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Channel: ネイビーブルーに恋をして
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バッテリー・ボウテール〜ゴールデンゲート 防衛の要所

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先日我が日本にも大久野島の砲台跡のような遺跡があったことを知り、
もう一度、アメリカで観た砲台跡のご紹介をすることにしました。

アメリカから帰ってずいぶん経ちますが、今更アメリカ旅行記です。


今回、秋の気配が見えた東海岸からまた灼熱の?サンディエゴに行き、
暑いのか寒いのかわからないサンフランシスコで最後を過ごして、
その1週間には思いつく限りの「もう一度行きたい場所」を隈なく制覇しつつ、
元地元民ならではのショッピングを楽しむことも忘れませんでした。

今回、サンフランシスコ空港のハーツレンタカーで選んだのがこれ。
一人なので大きな車である必要はないのですが、なぜかここには
好きな車を選んでいい「プレジデント・サークル」に大型車しかなかったのです。

その中でも比較的小型の日産ローグを選んだのですが、これがまたいい車でした。

まず、シフトが軽い。アクセルも反応が良く、サンフランシスコの急傾斜も
なんのそののパワーで、全くストレスがありません。

おまけに、追い越してくる車があれば室内の左右のランプで
こちらから来ますよ、と警告してくれるだけでなく、運転中、
車線変更しようとウィンカーを出した時に、その後ろから車が来ていると、
ピンピン!と警告音を出してくれるのです。

どんなに左右確認をしていても、ちょうど車が死角にいる場合、
車線変更でひやっとした経験は誰でもあるかと思いますが、
この車だけはこのアラームが付いていたのでとても楽でした。

今年101を走ったら楽天のビルが高速沿いにできていました。
ソフトバンクも同じサイドのもう少し南側にありますが、
後ろに回ってみればまるで書き割りのように人気がないビルでした。

まあ、ここにビルを建てるのは看板みたいなものですから、
実態はそんなになくてもいいのかもしれませんが。

今年も一応クパチーノのアップル本社に一度だけ行ってみました。
去年はショップが工事中だったので、見るだけ見ておこうと思ったのです。

ここでしか買えないアップルのティーシャツも、様変わりしていましたが、
なんというか、あまりセンスがいいシャツがないという感じ。

昔のようにパーカや帽子、赤ちゃんのよだれかけまで揃っていることはなく、
本当にTシャツとカップくらいしかもう売っていません。

息子用とわたし用に買ってみましたが、ユニセックスであるためか、
きつかったり余ったりするところがあって女性にはいまいちな着心地。

この日に限らず、サンフランシスコでの日々は、ただ心の赴くまま
行きたいところにハンドルを向けていたので、午前中クパチーノにいて、
午後からゴールデンゲート自然公園にいるというような毎日でした。

クパチーノの外にいるだけで辛くなるジルジリと日差しの強い地域から、
1時間走れば風の冷たく寒いランズエンドに行けてしまうのです。

というわけで今年もまたやってきたオーシャンビーチ。

この日はナイキ・ミサイル・サイトに行こうと思っていたので、
現地がオープンする12時半まで時間を潰す必要があったのです。

この辺りにもホームレスがいるらしいのにちょっとびっくりしました。
ずっとここにいるので皮膚が厚くなって寒さが平気なのでしょうか。

他の地域では明らかに見ることのない植物などもあります。

市内観光のバスのルートになっているようです。
わたしが通りかかった時、ちょうどバスから人が降りてくるところでした。

丘の上から温水スパ、サットロ・バスの遺跡が見られるところに来ました。
海水の溜まっているところが本当にバスだったかどうかは確かめてません。

ここにあったサンフランシスコ観光局作成の案内ボードより。

うーん、見れば見るほど左奥の鳥居が謎だわー。

それはともかく、今緑が青々と覆っている右側の山の斜面は、
こんな風に山を切り崩し、道路も鉄鋼線を入れて作っていたのね。

奥にある建物は今のクリフハウスと同じですが、この写真は
1922年に撮られたもので、前の建物が火事で焼けた後再建したのです。

ところで、これ、覚えておられます?

1924年の我が海軍兵学校遠洋航海のアルバムに、
「金門公園の海岸に建てられたる家」というキャプション付きで
掲載されていた写真なんですが、この建物は1907年に消失したはず・・・、
つまり、行ってもいない景色をあたかも見たかのように載せている、
と鬼の首を取ったように当ブログで摘発したことがあったんですね。

実際、練習艦隊が金門に訪れた時にはおそらく上の工事も終わり、
クリフサイドは今現在とほぼ同じ状態になっていたはずです。

この文章にある「Yelamu Ohlone」(イエラム・オーロン)とは、
サンフランシスコのこの一帯に住んでいた300人足らずの
ネイティブ・アメリカン(俗にいうインディアン)のことです。

彼らはスペイン人がここにやって来た頃に改宗したりして、
いつの間にか吸収されてしまいました。

1860年ごろ、最初のアメリカ人たちがここにたどり着き、
やったことは徹底的な「山野の彫刻」でした。

土地を削ったり形作るだけでなく、彼らがしたことは
人工的に緑地帯、森林を作ることも含まれていたのです。

1880年代にはあのアドルフ・サットロ(Adolf Sutro )が
この一帯を「プレジャーグラウンド」として開発しました。

そのサットロがここに作ったのが、「サットロ・バスズ」でした。
夏も寒くて海で泳げないサンフランシスカンのために、
サットロはなんと、巨大な温水プールを作り上げたのです。

その後経営が思わしくなくなると、なぜか都合よく建物は全焼し、
サットロは巨額の保険金を手に他の地方にトンズラした・・
かどうかは知りませんが、まあ、そういうことです。

今でもこの地域にはその遺跡を見に来る観光客が絶えず、ある意味、今も
サットロの企画した「プレジャーグラウンド」となっていると言えます。

お風呂だった部分には海水がたまり、更衣室かシャワー室だったらしい
小さく区切りのついた部分はまるで路上アートの展示ブースみたいです。

写真の上半分は全盛期のサットロ・バスで水遊びに興じる人々。
泳いでいるのを見ている人がいっぱいいますが、この時代
温水プールというものが物珍しかったのだろうと思われます。

その下の

「勝利を定義するものは何か?」

という記事は、ジョン・ハリスというサンフランシスコ在住の男性が、
新しくオープンしたサットロ・バスズを友人たちと訪れ、入場料の
25セントを払ってから、アフリカ系だった彼だけが入場を拒否された、
という差別を法の場に訴えたという事件を表しています。

カリフォルニアでは1880年には州法として、ディブル民権法
(写真右がそのヘンリ・ディブル)が制定されており、
ハリス氏の訴訟の拠り所はこのディブル法でしたが、
実際問題としてアフリカ系をバスに入場させると、その他全員の
白人客が嫌がって来なくなるため、どうしてもそうせざるを得ない、
という経営側の主張に妥協するような形で、結局裁判は
ハリス氏の訴えである「損害賠償金1万ドル」とは程遠い、

「ハリス氏を二回拒否した賠償金50×2=100ドル払うこと」

という判決が出されました。

制定されたばかりのディブル法が「試された」形になったこの裁判、
確かにハリス氏は勝訴しましたが、タイトルの言うように
これが本当の勝利だったのかどうかは誰の目にも明らかでした。

クリフハウスには何回も来てご飯も食べ、
そこに温水プールがあったことはよく知っていましたが、
そんな人種差別事件があったことをこの看板を見るまで知らなかったので、
まだまだ知らないことがたくさんあるものだと嘆息しながら、
ナイキ・ミサイルサイトに向かったわたしでしたが、
その欄でもお話しした通り、site を sight と間違ってナビに入力したため、
ブリッジをまた戻って来てしまいました。

しかし、怪我の功名というのか、ブリッジを渡った後、
もう一度ナビを入れ直そうと適当なところを探して車を停めたら、
そこは何と、今まで知らなかった旧砲台跡だったのです。

去年、ブリッジの向こう側のフォート・ベイカーで、偶然
砲台跡を見つけて調べたところ、その昔、ここには
本土を防衛するため、それこそ針山のように、バッテリー、
砲台が設置されていたことを知りました。

ここは「Battery Boutelle」(バッテリー・ボウテール)という砲台です。
どうも響きがフランス語ぽいですが、フランス語の「瓶」(bouteille)とは
惜しいところで少し綴りが違うみたい。

1899年にフィリピン近郊で活動していたボウテール中尉の名前だそうです。

かつてここには5インチ砲が3基設置されていました。

このグーグルマップをご覧ください。
赤いマークがわたしがたまたま車を停めたバッテリーですが、
全部でこの画面だけで見える7つのブルーのマークは、
全て砲台が3基単位で存在し、今も遺跡として残されている部分です。

「針山のように」というのは決して大袈裟な表現ではないのがお分りいただけるでしょう。

この一帯をフォート・スコットといい、完成は1900年ごろです。

上グーグルマップの一番上の「バッテリー・クランストン」で
1915年に撮られた砲兵の写真です。

一つの砲台にはこれだけの人員が配置されていたということですね。

どの写真も砲身の位置が低すぎないか?
と実は不思議だったのですが、謎が解けました。
ピラーマウントは「ピラー」(柱)というだけあって、それ自体が
高さを変えて、砲身そのものを持ち上げることができたのです。

これもクランストン砲台の写真です。

 

1912年、つまり現役時代のここバッテリー・ボウテール。
不鮮明ながらピラーマウントには砲が設置されているのが確認できます。

砲は飛距離7マイル(11.265km)、1分間に30発連射することができました。

1900年から1917年まで、砲台は稼働していたようですが、
第一次世界大戦が始まった時、砲は取り外されました。
野戦砲兵隊の任務に使われたからです。

CANONの落書きが・・・(笑)
中には砲のカートリッジなどを収納したのかもしれません。

石段を上がってみました。
ピラーマウントだけが残されています。

これは一番右側の砲座跡。

三つある真ん中の砲座跡。
とにかく誰でも立ち入ることができ、保護されてもいないし
見張りもいないので、落書きし砲台、じゃなくてし放題。

砲台には砲を接続するためのリングが壁に据え付けてありますが、
こんな落書きをする人も・・・上手いのか下手なのか判じ兼ねますが、
とにかくこれがカウであることはよくわかる。

半地下にあり、窓には鉄格子。
これは弾薬を収納していた弾薬庫に違いありません。

ナイキミサイルを見に行こうと思っていたため、これ以上は
進みませんでしたが、この海側は

バッテリー・ゴットフリー(Battery Godfrey)

と呼ばれる砲台跡で、そこはボウテールの2倍以上大きな
新しい12インチ砲をテストするために作られたものでした。

この写真でも、砲がまだ完成したばかりでテスト中らしいことがわかります。

「ゴールデンゲート・オーバールック」と名付けられた
ちょっとした高台に登るとこんな景色が見えます。

ボウテール砲台はこのさらに右側に1基、
全部で4基の砲台になる予定でしたが、何かの都合で中止され、
結局廃止されるまで3基のままでした。

兵士たちが休息を取るために隊舎もありました。
ただしそれは自分の割り当ての砲台のすぐ近くで職住一体だったそうです。

士気を高めるために、フォート・スコットフィールド(この横にある)
では、行進などの訓練も行われました。

軍隊の基本ってどこでも行進なんですね。

近くで見ると気がつきませんでしたが、真ん中の砲台は
完璧にヒビが入っていて、今度地震でも来たら崩れるかもしれませんね。

1943年、アメリカ戦争省はこの砲台をこの地域にある他の12の砲台と共に
遺跡として残すことを決定したといいます。

1943年といえば、第二次世界大戦が激化していた頃だと思いますが、
わざわざそんなことを政令として決める余裕があったということですね。

フォートとバッテリーがこの地域にどれだけあったかを示す地図。
赤い四角は全てバッテリーの所在地です。

スペインの領地だった頃、1900年から1915年にかけてのバッテリー、
そして冷戦時代のナイキミサイル発射場と、時が移ろうにつれ武器を変えつつも、
ここランズエンドは常にサンフランシスコ防衛の要所であったのです。

 

 

 

 


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