前回に続き、この3月に二回にわたって訪れた江田島の教育参考館で、
心に残ったものについて書いています。
💮 東郷元帥のカールツァイス製双眼鏡
昔、三笠博物館にいったとき、ロジェストベンスキー提督が乗っている
駆逐艦「ヴェドヴィ」を発見し、お手柄をあげた若き中尉、塚本克熊の
カールツァイスの双眼鏡が展示されていたのでそれについて書いたことがあります。
東郷平八郎の双眼鏡を覗かせてもらい、欲しくなった塚本中尉が、
当時の給料一年分をはたいて購入したツァイスの双眼鏡で大活躍、
若いうちの投資は惜しむな、ということを教訓にしてみました(そうだったっけ)
そのとき、塚本中尉が覗かせてもらった東郷長官の双眼鏡実物がここにあります。
三笠にあった塚本中尉のと違い、大事に保存されていたせいか黒皮巻き残っていて
おそらく今でも十分に役目を果たすのだろうと思われます。
💮 東郷平八郎のお裁縫セット
昔は洋服に穴が空いたら繕って使い続けるのが当たり前。
さらに、男性であっても海軍軍人ならそれができるのも当たり前。
というわけで、ここには東郷元帥が使っていたお針セットと、
靴下が飾ってあったりします。
しかし、現代の自衛隊でもお裁縫スキルは必須です。
なぜなら、階級章やボタンなど、皆自分で制服に縫い付けるからです。
防大もそうですし、幹部候補生学校では、一般台から来た候補生が
いきなりお裁縫とアイロンがけでビシビシしごかれることになります。
💮 大和守護神
絵つながりでもういくつか。
前回、横山大観、藤田嗣治という二人の偉大な画家が戦時中は
軍に協力したということで戦後「戦犯」呼ばわりされたことを書きましたが、
同じコーナーには
大和守護神 堂本印象
があります。
奈良県天理市にある大和(おおやまと)神社が描かれた絵なのですが、
この大和神社には、昭和16年、海軍から
「新しい軍艦に御社の御分霊を祀りたい」
という申し出がありました。
その際、それが「大和」という艦名であることは伏せられていました。
依頼を仲立ちしたのは奈良県で、同時に堂本印象に絵を注文します。
その絵がこれで、絵の裏には「軍艦大和艦長室」と記載があるそうです。
昭和20年の春、天一号作戦で「大和」が沖縄特攻に出撃するにあたって、
可燃物となるものは全て陸揚げされることになり、この絵も艦から降ろされました。
その後江田島に進駐軍が入るという知らせを受けて、美術作品の多くは
宮島や大三島の神社などに、この作品は呉海軍共済病院(現在の呉共済病院)
に預けられていましたが、昭和31年になって海上自衛隊教育参考館に寄贈されました。
大和神社には沖縄特攻で戦死した2717名が末社・祖霊社に合祀されています。
1969年(昭和44年)、境内に「戦艦大和記念塔」が建立され、更に昭和47年、
坊ノ岬海戦に参加した巡洋艦「矢矧」他、「冬月」「涼月」「磯風」「濱風」
「雪風」「朝霜」「初霜」「霞」、駆逐艦8隻の戦没者も合祀して、
この海戦での全戦死者3721柱が国家鎭護の神として祀られています。
💮技術報国の碑
目黒の幹部学校で先日防衛セミナーを聞いてきましたが、
その時取り壊していた昔の技本の建物の道を挟んで向かいに、
「技術報国」
という碑があります。
この文字を揮毫した都築伊七中将とは、横須賀海軍工廠で、
歴代25名の工廠長のなかでたった三人しかいなかった機関将校の一人です。
江田島にはこの拓本が展示されていました。
ただ、ちょっと思ったのは、機関学校出身だった都築中将には、
江田島はあまり思い入れのない場所だという可能性についてです。
💮 秋山真之の「鯉」
奇人変人としても名を馳せた紙一重の天才、秋山真之は、
どうやら絵も上手く、描くのが好きだったと見えます。
教育参考館には、見事な鯉が描かれた秋山の手紙が遺されています。
見たところ、手紙にサラサラっと、しかし興が乗ったのか細部も描き込んで、
下書きもなしにかーるく仕上げてしまった感じが只者でない感じ。
「ほー」
「秋山真之って絵が上手かったんですねー」
これを見るとほぼ全員がこのような感想を漏らします。
得意なことはちゃんと証拠を残しておくもんだね。
💮 山本長官機の尾翼
昭和18年4月18日、聯合艦隊司令長官山本五十六大将の乗った
一式陸攻が撃墜されました。
世にいう「海軍甲事件」です。
教育参考館には、この時墜落した機体の尾翼が展示されています。
wiki
ちょうど尾翼が写っていますが、ここにあったのが垂直尾翼か水平か
確認しそこねました。
長官機は墜落後主翼より前の部分、胴体、尾翼と
三つに分かれており、尾翼は胴体80mも離れたところに
「もぎ取られたように」
転がっていた、と第一発見者が証言しています。
(『ソロモンに散った聯合艦隊参謀』高嶋博視著より)
💮 柳本柳作艦長の像
紅蓮の炎を体に巻きつけた仁王像のような海軍軍人の木彫の像があります。
柳本柳作海軍大佐(最終少将)を表したものです。
現地に詳しい説明はありませんが、もしあなたがミッドウェイ海戦において
柳本柳作少将が空母「蒼龍」の艦長としてどんな最後を遂げたかを知っていれば、
この小さな木彫に瞑目せずにはいられないでしょう。
「蒼龍」に総員退艦命令が出た後、柳本は一人艦橋に残った。(略)
飛行長楠本中佐は何としても艦長を艦と共に死なすまいと説得を続けたという。(略)
しかし、柳本は頑として首を縦に振らず、そのうち炎で半身に火傷を負っていたという。
窮した楠本は相撲の心得のある乗組員に命じて無理矢理艦長を艦橋から連れ出そうとした。
しかし、炎を掻い潜って艦橋に向かった乗組員が柳本に
「艦長、お迎えに参りました」
と近寄ると、
「何だ!お前は!」
と物凄い鉄拳をその乗組員の頭に放ちあくまでも退艦を拒否した。(略)
柳本はその後最後に退艦する乗組員を艦橋から見送った後、
「蒼龍、万歳」
を連呼しながら炎渦巻く艦橋に飛び込んでいったという。
乗員達はブリッジに残る柳本を顧みて業火の中の壮絶な姿が印象的だったという。
(『太平洋海戦2激闘編』佐藤和正著)
💮 黒木博司大尉の制服
特殊潜水艇で体当たり攻撃を行う「回天」を開発したのは上層部ではなく
海軍機関学校卒の若い士官でした。
その中心だった一人、黒木大尉は、「回天」の使用を上層部に認めさせた後、
実戦で投入するための訓練中に艇が沈没し、殉職しています。
教育参考館中程には、特攻に赴いた海軍軍人たちの遺品や遺書などが
兵学校卒業か否かにかかわらず集められていて、ここでは展示についての説明はなく
ただ、全てを出来るだけ見て、心に留めてくださいといわれました。
入ってすぐのところにこの黒木大尉の軍服が展示されています。
💮 謎の宴会
下の階の、兵学校の卒業写真が見られる部屋に進むと、
直継不二夫氏の写真などが飾ってあるガラス張りの展示壁がありますが、
その一番端に、わたしは海軍軍人が記名した巻物?を見つけました。
これがちょっと不思議なのです。
まずその巻物は、一枚の紙に記名がされており、宴会か会合で
海軍軍人が一堂に会した時のものであることはわかるのですが、
わたしが注目したのは書かれた軍人のメンバーです。
有馬良橘 (1944)
財部彪 (1949)
竹下勇(1949)
末次信正 (1944)
岡田啓介(1952)
安保清種 (1948)
米内光政(1948)
百武源吾 (1976)
山梨勝之進(1967)
小林躋造(1962)
皆さんはこの全員に共通するタイトルが何かご存知ですね?
そう、全員が海軍大将。
わたしはこの近くにおられた説明の方(学芸員というべき職員)に
「一体どういう状況で揮毫されたかご存知ですか」
と聞いてみたのですが、特に詳しいことはわかっていないようでした。
カッコの中はお亡くなりになった年なので、この宴会は
1944年以前に行われたことは確かです。
「海軍大将友の会」みたいな会合でもあったんでしょうか。
💮 海軍兵学校出身戦公死者銘碑
大理石の壁に刻まれた特攻隊戦死者名簿碑のちょうど裏側には
海軍兵学校卒生徒の戦公死者名を刻んだ碑があります。
兵学校は昭和20年3月までに約1万1千200名の卒業生を輩出し、
その三分の一に当たる約4千名が戦公死しています。
とにも芋昭和8年卒業の61期から昭和18年卒業の72期までは
卒業生の半数が戦死しています。
三面の石の銘碑のあるバルコニー状の場所の両側には扉があって、
扉のガラス越しに中を見ることができます。
ここは一般の見学者には非公開となっているのですが、例えば
戦死者の親族などであれば、中に入ることを許されます。
今回、わたしが海軍兵学校同期会に籍を置いていることもあって、
碑の正面から瞑目し手を合わせることを特別に許していただきました。
全戦死者名の名前はある兵学校出身者が揮毫したそうです。
碑の前にはその後ろの特攻戦死者名碑と同じく、花が供えられ、
水をたたえた鉢が置かれておりました。
その際、殿下に構内と教育参考館の説明をされたのが前一術校長でした。 女王殿下のご案内にあたっては、半年以上前から準備が始まり、
展示やその他の情報を精査し、説明内容は完璧に記憶して、
殿下来臨に先立ち、女王殿下役の女性職員を立てて実際に説明して
時間をはかりながら構内を回るというシミュレーションまで行ったそうです。 わたしたちは、いうならば女王殿下や安倍首相のために準備された
海上自衛隊挙げての知力結集の恩恵(の余波)に預かったようなものであり、
また1ヶ月後に退任された校長にとって、わたしたちの案内は、
その成果を発揮する最後の機会になったということになります。 何れにせよ、このような最高の機会をいただけたのは
わたしたちにとってただただ僥倖というほかありませんでした。 続く。