前回最後に貼った「外国人の白梅に対する感想」ご覧になったでしょうか。
京都祇園の白梅の客室は全部で8室ですが、どんな予約があっても
旅館側は外国人客を3部屋までに抑えることにしているそうです。
日本人なら常識として知っている和式の家でのしきたりや
道具の使い方、料理や素材についての説明を、女将は全て
丁寧に英語で行うことにしていますが、それでも1日に
3部屋が「限界」だからだと言う説明を受けわたしは納得しました。
部屋で携帯の茶道具を持参してきた姉の点てた一服をいただき、
久しぶりのおしゃべりに興じているとわたしの部屋ができました。
今回の部屋は二階です。
窓から見下ろす白川と白川通り。
床の間の部屋では全員が集まって食事をする予定。
障子もはめ殺しの窓も「梅」の形!
こういう日本家屋は外気を防ぎにくく、冬は死ぬほど寒いのですが、
ここでは畳の下に床暖房が入っていて窓を開けっ放しでも快適です。
上から見ていると、玄関先の橋にはしょっちゅうこうやって
観光客が入り込んで撮影会をしていきます。
特にアジア系の人たちは、まるで自分がここに泊まっているように
ポーズをつけたり、欄干に座ったり。
橋の前には「泊まり客以外入らないで」と英語と日本語で
注意書き柵が置いてあるにも関わらず・・・・。
あっ、英語と日本語が読めない人たちなのか!(納得)
そしてその日の夕食。
八寸の栗きんとんの周りの「いが」と松葉は食べられます。
松葉はよくできていて、言われなければ本物と間違えること確実。
茶そばを揚げたものを何かで接着してあります。
秋の御膳ということで、鱧の土瓶蒸し。
松茸はもちろんわたしにとっても初物でした。
メインは丹波牛のすき焼き。
量的にも内容も、日本人のみならず欧米の客にも喜ばれそうです。
実はあまりのコースの重さに、締めのホタテご飯はギブアップ。
量は間違いなく外人さん向けです。
開けて翌日。
いまだに時差ボケ生活が続いているわたしとしては、呉に引き続き
京都という街を早朝散策してみることにしました。
運動靴を持って廊下を忍び歩き、玄関をそうっと出ます。
昼前から深夜まで人通りが絶えず、賑やかな祇園白川も、
流石に朝の6時とあっては人影もなく。
早起きは三文の徳という言葉もありますが、朝早く起きると
幸せホルモンといわれるセロトニンが出るとか、
朝早く起きることで鬱病も治るとか言いますよね。
まあ、後付けなんですが、この白川南通の眺めを見ただけで
その「徳=得」を実感いたしました。
地震がない京都には、ゆがんだ建築物も多く残されています。
路地にあるバー、あるいはスナックの「サガン」という名前からは
いかにも一昔前の神戸とはまた違う舶来好きの京都を感じさせます。
サルトルとかボーボワール、カミュ。
フランス文学と京都は昔から親和性が高いのです。
確かパリとも姉妹都市ですしね。
ちなみにアメリカの京都の姉妹都市はこれもイメージ通りボストンです。
大阪はサンフランシスコですが、先日解消してしまいましたね。
江戸時代から今に変わらない建物が並ぶ伝統的建造物保存地区。
(それでも戦災で一度は焼けた店もあるそうです)
日中から深夜まで観光客で賑わう巽橋付近にもほぼ人の姿なし。
鴨川の辺りを上流に向かって歩いていくことにしました。
河原のそちこちには昔の京都を写した写真があって、今と比較ができます。
これは上の写真と同じ三条通理にかかる橋。
河原に米俵を積んだ牛車が牛に水を飲ませに来ています。
丸太町まで上がってくると、この辺には行幸所などもあったわけですが、
今では普通にマンションが軒を連ねています。
画面一番右は登録文化財にもなっている旧京都中央電話局で、
外観はそのままに現在はなんとスーパーマーケットになっているとか。
鴨川は鳥の楽園でもあります。
これは、チュウサギ。
真っ白な体で冬羽になるとくちばしが黄色くなります。
脚で盛んに水をかき混ぜながら餌を探していたコサギ。
これはコサギの習性だそうです。
冬でもくちばしが黒いままで、夏には頭の後ろに飾り羽が現れます。
こちらはくちばしが黒いのでおそらくコサギだと思いますが、
コサギといえども羽を広げると大きなものですね。
マガモ三羽が揃ってお食事探し中。
緑色の頭(見えませんが)がオスで茶色がメスです。
珍しく川面で水を飲んでいた鳶。(英語名:ブラックカイト)
河原には「鳶に注意」(人間を襲うから)と張り紙がありましたが、
注意しても防ぎようがないと言うか。
鳶は本来臆病な性格なのですが、人馴れしてくると厚かましくなり(笑)
食べ物などを強奪するツワモノも現れるということでした。
そして白梅専属?の”おうちゃん”と同じアオサギ。
青じゃなくて灰色なんじゃ?と突っ込んでしまうわけですが、
まあ、灰色より青の方が綺麗に聞こえるってことなんでしょう。
胸に破線状の黒い縦縞が入り、これは個体によって模様が違うので
例えば ”おうちゃん” を見分ける目印にもなるわけ。
この日の京都は朝震え上がるくらい寒かったのですが、そんな中
河原で石積みを熱心にする人の姿あり。
サンディエゴにもいた「ロック・バランシング」族ですね。
丸太町付近にあった写真より。
本当に丸太を扱っていたから丸太町。
こちらは第一回目の時代祭の様子。
警備に立っている警官の帽子からもお分かりのように、これは
明治28年の写真です。
葵祭(五月)祇園祭(七月)とともに京都三大祭りの一つである
時代祭は平安遷都1100年目を記念してこの年から始まりました。
平安絵巻ではなく、明治28年の第一回時代祭を描いたものです。
列の後方には肋骨服のおそらく陸軍音楽隊が演奏しながら歩いていますし、
その前にはシルクハットに燕尾服の一段(主催者?)がいます。
昔京都訪問についてのエントリで、この飛び石を渡った、
とお話ししたことがありますが、鴨川を渡る飛び石は
この他にも一〜二箇所あったと思います。
しかし、亀をかたどった石があるのはここだけ。
「かめいしを みんなでとんだ ふゆのあさ
はくいきしろく やままでしろい」
間違いなく小学生の短歌だと思うんですが、一般公募した短歌を
岩に刻んで飾るという市の企画でもあったんでしょうか。
ところで、白川もそうですが、鴨川には疎水が流れ込んでいます。
琵琶湖から鴨川に水を引く疎水事業は明治時代に完成しました。
昭和10年の豪雨による京都水害の様子です。
この時の出水で、死傷者 計83名、家屋流出 187棟、
5万戸近くが床上浸水するという大変な被害となりました。
京都市はこの時の大災害をきっかけに疎水と鴨川の河川補修を
大々的に行い、現在の状態にかなり近づいたといわれています。
その際、鴨川の世界に冠たる美しい景観を維持し、さらには
京都市民の大きな楽しみである川床が行うことができるように、
という配慮も、しっかり計画に盛り込まれたそうです。
歩いていて、思わずあららーと声が出てしまいました。
巨大な地元高校のポスター、学園祭用だと思いますが、どうなのこれ。
亡くなったゲルニカの人に対し不謹慎だと思わないのか!
・・と声を荒げる不謹慎厨になるつもりはありませんが、
うーん・・・ちょっと眉くらいは顰めてしまうかな。
ここは世界の観光都市京都、つまり海外からの観光客、
中には当事国から来てこれを見る人だっているわけですが、
たとえ見てもゲルニカ空爆なんて遠い昔のことなのでヘーキヘーキ、
ただのパロディだし、って感じかな?
しかし、それはわたしたちの言うべきことじゃないと思う。
例えばどこかよその国に行った時、原爆投下がパロディにされている
ポスターや漫画を見たら、自分は日本人としてどう思うだろうっていう
想像力くらいは働かせようよ。もう高校生なんだから。
先日韓国のアイドルとやらが原爆をプリントしたTシャツと、
ナチスのコスプレでなぜあんなに騒がれたかってこともね。
そもそも「ゲルニカ」はパロディのネタとしては最悪の選択で、
同じ名画からパロってくるにしても、世界には他にも色々、
いくらでも無難な絵があるわけだからさ。
選りに選ってわざわざこんな絵を選ばんでも、と思うわけです。
そこまで元ネタの事件について深く考えてなかったか、
平和ボケしていてなんでもアリのお花畑ちゃんだからか、
何れにしても悪意は全くないだけに、なんだかなあ・・。
子供のやることはある程度仕方ないとしても、この学校、
誰一人これに問題を感じる先生はいなかったんでしょうか。
ゲルニカもどきを通り過ぎるとほぼすぐ、
右からくる高野川と、左からの鴨川が合流するところに出てきました。
ここでわたしは折り返すことにし、祇園白川まで戻ったのですが、
歩いた時間は合計で1時間20分。
写真を撮りながらだったので1万歩くらいのトリップ、
肌を切るような寒さもまた京都ならではの特別な体験です。
部屋に帰ってみると慣れない寒さに鼻の頭が真っ赤になっていました。
本来11月なんてこれくらい寒かったと思うんですけどね。
続く。