広島県呉市の酒造業、三宅本店の見学で見たものをお伝えしています。
三宅本店が海軍に重用されるようになったのは、赤道や熱帯域を長期航海しても、
その酒品質に変わりがないということを認められてからです。
その長期航海とは、つまり今現在も海上自衛隊で受け継がれている
初級士官の訓練である練習艦隊の遠洋航海に他なりません。
この写真は、練習艦隊で「八雲」に乗り組んでいた根本文助くんという
二等水兵が、自分の航路を示す立派な額を、神社仏閣に奉納した額です。
本村出身とありますが、おそらくは広島県安芸高田市か庄原市の「ほんむら」でしょう。
遠洋航海のルートは、ハワイからサンフランシスコ、そのあとサンディエゴなどの西海岸に
寄港した後は、ヤルード、ボナペ、トラック、サイパンと、その後の海軍兵学校の
遠洋練習航海の基本となるパターンであったことがわかります。
兵学校67期の遠航についてお話しした時にも説明しましたが、
ヤルード以降のミクロネシアの帰港地は、いずれも第一次世界大戦後、
日本に譲渡され、統治していた島ばかりです。
ところで、今現在でも練習航海と同じコースを一般人が船で巡ることは、
富豪でもない限りまず不可能でしょう。
昔はさらに、一生外国など見ずに死ぬ人がほとんどでしたから、
練習航海のために海軍に入る者がかなりの数いたのです。
根本二水はきっと裕福な家の出で、自分の息子の誇らしい体験を
後世に残す意味もあって、家族がこのような額を奉納したに違いありません。
資料室にはこんな練習艦隊の全体写真がありました。
文字が読みにくいのですが、昭和8〜9年、「浅間」艦上でしょうか。
この時の練習艦隊は、地中海ルートでスエズ運河を航行しています。
こちらは「浅間」の水兵さんが全員で写真に収まったバージョン。
真ん中に、艦長など、幹部がいます。
当たり前ですが、皆若いですね・・・。
こちらは陸軍軍人が山東出兵の記念に授与されたらしい塗りの茶碗。
先ほどの南洋諸島のように、山東、そして青島も、元はドイツの権益でしたが、
第一次世界大戦で日本が攻略し、その後講和条約で権益を得たものです。
ところが、中国側がドイツから日本に権益が移るのに反発し、学生を含め
反乱のような武力行動を取り出したため、日本は自国民を保護する目的で
出兵を行いました。
この一連の騒動で「漢口事件」と呼ばれるものは、海軍の水兵が中国人少年に投石され、
それがきっかけで口論になったのに乗じた中国人の群衆が建物を破壊し、
「日本の水兵が中国人を殺した」
というデマを流しながら日本租界になだれ込み、殺戮を行った事件です。
南京大虐殺とやらを未だに日本に突きつける中国ですが、この件一つ取っても
放火、略奪のほか妊娠中の女性に暴行したり、遺体を放置したりと、
残虐なのは明らかに中国の暴徒がわであったことは明らかです。
日本側は海軍陸戦隊が威嚇のために発砲をしただけでしたが、
彼らはこれで中国人が数十人死んだ、と例によって嘘の情報を日本側に突きつけ、
謝罪と陸戦隊の撤退を要求しています。
この茶碗の箱に刻まれた昭和3年の出動というのは、第2次出兵で、
この時にも北伐軍は日本人家屋ならびに日本人への、集団的かつ計画的な、
略奪・暴行・陵辱・殺人事件である、済南事件を起こしています。
このページの中程にある日本人被害者の検死記録は、文字を見ただけで
凝然となるような残酷なものですが、中国側は、この時の検死写真を
のちに731部隊の人体実験写真だと偽って誤用しました。
曲がった煙突が特徴的な海軍の軍艦をかたどった物入れ。
上半分がぱかっと外れます。
名前は聞きませんでしたが、屈曲煙突を持つ「長門」ではないかと思われます。
屈曲煙突は、軍艦の高速航行中、艦橋が風を切って艦橋後方の気圧が下がり、
排煙が艦橋に流れ込むのを防ぐための形で、「芋虫煙突」とも称しました。
友鶴事件で設計不備の責任を取らされ、謹慎処分になった藤本喜久雄大佐の考案です。
平賀譲大先生はその問題に対して煙突に蓋をさせたのですが、
うまくいかず、結局屈曲煙突に換装されました。
平賀譲は案の定不格好だと言って腐していたそうですが、それに限らず、
大先生は保守的で、斬新なアイデアをだす藤本そのものが嫌いだったようです。
旭日旗の書かれた茶碗、日の丸の茶碗には
「ハハノセナカデ チサイテデ フウッタ アノヒノヒノマルヲ」
と書かれています、
左下の物体は、紙粘土で作られたらしい戦車。
双眼鏡。
おそらく三宅さんの強いご意志の賜物であると思われますが、
かなり丹念に海軍グッズを買い集められたようです。
ただの双眼鏡ではなく、「呉 廠」と刻印されています。
これは実際に三宅本店が河内屋だった頃に使われていたものかもしれません。
「とにかく・・・・重いです」
と三宅さん。
木材は紫檀か何かでそれだけでも重そうなのに加え、大理石があしらわれ、
レジスターですが、つまりは金庫の役目もしていたので、盗難防止かも。
「海軍は必ず錨、陸軍は星が入っていることが多いです」
左の茶色い盃は陸軍カブトをかたどったもの。
なぜか緑色の銃とカブトをくっつけた「箸置き」もあります。
当時のタバコパッケージコレクション。
「ピース」「光」「敷島」「暁」「ゴールデンパット」
「チェリー」「響」「みのり」「昭和」・・・・。
皆どこかで聞いたり、多分昭和の小説などに出てきた覚えがある名前ですが、
さすがにパッケージには見覚えがありません。
さて、わたしがあまりにも資料に目を爛々と輝かせて食いついたせいか、
三宅さんは一般公開されている工場の見学路から離れ、
海軍的歴史資料が無造作に置かれている一室に連れて行ってくださいました。
もしもわたしが一人でこれらを見ることができたら、思う存分一つづつ、
資料を読み、写真を撮って過ごすところですが、そうもいきません。
解説を聞きながらそれでもできるだけたくさんを写真に収めました。
この3枚一組の絵画は、呉に天皇陛下がご行幸賜った時を描いています。
天皇陛下の在わすお召艦には「かいもん」と読めないことはないのですが、
「海門」
という、開聞岳から名前を取られた(漢字は違うけど)スループ船、
三等海防艦しかそれに近い名前の船はありません。
昭和9年、呉鎮守府で行われた相撲大会で優勝したのは「榛名」チームでした。
というわけで、みなさんにこりともせずに記念写真を撮っております。
士官が椅子に座り、その後ろに下士官、床に座ったり後ろの方にいるのが水兵さんたち。
結構なイケメン水兵やイケメン士官が混入しております。
海軍技手、山田学一くんは、職務が格別勉励であったため、
ご褒美として97円50銭をもらえることになりました!
これって、現在のいくらくらいだろうと思って計算したら、
このころの1円はざっと今の1,000円くらいの価値がありますから、
なんと10万円くらいを褒賞としてもらったことになります。
よっぽど真面目で優秀な技手だったのでしょう。
ていうか、海軍太っ腹ですよね。
左は呉海兵隊で使われていた教科書のページをコピーしたものです。
右ページは見張りの時にこの左舷前方のことを「左舷バウ」、
艦尾右舷側であれば「右舷クォーター」と呼ぶ、などということが書かれています。
左ページには
「測深器具、測定器具の概要及び使用法」
として、「測沿線」(レッドライン)とか底質を知るためにとか、
まあそういう説明がかいてあります。
こちらは、千坂智次郎(ちじろう)という明治期の海軍軍人の辞令。
明治32年に八雲の航海長となった千坂少佐は、よく年
八雲から夕霧の艦長に転勤を命じられました。
調べてみたらちゃんとウィキに写真まで載っている人でした。
兵学校卒業時の席次は43人中29番。
優等生ではありませんが、同級だった鈴木貫太郎は13番で大将になり、
千坂さんも中将にまでなっています。
こちらは海軍少尉十川仁八の水雷学校卒業証明。
「卒業したから学生を被免」
という言い方をするのだそうです。
左は佐々初喜という呉の造船部員になった人のもの。
なになに、マル秘のハンコが押された資料があるぞ。
「匿名検閲準備参考資料」
とされた昭和9年の軍艦「山城」の名前入り秘密文書。
どうも内部で口頭諮問が行われ、そのために用意した資料のようです。
昭和9年というと、「山城」艦長はあの南雲忠一大佐でした。
何か事故でもあったのか?と思ったのですが、左のコピーを見る限り
大したことではなさそうです。
今でも海自の施設に入るには、なんらかの手続きが必要ですし、業者もそうでしょう。
これは鎮守府内での作業のために出入りしていた銭高組の大工、森本さんのために
発行された木片の「門艦」。
こちらも辞令です。
明治期には見張りのために海軍は要所に「望楼」というポイントを定め、
そこから海上交通を監視していたのですが、この篠崎さんという人は、
望楼に取り付けられた器具の点検のため、和歌山県の日ノ御埼沖の望楼に出張を命じられました。
昔の呉の地図は軍港の部分が塗りつぶされていて、大変監視が厳しく、
国民は目を塞がれ耳を塞がれ、と暗黒時代であった・・・。
というのがテロ等準備罪に顔色変えて反対した民進党と共産党とその他の主張ですが、
(もうわたし、山尾志桜里の質疑を聞いてあまりのバカさに爆笑させていただきました。
”インターネットの監視を行う”ってつまり監視社会じゃないですかー!とか、
”目配せしたら犯罪になるのかー!”とか、キノコ採りとか同窓会とか。
あれをやたらと持ち上げてる小林よしのりとその一派も、お里が知れますわ)
それはともかく、なんかこういう資料を見ていると、普通に海軍、工廠の中とか
見学させてるんですよね。
一枚で二人まで、しかも「観覧券」。
気軽に一般開示している様子がこの観覧券から伺えるのですが・・・。
何でもかんでも「戦前に戻りつつある」とか言ってる人たちって、
戦前がとてつもなく暗黒時代であったということを大前提にしているわけですが、
実は当時のことをあまり知らないで言ってるんじゃないのかなとふと思いました。
続く。