傷の癒えた坂井は昭和18年大村航空隊に、
昭和19年には横須賀空で教官職に就きます。
ハツヨの両親、坂井の叔父夫婦はいつもかれを歓迎しました。
招かれたある日の夕食後、ハツヨは坂井をからかいます。
「ねえねえ、『お兄様』、お兄様はどうしてまだお独りなの?
良き旦那様として選ばれるのには何が問題なのかしら?」
叔父夫婦は花火をやめ、我々を笑って眺めた。
叔父はわたしたちをからかって言った。
「ふたりとも好みにうるさいからなあ」
わたしは微笑んだ。
「ハツヨさんにもらい手がないのが不思議ですよ。
この辺じゃまるで映画女優みたいに綺麗だって言われてる。
おまけにピアノの達人だなんて豪語できる女性が何人いるでしょう」
わたしは彼らと、そしてハツヨを見ながらこう言った。
「きみは素晴らしい旦那様を選ぶよ、きっと」
叔父夫婦はわたしの論評に微笑んだが、ハツヨはわたしを睨み目をそらした。
「どうしたの、ハツヨさん」
彼女は知らん顔していた。
怒らせてしまったか。わたしは驚いて話題を変えた。
「ハツヨさん、お願いがあるんだけどな。ピアノを・・・・。
もう長いこと独奏会を聴かせてもらっていない」
彼女はもの問いたげにわたしを見た。
「俺が初めて学校に上がったころのこと、覚えてる?
きみはあれを・・・ええっと何だっけ・・・ああそうだ、モーツァルトだ。
それを弾いてくれたんだ。
また弾いてもらえないだろうか?」
ピアノを弾いているハツヨについてはまた別の項でお話するとして、
彼女のピアノを聴きながら、坂井はどうしたわけか突然ハツヨを女性として意識しだします。
ハツヨとわたしが?
この考えはわたしを動揺させた。
しかし彼女はもう子供ではない。
目を覚ませ、坂井、お前は馬鹿だ!
彼女は女で、今、この瞬間、お前が好きだと言っているではないか。
わたしには彼女の気持ちが分かった。性急なその感情が。
答えてやりたい。
いやそれはだめだ。わたしは自分に向かって言った。
しかし、それは他ならぬ、ハツヨだ。
お前は彼女が好きになってしまったんじゃないか、この馬鹿者。
しかもお前はこれまで彼女の気持ちにさえ気づいていなかった。
病院でのことが思い出された。
彼女がわたしに腕を回し、泣きながらもう一度と飛ぶのよ、と言ったことを。
彼女はわたしを愛していたのだ。
わたしがそのことを想像もしていなかったころよりずっと昔から。
不思議なことだが、わたしはそれを知った瞬間、わたしも恋に落ちたのだ。
彼女に。
しかし坂井は、自分がフジコを拒否したからには、同じ理由で
ハツヨの物言わぬ訴えをも受けいれるべきではないのではないか、
そのように苦悶します。
フジコを拒否した理由は、なんと言っても戦闘で片眼を失ったこと。
こればかりはどんな奇跡が起きてももうどうしようもない事実なのだから。
坂井はハツヨの気持ちに対し知らぬふりをすべきだと決意します。
その後、坂井三郎は周知のように硫黄島防衛に隻眼のパイロットとして加わることになります。
その激戦の合間を縫って東京の叔父のうちを尋ねた坂井は、
叔母が自分をもてなすために闇市に行っている留守宅でハツヨと二人っきりになります。
当たり障りのない会話がひと段落した時・・・・・
そのとき突然、彼女はわたしの話を遮った。
「三郎さん」彼女は静かに言った。
「フジコさんが結婚なすったのをご存じ?」
勿論知らない。
「あの後ね、フジコさんはパイロットと結婚したの。飛行機乗りよ。あなたと同じ」
彼女の調子は挑戦的だった。
わたしが何か言いかけると彼女は遮った。
「三郎さん、どうしてまだ結婚しないの?あなたはもう若くもないわ。
もう27歳じゃないの。もう士官になって一人前だわ。奥さんをもらうべきよ」
「しかしハツヨ、俺はどんな女の人が好きかなんてことも自分で分からない・・」わたしは逆らった。
「フジコさんを愛していたんでしょう?」
なんと言っていいか分からなかった。
不器用な沈黙がわたしたちを支配した。
ハツヨはわたしを居心地悪くさせた。
よそ見することを許さずわたしの目をまっすぐ見た。
わたしはいらいらして話そうとしたが、どもるばかりだった。
坂井はいらだち、自分が結婚しない理由をこう説明します。
「俺は飛行機乗りだ。
空に上がるっていうのはもう帰ってこられないかもしれないということだ。
しかもそのときは遅かれ早かれやってくる。遅かれ早かれ!
今日日のパイロットで死なずに済むやつなんかいないんだ。
もうそんな戦況じゃないんだ。技術なんて何の役にも・・・」
「子供みたいなしゃべり方をするのね、三郎さん」
怒りで目を輝かせながら彼女は言った。
「ぺらぺらしゃべってばかりで自分の言っていることも分かっていない。
あなたには女の心が分からないのよ。
あなたは飛ぶことをそうやって話す。死ぬことを話す。
三郎さん、あなたの言うことには何もないわ。
あなたは生きていくことについて何も話そうとしないのだから」
「わからんー俺が間違っているのかもー・・・しかし・・・
どうしていつも君はそんな風にしか話せないんだ」
「わたし長生きなんてしたくないの!意味なく空虚に生きるのなら。
飛行機乗りだって明日死ぬかもしれないとわかっていて飛ぶわ。
―そうでしょ、三郎さん。
女の幸せはね。
ただ、彼女を愛してくれる男性と一緒にいることなのよ。
たとえそれが数日しか与えられなかったとしても」
彼女の言葉に呆然と立ちすくむ坂井。
返事をできないまま隊に戻った坂井にある日面会人が訪れます。
ハツヨと叔母でした。
坂井が部屋に入るなり、ハツヨはいすから立ち上がり、こう坂井に告げます。
「来たわ、三郎さん。お嫁さんにしてもらいに来たわ」
押しかけ女房、キター!(AA自重)
なんと煮え切らない坂井の気持ちを推し量り、母娘で急襲してきたのです。
わたしはドアのところで凍り付き、口も聞けずにいた。
「もし三郎さんに死ぬ用意ができているのなら、わたしも同じよ。
もし一週間しかないのならその間だけでも一緒にいましょう。
それが神様の思し召しなのだったら」
「ハツヨ!」
わたしは泣いた。あり得ない。こんなことがあるはず無い。
自分から言い出せなかったハツヨへの思い。
ハツヨがこうやって押しかけてくれたおかげで、坂井は
ようやく意中の人と結ばれることになったのです。
照れながらわたしが中島司令に報告すると、司令は相好崩して喜んだ。
すぐに電話を取り上げるなり、新居にする家の手配を指示した。
そしてそれらの気前の良い提案に対し、一切の異論を差し挟ませなかった。
ハツヨとわたしは昭和20年の2月11日、紀元節に結婚した。
式には親族と、終りの方には隊員たちが顔を見せた。
夕刻空襲警報が鳴って、邀撃の待機のため何人かが去ったが、
胃の腑が縮むような警報サイレンが結婚行進曲になるとは思わなかった。
式のあと、灯火管制で真っ暗な中、わたしたちは神社にお参りした。
勿論時節柄ハネムーンなどは叶わなかったが、次の日曜日には
搭乗員たちを五十人招待して披露宴をした。
彼らはあの「警報結婚行進曲」を話題にして大笑いした。
搭乗員は自分のできる楽器―ギターやアコーディオン―を持ち寄り、
やたら陽気な結婚行進曲を演奏してくれた。
わたしはその日、世界で一番幸せな男だった。
隊員たちは何度も何度も新婦の美しさを褒め称えた。
素晴らしい、忘れがたい夜だった。
宴会では叔父夫婦が特別に用意したごちそうに皆舌鼓を打ち、
ハツヨのピアノに皆がおのおのの楽器で即興演奏をするなど、
日本の宴会にはあまりないような盛り上がりを見せます。
わたしはハツヨから目をはなすことができなかった。
夢から現実になった女性、輝くばかりの美しいおとぎ話の姫。
それが、わたしの妻だった。
最終回に続く。