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「巡洋艦年鑑」〜重巡洋艦「フォールリバー」CA-131

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先日、デ・モイン級重巡「セーラム」についてお話しし終わったところですが、
ここバトルシップコーブのある市フォールリバーの名前をもつ重巡がありました。
ボルチモア級重巡洋艦の10番艦、

重巡洋艦「フォールリバー」CA-131

です。

以前も書いたように、完全な形で記念艦として残されている重巡は、
世界でも「セーラム」くらいだと思うのですが(もう一つあったかも)
戦艦、空母、巡洋艦は繋留する場所やそのために乗り越えなければいけない
諸事情(主に維持費)から、歴史艦として残すのが難しいものです。

「フォールリバー」も、1947年に除籍になり、それから長らく
どこかで繋留されてはいたようですが、1971年にスクラップにされました。


スクラップにする際、舳先のごく一部分だけを切り取って、
記念として翌年の1972年、ここバトルシップコーブに展示されています。

今日はその「フォールリバー」についてお話しします。

「フォールリバー」のキャッチフレーズは

「ファスト&フューリアス」「ノックアウトパンチをお届け」

どっしりした戦艦と俊敏な駆逐艦の間にあるのが巡洋艦です。
第二次世界大戦時の巡洋艦は、強力な火砲と並外れたスピードを兼ね添え、
あたかもサメのように敵船団に襲いかかりました。

巡洋艦は「クルーザー・ウェルフェア」(戦闘クルーザー)のあだ名にふさわしく、
百にも及ぶ銃身からの猛烈な攻撃力を誇り、
海軍軍人達にも「ライト・バトルシップ」と任じられていたのです。

「ボルチモア」級重巡「フォールリバー」は
第二次世界大戦時にデザインされた巡洋艦の傑作とも言われています。

 

1921年のワシントン軍縮条約では、各国海軍に巡洋艦の保有制限が設けられましたが、
日本はその際、米英に比べ不利な保有割合を強いられます。

1941年の真珠湾攻撃によりその条約批准の制限から解き放たれた造船業界は、
16,400トンの「ボルチモア」級、また27,000トンのもはやリバイアサンのような
巨大な「アラスカ」級の生産に入りました。

「疑う余地もなく『ボルチモア』級は海洋戦における最高峰であった」

ある海洋歴史家はこのように彼女らを評しています。

「フォールリバーでもっとも有名な市民」

として艦の説明とともに紹介されていたこの女性はだあれ?

彼女の名はリジー・ボーデン
両親を斧で殺した嫌疑をかけられるも、なぜか無罪になった女性です。

それにしてもなんで軍艦の解説にわざわざこんな人を取り上げるかね。

現地の説明を元に解説していきます。

1883年3月:議会は海軍最初の3隻の巡洋艦
   「アトランタ」「ボストン」「シカゴ」を承認した。
    アメリカの最初の鋼鉄の船であり、最新式の砲を備えていた

1890年:海軍の「ダイナマイト砲搭載巡洋艦」が就役
    口径15インチ3連装ダイナマイト砲1基を主兵装とした
    ダイナマイト砲巡洋艦「ヴェスヴィオス」(Vesuvius)
    火薬の代わりに圧縮空気が用いられた

1898年5月1日:米西戦争で名を知られることになった
    「オリンピック」艦長デューイ准将は、後に有名となる

    「きみの準備ができたら撃っていいぞ、グリッドレイ艦長」

     の言葉とともにスペイン太平洋艦隊に対する攻撃を開始
    約6時間の戦闘で、味方の被害は負傷者9名のみという大勝利だった

1904年:ルーズベルト大統領はモロッコで無法者に誘拐されたアメリカ国民を救出するため、 
   巡洋艦「ブルックリン」で海兵隊を派遣した
(この話は映画『風とライオン』のベースとなった)

1905年7月23日:海軍の英雄ジョン・ポール・ジョーンズの遺体が
   鉛製の棺の中からアルコールで防腐処理された姿で発見されたため、
   4隻の巡洋艦からなる艦隊でその遺体を持ち帰り、その後
   アメリカ海軍兵学校の礼拝堂に埋葬された

1910年11月4日:民間人ユージーン・イーリーはカーティス複葉機で 
   巡洋艦「バーミンガム」甲板から史上初の飛行機の離陸を行なった

1915年11月5日:ヘンリー・マスティン大尉が初めて動く船から
   カタパルトでの飛行機離陸に成功
   彼の名前は「マスティン」として海軍艦に残された

1918年7月19日:第一次世界大戦でドイツ海軍の潜水艦が仕掛けた 
   機雷に触雷し、巡洋艦「サンディエゴ」が沈没
   この大戦で沈んだ唯一のメジャーな軍艦であった 

 

全部翻訳してみて、この年表が「巡洋艦の主な事件年表」らしいことに気がつきました。

重巡「フォールリバー」CA-131は、1944年8月13日に進水を行いました。

フォールリバー市長の妻が出資者として進水式のシャンパンを割っています。
1945年7月1日といいますから終戦直前に就役し、
初代艦長デビッド_クロフォード大尉が1140名の士官と下士官兵を率いました。

この写真には

「しなやかな筋肉が乗艦!」

とタイトルがつけられ、セオドア・ルーズベルト大統領の

Speak softly and carry a big stick(穏やかに話し、大きな棒を運ぶ)

大口を叩かず、必要なときだけ力を振るう、というモットーを
真珠湾攻撃が変え、それは「フォールリバー」などの大鑑巨砲が体現する
「砲艦外交」へと国民を駆り立てずにはいられなかった、とあります。

うーん・・・何でもかんでも真珠湾のせいにしたいのはわかるけど、
もう少しそれまでに自分たちが散々日本に対して加えてきた圧迫や、
オレンジ計画なんかについても国民にもちっと説明するべきでは?

 

「フォールリバー」という都市の名前は、1800年初頭に
クェクェチャン河の滝にちなんでついたものです。

フォールリバー市民にとって「フォールリバー」は「我が街の船」。
市民はこぞって「フォールリバー」の設備を寄贈しました。
その結果、

ラジオーカメラ一体型プレーヤー

膨大な数の書籍

ジム用の運動器械各種、スポーツ用品

ゲーム各種

娯楽用映画設備と充実したプログラム

各種宗教の祭礼に必要なアドレス一覧

そして

ピアノ二台。

(この二台は、士官用と下士官兵用の部屋に公平に置かれたのでしょう)

おかげで「フォールリバー」乗員は、至れり尽くせりの設備の中で
何不自由ない艦隊勤務を行うことができたということです。 

彼女が就役したのは1945年のことですが、その前の巡洋艦年表をみてみましょう。

1942年8月8〜9日:日本海軍の三川軍一中将は「サボー・アイランドの戦い」
   でアメリカ海軍の歴史上最悪の敗戦を我が方に与えた
   これにより巡洋艦「アストリア」「ビンセンス」「クィンシー」(写真)
   が戦没

連合国が「ザ・バトル・オブ・サボーアイランド」と呼ぶ海戦は、
日本の「サボー沖海戦」ではなく、第一次ソロモン海戦です。

 

1942年11月13日:巡洋艦「ジュノー」は第三次ソロモン海戦の後
    伊26の攻撃により20秒で轟沈
    「ジュノー」にはサリヴァン家の五人兄弟が乗り込んでおり全員戦死
    以後アメリカ軍では、親類兄弟は分散配置することになった

しかし、何かあれば全員戦死の船にわざわざ5人兄弟を全部乗せるかね。
この海軍の決定は「プライヴェート・ライアン」に影響を与えています。

1943年1月29〜30日:6隻の巡洋艦がソロモンのレンネル沖で攻撃を受け
   このうちUSS「シカゴ」は魚雷を受けて沈没した

1945年7月29日:1196名の乗員のうちわずか317名しか助からなかった
   USS「インディアナポリス」艦長のチャールス・マクヴェイ三世は、    
   軍事裁判では無罪になったが、遺族からも責められ、退役してから
   その責任を取って自殺

ちなみに「インディアナポリス」を撃沈した伊号潜水艦の艦長橋本以行大佐は、
戦後の裁判でもマクヴェイを擁護する証言をしていたばかりか、
彼の名誉回復のために奔走したそうです。
2001年、クリントン政権において無罪が改めて証明され名誉回復がなされました。

 

続く。


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