ああ、わたしは荒れた大地の結び目を滑り
笑い声を上げる銀の翼の上で 空のダンスを踊った
太陽に向かって登り 歓喜の宙返りに加わった
おまえは夢見たことはないだろう―太陽の満ちる高みへ
着陸し 舞い上がり スウィングし そしてそこでホヴァリングすることを
叫ぶ風と共に飛び 振り落とされ
逸るわたしの機は床のない空の舞踏会場を通り抜ける
高く ただどこまでも上に向かって 無我夢中で 燃えさかる青の中へ
わたしは酒々楽々と 風が吹き払った高みに君臨する
ヒバリも 鷲でさえも飛んだことのない場所へと―
そして 静寂が わたしの心を支え上げて
まだ誰も通り抜けたことのない高みを闊歩するとき
わたしは聖なる空間にこの手を差し入れ
神の御かんばせに触れるのだ
ジョン・G ・マギーJr. 少尉
アメリカ人パイロット
ザ・ロイヤル・カナディアン・エア・フォース所属
1941年11月11日、空戦戦死
訳:エリス中尉
昨日は8月26日。
「大空のサムライ」として有名になった元零戦搭乗員の坂井三郎氏の誕生日でした。
「大空のサムライ」は読んだことはあっても、アメリカで、いや世界中で出版されている
「SAMURAI!」を原書で読んだことがある人はあまりいないかと思います。
因みに冒頭の詩は「大空のサムライ」には決して登場しないもので、
この「SAMURAI!」前書きの前ページに掲げられたものです。
エリス中尉の素人訳でも、原詩の雰囲気を汲み取っていただければ幸いです。
空戦で戦死したパイロットの詩をこうやって冒頭に挙げることで、
このストーリー全体によりいっそうドラマチックな彩りが与えられています。
以前、その「SAMURAI!」から、作者のマーティン・ケイディンがドラマチックに脚色した、
「坂井三郎が日本の病院で、ラバウルの戦友が次々と死んだことを西澤広義に聴くシーン」
そして、「笹井中尉がまるで聖人のような描かれ方をしている箇所」を抜粋して、
なんどか記事にし語ってきました。
「SAMURAI!」の作りというのは、これらを読んでいただくとおわかりかと思いますが、
「I」=坂井三郎が語るという形を取ってはいますが、明らかに本人が語ったことを元に
構成し、肉付けし、創作をふんだんに加えた、「自伝風小説」となっています。
アメリカ人のマーティン・ケイディンが、坂井氏へのインタビューを元に、
その中から汎世界に共感を得る部分を、さらにアメリカ人の感覚で解釈し、
劇的要素を加えてまるで見てきたかのような場面を展開するのです。
それは、たとえばあまりにも多すぎる台詞に現れています。
日本で出版された「大空のサムライ」ですら、初版「坂井三郎空戦記録」に比べると、
台詞や、あまりに情緒的な創作が増えすぎている、と読み比べて感じるのですが、
この「SAMURAI!」は、たとえばこんな具合です。
私は直立不動で笹井中尉と中島少佐に敬礼した。
「報告します」
私は息を詰まらせた。
「司令のところに連れて行って下さい」
「義務なぞ糞喰らえ」
中島少佐は私に雷を落とした。
「待ってろ。病院に連れて行くから」
私は報告しに帰ることを声をからして言い張った。
次の瞬間、西澤が立ち止まり、私を肩の下で支えた。
太田が左肩の下に滑り込み、二人の搭乗員は私を指揮所に運んでいった。
西澤はずっとつぶやいていた。
「馬鹿めが。どんな状態かわからんのか。
狂ってる。こんな状態なのに」
面白そうだと思いません?
誤解を恐れずに言うと、この「SAMURAI!」、
はっきり言って大空のサムライより、面白いです。
「こんなこと坂井三郎が言うわけないし」という突っ込みも含めて。
この小説が世界に受け入れられたのは、日本人のある零戦パイロット、
まるで自我のない「闘う機械」であるかのように思われていた日本軍の兵士が、
人間として我々(主にアメリカ人)と共通のものを持っていた、という「カルチャーショック」が
基本になっていると思うのです。
価値観の全く相容れない、下手すると獣のように通じ合う部分のない、
別の生き物であるかのようにすら言われていた日本人が、実は我々のように。
戦い、悩み、苦しみ、そして決して完璧な人間などではなく、ときには酷く失敗し、
友と笑い合い、そして恋をする。
なんだ、俺たちと一緒じゃないか、と。
・・・・え?
坂井三郎が恋をするなんて表現、大空のサムライにあったっけ、と思われた方。
あるんですよ。
いや、「大空」になくても「SAMURAI!」にはあるのです。
日本で出版された「大空のサムライ」には、不思議なくらい女性が出てきません。
あの本に書かれた期間に、坂井氏は女性に出逢い、別れ、結婚し、と
結構波瀾万丈な私生活を送っているわけなのですが、この小説は全く
「女っ気ゼロ」です。
「坂井三郎空戦記録」は、当初の目的が
「ある飛行搭乗員が、あの戦争をどう戦ったか」
を淡々と、ときにはドラマチックに、ときにはユーモラスに語ることにあったので、
そこに惚れたはれたが絡んでくると読者の対象が絞りにくくなる、
おそらく出版社はそのように考えたものでしょう。
日本ではその後、それが火付け役となって青少年の間に
「零戦ブーム」が起こり、原作を少年が読むようになったのですから、
対象年齢がいっそう幅広くなり、さらにその必要性はなくなったのだと思われます。
その後何回もの改訂や派生本、シリーズ本が出ても、それのどれ一つとして、
坂井氏の女性関係について書かれたものはありません。
しかし、それは「活劇と友情だけで満足できる」日本だけのこと。
ましてや、坂井氏の「交情」は、女性よりむしろ本田兵曹や笹井中尉などとの
「男性同士の疑似恋愛的友情」としてのみ描かれているので、むしろ
女性の存在は「邪魔」だったのだとも言えます。
アメリカで「SAMURAI!」を出版することになったとき、坂井氏は1956年、
本の序章のためのインタビューでこう語っています。
「戦後、わたしは飢え、貧困、病気などの倒せない敵と戦わなければならなかった。
占領軍に公職に就くという収入の道を絶たれてしまったこともある。
二年間土方の仕事をし、ボロにくるまって食うや食わずの最低の暮らしをしていた。
最も打ちのめされたできごとは、最愛の妻ハツヨを病で失ったことだった。
彼女は戦時中の爆撃からは生き延びたが、この新たな敵からは逃げられなかった」
本にはこのハツヨさんの初々しい日本髪の写真がページいっぱいに掲載され、
ストーリーの要所要所には、ハツヨさんとのロマンスが盛り込まれているのです。
日本ではそれでよくても、世界基準で、若い男性を描いた本に女性が全く出てこない、
というストーリーなど問題外です。
それに、ハツヨさんはこのようにアメリカ人から見ても魅力的な日本女性なのですから、
彼女を登場させないで話を進めない手はありませんね。
相対的にこの「SAMURAI!」は、フィクション性の多いノベライズとして仕立てられており、
主人公が、ちょっとアメリカ風の言い回しで会話し、涙し、
そしてときには男同士でも名前で呼び合って抱き合うという、なんというか
「やり過ぎ」が目立つのですが、しかし、おそらくこうでなければこのストーリーは
これほど世界の共感を得ることはなかったのではないかと想像します。
次回から「SAMURAI!」における坂井三郎のロマンスについて、
その部分だけを書き抜いて何回かのシリーズをお届けしたいと思います。