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タグボート「ヘラクレス」と戦艦「オクラホマ」の沈没〜サンフランシスコ海自博物館

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帆船「バルクルーサ」の次に見学したのは、蒸気タグボート「ヘラクレス」です。
タグボートの名前が「ヘラクレス」というのは実にぴったりですが、
同じタグボートである彼女の姉妹船もすごくて、

「Goliah」(ゴリア、ゴライア)

これはまず間違いなく「ゴリアテ」(Goliath)からきていると思われます。
どちらの名前にも共通する印象は「強い」「力持ち」でしょうか。


ただし、ヘラクレスは力は強いがカッとするとキレる単細胞が災いして
一生その力をいらんことに使い、「ヘラクレスの選択」といえば
「あえて苦難の道を選ぶこと」と同義になっているそうですし、
かたや英語で「ゴライアス」と発音するところのゴリアテは、
巨人兵でありながら小兵であるダビデにやられちゃうんですけどね。

まあその名前に深い意味はなく、あえていえばその力も使いこなせば役に立つ、
と言いたいのかと。

「ヘラクレス」は1907年、ニュージャージーのカムデンで建造されました。
最初からサンフランシスコでの任務のために建造されました。

「ヘラクレス」の姉妹船「ゴライア」は1849年に建造され、
彼女とは建造年月日に58年も違いがあります。

岸壁を挟んで向かいの「バルクルーサ」甲板から見る「ヘラクレス」。
真っ黒な船体に刻まれた「ハーキューズ」という名前がいかにも強そうです。

牽引を行うという任務のため、艦橋は船体の割に高いところにあります。

白黒写真ではわかりませんが、当時から彼女はこのような
鮮やかな赤と黒の船体をしていたのでしょうか。

上部構造物の階段を上った最上階には、「ホイールハウス」と呼ばれる
操舵室があり、昔ながらの舵輪が備えてあります。(ここは非公開)

喫水線から上の部分だけなんども塗装をやり直しているように見えます。

甲板からのアルカトラズ島の眺め。
甲板デッキまで船体と同じ赤に塗られていました。

キャプスタンの上覆いには名前と建造した船会社の名前、

 John H. Dialogue and Son

などが刻まれています。
この会社は第一次世界大戦の頃経営に失敗して廃業していますが、
1876年に行われたナショナルシップ「コンスティチューション」の
大改築には参入し、その保存修復作業を行なっています。

こちら「ヘラクレス」の最も大事な機関、トウイング・マシーン。

このトウイングマシンで戦艦「カリフォルニア」を牽引する「ヘラクレス」。

「カリフォルニア」は1921年から20年間の長きにわたって
太平洋艦隊の旗艦を務めた戦艦です。

 

機械と木製の内壁の取り合わせがなんだかミスマッチ。
一階下にあるのは「ヘラクレス」の強い心臓、エンジンです。

このエンジンは

Triple expansion steam engine (三重膨張蒸気エンジン)

といい、蒸気機関車などに搭載された複式機関と同じものです。
ここにあるのは日本語では

「3シリンダー3段階膨張複式機関」

で良いかと思われます。
見る限り、シリンダーは大2、小1の組み合わせのようです。

エンジンルームの横がいきなり船員のキャビンでした。

「ヘラクレス」には船長、、二人のメイト、(幹部?)3人の消防士、
3人のオイルマン、機関長と2人の機関士、コック、そして
3人のデッキハンター(deck hunter)が乗員として乗り込んでいました。

つまり全部で乗員は15名です。

ところでデッキハンターって何かしら。

ところどころ床がこんなすのこ状です。
エンジンが蒸気式なので、少しでも通気をよくする必要があったのかもしれません。

構造物と構造物の間が通路になっています。
木枠の窓に窓ガラスは、そこだけ見ると普通の家みたい。

ボイラー室は見学することができないので写真で説明です。

この時代ほとんどの船が石炭を燃料としていた中、「ヘラクレス」は

「オイル・ファイア方式」 (oil-fired system)

つまり石油燃焼型で、当時は大変珍しい船でした。
西海岸は石炭より油の方が潤沢なので、ここでの勤務に向いていたと言えます。

上記にはそのメカニズムが書いてありますので、ご興味のある方は
英語ですが読んでみてください。(面倒だから丸投げしているのではありません)

この写真に、海事博物館のボランティアたちは、ボイラーを修復する仕事をした、
とありますが、それはつまりこの船は稼働できるということなのでしょうか。

上でお湯を沸かすことができるストーブ。

ちょっと1960年代ふうのモダーンな雰囲気が漂っている気がしますが、
船の形に合わせて無理やりテーブルを作ったらこうなっただけかもしれません。

船長とオフィサーが食事をするキャビンです。

同じ場所で撮られた写真。
左から船長、船長の妻、メイト、機関長(適当)

これが一人部屋で、どうも寝台のようです。

ある二等船員がパナマで仕事をした時の思い出です。

「私の部屋はボイラーの真上だった。
その暑いことと言ったら!
横たわると耳元に水がいつも流れる音が聞こえてくる状態で、
眠ることはなかなか難しい。
ある日乗員はデッキの上にマットレスを運んでいった。
彼らはそこで快適な夜を楽しんでいたんだが、
突然土砂降りになって・・・皆走り回ることになったよ(笑)」

 

「ヘラクレス」は巨大なケーソンを牽引して、それを
パナマ運河に持っていくという仕事をしたことがあり、
彼の思い出はその時の航路途中のことであったと思われます。

閘門式であるパナマ運河のどこにケーソンが使われているのか
調べてみましたが、結局わかりませんでした。

キッチンらしきものは見当たりませんでした。
もしかしたら見学コースには含まれていなかったのかもしれません。

水を組み上げるポンプがシンク横にあります。

「ヘラクレス」では一度巨大なウミガメを捕まえたことがあり、
彼らは毎日のように「ウミガメのスープ」と「ウミガメのステーキ」を
堪能したそうです。

甲板の上はくまなく歩くことができます。
船首部分には・・・・・

錨の揚げ降ろしをするための巻き上げ機(らしきもの)がありました。
ただし、冒頭写真でお分かりのように、錨はない状態で展示されています。

サンフランシスコから北上しようとする船は、付近の風が強いこともあって、
必ずといっていいほど牽引を「ヘラクレス」か、あるいは彼女の姉である
「ゴライア」に依頼していたということです。

それにしても姉妹でこの名前はどうなのっていう。 

手すりのついたデッキは、ここからワッチを行うこともあったのでしょうか。

1924年、「ヘラクレス」は「西太平洋鉄道」( Western pacific railroad )
に買い受けられ、「カーフロート」と言って、列車ごとはしけに乗せて、
それを引っ張る仕事をしていました。

ニューヨークのハドソンリバーを航行するカーフロート。
「ヘラクレス」はアラメダやオークランドとサンフランシスコの間を往復していました。

 

 

甲板船首側から操舵室のある船橋を見上げたところ。
高くそびえ立つ船橋はまるで灯台のようです。

1947年には、「ヘラクレス」と「モナーク」という2隻のタグボートに
スクラップになることが決まった戦艦「オクラホマ」を牽引するという使命が降りました。

戦艦「オクラホマ」が真珠湾攻撃で損壊し、戦争が終わるまで湾内に
横転着底のままで放置されていたことは、あまり知られていません。

海軍のプロパガンダ映画でも、「オクラホマ」の修理はすぐにすんだ、と
言い切っていましたが、実質ずっと沈没したまま放置されていたのです。

一応1943年3月にサルベージが行われて浮揚し、
修理の上大改装による戦列復帰が計画されたのですが、あまりに損傷が激しく、
結局修理は断念され退役扱いのうえスクラップになることが決まりました。


武装や上部構造を撤去した後、カリフォルニア州オークランドの会社に売却され、
1947年5月17日、2隻のタグボート、「ヘラクレス」と「モナーク」に曳航され
サンフランシスコに向かう途中、彼女ら一行は真珠湾から540マイルの海域で嵐に巻き込まれます。

「オクラホマ」はたちまち浸水し、艦体が大きく傾斜を始めました。

連絡を受けた海軍本部は、真珠湾に引き返すように指令しましたが、
もはや事態はそのようなことができる状況にはありませんでした。

「オクラホマ」の沈没が始まった時、「モナーク」は曳き綱を早々に放しましたが、
「ヘラクレス」は、「オクラホマ」が沈没する最後の瞬間まで綱を引き続け、
もう少しで「オクラホマ」と共に海に沈むところであったと伝えられています。

「オクラホマ」の沈没場所は現在に至るまで特定されていません。

「オクラホマ」は、スクラップとなるより、あえてそのままの姿で
太平洋の海底に残ることを自ら選んだのではなかったでしょうか。

 

「ヘラクレス」はその後エンジンを換装し、フェリーとして1975年まで現役で活躍し続け、
その後はカリフォルニア州立公園ファウンデーションに乞われるかたちで
ここ海事博物館の展示の一つに加わり、かつての「タグボート魂」を今日に伝えています。

 

 

 


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