マサチューセッツのフォールリバーにあるバトルシップコーブ。
そのメイン展示は何と言っても戦艦「マサチューセッツ」です。
1日ではとても全てを見終わることができず、結局二日続けて通いました。
今日はもう一度「マサチューセッツ」艦内に戻ってお話しします。
「マサチューセッツ」シリーズの時にご紹介しそこなった、来客用のスナックスタンドです。
この日は平日のせいか営業していませんでした。
砲弾の上に跨った得体の知れない動物が「ジョージ」。
「チャウライン」とは、兵隊用語で「食事に並ぶ列」のことです。
ハンバーガーやホットドッグの類とはいえ、なかなか充実したメニューです。
スープにはボストン名物のコーンチャウダー、トマトビスクまである!
ここはメインデッキのある階ですが、「ジョージのチャウライン」を通り過ぎ、
一旦甲板に出てもう一度中に入ると、メモリアル・ルームが現れます。
「このドアの向こうは、第二次世界大戦で祖国を守るために亡くなった方々を
慰霊顕彰するためのメモリアルルームです」
「一万三千人以上の人々の御霊の名前が艦内の区画に刻まれています」
「入室の際には帽子を取り、室内では御霊に敬意を評して静粛にお過ごしください」
「飲食は禁止です。12歳以下のお子様は保護者と一緒にお入りください」
これを読んだわたしはその場でキャップを取り、室内に入りました。
ちなみにビデオを見るためにベンチに腰掛けた際、帽子を置き忘れたのですが、
次の日また来たら、置いたところにそのままありました。
入室するとまず、「メダルオブオナー」のガラスケースと旗の数々。
海軍・海兵隊・沿岸警備隊の栄誉賞はデザインが同じであるようです。
「エアフォース」とありますが、よく考えたらアメリカも日本と同じく、
第二次世界大戦が終わるまで「空軍」というものは存在しませんでした。
案外知られていないことですが、1947年まで「航空」は基本陸軍が受け持っていたのです。
日本の場合は陸海軍が別々に同じ規模の航空隊を持っていたため、
これでお互いの確執が深まったのではないかと思っていますがそれはともかく。
メダル・オブ・オナーの旗のすぐ近くの壁の白黒写真です。
いつ、どの船のものかはわかりませんが、第二次世界大戦中、
今から海に葬られる戦死者の遺体が納められたボディバッグが甲板に並びます。
そしてこの写真の横には・・・・・・。
パールハーバー生存者協会の作った慰霊碑が。
生存者協会は1958年の12月7日に結成されました。
「日本帝国海軍の手によってオアフ、ハワイで戦友を殺された者が集い」
「リメンバー・パールハーバー、キープ・アメリカ・アラート」
ちなみに、アメリカでは「戦死した」と記す時には、事務的に「KILLED」と書きます。
ですから、「Killed by I. J. N」は「帝国海軍に殺された」という読み方をせず、
「帝国海軍の攻撃によって戦死した」と書かれていると解釈すべきなのでしょう。
同じように撃墜・撃沈記録には「スコア」という単語を使いますが、これを
日本語の感覚でスポーツ感覚だ!などと怒ったりするのは愚かなことだと思います。
このプラークには、
攻撃は0845に始まり0945まで続いた
日本側の損失(航空機29、潜水艦1、潜航艇5、計64名)
アメリカ軍人と民間人の犠牲者数(2403名)
と書かれています。
そして最後には被害に遭った艦船の名前。
ジョン・フォードの映画「真珠湾攻撃」では、日本軍の攻撃は全く大したことなく、
どの艦船もすぐに修理できるようなプロパガンダがされていましたが、
実際は戦艦9隻の沈没ないしダメージ、巡洋艦3隻、駆逐艦3隻、
180機を超える航空機の喪失と、被害は甚大でした。
そして、陸軍、海軍を始め民間人の全ての犠牲者の名前が。
名簿の一番最後には、陸軍の看護部隊にいた3名の女性看護師の名前があります。
同じ一角にあった「砂漠の嵐」「砂漠の盾」作戦のメモリアル。
ご存知湾岸戦争は多国籍軍の「砂漠の嵐」作戦開始をもって開始されました。
ランドルフ、リン、ヒンガム、ウェイマス、そしてここフォールリバー。
マサチューセッツの各地出身の9名の犠牲者の名前が記されています。
さて、ここからは朝鮮戦争のコーナーになります。
ゴールデンゲートブリッジの近くにあった朝鮮戦争メモリアムについて話した時、
朝鮮戦争の経過も簡単に説明したことがありますが、もう一度。
1945年、日本が降伏し、北半分をソ連が、南半分をアメリカが占領していたときの様子です。
ちなみに当然のことですが、日本海にはちゃんとシーオブジャパンと記されています。
朝鮮戦争のフェーズ1というのは、つまり北朝鮮が1950年6月25日に
北緯38度線で砲撃をいきなり始め、奇襲してきたときです。
ソウルは占領され、韓国軍は敗退して釜山に追い詰められました。
フェーズ2では、我らが?マッカーサーがバターン号で日本から駆けつけ、
東京を起点にそこから毎日専用機で戦場に通い、アメリカ軍を指揮。
9月15日から10月24日で戦線は大きく押し戻されることになります。
ちなみにこのとき最初に韓国軍の参謀総長になったのは(すぐ解任されましたが)
陸軍士官学校49期卒で砲兵科少佐であったチェ・ビンドク(蔡 秉徳)でした。
フェーズ3、11月25日になんと中国人民軍が参戦してきます。
人海戦術の前に国連軍もアメリカ軍も疲弊を強め、
戦線はまたも大きく南下することになりました。
この後、戦線は少し北に押し戻し、現在の国境に落ち着き?ます。
おそらくアメリカが参戦してすぐ、国境線を北に押し戻した頃でしょう。
あなたは今38度線を超えています
米国陸軍第7騎兵連隊のご厚意により
ギャリーオーウェンというのは、第7連隊の公式ニックネームで、
アイルランドの同名の曲から取っています。
GarryOwen - Original Lyrics~7th Cavalry Regimental March
さて、先日「ミリタリー・ウーメン」と題して軍に関わった女性を取り上げましたが、
ここには朝鮮戦争と関わった女性についてのパネルがありました。
海軍看護部隊は朝鮮戦争のためにUSS「リポーズ」(病院船)で現地に向かい、
朝鮮半島沖で任務にあたりました。
前列の女性たちの足のクロスの仕方が時代を感じさせます。
「彼女らが手を差し伸べた幾多の命」
戦闘で傷ついた兵士たちに手を差し伸べているのはA.ドリスデール中尉。
彼女は第801医療空輸部隊の所属で、彼らを日本に運ぶ
C-54スカイマスターの機内で手当をしています。
「フライトナース」のイレーヌ・ウィレー大尉。
「スカイマスター」の機内で薬を用意しています。
飛行機は沖縄経由で台湾に向かっているところ。
コミュニスト(共産主義者)の包囲網が迫る中脱出する飛行機に
優先的に負傷した兵士を乗り込ませたジャニス・フェーギン中尉(左)
とリリアン・キンケイラ中尉の二人。
靴を脱いでかじかんだつま先をストーブで温めています。
陸軍の看護師(右)が負傷しハワイに搬送された弟のお見舞いに来ています。
海兵隊のエドウィン・ポラック将軍と会話する秘書のアナ・ロゼンバーグ。
彼女は朝鮮半島に赴いています。
朝鮮のテジョンにあった陸軍病院のナースたち。
前にもご紹介したことのある有名な写真ですが、人民解放軍参戦以降、
戦線が押し戻され、疲弊を強める1950年8月に撮られました。
戦友を失って他の兵士に抱きかかえられる海兵隊員の向こうで、
事務的に死んだ兵士の名前を記録する兵士がいます。
一生残る傷を負いながらも昂然と顔を上げて写真に収まる負傷兵。
彼は海兵隊員で、応急治療を経て病院に搬入されるところです。
USS「フィリピン・シー」空母艦上で戦死した二人の軍人の海軍葬が行われています。
第24歩兵隊のエドワード・ウィルソン一等兵。
前線で負傷し、病院に搬送されるのを待っている状態です。
チョーウォンでの戦いの後、傷ついた仲間を運ぶ第24大隊のメンバー。
朝鮮半島の戦地となった場所には、戦死したアメリカ兵の遺体が眠っています。
彼のつけていたヘルメット、ライフル、そしてベルト。
一時撤退後帰って来た時の目印です。
釜山にあるアメリカ人兵士の墓地、1951年。
二人の兵士が捧げ銃をする後ろで、朝鮮人の女の子が花輪を捧げています。
朝鮮戦争終結の条約は1953年7月27日に締結されました。
7月10日、条約締結の会議に向かう首脳部の車。
上写真はその時のメンバー。
下は人民解放軍と朝鮮人民軍からなる終戦締結の派遣団。
アメリカ代表のマーク・W・クラーク将軍が調印のサインを行なっています。
朝鮮戦争の終結を知らせるボストンヘラルド紙。
「 HALT」はドイツ語の「止まる」が語源で、「War halts」で「終戦」と表現しています。
「IKE」はアイゼンハワー将軍で、警戒を続けるために同盟を召集、とありますね。
戦争は終わりました。
となると次は捕虜を取り戻し生きて祖国に返すことが次の最大の目標です。
解放されたアメリカ軍の捕虜たちが、中国の志願護衛兵に守られて行進しています。
解放されたばかりで髭だらけの捕虜が、フライトナースとともに日本に向かうところ。
彼らが掲げている星条旗は、捕虜キャンプで手作りしたものだそうです。
朝鮮戦争で戦死したここフォールリバー出身者の名前を刻んでいます。
ここからは、壁面いっぱいに引き伸ばされていた慰霊室の写真をご覧ください。
第二次世界大戦時の艦隊でしょうか。
朝鮮戦争。
険しい山道を超えるため、皆でジープを押しています。
戦車の上に立って記念写真。
第二次大戦時の空母から爆装をして飛び立つ艦載機。
ヨーロッパ戦線で瓦礫の街を進む兵士たち。
コンソリデーテッドのBー24リベレーター。(と言っておこう)
B-24は日本の本土空襲も行なっていますので、もしかしたら雲の下に見えるのは・・。
砲弾を棒で装填している野戦中の兵隊たち。
メモリアルルームには、過去の戦争で戦死した人々の名前が全て、
最終的にはアルファベット順で管理されているものがこうして壁に記されています。
ここに立ち、
「一万三千人の名誉賞を受けた人々の名前に取り囲まれ」
るうち、この一人一人に名前とともに人生があり、
愛し愛されていた誰かがあったということを思わずにはいられませんでした。