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Channel: ネイビーブルーに恋をして
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海軍の作った街、呉〜千福製造元・三宅本店の資料

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呉の酒造会社、「千福」製造元である三宅本店にある海軍資料についてお話ししています。
まずそこで見せていただいて驚愕した、昔の呉の地図をご覧ください。

地図中央下部分を拡大してみますと・・・

ほとんど何が書いてあるか読めないのですが、「からす小島」だけはわかります。
ここが現在の「アレイからすこじま」、潜水艦基地のあるところ。

前回も言いましたが、海軍がこの地にやってきて以降、この部分を全部
埋め立てて地続きにしてしまったのです。

横須賀にも土地を切って水路を作ってしまうし、海軍おそるべし。

これが現在の呉。
画面下部中央の緑色の突堤がからす小島だった場所です。
淀川製鋼のあるところも、市街地もほとんどが海軍が埋め立てました。

軍港になってからの呉の地図です。
「大呉市」という言い方が、海軍のお膝元ならでは。

上の地図も、拡大図も軍港部分は消されています。

呉の写真。
電柱には「呉鶴」という三宅本店の広告が見えます。
昔は電柱というのは重要な広告媒体だったんですね。

何か見覚えのある景色だなあと思ったのですが、もしかして・・・?

「『この世界の片隅に』に出てましたっけ?」

「多分そうだったと思います」

藤森清一郎少将の遺品をまとめて手に入れたようです。
ちなみにこの名前で画像検索すると、大量にオークションサイトが出てきます。
どこからかその筋に手紙などが流れたみたいですね。

三宅さんがオークションでこれらを手に入れたのかどうかは確かめませんでした。

藤森少将は「伊勢」副長、「間宮」艦長、「朝日」「平戸」艦長、
「岩手」艦長など、艦艇畑を一貫して歩んできた人です。

「防備隊」という文字が見えますが、横須賀防備隊司令も経験しています。

兵学校ではあの井上成美と同期で、卒業時のハンモックナンバーは
89名中25番(井上は2番、草鹿任一は21番)でした。

 

松岡大使の写真があるので、国連脱退の件についての論説ではないかと思われます。

そもそも日本が国連を脱退したのは、満州国建国を反対されたからですが、
松岡大使はこの時

「日露戦争での10万の英霊の犠牲と、満州事変で確保したものである」

と日本の立場を訴えました。
結局日本以外の全会一致で建国に反対され、松岡は席を蹴立てて?
日本に帰国したわけですが、日本国民の声は肯定的なもので、
さながら凱旋将軍を迎えるかのような熱狂の声が起こったそうです。

この新聞にはしかし、

「外国記者の印象 松岡全権の演説好評」

とあり、当時のメディアが必ずしも国の代弁者ではなかったことの証明になっています。

まあもっとも、自国の首相が外遊で成果を収めても、だからこそ報道しない
(もし失敗していたら叩くために報道する)のが現在のメディアですから、
昔も今も国の意見と同調することの方が珍しいわけですけど。

「どこの部分で何の役に立っていたかもわからない」

戦艦「陸奥」の部品。
特別なルートで入手したものでもなんでもなく、引き揚げられたとき、
小さなパーツは無造作にその辺にごろごろ転がしてあったので、
適当に見繕って持って帰ることができたという驚愕の証言がありました。

謎の理由で爆沈した艦のパーツなので、少し何かお祓いみたいなことを
するべきではないかと思ったのですが、全くその様子はありません。

おっしゃるように、昔は何かとおおらかというかいい加減だったのでしょう。

呉軍港は、終戦間際の20年7月に二回大空襲を受けています。
この写真は米軍が空撮した爆撃の様子。

攻撃されている軍艦は戦艦「榛名」であると英語で書かれています。

説明が書かれていませんが、やはり同じ空襲の空撮。

着底して重油が流れ出しています。

昭和20年9月になって作成された「海軍英霊に関する件」。

経費として

●遺骨箱 ●同包装 は従来通り交付のこと

●供物料 ●埋葬料

あとは、階級別供物料として

● 高等官 63円
● 判任官 43円
● 兵・軍属 33円

呉鎮長官より各5円宛

とあります。

なんという名前かわかりませんが、儀式用らしい酒樽がありました。

これを海軍に納める時には、このようなカバーをかけたようです。
向こうに見える旭日模様は、おなじみアサヒビールの箱。

昭和13年と書かれた覆いもありました。

再びガラスケース内の海軍グッズコレクションに戻ります。
塗りに象嵌のお盆には複葉機と富士山が描かれ、

「飛行第三連隊」

とあります。

進水式の記念ハガキがありました。

その左、除隊記念に自分の顔写真をプリントした盃を製作した人がいたようです。

「この時代にこんなものを作ったら、さぞお金がかかったでしょうね」

「いいとこの坊ちゃんだったんでしょう」

なんと電球にも錨のマーク入り。

当時の真空容器。
大日本防衛食株式会社と銘があります。

物資不足は全国に蔓延していた頃も、有田というのは石炭の産地だったせいで
比較的裕福な地域とされ、有田焼の窯元にはこのようなものを作らせていました。

ゴムのパッキンが蓋に付いていて、食べ物を入れてから容器を熱湯に入れ、
その後急冷することによって中を真空状態にするという仕組みでした。

蓋には

「矢印のくぼみを釘などで叩くと蓋が割れます」

と書かれており、これが缶詰のように使い捨てだったことがわかります。
これを贅沢というのかなんというのか。

有田には余裕があったので、この容器はかなり製作されましたが、
肝心の詰める食べ物がなかったため(^◇^;)生産は中止されました。

帆立貝のグラタンを作った後に、記念皿に再利用した例(嘘)

軍艦「伊勢」が対象3年9月、日本をぐるーっと回って、
セントウラジミールに寄港したという「巡行記念」です。

なぜ帆立貝のカラなのかはわかりません。

軍艦でピアノを運ばせたり、神社一式を持ち帰ったり・・。

昔の軍艦艦長は結構やりたい放題だったらしいことを、わたくしは
「長門」の艦長の息子という人に散々聞いたことがありますが、
普通の軍人は流石にそこまでの特権はなかったようで、
軍艦に便乗してどこかに行く目的がある時には、このような証明書が必要でした。

呉鎮守府の発行で、この収入役の長谷部栞(しおり?)さんという人は、
名古屋まで乗せてもらっています。

三菱のマークの入った進水式用の斧は「羽黒」進水に使われたものです。

「大和測量記念」という文字がかろうじて読める壺。
なんの測量なのか、なんでそれが壷を作ることになるのかはわかりません。

こちら全体的に陸軍の盃を集めたコーナー。
支那事変、満州事変、上海事変などの参加記念並びに凱旋記念。

戦争も末期になるとこんな悠長なことをしている場合ではなくなりましたが、
勝っていた頃は、いちいち戦争に「参加記念」を配っていたようです。

陸軍除隊記念の盃で、ヘルメットの形をしたものの底には、
飛行機、プロペラなどをあしらい、除隊した人の所属を表しています。

戦艦「榛名」に昭和8年乗っていた乗組員の記念の寄せ書きのようです。
その「榛名」は、先ほどの写真にも写っていましたが、呉大空襲で大破着底しました。

wikiには詳細な写真が掲載されていたので最後に挙げておきます。

続く。

 


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