スミソニアン博物館別館、スティーブン・F・ウドヴァー-ヘイジー・センターには
第二次世界大戦時アメリカと干戈を交えた枢軸国からあくまでも
「イタリア抜きで」(笑)、つまり日独の軍用機が多数展示されています。
このほとんどが、終戦後、アメリカが相手国に乗り込んで
破壊される前の軍用機を接収し、空母に積んで本国に持ち帰り、
海軍と空軍のパイロットに実際に操縦させて性能を評価したものです。
スミソニアンのHPを検索すると、また同協会にはこの時代に接収した
日独の技術文書も数多く保存されており、研究者向けに有料で
公開されていることがわかります。
ちなみに保存の形態は全てマイクロフィルムによるもので、
動画などは撮影者のミスでぼやけていたりするものもあるとか。
日本機ばかりが並べられている一角。
手前から「紫電改」「橘花」「晴嵐」「屠龍」「震電」。
一番奥が「月光」で、その手前に見えている灰白色の機体が
本日取り上げる「桜花」です。
桜花 Kugisho MXY7 Ohka (Cherry Blossom) 22
「桜花」は特攻目的に開発された滑空機です。
靖国神社の遊就館で見ることのできる「桜花」は複製なので、
実はわたしにとっても実際の「桜花」を見るのはこれが初めてです。
現地の説明にある「KUGISYO」は海軍空技廠のことで、
MXY-7が型式番号になります。
「桜花」については日本語のWikipediaに多くが記述されているので、
今日はアメリカ側の説明を中心にご紹介します。
最初から体当たりを目標として開発された航空機というのは、
世界の歴史の中でもこの「桜花」が最初で最後でした。
日本以外の何処の国にとってもあり得ない思想である、
最初から死ぬことを目的とした攻撃、というのもさりながら、
人が操縦して体当たりするための爆弾を開発することの
不合理さと不可解さに、アメリカ人はなべて困惑したのでしょう。
アメリカ側が鹵獲した「桜花」を詳細に研究してたどり着いた結論は
「危険でもっとも手に負えない敵」
この鹵獲機にもわざわざノーズに描かれているように、彼らはこの人間爆弾を
「BAKA Bomb」と呼び、キリスト教の教えに反する自殺が前提の
武器をこうして蔑んでみせましたが、それでも
「アメリカ軍全体に広まった恐怖は決してやわらぐことはなかった」
(戦史研究家ジョン・トーランド)のは確かです。
アメリカ側の被害は1945年4月12日、駆逐艦「マナート・エーベル」が
真っ二つになって轟沈したのを始め、駆逐艦中心に損壊損失含め7隻。
(未確認の民間徴用船を含めるとさらに戦果は増えると言われている)
そして「桜花」特攻によって150名が戦死し、197名が負傷しています。
スミソニアンのキュレーターの手による解説も、機体そのものよりも
日本軍の行った特攻に対する解説に重きが置かれています。
以下、翻訳します。
Ohka 22は、初歩的な訓練を受けたパイロットが連合国の軍艦などに
突入できるように特別に設計された有人誘導ミサイルでした。
連合軍の空軍と海軍は戦況が進むに従って日本軍の戦闘機を
非常にシステマチックに鎮圧しはじめ、追い込まれた日本軍は
このタイプの攻撃のアイデア(特攻のこと)を選択したのです。
1944年10月19日、大西瀧治郎海軍軍令部次長は、フィリピンで
水陸双方から攻撃するために集結せんとしていた敵軍艦を攻撃するために、
特殊攻撃を行う航空隊を編成することを提言しました。
日本軍はこのユニットを表すのに「特別攻撃」という言葉を使い、
同盟国からは神風として知られるようになりました。
終戦までに、約5000人の搭乗員が特攻によって戦死したと言われます。
連合軍はこれらの部隊を「神風」または「自殺隊」(スイサイドスクヮッド)
日本人は特殊攻撃を意味する「トッコー」という言葉を使いました。
いくつかの哲学的概念が特攻という行動に動機付けられました。
祖国、故郷、そして天皇を救うための究極の犠牲。
そして戦士の名誉と行動の規範である「武士道」に対する義務。
そして、特攻の任務によって1281年にモンゴルの侵略艦隊を破壊した
台風、つまり「神風」の奇跡を再現するという信念。
終戦までに5000人のパイロットが特別攻撃によって死に、現実に
彼らがもたらしたダメージは連合国にとって深刻だったと推定されています。
1945年4月の沖縄侵攻中、アメリカ海軍は21隻の潜水艦と217隻の損害を受け、
被害となった死傷者の数はあまりに酷いものでした。
太平洋戦線で戦死したアメリカ海軍の全死傷者のうち実に7%に当たる
4,300人が特別攻撃によって死亡、また5,400人が負傷しています。
「桜花」の説明に入る前に延々と特攻についてこのような説明をしています。
特攻による自死の概念とその思想についても簡単ではありますが
端的に触れているのはさすがです。
そしてここからが「桜花」誕生のストーリーとなります。
トッコー攻撃は、ほとんどすべてのタイプの軍用機で行われました。
しかしそのうち日本軍は特別に設計された特攻用の航空機を必要とするようになります。
敵艦に突入するためには対空戦闘砲とその前に
防衛戦闘機からの攻撃をかわさなくてはいけなかったからです。
その答えは、照準を当てることが難しく、さらに素早く簡単に組み立てることができ、
大量生産が可能な小型飛行機、というものでした。
大田正一少尉は小型のロケット推進力のある特攻機のアイデアを思いつき、
東京大学航空研究所の職員の助けを借りて、改良案を日本海軍に提出したことから
海軍当局者は感銘を受け、プロジェクトは勢いを増しました。
「桜花」発案者の大田正一を、英語ではなぜか「オオタミツオ」と間違えているのですが、
この書き方では唐突で少しわかりにくいですね。
大田正一は海軍兵学校卒ではなく、海兵団から操練を経た
航空偵察員で、その頃から「頭のキレるアイデアマン」だったそうです。
この彼こそががロケット推進の有翼誘導弾が三菱で開発されていることを知り、
精度を上げるために人間が操縦すれば良いのでは、と思いついて
東大の教授に相談し、実現にまでこぎつけた「桜花」の産みの親です。
彼は自分のこのアイデアをなんとしてでも海軍に実現させるべく、
軍令部のゴーサインを得るために、自分が偵察員であることを隠して
「出来たらその時にはわたしが乗っていきます」
と宣言していました。
計画を持ち込まれた技術者や航空本部のお偉方にとって、一殺必死の武器に
誰を乗せることになるかが最後の決断のネックとなっていたわけですから、
開発者自らが「自分がやる」と言わなければ許可は降りなかったでしょう。
大田はそれを見越して嘘をつき計画を認めさせただけでなく、
「兵器が出来たら自分が乗りたいですリスト」
を、乗る可能性のない偵察員に取りまとめをさせて、さらに
名前を貸すだけならと賛同した搭乗員の名簿を上に提出しているのです。
最終的に軍令部が「桜花」の計画を承認し、研究試作が開始されるや、
自ら乗っていくと言ったはずの大田はケロリとしてこう言い放ちました。
「また新しい発明を考えて持ってきます」
それを聴いた航空本部の課長だった海軍中佐は自分の判断を悔やんで、
「あんな奴の提案を採用するのではなかった」
と苦々しく思ったという話があります。
その後、大田は桜花を使った特攻部隊「神雷部隊」付きになり、
その時に偵察員から操縦員への転換訓練を受けているのですが、
なんと「搭乗員の適性なし」と判断されています。
本当に真面目に訓練を受けたのか?
適性試験でわざと手抜きしなかったか?
この彼にとって都合よく見える結果に疑義を感じるのはわたしだけではありますまい。
その後新聞に「桜花」の発案者として華々しく紹介されて顔出しした大田は
「自分がそれに乗らないからといって()将兵を死につかせることを
躊躇ってはいけない。今はそういう事態ではない」
と堂々と語り、「桜花」の使用が終戦直前の7月に中止されてからは
方々に再開するように説いて回ったといわれています。
終戦の次の日には空技廠にやってきて
「こんな形でやるんなら真先に儂を行かせてくれと上申したのに駄目でした」
と楽しそうに話したという大田中尉は、8月18日、零戦に乗ってそのまま行方不明となり、
殉職扱いで大尉に昇進しました。
が!
戦後、死んだはずの大田の目撃談があちらこちらから出るわ出るわ。
中国軍の義勇軍に加わらないかと誘われたとか、北海道で密輸物資を
ソ連領に運んでいたとか、その合間にも子供を作ったり寸借詐欺をしたり、
傘を持ち逃げしたり(笑)
結局彼は戦犯となることを恐れ、死のうとして零戦に飛び乗ったものの、
金華山沖に着水したところを漁師に拾われて生きながらえ、
戦後のどさくさであちらこちらに起こったように、偽の戸籍を手に入れて
職を転々としながらも細々と、82歳まで生きていたということです。
作家柳田邦男は
「大田少尉は結局、時流に乗った目立ちたがり屋の発明狂」
と彼を評したそうですが、例えば「桜花」を
「この槍、使い難し」
と言い放ち最後まで評価していなかった野中五郎少佐が
生きてこの人物のことを知ったら、おそらく
天地も裂けんばかりに激怒していたことでしょう。
もっとも、功名心にはやる大田の画策によって生産に漕ぎ着けたという
苦々しい経緯があったとはいえ、苦しかった現場はこの兵器に期待を寄せ、
大田とは無関係に新兵器での体当たりを志願する搭乗員は何人も現れました。
スミソニアンの解説に戻ります。
横須賀の海軍第一航空技術廠(略して空技廠)は、数週間以内に
MXY7 Ohka 11を完成させました。
この単座の飛行爆弾は機首に大きな弾頭を詰め込み、双尾翼には
3つの小型ロケットエンジンを搭載、エンジンは双発で
三菱G4M BETTY爆撃機(一式陸攻)の腹にぴったりと牽引されました。
「桜花」の戦闘デビューは1945年3月21日。
グラマン F6F 「ヘルキャット」が「桜花」 11を搭載した16機の
一式陸攻を迎撃し、これらを全機撃墜するという悲惨な結果に終わりました。
この時「桜花」は全て海に没し、発進することもありませんでした。
「桜花」は射程距離が限られていたため、一式陸攻の乗組員は
目標の37 km以内で飛行する必要があったのですが、それはまさに
アメリカ機からは射程距離の範囲内で撃ち落とされるしかなかったのです。
この失敗を元に、空技廠は「桜花」 11を修正して、「桜花」 22を開発しました。
射程距離を約130 kmに伸ばすため炸薬を減らして弾頭の大きさを半分にし、
そしてP1Y1爆撃機「銀河」に適応するようにしました。
(桜花)に搭載されていた炸薬。現在は展示されておらず倉庫に収納されている。
「銀河」は一式陸攻よりも速かったので、まだしもアメリカの護衛戦闘機から
逃れる可能性が高くなったのです。
エンジニアはまた、ガソリンを燃料とし、100馬力の日立製Tsu-11という
新しいハイブリッドモータージェットエンジンを搭載しました。
空技廠は最終的にのModel 22を3機完成させ、生産は地下工場にシフトしました。
しかしほとんどの機体は未完成のままで、22が戦闘に出る前に戦争は終わりました。
他にも「桜花」43Bは地上のカタパルトからの打ち上げ用に設計されていましたが、
もし連合軍が提案した九州への侵攻である「オリンピック作戦」を実施していれば
日本はその攻撃に対して何百という「桜花」で特攻を行ったことでしょう。
その時には何万という連合軍兵士と日本人の命が失われた可能性があります。
「桜花」のコクピットパネル。
あまりにシンプルで恐ろしいくらいです。
搭乗員の話によると、非常に操作性は良く、熟練パイロットでなくとも
正確に機体を繰ることはできたということです。
「桜花」を腹の下に牽引した一式陸攻を後ろから見たところ。
1945年6月6日に撮られたものだそうです。
スミソニアンで公開されている写真より。
これがカタパルト打ち上げ式に開発されていた「桜花」43Bで、
1945年横須賀で撮られた写真だと言われています。
機体の下部には橇状の形状が見え、画面後部には米軍のジープが写っています。
第336邀撃部隊のライスター大尉がジョンソン空港(現在の入間基地)で
1950年、「桜花」と記念写真。
「ディスティネーション、ジャパン!ジョンソン空港にて」
ロケットエンジン搭載の「桜花」11型は世界中の美術館にありますが、
モータージェット搭載のNASM MXY7モデル22は1機だけです。
アメリカ軍は「桜花」の試験飛行は行わなかったようで、研究の後
この機体は倉庫にありましたが、スミソニアンの修復スタッフは
1994年から航空機の作業に取り掛かり、3年かけてエンジンを取り付け、
コックピットを再構築し、外装と機体を軽く修理し、
そして機械を再塗装して再マーキングするという丁寧な修復を完成させました。
「桜花」は2003年12月からここに展示されています。
ところで、スミソニアンのページにはこんなエッセイがあります。
エリザベス・ボージャというキュレーターの手によるものです。
最後にこれを翻訳しておきます。
ワシントンDCの春分の日はまだ寒く、雨を伴ったりすると、
春がもう訪れているとはとても想像できませんが、
この時期、アメリカの首都は、その最大の毎年恒例のイベントの一つ、
ワシントン桜祭りを祝うことになっています。
ところであなたは国立航空宇宙博物館にも「いくつかの桜」
があることを知っていましたか?
もしあなたがタイダルベイスン(ポトマック川の入江)で
桜祭りの群衆に紛れるつもりがなければ、バージニア州シャンティリーの
Steven F. Udvar-Hazy Centerを散策してみるのもいいかもしれません。
4月には、駐車場は美しい桜の花でいっぱいです。
敷地内にある記念碑付近を散策したり、ダレス国際空港を離発着する航空機が
頭上を飛んでいるときに航空機を間近で観察するのもいいものですよ。
それから博物館の中に入って、すぐにわたしのいう「別の桜」を観ましょう。
それはボーイング航空ハンガーで展示されている第二次世界大戦時代の
日本の航空機Kugisho MXY7 Ohka 22です。
Ohkaは「桜」という意味です。
彼女の機体には色彩鮮やかな桜の花が描かれています。
(アメリカ人はこの桜のシンボルが近づいて来たとき、
ただ神風攻撃の標的とし見ただけでしたが・・・)。
あなたがDCで桜を観るか、それともあなた自身の町で桜を観るかはともかく、
この春の旅行をどうぞ楽しんでください。
続く。