自衛隊は毎年11月1日を自衛隊記念日と定めています。
自衛隊創立に基づき1966年(昭和41年)から行われているのですが、
実際に自衛隊が発足したのは「防衛庁設置法」「自衛隊法」が施行された
1954年(昭和29年)7月1日であるのにも関わらず、11月1日になったのは
本来の7月にすると季節的に自然災害の発生とかち合う可能性があるからだそうで。
つくづく自衛隊というのは気を遣う組織だなあと改めて思うのですが、
わざわざこのように時期を災害の起こりにくい秋にするのは、
自衛隊記念日に伴う行事というのがいくつか予定されるからです。
まず最も大きな行事が三自衛隊で交代に行う中央観閲式。
そのほかには航空基地で行われる体験搭乗、感謝状贈呈、
みんなが大好きな音楽まつりも記念日の一環行事として行われます。
今年は航空自衛隊が百里基地で航空観閲式を行う予定でした。
1週間前に行われる予行が台風で前日から中止になったものの、
本番はよもや大丈夫だろうと思っていたら、まさかの中止。
何を隠そう、わたくしも今年は駐車券付お弁当付、
他ならぬ小野寺五典閣下のお名前入り角なし招待状をいただいていたというのに・・。
航空祭の前、わたしは本日お話しする追悼式典、そして翌日の自衛隊記念日式典と
呉におり、羽田から直接茨城県の石岡などという、普通に生きていたら
一生行くこともなかったであろうところにある駅近くのホテルに前夜泊しました。
当日朝5時というイベントにしてはゆるい時間に起きて、現地に着いたのは
6時28分。(もちろん朝のね)
もちろんこんな早く行く必要もないし、雨も降っているので
「なんなら車の中で仮眠でもして待とう」
くらいの気持ちだったのですが、現地に着くとまず、招待券に付随している
車のダッシュボードに置く駐車証明書を最初見せることを求められました。
「ということは今日は決行するんだな」
そう思いながら車を走らせて行くと、制服の自衛官が現れ、車を止めて
「本日の航空祭は天候不良のため中止になりました」
( ̄◇ ̄;)「えっ・・・・・・・・・」
陸自の観閲式は、観閲されるのが基本風雨にも平気な生身の自衛官、
大変な雨天の中決行されたこともあり、わたしも経験していますし、
海自も飛行機というのは雨が降るともう飛ばないわけだよ。
今日はアメリカ軍が出血大サービスというか北への威嚇を兼ねて、
B1、B2爆撃機を飛ばせてくれる予定でしたが、もし飛んだとしても
雲の上じゃ音しか聞こえねえ!ってことになってしまうんで、これは仕方あるまい。
ところで、実はわたくし、このレイのような爆撃機を見たことがあります。
2001年の同時多発テロ事件発生の時、わたしはボストンに住んでおり、
直後からローガン空港は全面的に飛行停止となりました。
いつもはローガンから飛び立った飛行機が遠くに見えていた空に、
この時は異様な速さで縦横無尽に飛び回る奇妙な機影が、
外国人のわたしも何かとんでもないことが起こっているという
恐怖と不安を感じずにはいられませんでした。
ともかく、この爆撃機を見るのを楽しみにしていたファンも多かったでしょう。
わたしは選挙大賞直後の安倍総理を人々がどう迎えるかに興味があり、
ぜひ至近距離でお顔を拝見したいと思っていたので残念でした。
やはり当日招待券(お弁当付)をお持ちだった方は、
「私は赤券の御弁当は食べたかったですね。
きっと入間のC2や木更津のチヌークに載せ今晩は皆で食べたんでしょうね」
という、その考えはなかったわ、という感想とともに、
新聞の当日首相動静欄を送ってくださいました。
「安倍首相の一日 29日
終日、東京、富ヶ谷の私邸で過ごす。」
選挙で大変お疲れのところ、航空観閲式に出たとしたら、また三年前のように
心無いメディアが、
「座ろうとした時によろめいて周りが騒然とした」
「重篤な病気を隠しているのではないか」
などと、おなじみフェイクニュースを印象操作のために流したかもしれません。
今年は米軍からの飛行機が参加し、日米連携を目の敵にする(だってそうだよね)
マスコミとしては、おそらく目を皿のようにして首相の粗探しをしたでしょう。
というわけで、その方もわたしも、1日の雨の骨休めをすることができたのは
安倍首相に取ってはよろしかったのではないかという意見が一致しました。
ニュースによると、航空観閲式が中止になったのは初めてだそうです。
予行も本番もなかったのはさらに初めてでしょう。
今朝、金正恩がまた
「アメリカの手先になって軽率に振る舞えば、日本列島が丸ごと海に葬られる」
みたいな声明を出したそうですが、北朝鮮の団体は
「政治的な危機に陥るたびに反北朝鮮の騒動を起こし、
権力を維持するのは日本の常套手段だ」
などと、不思議なことに日本の一部マスコミや野党、言論人と
全く同じことを言っているので笑いました。
もしかしたら中の人は同じ?(皮肉)
まあとにかく、アメリカと一緒になって北朝鮮に毅然とした態度をとることを
非難する論調の新聞があったり、ただでさえ鵜の目鷹の目で失策を狙う、
「打倒安倍」が社是の新聞社には格好の敵失の機会でもある観閲式が中止となったのは、
考えようによっては「天の配剤」といえないでしょうか。
わたしはこんな風に考えることで、観閲式が中止になった無念さを慰めることにしました。
さて、呉地方総監部における殉職自衛官の追悼式に出席するのは二度目です。
全国で同じ時期に一斉に開催するので、安倍首相が彼らをして
「国の誇り」
と弔辞で述べたことをニュースで知った方もおられるでしょう。
開式前、車で式の行われる呉地方総監部の海側の門から入りましたが、
入り口にと列を作っている自衛官からいっせいに敬礼をいただき、恐縮しました。
式開始前からずっと参列部隊?が立って待っていました。
立って待つのが仕事のうちとはいえ、いつも大変だなと思います。
後ろ側の方々は幹部候補生の諸君ですか?
呉音楽隊のメンバーも正装で待機中。
彼らの後ろには旧鎮守府庁舎時代の地下壕入り口が見えます。
本年度、この内部を調査して市民に公開した呉地方総監部ですが、
先日ちゃんとした地下壕マップが自宅に送られてきて、
彼らの本気を見た気がしました。
今まで放置されていたところをこうやって整備し、公開し、
さらに後世に残していってくれるのは、その資格のない一般人からは
ありがたいの一言に尽きます。
式典には参議院のの宇都隆史議員が出席されていて、終了後
どこからともなく帰って来られたので聞いてみると、
「地下壕を見せてもらった」
とのことです。
なるほど、国会議員の先生にもお見せしているんですね。
「自民党完全勝利おめでとうございます」
とまずは選挙についてお祝いを申し上げると、
「いや、まあ・・・今回は敵失と言いますか」
と自民党議員らしく?謙遜しておっしゃるので
「マスコミが何と言おうと選挙の結果は民意ですよ」
と力強く申し上げておきました。
海軍時代から、呉鎮守府庁舎の正門はこの海に続く門のことです。
広いグラウンドはこの日来場者の駐車場にもなっており、
グラウンドの向こうに立つ自衛官たちはその誘導を行なっています。
「正門」から出航する時、かつての呉鎮守府長官たちは皆
向こうに見える建物で出航を待ちました。
わたしは開式まで顔見知りの防衛団体幹部たちと雑談をして過ごしましたが、
話題は何と言っても自民圧勝に終わった衆議院選挙の内容でした。
そして追悼式開始。
呉地方総監たる海将池太郎氏によって霊名簿が奉納されます。
本年度の殉職者はわたしも数字を知って驚いたのですが、昨年9月以降、
公務による死亡が認定された隊員は25人(陸自14人、海自11人)です。
海自はヘリの墜落と艦艇からの転落などいくつかはニュースで知りましたが、
純粋にこんなに殉職者が、とただ衝撃を受けました。
池海将はまず、呉地方総監部だけで182柱の殉職隊員がいることを述べましたが、
この呉警備区での殉職者には US-2に至るまでの飛行艇の事故による犠牲者が含まれ、
その数が特に多いのだと聞いたことがあります。
「職に殉じられた御霊はご家庭にあっては家族から信頼され、
また敬愛されいてたかけがえのない方々でありました」
「最愛の肉親を突然失われたことは、家族の方々にとりましては
光明を失うがごときご心中であったことと拝察いたします。
今ここに、御霊の在りし日のお姿を偲ぶとともに、そのご功績を語り継ぎ、
顕彰してまいりますことをお誓い申し上げます」
(この間、国旗掲揚、儀仗隊による弔銃発射などが式次第に則って行われましたが、
その様子を逐一スマホで撮影し、あまつさえそれを式典の途中にもかかわらず
一生懸命携帯を弄って SNSにリアルタイムでアップしているらしい人がいました。
一度など、動画の再現された音声が携帯から漏れておりました(怒)
他の式典ならともかく、よりによって殉職者の慰霊式に物見遊山で出席するのは
本当にいろんな意味で失礼だからやめてほしい、と心から思います。)
続いて献花。
一人一人役職と所属、名前が読み上げられ、霊前に進んで
白菊をたむけます。
この場に出席していた堵列部隊以外の全員が献花を行いました。
最後に、殉職隊員のご家族代表がご挨拶をされました。
まず追悼式が執り行われたことに対する感謝に続き、
「私ども家族にとりまして、何者にも変えがたい大切な肉親を失った悲しみは、
崇高な指名のためとはいえ、言葉に尽くせないものがございました。
その深い悲しみを乗り越え、今日まで頑張ってくることができましたのも、
歴代の呉地方総監を始め、隊員の皆様方の暖かい励ましや
親身な支えがあったたからこそと心から感謝しております」
「私たち遺族はこれからも互いに手を取り合い、故人、そして
遺されたもののためにも、明るく、さらに力強く生きていことを
ここに改めてお誓い申し上げます」
「隊員の皆様方は健康や事故に留意され、私たちの夫や子供、
父や兄弟が果たせなかった国防の国防の任務を果たしてくださるとともに、
私どもをこれからも末長く見守っていただきますようおお願い申し上げます」
遺族代表の方が最後に年月日とお名前を読み上げていたその時突然、
ご遺族席の、母親に連れて来られた幼い女の子が、パパ、と叫びました。
彼女の声はわたしがカバンの中で録音していた音声記録に残っています。
そちらを振り向くと、女の子は母親の手から離れて正面の祭壇に向かって
椅子の後ろからそう言ったらしいことがわかりました。
あとでその話を防衛団体の知人に話すと、
「お父さんが来てたのかもしれないですね」
わたしも実はそう思い、こんな可愛い娘を遺して逝かなくてはならなかった
若い隊員の無念さを思うと、それだけで涙が溢れてきました。
「国の誇り」
安倍首相が追悼の辞で述べたこの言葉はまさに彼らが捧げられるべきものであり、
その霊のお名前が尊い遺志とともに未来永劫語り継がれることを祈ってやみません。
続く。