昨日は予定になかったのについ思うところを語ってしまいました。
unknownさんの「防衛の主権を握られているは言い過ぎだ」というコメントには、
わたし個人の現状理解という見地からは全面的に賛同します。(おい)
あれはあくまでも
「英霊の皆様から、彼らの大義に照らして見た場合」
を忖度して代理で述べたものであるとご理解いただければと思います。
憲法で手足を縛られ、ポジティブリストでしか動けない防衛軍、自衛隊をもち、
その分他国の軍隊に駐留してもらって周りに睨みをきかせてきたが故に保たれてきた平和。
このことそのものを、国のために命を捧げた方々はどう思うのでしょうか。
「そこに主権はない」
そうおっしゃるとは考えられませんでしょうか。
もっとも、もしそういうことを目の前で言われたとすると、
現代に生きるわたしとしても、彼らにこんな言い訳をすることでしょう。
「そうなったのも全て日本が戦争に負けたから。
防衛体制も、それを律する憲法も全て占領下で構築しなければいけなかったから。
しかしその後歩んできた70余年を鑑みると、日本の選んだ道は
必ずしもベストでなかったにせよ、考えうる限りのベターでした」
だからこそ、それをさらにベターにするために、保守派と呼ばれる人々は
自主憲法の制定と、戦後レジームからの脱却を悲願としているのだと思います。
ちなみに、この国では保守派が改革を目指し、いわゆるリベラルが現状固持に執着するという
社会学的に見て実に不思議な構造となっています。
日本は未だにダラスのいう「ワンダーランド」からまだ抜け出していないのかもしれません。
さて、次に主催である公益財団法人、呉海軍墓地顕彰保存会の委員長、
県知事、呉市長の追悼の辞が終わり、続いては近隣にあり、
ボランティアで清掃も行うという長迫小学校の児童が3名代表で追悼の辞を読み上げました。
この日購入した呉海軍墓地誌「海ゆかば」の冒頭には
第三十四回の合同追悼式の写真が掲載されていますが、それによると
長迫小の児童が「ついとうのことば」を数人で読み上げる、というのは
例年の慣いになっていることでした。
「長迫小学校の児童はいつもこの公園で楽しく遊んでいます」
に始まり、児童が月に一度、学年ごとに公園の清掃を行っていること、
6年生である彼らは今72年前の戦争について勉強し、語り継ぐことができるよう
取り組んでいる、と続きました。
「呉には海軍工廠があったので繰り返し空襲を受けたこと、
広島、長崎に投下された原子爆弾のこと、そこでたくさんの人が大切な命を失い
愛する家族や友達と引き裂かれたことを知りました。
どんなに辛かったことでしょう。苦しかったことでしょう。
考えるだけで胸がとても苦しくなります」
「戦争はとても悲しいこと。戦争は決してしてはいけないことだと思います」
そして、映画「この世界の片隅に」について、作者は戦火を生き抜いた
祖父への思いをきっかけにこの作品を描いた、として、
映画の延長線上に現在の「わたしたち」の平和な生活があることを思うと、
戦争で亡くなった人々、焼け野原から日本を復興させた人々を誇りに思い、
かけがえのない日常を守ることの大切さを強く感じる。
今この瞬間にも戦火に倒れ家や命を無くしている人たちがいると知るたびに、
「こんなことは絶対に無くさなくてはいけない。
世界中の人々が笑顔で暮らせる未来を作らなければならないとと心に誓うのです」
もちろんその通りです。
わたしも子供が学校の先生に推敲してもらって読み上げる弔辞にまで
あれこれとツッコミを入れるほど野暮ではございません。
ただ、それではどうしたらいいか、という彼らの言葉には
少し複雑な気持ちで考えこんでしまいました。
「世界の出来事を知り正しい考えを持って平和について考え、
伝えていこうと思います」
子供たちが純粋な心で信じているほど、「正しい考え」とはなんなのか、
何が正しく何が間違っているかを突き止めることは簡単なことではありません。
ましてや彼らがその弔辞の中で言っていたように、
「新聞を読み、ニュースを見」
るだけでは、とてもその正解に近づけるとも思えません。
しかしながら、それも彼ら自身がいずれ気づいていってくれることでしょう。
そう期待するのは、彼らがインターネット時代に生を受け、
情報を与えられるものからでなく自分で選択することのできる時代に生きていくからです。
この合同慰霊式において47年前から代々小学生がここで弔辞を述べてきました。
「海ゆかば」の冒頭写真に残っている第三十四回慰霊式の子供たちは今25歳です。
その世代の青年たちが、世界情勢にしても歴史の真実にしても、
新聞とテレビだけから情報を収集しているわけがありません。
この日弔辞を述べた子供たちは、彼らの先生たちなどよりもずっと柔軟な心で
メディアリテラシーを獲得し、よりグローバルな視点から歴史と世界情勢を学び、
さらには戦争と平和について考えるようになってくれるはずだ、そうあってほしい。
わたしは彼らの一生懸命な朗読を聞きながらそう考えていました。
続いては追悼吟詠です。
もののふの勲(いさお)は永遠に霊碑(いしなみ)が
文字に刻みて 伝え護らん
至誠一貫 燦乾坤 しせいいっかん けんこんにさんたり
無限忠肝 靖国源 かぎりなきのちゅうかん やすくにのみなもと
蓋世功名 誉不朽 がいせのこうみょう ほまれはくちす
翠嵐長迫 祀英魂 すいらんのながさこ えいこんをまつる
という「追悼の詩」が尺八と詩吟で奏楽されました。
第四十三代呉地方総監、池太郎海将が参拝と献花を行います。
続いて儀仗隊による敬礼、そして弔銃発射が行われます。
ここで、「命を捨てて」が呉音楽隊によって演奏されました。
命を捨てて
掃海隊の殉職者追悼式など弔砲を発射する場合は
「葬送式の場合」に準じて、頭の8小節を速度を早く毎発射後直ちに
演奏するという方法が取られましたが、今回は三回の発射のみでした。
この曲を聴かれると、明治25年にはこの曲の原型が礼式曲として
宮内庁によって作曲されていたことに驚かれるのではないでしょうか。
昭和4年には海軍が「命ヲ捨テテ」、陸軍は「吹ナス笛」という曲を
弔砲弔砲発射の際には演奏していたという記録があります。
(参考:谷村政次郎著 海の軍歌と禮式曲)
今日でもその頃からの伝統を墨守しているのが海上自衛隊なのです。
ちなみに弔銃発射時は写真を撮りませんでしたが、
終わってから撮ったこの写真の手前に写っているテントの結び目が、
綺麗なもやい結びなのに感心しました。
続いて遺族代表、来賓、そして自衛官の順で献花を行います。
わたくしも来賓の末席を汚す身として献花をさせていただきました。
自衛官はこの日夏の礼装で臨みます。
これが冬服より帝国海軍の第二種軍装に酷似していることも、
英霊の方々への気遣いではないか、とわたしは密かに想像していました。
平均年齢70歳のコーラスグループ「コーラス丘の上」と
呉赤十字奉仕団本通り分団の合同演奏、
追悼歌「長迫の丘」(潮路はるかに)
が行われました。
昔の軍歌のような曲調で、英霊の皆様方には大変親しみやすいのでは、
などと考えながら、2コーラス目からは一緒に歌いました。
呉海軍墓地には大正3年に別の場所に建立された
看護の碑 「呉海軍看護合葬碑」
もあります。
合葬されている27名の氏名などは全く今日ではわからないそうです。
呉地方音楽隊による追悼演奏が行われました。
「同期の桜」
「巡検ラッパ」
「海ゆかば」
「行進曲 軍艦」
の四曲です。
海軍の英霊を慰めるための曲を四曲選ぶならこれしかない、
という究極の選曲と言えましょう。
音楽隊のコンサートの最後に盛り上がって拍手をしながら聴く
「軍艦」とこの日の「軍艦」は、同じ音楽隊の演奏でありながら
全く異なって聴こえました。
そして「海ゆかば」。
この調べに思わず涙が込み上げるのは、平成26年の練習艦隊が
ソロモン諸島で収容された戦没者のご遺骨を「かしま」から退艦させる際、
奏楽されていたのを聴いて以来のことになります。
その時晴海埠頭で感じたように、「海ゆかば」の調べが流れる長迫の
緑なす木々のそこここに、わたしは英霊の存在をありありと感じました。
この方は戦没者である海軍中尉の長女の夫、という方で、
義父であるその英霊の戦歴を詳細に紹介しておられたので、
それをここに記しておきます。 呉海兵団入団 第4艦隊勤務 第2艦隊勤務 横須賀航空隊教官 霞ヶ浦海軍航空隊教官 連合艦隊司令部付 横須賀鎮守府第一特別陸戦隊第二中隊小隊長 セレベス島カカスに落下傘による戦闘降下を敢行
チモール島クーパンに落下傘による戦闘降下敢行 つまりこの方の義父は第一特別陸戦隊、「海の神兵」だったわけです。
昭和17年2月に行われた海軍落下傘部隊の降下は大きな戦果をあげ、
セレベス島、クーパンのどちらにおいても占領に成功したので、 その年の海軍記念日に連合艦隊司令長官山本五十六大将から
感状を授与されています。 このころは怒涛の進撃で連戦連勝だった日本軍ですが、次第に
アメリカ軍の物量作戦に敗色を深めていったのはご存知の通りです。 落下傘奇襲部隊も「翼なき落下傘部隊」となり、地上戦において
本来の『陸戦」を行うことになったのですが、この海軍中尉も
昭和十九年八月二日、テニアン島における敵との交戦中戦死しました。 その時31歳だった海軍中尉には、6歳の長女を頭に三人の子がありました。 「ここ長迫の海軍墓地に眠る英霊は、
新生日本の魁となられた尊い御霊であります」 この方は、決して「戦争のない平和な世界を築いていくのが死者への恩返し」
などという具体性のない(さらに言えば実現性も薄い)空虚な言葉を弄すことなく、
「全国から集まった遺族の皆様とともに未来永劫、
十三万余柱の御霊をお護りいたします」 とただ静かに述べられました。
その言葉が胸に響いたのは、もちろんわたしだけではなかったのでしょう。
すべての人々がその言葉に心から耳を傾けために、長迫の丘はしんと静まり返り、
この時期には不思議なくらいたくさんの蝉の声だけが響いていました。 遺族代表謝辞が終わると、国旗と軍艦旗が降納されました。
降納中は写真が撮れないためご了承ください。 降下した国旗と軍艦旗を、海曹海士が二人一組でたたみ、
それを腕章をつけた当直?士官が見守ります。 まず横に二つ折りをして・・・・、 それを縦に三つにたたみます。 小さな長方形まで畳んだら、それを対角線でもう一度折り、
片手で掲げて持てるように三角にたたみます。 これらの所作も海上自衛隊においては旧軍からの伝統を受け継いでいるのでしょう。 我々の誰もそれを確かめることはできませんが、おそらく百年後の海上自衛隊も、
(そのころはどういう名称になっているのでしょうか)同じ旗のもとに
「軍艦」を奏で、追悼には「命を捨てて」が死者の魂に捧げられるのに違いありません。 式典が終了した後、会場の希望者はすべてが献花をすることができたようです。
たくさんの白菊がそのために用意されていたということですね。 おまけ* 海軍陸戦隊らしき軍装をした人がいました。
周りの人には彼の姿が全く見えていないようでありますが、
つまりこれって見て見ぬ振りをしているだけなんだろうな。 終わり。