「ミッドウェイ」を3分の1だけ見学した後、推定年齢67歳、
サンディエゴ在住のジョアンナは、おそらくわたしたちのために死んだ気で
サンディエゴの海事博物館で本物と(スター・オブ・インディア)、
レプリカ(HMSサプライズ)の二隻の帆船を見学した後、
さらにそこで展示されている全ての潜水艦見学に同行してくれました。
この二つの帆船については、その歴史と経歴を調べるほどに
すっかり興味が出てきたわたしですが、残念ながらこのころは
帆船より潜水艦に目を輝かせるお歳ごろだったものですから、
ジョアンナが控えめに
「あちらの潜水艦もみる?」
と聞いてくれた時には遠慮せず見ます見ます、と彼女の表情に潜む
疲労の影を見て見ないふりしてキャッキャウフフとはしゃぎながら
潜水艦までスキップしていった(比喩的表現)のでございます。
まずは、海事博物館に行く前にランチをとったレストランの窓越しに
撮った潜水艦の写真を見てみようではないか。
うおおお、アップにすると艦体がサビと藻に覆われ、
ところどころ穴まで空いたボロボロ状態なのにびっくりだ。
何度か塗装もやり直しているようだけど、そのせいで表面はボコボコです。
それにしてもこの潜水艦、今まであちらこちらで見てきた
アメリカの潜水艦のどれにも似ていないなあ、と遠くから見て首をかしげます。
上部構造物にある窓がどう見ても歪んでいる上、
白い窓枠っていうのは如何なものか、と思いながら見ていたところ、
あれー?なんだか艦橋に★が見えるんですが・・・・。
もしかして、赤い星のお国製?
おおお、よく見ると赤い旗が翻っているではないの。
これは紛れもなくソビエト連邦海軍に属していた潜水艦?
それにしても激しい経年劣化で、アップにして見ると
ものすごいものに成り果てております。
そして、曲がりなりにも潜水艦発祥の地であるグロトンの潜水艦博物館で
ある程度のことを勉強したわたしは、この形状の潜水艦が
どこの国のものであっても少なくとも第二次世界大戦後に造られたことを
この時点で鋭く考察していたのであった。
そしてその後わたしたちはまず「スター・オブ・インディア」、続いて
HMS「サプライズ」を見学しました。
この写真は、船尾から身を乗り出して撮った潜水艦です。
こうして見ると、特に艦首上部部分は手作り感満載ですね。
それと、セイルの窓、多すぎませんか?
というわけで、潜水艦の前までやってきました。
息子が見ているのはこの潜水艦の説明です。
それによると・・・・
本艦は冷戦時代に活動していたソ連の潜水艦でbー39と言います。
徴兵制度で集められた18歳以上が乗り組んでいました。
ほとんどの兵は大変若く、士官は20代〜30代ほどで、
ほとんどが専門の厳しい訓練過程を経ていたため、
世間ではもちろん海軍内でも一目置かれる存在でした。
水兵の勤務シフトは4時間で、士官たちは「寝られる時に寝る」という勤務体制。
アメリカ海軍で「チーフオブザボート」に相当する「michman」という下士官もいました。
この後、ホットバンキング(ベッド交代制)のことなど、艦内生活についての
記述があり、なぜか続いて潜水艦の歴史について延々と説明が続きます。
「michman」はなんと発音するのかわかりませんが、
「Мичман」、さらになんと読むのかわかりません(笑)
ただ、これを翻訳機にかけると「ミシップマン」で、
これだと士官候補生ということになってしまいます。
NATOの標準ランクでいうとこれはOR-9となり、
准尉(スペイン、イギリス)上級執行役員(ラトビア)
フラッグマスター(ノルウェー)曹長(ルーマニア)
そしてアメリカ海軍だとマスターチーフペティオフォサーとなります。
ちなみにこのページを翻訳にかけてみると、
マスターチーフPO=「海軍最高司令長官」
PO1stクラス=「獣医官ファーストクラス」
スペインのSuboficial mayor=「不衛生な市長」
スロベニアのCPO=「チーフセクシーオフィサー」
という面白翻訳になってしまっていて笑わせてもらいました。
みなさんくれぐれも自動翻訳を当てにしないように。
さて、潜水艦の中を見学しようと歩いて行くと、その途中に
こんな構造物が設置されていました。
子供が喜んですっかり遊び場にしておりますが、実はこれ、
「艦内はこの大きさのところを通りますので、
この輪をくぐれない方は乗艦をご遠慮ください」
と真面目に警告するための「お試し穴」なのです。
まさかと思われるかもしれませんが、アメリカには
この輪をくぐれない方が実際に結構たくさん生息してるのですから
中でつっかえて押しても引いても動かないという事態を防ぐために、
こんなものをわざわざ設置せねばならないのです。
まあ、さすがにこれを潜り抜けることもできないような人は
自力で歩けず電動チェアで移動しているレベルでしょう。
(それでもスーパーに行くと毎日一人くらいはそんな人がいる)
そもそも自力で歩けない人はこんなところにやってきて
潜水艦なんてものに乗り込むはずがないと思うのですが。
突き出しているのでフィンを間近に見ることができます。
二つ穴が空いているのですが、これ中は空洞なのに水が入ってもいいの?
ここまでやってきてこのプレートを見て、初めてこれが
「フォックストロット型潜水艦」
というらしいことに気がつきました。
同型艦に
「ズールー」「ジュリエット」「ケベック」「ロメオ」「ウィスキー」
とあるので、フォネティックコードをそのままつけただけと想像されます。
それにしてもソ連なのになぜフォネティックコード?と思ったら、
これは単にNATOコードネーム、つまり昔連合軍が勝手に日本の飛行機に
ジュディだのベティだのオスカーだのバカだのと名付けていたように、
NATOが冷戦時代ソ連の艦船をこう呼んでいただけなのです。
ソ連ではこの潜水艦は
641型潜水艦(Подводные лодки проекта 641)
という面白くない名前がついていました。
もっとも同型艦は五十八隻もあったようなので、ソ連海軍としても
名前を考えるのも面倒という面があったのではないでしょうか。
ところでこの
「この男が世界を救ったのだろうか?」
ですが、この男、つまりワシリー・アルヒーポフ中佐の
決断が世界大戦になることを既のところで止めた、ということが
こんな看板にさらっと書いてあります。
ちょっと気になるので説明しておきましょう。
キューバ危機について、2002年になってマクナマラ元長官が
「当時の我々の認識以上に、我々は核戦争に近づいていた」
と証言したとき、世界に衝撃が走りました。
問題は、どこまで核戦争に近づき、何がきっかけでそれを回避できたのか。
我々は漠然とキューバ危機を回避できたのはJFKのおかげ、くらいの
イメージを持っていたわけですが(え?わたしだけですか?)、
実際のところはJFKも当初空爆を提案していたわけで、
もし彼一人で決定していたら、それが戦争へのトリガーとなっていたかもしれません。
ケネディ政権があの13日の間に各専門家を招いて戦争回避のための討議を繰り返し、
最終的にフルシチョフがキューバに配備したミサイル撤去という英断をしたからこそ、
米ソは一線を超えずに済んだということになっています。
しかし、国同士の戦いは得てしてたった一発の銃弾から始まるものです。
もし、B59に乗っていた3人目の士官がアルヒーポフでなかったら、
その「一発の銃弾」が撃たれ、それがきっかけとなって全てが動き出していたかも?
という歴史のイフがこのパネルに簡単に述べられているのです。
わかりやすく会話形式で説明しておきましょう。
1962年10月27日、キューバ危機の最中
アメリカ海軍の空母ランドルフおよび駆逐艦11隻からなる艦隊が、
キューバ近海でソ連のフォックストロット型潜水艦B-59を捕捉する
米「こいつ・・核積んでやがる!とりあえず演習用爆雷じゃあ!」
どご〜〜ん
米「おら浮上してこいやコラ」
B59艦長サビツキー「う、撃ってきやがった!どういうこった?
おのれ米帝ギリギリ・・・深度を下げろ!」
乗組員「深度を下げたらアメリカのラジオ電波が聞こえなくなりますが」
艦長「構わん!情報は入らんから推測だが、これは開戦したってことだ。
核魚雷発射用意!」
政治将校マスレニコフ「ちょっとお待ちください艦長。
核爆弾については承認ルールがあります」
艦長「おお、君さえ許可すれば発射できるんだったな」
副艦長アルヒーポフ「通常はそうですが、我がB59は、
それに加え、わ た し の 認証が必要となります」
政治将校「なんでやねん!」
アルヒ「わたしは潜水艦小艦隊の司令でもあり、艦長と同じ階級だからです」
艦長「そ、そうでしたね・・・で、貴官も賛成なんだろうな」
アルヒ「そう思うでしょう。ところがどっこい反対なんだなこれが」
艦長「なぜだ!この状況で何をためらうことがある!」
アルヒ「開戦したかどうかをこの状況で判断することは間違っています。
単なる威嚇だったらどうするんですか!
もし核ミサイルを発射したら、本当に戦争が始まってしまうかもしれない」
艦長「うむ・・・・」
まあ、全部単なる想像なんですが(笑)
艦長と政治将校が口論の末アルヒーポフの反対意見通り、
発射を取りやめることにしたのは、彼がその前年にあの映画にもなった
の際、副長として乗り込んでおり、その際の彼の勇敢な行動と名声が、
彼の主張に有利に働いたとみる意見もあるそうです。
ちなみに映画「Kー19」で副長を演じたのはリーアム・ニーソンでした。
かっこよかったですよねミハイル・ポレーニン副長。
結局、B-59は魚雷発射を中止、浮上してモスクワからの指令を待つことになりました。
B-59のバッテリ残量はごく僅かで、空調も故障していたため、
米艦隊の中央に浮上せざるを得なかったのですが、開戦していなかったため
拿捕されることなくその後、帰投することができたといいます。
しかし、もしアルヒーポフが艦長の説得に失敗していたら、
瞬時にB59は周りの米艦隊にフルボッコにされたでしょうし、
その状態では離脱しようにも電池切れとなって、どちらにしても
彼らが生きて祖国の地を踏むことはなかったのは間違いありません。
何より、彼一人の反対が「最初の銃弾」が引かれることを阻止しました。
「世界を救った男」
というのは決して大げさではなかったのです。
アルヒーポフ中佐は後に潜水艦戦隊司令となり、中将まで昇進しています。
1998年に72歳で死去しましたが、この死因をK-19の事故の際の被爆だ、
とする意見もあるそうです。
まあただ、35歳で被曝して、その後37年間仕事しながら生きてたわけですし、
被曝が原因と言ってしまうのもなんだか少し違うような・・・(個人的見解です)
これも余談ながら、事故当時のK-19の艦長ニコライ・ザテエフ
(ハリソン・フォードが演じた)は、アルヒーポフの死から9日後、
1998年8月28日に同じく72歳で亡くなっています。
こちらも被曝が死因だとか言っちゃう?
さて、ここに係留してあるB−39とアルヒーポフの話は直接関係ありませんが、
冷戦時代の逸話として最初に紹介させていただきました。
彼らが世界の運命を決定した「口論」が行われたのと同じ仕様の艦内に
いざ、入っていくことにしようではありませんか。
続く。