渡米前、防衛団体の研修会で陸上自衛隊大宮駐屯地に行ってまいりました。
大宮駐屯地は知る人ぞ知るさいたま市の西方4キロの住宅地に囲まれた基地で、
終戦までは旧陸軍の造兵廠大宮製造所があり、戦後は進駐軍の接収を経て
化学学校 通信補給処 武器補給処
などが開設されました。
施設の市ヶ谷移転に伴い、ここには埼玉県全体の防災警備を担当する
第32普通科連隊が移駐してきて現在に至ります。
本日の研修目的は、陸自化学学校の見学。
皆さんは、あの東日本大震災の時、メルトダウンを起こした福島第一原発に
注水作業をした陸自の部隊が、ここから派遣されていたことをご存知でしょうか。
福一だけではなく、原発事故発生後、現地に取り残された人々を救出したり
各地のモニタリングを行なったのも、当基地の
中央特殊武器防護隊
(Central Nyclear Biogical Chemical Weapon Defence Unit)
を中心に組織された陸自の部隊であったのです。
本日はその派出元となった大宮駐屯地で、原発災害派遣された部隊の
指揮官から直々に話をうかがえると聞いたわたしは、迷わず参加を申し込みました。
大宮駅の構内で集合した一同は、陸自側のマイクロバスに乗り込みます。
一台のバスにぎうぎうになって街中を走ること15分くらい、
基地に到着し、わたしたちはレクチャーの行われる建物の前で降ろされました。
それにしても自衛隊の建物って、どこもここもどうしてこんなに似てるんでしょう。
階段を中心に左右にウィングを広げた鉄筋コンクリートの建物は、
ここが下総基地だったか、阪神基地隊だったか、久里浜だったか
ふとわからなくなるくらいの既視感に満ち満ちた無機質な佇まいです。
こうしてみると、海自の呉と舞鶴の総監部というのは(おそらく佐世保も)
自衛隊の中でも異常に特殊なパターンというべきでしょう。
階段を登り、二階に到着すると必ず左手に曲がり、廊下の左手に
レクチャールームが用意されている、というのまでこれまでと同じです。
レクチャーは原発事故を想定した「特殊災害」における派遣活動についての説明から。
講師は化学学校副校長であり、当時対原発災害対処部隊の隊長であった一佐です。
さて、一旦災害が発生したら、まず災害状況の把握、避難誘導に続き、
行方不明者の捜索と救助を陸自の特殊車両を派出して行います。
入浴支援は今や陸自の災害派遣活動のシンボルのようになっていますが、
昔はその活動についても自治体側からは理解が乏しく、阪神大震災での対応が
「塩」だったのは、コメント欄でお節介船屋さんがおっしゃっていた通り。
しかし、日本人にとって入浴というのは被災者の精神支援ともなるもので、
わざわざ「入浴支援」と取り上げるのにも意味があるというわけです。
阪神大震災の時にはこういうことすら認知されていなかったんですよね。
原子力事故発災以降、陸上自衛隊が行った活動が時系列で表にしてあります。
3月17日のヘリでの空中放水の様子を、息を飲みながら日本全国の人々が
テレビで凝視したのは記憶にも生々しいですが、
わたしなど、今でも、あの時CH-47に乗ったの3名の自衛官の写真を見るだけで
涙が込み上げてくるのを抑えることができません。
その後、モニタリングを行い、要所に除染所を設営するなど、
当時の誰もが尻込みするような任務を、彼らはただ黙々と行いました。
災害発生直後から自衛隊は活動を始めました。
阪神大震災では、命令系統の麻痺によって、自衛隊が発災直後に出動できず、
そのために失われなくても済んだ多くの人命が失われたという反省から、
法改正が行われ、この震災では自衛隊の迅速な災害派遣が可能となりました。
3月12日には当日のヘリ偵察によって状況を把握した主力部隊が
現地入りして活動を始めています。
地震発生後、冷却装置注水不可能となっていた1号機への海水注入作業が、
13日深夜1時23分、津波の恐れが去ったと判断されたため再開されました。
使用した海水には、中性子を吸収し核分裂反応を抑える作用のある
ホウ酸が添加されていました。
14日といえば3号機の建屋が爆発した日でもあります。
政府は水素ガス爆発であると発表。
この爆発で建屋は骨組だけになり、作業をしていた東京電力と協力企業の作業員、
および自衛隊員の合わせて11人が怪我をし、東京電力の作業員1人は被曝しています。
3月27日付の英テレグラフ電子版は、3号機が爆発した時現場に居合わせた
陸上自衛隊中央特殊武器防護隊の6人が、爆発に巻き込まれ死亡していたと報じたそうですが、
政府発表でもそのようなことは報告されていませんし、この時のレクチャーで
作業に当たった陸自隊員は死亡はもちろん健康被害も今のところ見られない、
と一佐は明言していました。
水素爆発を起こした瞬間立ちのぼった煙と倒壊した建屋の様子。
もうなんかこの辺りになると「日本もうダメかも」って気になりましたよね。
しかし、そんな中、陸上自衛隊は黙々と給水作業を行っていました。
「生命の危険を顧みず」とは彼らの服務の宣誓ですが、このような
前代未聞の、誰も一瞬先がどうなるかわからない最前線の現場に出て、
本人たちよりもおそらく、彼らの家族は苦しい思いをしていたことでしょう。
白い防護服は自衛隊、黄色は東電の作業員だと思われます。
テレビ映像でも頻繁に目にしたこの白にブルーの作業服の背中には
マジックで書き殴られた自分の所属と名前が見えます。
わたしはこの日、駐屯地内を移動していて、体育館のような建物の中に
この防護スーツを着用した隊員たちが訓練を行っているのを目撃しました。
水素爆発の時現場にいた隊長の戦闘服は、6ヶ月後に計測しても
上限値の300倍を表す汚染値が測定されました。
右側で爆風を受けたらしく、右胸が最も汚染されています。
「もちろんずっとそのままでいれば蝕まれますが、事後に
除染をきちんと行えば、命に別条は全くありませんし、
あれから6年経っておりますが、現場にいた自衛官の中で
健康被害があったという者は一人もおりません」
これも目からウロコというか、実に衝撃的な一言でした。
もっともこの話をある人にしたところ、
「今はなんともないかもしれないけどねえ」
と意味ありげに言われました。
その点についても、のちに隊長からある説明がなされました。
福一内の汚染状況が、可視化できる表。
爆発した3号機の周辺に散るコンクリート片が最も汚染されているほか、
1、2号機の配管が特に数値が高いですが、それ以外はそうでもありません。
まず17日9時48分、使用済み核燃料プールの水位が低下していた3号機に対し、
陸上自衛隊第1ヘリコプター団のCH-47ヘリコプター2機が消火バケットを使い、
計4回30トンの放水を行いました。
作業前のモニタリングでは、高度300フィートでも高い放射線量が検出されていましたが、
作業にあたった自衛隊員の浴びた放射線量は全員1ミリシーベルト以下だったそうです。
ヘリの床はタングステンで防護し、全員がヨウ素を服用しての作業でした。
この後、自衛隊の消防車が機動隊の高圧放水車と交互に放水を行いました。
映画「シンゴジラ」のヤシオリ作戦でこのシーンを思い出したのは
わたしだけではなかったと思います。
このとき、自衛隊の各飛行場から集合した大型破壊機救難消防車と救難消防車計5台が
3号機に対して約30トンの注入を行いました。
海自は下総基地から、空自は百里基地より3台、三沢基地より1台、小松基地より1台、
入間基地1台の合計6台を派遣しています。
自衛隊だけでなく、消防局もハイパーレスキュー隊の車両を多数投入し、
懸命の作業を続けたことも忘れてはいけません。
この時に全国から集結し、結成された増強中央特殊武器防御隊。
化学防護隊を持つ全ての駐屯地から、福島に部隊が派遣されました。
この時の会議の様子。中央のモニターに正対しているのが岩熊隊長です。
その後、放射能汚染した住民の除染を目的として設置された除染所。
立ち入り禁止になった円の外側を最多として、1万5千600名ものモニタリングを行い、
そのうち136名に対して除染処置を行いました。
作業に当たったヘリの除染もここで行っています。
除染作業所では、全員が例の白い防護服着用です。
Jビレッジはサッカーのトレーニングセンターですが、原発事故発生後、
自衛隊のヘリや消防車、人員や車両の除染を行う拠点となりました。
その後も作業員がここで作業服に着替えて原発に向かう「中継基地」となっていて、
芝のフィールドはヘリポート・駐車場・除染場・作業スペース・資材保管場所となりました。
Jビレッジの復興を支援するための資金をふるさと納税で当てているようですが、
今のところどうなっているのかは不明です。
ポイントをいくつか置き、そこでモニタリングを行い、
車などの除染もここで行っていました。
避難中の住民に一時立ち入りが許可された時、そこにも除染所が設けられました。
これは彼らの汚染に対する不安を取り除くのに大変役立ったと思われます。
自衛隊は南相馬市、浪江町など、立ち入り禁止になっていた地域での
行方不明者の捜索も行っていました。
原発被害だけでなく津波被害のあった部分でもあります。
瓦礫を持ち上げ、その下も捜索し(中央下)、捜索で発見され運ばれていくご遺体に対し、
合掌で見送っています。(右下)
捜索に当たった後、隊員自身が念入りに除染作業を行いました。
白の作業服はもしかしたらドラム缶に入れて廃棄処分でしょうか。
さて、こんな自衛隊の任務状況を淡々とお話される隊長は、
化学部隊の指揮官というだけあって、もし陸自の制服を着ていなかったら、
白衣を着て研究室にいるのが似合っているような学究タイプにお見受けしました。
ただしそれは知的な風貌がそう思わせるだけで、首から下は鍛えられた体、
そして何より真っ黒に日焼けしたたくましい腕と、どこからどう見ても自衛官です。
隊長の名前を検索すると、原発事故関連でいろんな記事が出てきますが、
その中でも目をみはる思いがしたのは、
14日朝、冷却機能が停止した3号機に冷却水を補給するよう東電から要請があり、
隊長ら6人が原発近くの拠点から、給水車2台と小型のジープ型車に分乗し向かった。
防護マスクと防護服に身を固めた。
3台が3号機の目前に到着した午前11時1分。
岩熊隊長が車を降りようとドアノブに手をかけた瞬間、
「ドン」という低い爆発音と共に、爆風が押し寄せた。
がれきが車の天井の幌を突き破って車内に飛び込んできたため身を伏せた。
ホコリで前も見えず、「助からないかもしれない」と思ったという。
という記事でした。
6年経った今、当時を語る隊長は、その中で一度もこのようなことを言いませんでした。
そのせいで、わたしはやはり化学の専門知識を持っている部隊の指揮官は、
ある程度任務の安全性を予測していたのかと考えてしまったくらいです。
「助からないかもしれない」
6ヶ月後になっても高濃度の放射能汚染を示す陸戦服は、その時の隊長の
指揮官としてではない、人間としての本能的な恐怖を代弁しているようでした。
しかし、それにも怯むことなく、当時日本中がすでに死の地域になってしまったと
思っていた福島で、彼らは「生命の危険を顧みず」、任務に当たったのです。
隊長の話は、この後福島とチェルノブイリの比較に入りました。
続く。