以前に一度使用した「ガダルカナルから傷ついて生還した坂井三郎」の絵です。
いとこのハツヨの亡くなった同級生の姉であるフジコとの出会い。
美しいフジコに、坂井は心惹かれながら戦地に出て戦い続けます。
そして、坂井のいる台南航空隊は、最も過酷な戦いに突入していきます。
ガダルカナルまで数時間飛行し、そして空戦して同じ距離を帰ってくる。
精強と言われた台南空の搭乗員はこの戦いで消耗していくのですが、
その初日、8月7日に坂井はドナルド・サザーランドとの空戦の後、
米軍機「ドーントレス」の機銃掃射の前に右頭部をやられ、視力を失いながらも気力だけで
四時間の飛行ののちラバウルに帰還します。
着陸の瞬間ガソリンはゼロになり、これは坂井が着陸のためにあと一回基地上空を旋回したら
おそらく四時間飛び続けた零戦は燃料切れで墜落していたと言われています。
負傷後も残って闘うと言い張る坂井は、斉藤司令、中島少佐の説得により日本に帰国します。
そして、横須賀の海軍病院で手術を受けます。
わたしは医師の言うとおり電球を見つめ続けた。
その電球がわたしの目に満たされた血で真っ赤になっても見つめ続けた。
医師の手が視界を遮り、そしてその手の先のとがった金属片が徐々に、徐々に近づいてきても。
わたしは叫んだ。
まるで気が違ったように恐怖と苦痛に声を張り上げた。
一瞬たりとももう我慢できない。
ついにはこの激痛が止められるならもうどうでもよくなった。
もう一度飛ぶこと、もう一度目が見えるようになること、そんなことはもうどうでもいい。
わたしは坂野医師に向かって金切り声を上げた。
「やめて下さい!もうやめてもう目玉をほじくり出して下さい!
もう何もしなくていい、止めて下さい!」
わたしはメスから逃れようともがいた。拘束バンドから滑り出ようとした。
しかしそれは堅く締め付けられており、医師はわたしが叫ぶたびに怒鳴り返した。
「黙らんか!」彼は吠えた。
「我慢しろ!目が見えなくなってもいいのか。騒ぐんじゃない!」
拷問は三十分以上続いたが、わたしにはそれが百万年にも思われた。
全てが終わったときわたしには指一本動かす気力すら残っていなかった。
しかもこれだけの苦痛を伴う手術の結果、医師から
「右目の視力は完全に戻ることはないだろう。左は大丈夫だが」
と告げられます。
医師の言葉は、わたしにとって死の―生きながらの死の宣告のように轟いた。
隻眼の飛行機乗りだと?
わたしは医師が去った後自嘲した。
そんなむなしさと共に病床にある坂井の元に訪問者があります。
フジコとその父親でした。
大阪で展覧飛行をした晴れがましい夜から、十八ヶ月ぶりの邂逅です。
通り一遍の見舞いの言葉と手紙を出せなかった非礼を詫びる
儀礼的応酬がすみ、父親がさらに怪我の様子を尋ねます。
それに対し、坂井は右目の視力は戻らないと言うことを答えると、
わたしの返答はフジコを固まらせた。
彼女は急に口を押さえ、その目は大きく見開かれた。
「本当です。わたしは二つの道を失いました。
わたしはもう健常者でもなく、目を失ったからには飛行機乗りとしても終りなのです」
ニオリ教授は遮った。
「しかし・・・それではあなたは海軍を除隊されるおつもりですか」
「いえ、そう思ってはいません。
あなたはおわかりでないかもしれんが、この戦争は、
怪我をしたからといって家で療養していいようなものじゃないんです。
わたしは除隊など全く考えておりません。
おそらく海軍は教官か何か地上勤務にわたしを配置してくれるでしょう」
フジコはわたしに向かって頭を振った。
彼女は明らかにわたしの儀礼的な返答に気分を害していた。
彼女は何か言おうとしたがそれは言葉にならず、遂に、傍らの父親に向かって叫んだ。
「お父様!」
彼女の目は何かを訴えていた。
ニオリ教授は深くうなずき、咳払いをすると切り出した。
わたしをまっすぐ見て、
「いつ隊に戻られるのですか?
私どもは結婚式の・・・三郎さん、勿論あなたさえ良ければだが・・・、
準備に取りかかりたいと思っておるのですが」
「な・・・・何ですって?」
わたしはしわがれ声で叫んだ。結婚の準備だと?
「なんと・・・・なんとおっしゃいましたか、教授?」つい声に出た。
「許して下さい、三郎さん。
わたくしどももあなたがこんなときに、とは思っております」
老教授は沈痛な様子で言った。
「三郎さん、娘をフジコをあなたの妻にもらってやっては下さらんか。
これには一通りのことを教え、どこに出しても恥ずかしくない女性に育てたつもりです。
あなたが申し出を受け入れて下さって、お義父さんと呼んでくれれば、
わたしはこんなうれしいことはない」
わたしは息をのんで押し黙った。
教授の声はまるで天に響く鐘の音のように聴こえた。
フジコはわたしが目を見張っている様子を紅潮して見つめていた。
そして膝を見るようにして頭を深く下げた。
不意に涙が溢れ、彼女から壁に目をやった。
なんて皮肉だ。この同じ壁をわたしは何日の間絶望しつつ眺めただろう?
やっとのことでわたしは声を取り戻した。
しかし容易にしゃべることはできなかった。
わたし自身の声は締め付けられて出てこなかった。
「ニオリ教授、わたしは・・・あなたのお申し出を光栄に思っています。
そうなればどんなにうれしいかしれません。しかし・・・」
わたしは振り絞るように、涙を隠そうとして言った。
「わたしは―わたしにはできません。お申し出をうけることはできません」
ああ、終りだ。言葉が出てしまった。言ってしまった。
「何ですって?」信じられないと言う声だった。
「あなたは―どなたかとお約束がおありだったのですか?」
「違います!断じて!お願いですからそんなことまで考えないで下さい!
自分がどうのという問題ではなく、そうしなければならん理由があるのです。
ニオリ先生、わたしにははいと言うことなどできないのです!
見て下さい先生、このわたしを!
わたしはフジコさんに相応しくない。この目!」
わたしは泣いた。
「わたしは片眼なのです!」
かれの表情に安堵感が浮かんだ。
「三郎さん、何をおっしゃいます。
あなたは必要以上に自分を卑下しておられる。
怪我をしたくらいで、今まで積み重ねてきたものを否定しないで下さい。
それはあなたの価値を下げるどころか、名誉の負傷じゃないですか。
あなたは自分がどういう立場にいるか、まるでおわかりでないのですか?
日本中があなたを賞賛し、褒め称えていますよ。
偉大な撃墜王として、我が国の英雄として。わかりませんか?」
「ニオリ先生、あなたは分かっておられない!
わたしはただ本当のことを言っているのです。分かっていないのはあなたです。
わたしは謙遜してるんじゃありません。
英雄扱いなんていっときのことです。その瞬間作られるようなものです。
そしてわたしは英雄ですらない!
わたしは飛べない飛行機乗りだ。片眼の搭乗員なんです!
もはやそんなものは飛行機乗りじゃない。
英雄?それをおっしゃるならば日本には特別の英雄なんていないのです。
皆が闘っているんだ」
かれはしばし沈黙した。
「こんなときに拙速だったかもしれません。三郎さん」かれは続けた。
「しかし分かっていただきたいのですが、このことは昨日今日決めたのではない。
わたしと妻はあなたに初めてお目にかかった日からあなたと決めていたのです。
あなたの気持ちはよく分かるが、このことだけは理解していただきたい。
わたしと家内はフジコを幸せにしてやれるのはあなたであると考えてのことです。
これは我々の、あなたに対する信頼であり、フジコも同じ気持ちでしょう」
わたしはその言葉に崩れ折れそうになるのを感じた。
この聡明な人格者が、わたしが何を操縦しているのか分からないとでも言うのか?
「どうやって一度会っただけでわたしを理解なさったのですか?」わたしは泣いた。
「どうやってそんなにたやすくこんなことを決められるのです?
フジコさんの生涯の幸福を一度会っただけの男に?
あなたのお考えが理解できない―
そのお言葉はこの身に余る光栄には思っていますが」
わたしは激高して両腕を広げた。
「わたしなどよりずっとフジコさんに相応しい若い男性がいます。
何千人だって、完璧な学歴や資産を持つ男が。
わたしが娘さんに何をしてあげられますか?ニオリ先生?
何を与えられますか?
お願いですからわたしをもう一度別の明かりで見て下さい、さあ!
今のこんなわたしにどんな未来があるっておっしゃるのです?」
フジコは黙っていなかった。顔を上げ、わたしをじっと見た。
わたしは部屋から逃げ出したくなった。
「あなたは間違っているわ、三郎さん。」彼女は静かに言った。
「ええ、間違っていますとも。
あなたはご自分の目のことで混乱なさっているのよ。
あなたが片眼だろうがそうでなかろうが、わたしには全く関係ありません。
一緒になりましょう。
誰と結婚したところで長い人生の間にはあなたに起こったようなことが
起こらないとも限りませんわ。
もし必要ならば、三郎さん、わたくしにお手伝いさせていただきたいの。
目がどうだから、などとおっしゃるあなたと結婚するのはいやだわ」
「間違っているよ、フジコさん」わたしは言った。
「君は勇気がある。言っていることも本当だろう。
しかし君がそういうのは感傷からだ。
一時の感情で一生のことを決めるべきじゃない」
「いや、いや、いや!」彼女は頭を振った。
「どうしてそんなに分かって下さらないの?
これは一時の感傷なんかじゃあないわ。
こうやって会えるのを何ヶ月間指折り数えてお待ちしていたか!
わたくしの言う意味がおわかりですか?」
こんな会話はもうごめんだった。
随所で崩れ折れそうになる恐怖を感じながらわたしは言った。
「ニオリ先生。フジコさん」否応もない調子を声に表した。
「わたしは自分を卑下しているのではない。
交渉でどうにかなる話ではないのです。
何度も言いますが、先生、今夜身に余る光栄のお言葉をいただきました。
しかしわたしにはあなたのお申し出を受けることはできない。
フジコさんと結婚することはできないのです。
その理由は・・駄目なものは駄目なのです」
わたしは教授の言葉を聞くことを拒否した。
かれは何度も説得しようとしたが、わたしもまた何度も同じ言葉を繰り返し、
フジコは泣き崩れた。
彼女は父親の腕に縋って声を上げて泣いた。
わたしはこれほどの悲しみを彼女に与えた自分自身を殺したくなった。
しかしわたしは間違ってはいない。わたしのしたことは彼女の為なのだ。
わたしとの結婚は一時的に彼女を幸せにするだろうが、
何年かしたら苦しむことになるのは彼女なのだ。
彼らが出て行った後をどのくらい見つめていたであろうか。
わたしは無力感と絶望感にベッドに崩れ落ちた。
なんと言うことをしたのだ?わたしは千回も自問した。
そして千回とも同じ答えが反ってきた。
こうしか方法はなかった、
しかしこの答えはわたしの気分を全くマシにしなかった。
わたしはこの人生で得た最も美しいものを投げ捨てたのだ。
(エリス中尉訳)
ところどころ意訳しておりますので、もし興味がありましたら原文をチェックして下さい。
こんなわけで坂井はフジコさんとの別れを自ら彼らに告げてしまいます。
いよいよ、このあとハツヨさんとどうなるか、続きをお楽しみに。
って言うか・・・・坂井さん、かわいそうすぎる・・・・・。