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空で、海で、陸で〜ミリタリー・ウーメン

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 戦艦「マサチューセッツ」内展示の「ミリタリーウーメン」から、続きです。

 

「我らの眼は空にある」

というこのポスターはC・A・P、シビル・エア・パトロールのもの、
アメリカ空軍の補助組織として真珠湾攻撃以降の1941年に組織されました。

ハワイを襲撃に続き本土が攻撃されるかもしれないという警戒を深めたアメリカは、
民間のボランティアを組織し、ローカルエリアでの空の守りを固めんとします。

空からの監視を任されることになったアマチュア飛行家たちは、
まず機影を見分けるための訓練を受け、非常用装置も軍によって供出を受け、
航空攻撃の訓練もレギュラーに受けていたということです。

CAPは民間パイロットの軍補助組織として、国境や沿岸の監視のほか、
軍の訓練補助、空輸業務、その他の任務をこなしました。

戦争中、 CAPは57隻ものUボートを攻撃し、そのうち2隻を撃沈しています。
これらの実績が認められ、戦後CAPはそれまでの陸軍から
新しく編成されたエアフォースに編入されることになりましたが、
それはあくまでもボランティアの非営利団体としてであって、
かつ慈善的な性質を帯びたものであるとされ、
直接の戦闘の活動に決して関与することは二度とありませんでした。

 

ちなみに、女性搭乗員による補助空輸部隊、WAFS、そして女性飛行部隊
WASPの発足は、男性パイロットの負担を大きく軽減することになりましたが、
軍のために史上初めて空を飛んだ女性パイロットたちは、戦争中
そのうち38名が軍務遂行中に亡くなっています。

 

物資の不足にあえぐ戦争末期の日本では「ガソリンは血の一滴」と言われ、
官民一体となって大変な節約を余儀なくされたものですが、
金持ち国アメリカもほぼ同じような呼びかけをしていたらしいですね。

当時のアメリカのリサイクル事情については、以前戦艦「マサチューセッツ」について
お話しするついでに述べたことがありますが、なんとこのポスター、

「廃油を爆弾のためにとっておきましょう」

として、リサイクル油の節約を呼びかけています。

アメリカの一般家庭は、当然ですが、開戦に対し衝撃を感じました。
今までとは違う、という意識が各家庭に節約の意識を持たせ、
台所から無駄を出さないような意識が浸透し、国からの呼びかけもあって、

「贅沢は敵だ」

というムードになったということです。

そして可能なかぎり、戦争に必要な武器の原料のために
市民はあらゆる消費者製品をリサイクルしました。

例えばナイロン、合成繊維のストッキング、布切れ、スクラップのタイヤや金属、
ビニール製のレコード盤、そして死んだ動物など。
(死んだ動物とは具体的に何かわかりませんでした)

この写真は当時偏在した、典型的なリサイクルを呼びかけるポスターで、
マニキュアをした手が持つフライパンが廃油をリサイクルし、それが
武器に必要な燃料の生産に繋がっているというイメージを強調しています。

 

マーサ・レイ Martha Raye (1916-94)

チャップリンの「殺人狂時代」にも出ていたコメディエンヌで女優。
この写真を見れば、まるで軍籍にあった女性のようですが、そのあだ名も

「マギー大佐」(Colonel Maggie)

もしかしたら、これは「ボギー大佐」のもじりかもしれませんね。
蛇足ながら、「ボギー大佐」のボギーとは人名ではなくゴルフの「ボギー」のこと。

作曲者アルファードの友人にいつもゴルフでボギーを叩き、
「カーネル・ボギー」というあだ名を奉られた人物がいたということです。

ついでに超蛇足ながら、「ボギー大佐」には英語圏で有名なこんな替え歌が・・

Hitler has only got one ball

 

それはともかく(笑)、彼女がなぜ大佐になったかというと、
第二次世界大戦、朝鮮戦争、そしてベトナム戦争を通じ、
精力的に前線の慰問を行ったことからです。

ベトナム戦争の時、彼女は米国陸軍特別部隊を訪問することによって
「名誉グリーンベレー」となるなど、その真摯で誠実な軍への協力は
いつしかグリーンベレーの兵士たちに彼女をこう呼ばせました。

マギー大佐。


1994年に彼女が亡くなったとき、アメリカ政府は彼女の戦時中の
功績をたたえて、アーリントンの国立墓地に埋葬することを提案しますが、
生前の彼女の遺志により、ノースカロライナ州フォートブラッグ内の墓地に、
アメリカ軍全体の名誉中佐、並びにアメリカ海兵隊名誉大佐の待遇で埋葬されました。

彼女はこの場所に葬られることになった唯一の民間人です。

わたしはこのことを知った時、ベット・ミドラーが主演した映画、

「フォー・ザ・ボーイズ」

を思い出し、主人公はマーサがモデルではないかと思ったのですが、
実は映画公開後、マーサ・レイ本人が、

「映画の内容は自分の経験談を無断引用したものだ」

として、ミドラーと映画プロデューサーを告訴し、結局
マーサ側の敗訴に終わったということがあったと知りました。

なんか、どっちもどっちというか、色々と全体的に残念すぎるというか・・・。

 

さて、陸軍がWAACを組織した2ヶ月後、エレノア・ルーズベルトが
推し進める形で、女性の海軍組織、WAVESが作られました。
WAVESについてはなんども言及していますが、

Woman's Volunteer Emergency Service

の頭文字を合わせたもの。
戦時ゆえ「ボランティア」「イマージェンシー」 という言葉が入っていることにご注意ください。   アメリカ海軍で現在も女性海軍軍人を WAVESというのはこの流れですが、
「ボランティア」(志願)はともかく、「イマージェンシー」という言葉が
組み込まれたこの名称が海上自衛隊の女性隊員に使われていることには
はっきり言って、かなーり違和感というか疑問を持っているわたしです。

 

ミルドレッド・ヘレン・マカフィー Mildred Helen McAfee(1900-1994)

のことは以前一度女性軍人を取り扱った項で話したことがあります。
彼女は第2次世界大戦中に米国海軍のWAVES初代司令官となった学者で、
また海軍功労賞を受賞した最初の女性でした。

学者であった彼女は、錚々たる軍歴の他に、ボストンの名門女子大学
ウェルズリーカレッジの第7代学長、ユネスコの米国代表団、
ジョンF.ケネディ大統領の民間人権委員会の共同議長などを歴任しています。

 

1944年の10月になって、WAVEに最初に入隊したアフリカ系女性の中から
二人が海軍士官に任官しました。

マサチューセッツのノーザンプトンにあった海軍予備士官学校を出た
ハリエット・アイダ・ピッケンズとフランシス・ウィルズ(写真)です。

また、陸軍のWACに所属していた6500名のアフリカ系女性のうち、
146名が士官でした。

今日のアメリカ軍では全体数の15パーセントが女性士官であり、
女性全体の33パーセントがアフリカ系であるという統計があり、
今や彼女らの中から大将、代将、そして中将も誕生しています。

 

さて、次は陸軍です。

女性部隊の発足が一番早かったのは陸軍で、当初は

WAAC( Woman's Army Auxiliary Corps 女性の陸軍補助部隊)

と言いました。
戦場に行くことで不足する男性の代わりに補助業務をするのが目的でしたが、
翌年には「補助」のAuxiliaryが外されて現在の WACになりました。

オベータ・カルプ・ホビー Oveta Culp Hobby(1905-1995)

は、女性で初めて陸軍の女性隊 WACの初代司令となった人物です。
残された写真を見てもかなりの美人とお見受けしましたが、
彼女はテキサス州知事夫人という身分でありながら、最終的に
大佐というランクにまで昇進し、女性初の戦中功労賞を受けています。

戦後にはアイゼンハワー大統領のもとで保健福祉省の最初の事務官となって
その分野で活躍をしました。

Trendsetting Texan(テキサスの流行仕掛け人)

というのが彼女のキャッチフレーズです。


ルース・チーニー・ストリーター Ruth Cheney Streeter(1895-1990)

ストリーター大佐は海兵隊における女性司令官第一号です。
1943年に発足した女性の予備海兵隊は最終的には831人の士官、
17714人の下士官兵という規模になりました。

海兵隊における女性部隊の役割も、男性の負担軽減というのは他軍と同じです。
海兵隊の女性部隊が行ったのはパラシュートの調整、地図の作成、
そして無線通信分野など、多岐にわたりました。

また、コーストガード、沿岸警備隊の女性部隊SPARSは、なんども書いていますが
「センパー・パラタス」というラテン語とその英語の「オールウェイズ・レディ」、
つまり「即応」という意味を表す言葉の頭文字4つからできた名称です。

戦時中、書記官から掌帆兵曹までが沿岸警備隊の女性軍人が受け持ちました。

さて、ここで彼女らの制服をご覧いただきましょう。
左から順番に、

●WACジャケット 100%ウール 
 帽子は金のパイピング入り 陸軍航空部隊のパッチ付き

●海兵隊予備部隊制服 当時の女性軍人の制服で最も人気があったデザイン。

●WAVES ドレスブルー パラシュート整備の女性たちの製作による

●WAFS ジャケット 袖刺繍、ボタンはシルバー、襟に「US」のピン    

(左)海軍 ディナードレスユニフォーム、1980年台
     
公式なフォーマルイブニング、民間人なども出席する夜会の時に着用するドレス。
「フラッグ・オフィサー」つまり海軍将官、勤務中の海軍士官には
プロトコルとしてこのドレスの着用が要求されましたが、基本はオプションでした。

(右)カデット・ナース ジャケット 綿サッカー製

カデットナースというのは見習い看護師のことで、高校を出てすぐ、   
看護学校で訓練及び準備中の看護学生を意味します。

1943年から48年まで、14万人もの若い女性が給料をもらって訓練を受けました。

 

どれも素敵ですが、海兵隊の制服が女性に人気があったのはよくわかりますし、
海軍のドレスは「オプションであった」としても、皆が着たがっただろうなと思います。

当時のアメリカ軍が女性を軍に徴用したのは男性が戦地に取られ、
本来なら男性がしていた仕事を女性が埋める必要性あってのことですが、
そういう切羽詰まった事情であっても、イメージ戦略を怠りなくし、
特に制服についてはかなり女心をくすぐるおしゃれなものを
各軍が競って採用したらしいことが、これを見てもよくわかりますね。

 

続く。 

 


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