーを入れて飲んでいると見られます。
建物の外側にはわかっているティーパーティの参加者の名前が刻まれています。
「ティーパーティ参加者」=「パトリオット」(愛国者)という認識なんですね。
この後はさらに建物の中に入り、映画などを見せてもらえます。
「コンコルドブリッジ 1775年の19人」
と題した絵は、撮影禁止の展示場を出たところに飾ってありました。
ご存知のように、独立戦争の先駆けとなった、イギリス軍とアメリカの民兵の間の戦いです。
オールドノースブリッジの戦い。
結論から言うと、この戦いはアメリカ側の勝利であったのですが、
ここでは数的にも戦術的にも劣っていたイギリス軍は不利になり逃げたと言うことです。
館内で見せられた映画、これはアメリカ人ではないわたしも胸に来るものがありました。
このころの戦争ですから、白兵戦ですが、戦いに身を投じる覚悟で
レキシントンに立つアメリカ人たちの悲壮感がドラマチックに表現されていたからです。
前にも一度お話ししたことがありますが、アーリントンに住んでいた時、
隣町のレキシントンで、独立記念日には地元の人たちによる
「レキシントンの戦い・再現ショー」
が行われているのを見ました。
こんな衣装をどうやって調達してどこに収納しているのかとわたしは目を見張ったものです(笑)
この絵には左に太鼓奏者がいますが、基本当時の戦闘は音楽付きで行われました。
そして、その戦いを100人ほどの見物人が見守っていたといいますから悠長なものです。
戦いの前に、指導者は民兵たちに向かって「ハザー!」と呼びかけ、
彼らの士気を煽りました。
と言うわけですっかりティーパーティ事件とその後の独立戦争につながる
動きに詳しくなった(つもりになれる)見学が終了。
出たところは即カウンターでお茶とお菓子が食べられるようになっていました。
おみやげ屋さんでは、茶箱を再現した木箱に詰められた紅茶を売っています。
茶会事件の後、沿岸に流れ着いた茶箱を拾ってそれを保持していた人がいて、
現物を室内展示では見ることができましたが、こんな綺麗な色だったとは。
ここには帆走フリゲート「コンスティチューション」の修理の時に出る廃材で作った
万年筆などの記念品を購入することもできます。
わたしも去年ボールペンを買って帰りましたが、この599.99ドルって高くない?
ティーパーティ博物館なので、お茶のセットも売られています。
さすがに本物のティーセットはいらん、と言うアメリカ人向けに、ミニチュアセット。
小さい時のわたしなら、目を輝かせてねだっていたと思われます。
ところで皆さん、最後にこの「エレノア」船長室の写真をもう一度見てください。
船長の横には手紙を書きながら飲んでいる紅茶があります。
イギリス人が紅茶付きなのはもう伝説のようになっている鉄板の事実です。
ところがアメリカ人は紅茶というものをまず飲みません。
アメリカ人はいかなる場合もコーヒーファースト。
逆に紅茶愛好家には肩身がせまいくらい、スーパーマーケットでも紅茶売り場は小さく、
バルク(量り売り)の紅茶をレジに持って行ったら、
「これ何?」
と聞かれるくらいのお土地柄。
最近でこそグローバリズム(笑)とかの影響で、西海岸では紅茶の店も出現してますが、
マニア向けといった感じで、スターバックスほど人が入るということはまずありません。
アメリカに住んで以来、あらゆるシーンでそのことを実感していたのですが、
今回改めてティーパーティ事件のことを考えてみたとき、
あたかも神の啓示のように(大袈裟だな)その理由がストンと腑に落ちたのです。
アメリカ人の紅茶に対する拒否感(そこまで行かずとも冷淡さ、興味のなさ)
の原因は、遡ればティーパーティ事件につながるイギリスの課税への怒りが
「(イギリスの)紅茶なんか飲んだるかーい!今すぐ持って帰りやがれい!」
という愛国→独立運動とシンクロしたことにあるのではないか。
そういう仮説のもとに改めてティーパーティについて記された英語のwikiを読むと、
「ジョン・アダムスと他の多くのアメリカ人は、茶会事件以降
紅茶を飲む行為そのものが、非愛国者のそれだと考えました。
革命の最中からそれ以降、アメリカでは紅茶を飲む人が減少し、
その結果としてコーヒーが好ましいホットドリンクとされました」
とあります。
わたしは、この茶会事件が、アメリカ人をアメリカ人たらしめているコーヒー志向を
形成した、という史実にこの人生で初めて気づき、猛烈に感動したのでした(嘘)