さて、しばらくお話ししてきた帆船「バルクルーサ」見学記も今日で終わりです。
甲板下のデッキでかつての積荷と彼女の活動についての展示を見て
甲板に上がり、明るい陽射しに照らされた時、わたしはかすかにホッとしました。
アラスカで鮭漁を行い、船上で捌いていた時代、キツくて汚い仕事を
暗い船内で行い、おまけにその横でずっと寝起きしていた外国人労働者の
ほとんど奴隷に近い労働環境についての展示を見てきたからです。
その時代の中国人に同情したとかそういうことではありませんが、
貧しい国に生まれてくるというのはそれだけでこの世における劫罰なのだなと
なんだかやり切れないような切ない気持ちになったのかもしれません。
階下での見学が終わり、この部分から外に出てきました。
階下に続く階段があるので、風雨が入り込まないような構造物があります。
船尾甲板ではボランティアらしき人が展示物のペンキを塗る作業をしています。
ビナクルが甲板の真ん中にポツンという感じで設置されています。
このビナクル(Binnacle)という言葉、わたしはマサチューセッツの
バトルシップコー部に展示されているその名も「マサチューセッツ」艦内で
その名前で説明されているのを見て知ったのですが、少なくとも日本では
ビナクルと言う言葉は一般的ではないらしく、「ビナクル」で検索すると
船舶関係の会社のHPと辞書以外ではわたし自身のエントリが出てきます(笑)
この項でわたし自身が書いていますが、日本ではこれを「磁気コンパス」、
この台そのものを「羅針儀架台」と呼ぶからです。
せっかくなので自分の書いたことを引用しておくと、
ビナクルはナビゲーションを素早く見るためのもので、
内部にジンバルを備え、これによって波の動揺などの干渉を受けず
磁石を保持する仕組みになっている
左右にあるボールのことをイギリスでは「ケルビンのボール」、
アメリカでは「ナビゲーターズ・ボール」と呼んでいる
二つのボールの中には補償磁石が内蔵されている
補償磁石を入れるのは、木造の船の時は問題がなかった磁気が
船の素材に鉄を使うことで発生し磁石が狂ってしまうからです。
その役割を考えると、木製の帆船である「バルクルーサ」になぜ
ケルビンのボールを持つ磁石が必要なのかと言う気がしないでもないですが、
荷物を積むために「バルクルーサ」にはドンキーエンジンも搭載していた磁気があり、
こういった機器が磁石を狂わせることがないように導入したのかもしれません。
あるいは置いてある位置から見て、展示されるようになってからの
「単なる装飾」
の可能性もあるかと思います。
甲板左舷から見たサンフランシスコ湾の模様。
海事博物館の中の突堤ですが、普通に漁船や観光船がいます。
向こうに突き出た突堤からは、湾内観光船が出ているようです。
意義がわの一本煙突の船は、タグボートだった蒸気船「ヘラクレス」。
名前がタグボートにふさわしいですね。
この観光船は今からゴールデン・ゲート・ブリッジの下を潜りに行きます。
船に乗って、真下から GGRを見るというのもなかなか一興かも。
「バルクルーサ」甲板から眺めると、波消し突堤の向こうに
かつて「監獄島」だったアルカトラズ島が見えます。
「バルクルーサ」のリグ越しに見るアルカトラズ島。
ちなみに「軍艦島」で知られる長崎県の端島は0.63平方キロメートル、
アルカトラズ島の面積は0.089平方キロメートルと少し大きいだけです。
どちらの形も船状だし、この際姉妹島提携でもしてはどうかな(提案)
あ、そんなことすると、軍艦島を「監獄だった」と印象付けたい国に
いらん燃料を与えてしまうか・・・。
あまりない機会なのでアルカトラズ島もう少しズーム。
監視塔の右側に、朽ち果てた屋根のない建物の残骸が見えますでしょうか。
これは刑務所閉鎖後起きた「インディアン占拠事件」の名残です。
1969年11月から約1年半、ネイティブアメリカン、いわゆるインディアンが
この島を占拠してアメリカ政府に対する抗議活動を行いました。
この5年までにも5人のインディアンが4時間だけアメリカ政府に
人権保護を訴える活動のためにやはり同じアルカトラズを占拠したこともあります。
占拠事件ではインディアンたちは「モンテ・クリスト」号で島に渡り、
この土地が法的根拠に則りインディアンのものであると宣言することから始まり、
その後なぜかカリフォルニア大学ロサンゼルス校 (UCLA) の学生約80人を含む
インディアン約100人が島を占拠して自治生活を始め、同時に政府に対し、
ここで暮らす権利と施設の補充を要求しましたが、当然政府は受け入れません。
ありがちなことですが、そのうち事態の膠着に伴って占拠メンバーの中に
仲間割れが起き、内部で分裂が始まったので、FBIも沿岸警備隊にも
政府は手を出させず、事態を見守っていました。
1970年、連邦政府側が電力と水の供給をストップする強硬手段を取った
その3日後、火災が発生していくつかの古い建物は焼けてしまいました。
今ここに残っている建物はその時の残骸です。
1971年に入り、派閥争いなどの内部の混乱が続く中、
連邦所有建物からの金属材の窃取や暴力事件が伝えられるに従い、
当初は占拠側に好意的だった世論の支持も失われていきました。
そういった世論の傾きを待って。政府側はリチャード・ニクソン大統領の命令下、
1971年6月10日、在島者の少ない時を狙って、武装した連邦保安官、FBI特別捜査官
及びカリフォルニア州警察特殊部隊が島を急襲し、5人の女性、4人の子ども、
6人の非武装の男性を立ち退かせ、これによって占拠は終了したのでした。
この占拠事件そのものは失敗に終わりましたが、これは歴史的に見ても初めての
少数民族インディアンの初めての抗議活動となりました。
これがその後のインディアンの人権を訴える「レッドパワー」運動につながり、
連邦政府がインディアンの権利を尊重した政策をとるきっかけになったことは確かです。
この時代に「インディアン」と呼ばれていた彼らが、公式に
「ネイティブ・アメリカン」
となったのもこれ以降のことになります。
事件の首謀者であったリチャード・オークスはビリヤードのキューで殴打され、
一ヶ月の昏睡に陥ったこともあり、常に命を狙われている状態でしたが、
最後は銃を持った白人の男に射殺されて30歳の若い命を閉じています。
影下には倒壊した家の残骸がそのまま放置されています。
観光客の姿があちこちに見えていますね。
サンフランシスコ湾にはよくこのようにペリカンが群れを作って飛翔しています。
「アルカトラズ」という名前も、元々はスペイン語の「ペリカンの島」という意味の
"La Isla de los Alcatraces" (ラ・イスラ・デ・ロス・アルカトラセス)
からきています。
甲板に立って艦首側を望む。
さて、見学を終わって船を降り、岸壁と船の間にふと目をやると・・
「何かいる!」
一頭の雄アシカが、岸壁と船体の間に顔を出したのでした。
早速シャッターモードをスピード優先にして、熱心にアシカを撮り始めると、
たちまち周りのアメリカ人たちがなになに?とばかりに集まってきました。
皆がワイワイいいながら写真を撮ったり、子供が指差して叫んだりしているのに、
アシカは一向に去ろうともせず、潜ってはこのように海面に出ては
ジャンプするということをなんども繰り返すのです。
「これ、絶対見られてるのを楽しんでるよね」
「わーい、見て見て〜!って感じ」
こうやって水面に出た後は、しばらく姿を消すのですが、次に
全く違うところから顔を出すので、皆がキョロキョロするのを
案外彼は皆がら楽しんでいたのかもしれないと思ったり・・・・。
黄色い泳いでいる人の看板があったので「遊泳禁止」だと思い込んでましたが、
写真に撮ってよく見ると、
「ワッチ・フォー・スイマーズ」
でした。
泳いじゃいけないんじゃなくて、遊泳している人が溺れていないかとか、
急に沈んだりしないか、注意して見てください、ってことか。
これも写真を拡大して初めてわかったのですが、その向こう側に
本気のクロールをしてる人がいるのがなんかシュール。
海事博物館シリーズ、続く。