練習艦隊の遠洋航海に先駆けて行われる艦上レセプションの席では、
練習艦隊とプリントされたパックのお酒が振舞われます。
三宅本店製造「千福」のお酒で、我が家には最初のレセプションで
持たせてもらったものが今でも食品庫の片隅で陽の目を見ることなく
ひっそりと保存されております。(何年前のだ)
その後、海軍糧食について研究しておられる高森直史氏の著書や講演会などで、
三宅本店と海軍の関係について知ることになったわけですが、このたび
降って湧いたようなご縁で、三宅本店の工場と資料館見学ができることになりました。
飲めないこともあり、酒造そのものに激しく興味を持っているわけではありませんが、
軍港呉にあった故に、海軍そのものと深い歴史的つながりを持ってきた
酒造会社見学となれば、全く話は別です。
話を持って来たのは、案の定そんなことを夢にも知らなかったTOですが、
異様なほどのわたしの食いつきぶりに驚きつつ、日程をセッティングしてくれました。
呉駅前からタクシーに乗ると、「千福」だけで会社の前に到着。
升をかたどった噴水?が道沿いに看板がわりに置かれています。
このキャッチフレーズのCMはダークダックスの歌で記憶している方も多いでしょう。
サトウハチローの「思いつき」から生まれたそうです。
先日ここにアップした昔の呉でロケされた刑事もののシーンで、
この煙突が写っていましたね。
今ほど周辺に高い建物のない頃はこんなに目立っていました。
芸予地震(2001年)では三宅酒造も大きな被害を受け、酒蔵が倒壊しましたが、
やはりというか煙突は無事だったそうです。
保護のために煙突に金属枠を取り付けたため、白煉瓦にところどころサビが浮く結果に。
煙突が白いのは耐熱性の珪質岩を使っているからです。
今の人たちは「シリカ」といった方がピンとくるでしょうか。
「これ、下から見ると歪んでるのがわかるんですよね」
と三宅さん。
ヒットしたアニメ「この世界の片隅に」のシーンでは、空襲で焼け跡になった呉の街に
この煙突が立っている様子が描かれているそうです。
「千福」紙パックの大きな看板がある工場見学路の入り口。
「モンドセレクション銀賞受賞」
だそうです。(棒なし)
ところで左側の吊り屋根の下にぶら下がっている丸いもの、
みなさん何かご存知でしたか?
これは杉玉と言いまして、杉の葉先を集めてボールの形にしたものです。
造り酒屋などの軒先に吊すと、それは「新酒を仕込みました」というお知らせ。
吊るされたばかりの緑色の杉玉はやがて枯れて茶色がかってくるわけですが、
新酒の熟成具合がその枯れ具合で誰が見てもわかるという仕組みです。
看板であり、時計の役割をしたり、アイキャッチャーとしての存在感もあり、
昔の人々の科学的な知恵は粋なものだと感心するのですが、
元々はお酒の神様に感謝を捧げるという神事的な意味合いを持っていたとか。
まあ、酒そのものが神事に欠かせない神聖なものでもありますからね。
同社は一般にも工場見学を受け付けております。
酒造会社がこのように見学ルートを設けることは当時は珍しかったとか。
見学コースは工場の上に設けられた回廊を歩きながら工程、
例えばラインで流れてくるパッケージや中身に少しでも違う部分があれば弾き出し、
それを人が手にとって確認している様子などを見ることができます。
が、基本製造工程というものは大々的に公開するものではないので、
工場そのもののの写真を撮ることはご遠慮くださいとのこと。
しかしながらわたしにとっては、ラインの写真など(っていっちゃいけないか)
撮れなくとも、痛くも痒くもありません。
冒頭写真のような「海軍的に」意味のある資料の撮影さえ許していただければ。
さて、ここで冒頭の写真をもう一度見ていただきたいのですが、
つまり海軍が同社に対して発行した「証明書」です。
画面を見にくい方のために転載しておくと、
証明書 清酒呉鶴 瓶詰め
右は本艦大正9、10年度練習航海に於いて酒保に搭載し
南阿南米方面を公開して内地帰省まで二百二十余日を経過し
その間赤道を通過すること二回、太陽直下を通過すること六回に及びしも、
変質変味等なく毫も飲用に差し支えなかりしものたることを証明す
大正十年四月十四日 軍艦浅間
酒保委員長海軍中佐 成富保治 酒保委員海軍大尉 小島正
三宅酒造が海軍御用達になったのは、海軍のお膝元、というより海軍が造った街、
呉に発祥したからであることは間違いありませんが、海軍の要請に答えて
練習艦隊の長期航海にも品質が変わらない酒を研究し、実際に船に乗せて
その結果このようなお墨付きをもらうというような「テスト」に合格したからです。
ちなみに、最初にこのテストに合格したのはご存知「千福」が先で、
大正3(1916)年のことでした。
おそらく、この「呉鶴」は千福の後継商品で、発売に当たって
千福で行ったのと同じ「練習艦隊の船に乗せて品質が変わらないかどうか」
というチェックを行い、証明書を発行してもらったのでしょう。
ともあれ、三宅本店は(当時は河内屋)呉鎮守府だけでなく、海軍全体、
つまり各地の鎮守府に酒を卸すようになったのです。
さて、ラインの写真は撮れずとも、見学コースの至るところにある
これら「海軍的骨董品」はいくら写真を撮ってもオーケー、と了解を取り、
目を輝かせてお酒のことよりこちらの質問ばかりするわたし。
盃を中心に展示されているこれらの食器類は、(おそらく社長ご自身が)
呉の古物商を回って収集したものなのだそうです。
その数は膨大で、これだけのものを集めるのには大変だっただろうと思いきや、
「こういうのは美術的価値は全くありませんので、呉では
一山いくら、みたいな値段でいくらでも出てきます」
とはいえ数限りのあるものであるし、誰かが収集して体系的に整理すれば
立派な価値を持つ歴史的遺産となるわけです。
その意味でも、三宅本店さんという海軍と所縁の企業が、こういうことを
積極的に行い、しかもそれを公開してくれているということに、
わたしは当ブログ主催者として?心から感謝したのでした。
この棚には、下段に海軍で使用されていたブルーの錨マークの食器、
上段には漆に象嵌の盃が展示されています。
これら、桜、錨、そして旭日旗の模様の入った盃がどうしてこう
たくさん残されているかと言いますと、それは主に個人が、
除隊記念に海軍らしいデザインの盃を誂えるという習慣があったからです。
入隊の時にではなく、満期になってお勤めを終えた時、
特別あつらえの盃で乾杯をした、ということのようですね。
そのための盃、「海軍満期」などと金文字で描かれているものの他に、
この中央上にも見えるように「軍艦◯雲 回航記念」などというのもあります。
今でも自衛隊の艦艇では、戦技を互いに競い合う訓練を行います。
大正15年、第一艦隊で行われた弾薬供給競技で一位となった
軍艦「長門」が賞品として授けられた銀杯がありました。
予備練習生、海軍機関兵などの満期記念に混じって、
「征露記念」
の盃もあります。
「ははあ、征露記念・・・征露丸ですね」
わたしが何気なく呟くと、横にいたTOがびっくりして、
「え!正露丸ってそういう意味だったの」
「戦後は正しいという字に変わってしまいましたけどね」
元々、ロシアに戦争に行ったみなさんのお腹の調子を整えるためというか、
あの森鴎外が音頭をとって、チフスや赤痢対策に陸海軍に配られた、
つまり「露西亜征伐のお供」だったわけです。
ちなみに商品名のマークに喇叭が採用されたのは日露大戦後。
あの死んでも喇叭を離さなかった木口小平さんの逸話からです。
桜に錨、そして菊の御紋に短歌が書かれている盃。
「大君に 捧げし命 ながらへて
目にこそうつる 古郷の ◯◯」
肝心の最後の二文字がわかりませんが、除隊になって長らえた生を謳歌し、
故郷の光景を目に刻んでいる(多分)喜びを詠っています。
生きて帰ってきてすみません、みたいな風潮はまだなく、
日露戦争は勝ったせいかまだしも「古き良き戦争」という一面がありました。
右側の海軍どんぶりは、深川製磁のものでしょう。
復刻版が横須賀軍港めぐりのチケットカウンターで売っていたので、
大変高価なものでしたが、わたしは大枚叩いて二つ購入し所持しています。
元々、軍艦の中で割れにくいように作られた食器類ですが、
使っている復刻版はさらに輪をかけて、不気味なくらい()丈夫です。
この写真のお菜の器には
「大村海軍航空」
と記されています。
大村海軍航空隊は長崎県にあり、昭和20年4月の菊水一号作戦には
16機もの特攻機を出したのをはじめとして、特攻と邀撃を繰り返し、
空襲で壊滅的な被害を受けたこともあって5月5日には解体されました。
721空に編入された搭乗員も、5月17日の特攻により壊滅しています。
つまりこれらの食器でご飯を食べた多くの若い隊員たちは、おそらく・・・・。
現在、大村航空基地には救難任務を主とする第72航空隊が配備され、
UH-60Jを擁する救難部隊は、水難救助、五島列島や壱岐島・対馬の急患搬送など、
陸海空自衛隊でもっとも多数の災害派遣、救助任務に出動する部隊
として日々の任務にあたっています。
漆に象嵌で、錨鎖の巻きつく錨をあしらったもの、そして
海軍旗が掲揚されたマストを描いた凝った仕様の盃。
これだけ手がかかっていても、明らかに戦前のものであっても、
美術品としての価値はゼロ、というのがなんだか少し遣る瀬ない気がしますが、
だからこそ一企業が散逸する前にここまで収集することができたとも言えます。
三宅本店の「海軍コレクション」は、この他にも海軍に関心を寄せる者なら
まさに垂涎ものがたくさんありました。
続いてそれらをご紹介していこうと思います。
続く。