幹部学校に伺ったとき、朝から時間をかけて
第一術科学校長の案内で構内を見学させていただきました。
大講堂に始まり、赤煉瓦生徒館、教育参考館、賜餐館、
ここまで説明したので、残りの部分と参ります。
賜餐館の見学は兵学校同期会の時にも中を見せてもらえましたが、
この日も同じく、扉を開け中は点灯した状態を見せていただけました。
水交館の上にあるのですが、ここから先には車は入らず、
必ずこの舗装されていない昔ながらの道を歩いて行くことになります。
大した距離ではないのですが、兵学校同期会の方々は80歳超えているので、
これだけ歩くのは結構大変であったらしく、後から
「たくさん歩かされたから疲れた」
とこぼしておられました。
日頃はゴルフもされるような活動的な方がそんなことを言うのを聞いて
「歳をとると人間というのは歩くことから衰えていくんだなあ」
と切なく感じたものです。
水交館の山側一段高いところには昔からあるらしいため池があります。
水交館はここ江田島で一番古い建物であり、歴史的にも貴重なので
防火用水が近くに必要ということで作られたのかと思います。
浄水したり底をさらえたりといったことは全くしていないらしく、
きっといろんなものが生息しているんだろうなあという色です。
一時流行った「池の水を抜く」をやったらきっとすごいものが出てくるのでは・・。
例えば、進駐軍の手から守るために隠した海軍の秘宝とか。
そして、土が崩れて一部足を思いっきりあげないと登れない階段を
上っていくと、高松宮記念邸があります。
「ブーツは脱いでいただいても大丈夫ですか」
案内の一術校長がわたしに尋ねました。
後で記念写真を見るとビジュアル的に痛恨の極みなのですが、
昨日朝家を出る時、雨が降っていたので、レインブーツ
(のようなパテントのロングブーツ)を履いていたのです。
この日は歩き回ることが予想されたので、トランクに入れてきたパンプスでなく
楽なこちらで歩き回っていたのでした。
ブーツを脱ぐということは邸内の見学もさ背ていただけるということですね。
兵学校同期会の時にも内部を見学することができ、その時
写真を撮ってアップしたけれど何も言われなかったので
今回はどうしようかと悩んだのですが、基準がわからないので
大事を取って内部の写真は公開しないことにします。
しかしあらためて撮ってきた内部の写真を前回と比べると、
女王殿下のご来臨に備えてか、いたるところがされていました。
例えば五右衛門風呂の入り口の上部に貼ってあったプラスチックの
「洗面所」と書かれたプレートなどは無くなっているようでした。
あれ、前回も人の家臭満点でどうかなと思ったんですよね。
ちなみにこれが4年半前の高松宮記念邸玄関。
玄関の敷石部分、玄関脇のツヤツヤしたタイル(昭和30年代風)、
軒の支柱(根元が腐っている)、蛍光灯、全てが取り替えられ、
雨樋まで新しく付けられています。
内部も外側も、つまり前回の訪問の時に
「大正時代のかしこきあたりの方のお住まいというよりは
昭和に経った築30年の賃貸という感じ」
と酷評した部分が全部昔風に作り変えられていました。
もちろんのこと、前回発見した黄ばんでところどころ破れた障子もです。
また、前回と違い、全ての邸内が見学できるようになっており、
殿下が人とお会いになった洋間の応接室(昔は絨毯敷きだった模様)には
高松宮殿下が兵学校在学時の制服姿、軍人としての年代表、
兵学校時代の写真などがパネルで展示されていました。
珍しいところでは、兵学校時代、カゴに入った大ぶりの松茸を前に、
軍服の軍人(しかも皆偉そう)の真ん中に高松宮親王、という写真もあり。
一般の生徒と違って週末もなかなか羽を伸ばせない殿下のために、
海軍関係者が松茸狩りを企画し、お連れ申し上げたというところでしょう。
しかし、全員が軍服を着込んでいて、畏まって写真を撮っている様子。
松茸狩りくらいもう少しカジュアルにさせておあげになればよろしいのに、
と畏れながら少々同情申し上げずにはいられませんでした。
また、高松宮殿下が戦後江田島をご訪問になった
写真も展示されており、その第一回目は昭和41年4月11日です。
この日何があったかというと、教育参考館で
「海軍兵学校戦公死者銘碑」
の除幕式が行われたのです。
除幕式にあたっては、大講堂で厳かに慰霊式も行われたようで、
かつて玉座のあったところに榊を立てて御神体とし、
その前に献花台をしつらえ、殿下が弔辞をお読みになっている写真もあります。
2回目のご訪問は昭和60年9月3日のことです。
この時、殿下を案内申し上げているのは、おそらく当時の海幕長で、
調べてみると、海軍兵学校76期に在学していた
でした。
わたしが前回ここ高松宮記念邸に来たのは、まさに
長田氏がかつて所属した海兵76期の同期会に同行したときのことです。
もしこのとき長田氏がまだご存命であれば、この同期会で
ご一緒していたのに違いない、と考えると感無量でした。
高松宮殿下訪問の写真に、赤煉瓦の前に椅子を置いて撮ったものがありました。
その構図はまさにこれ。
今回の訪問の際撮った写真(わたしのカメラを渡して撮ってもらったもの)
ですが、畏れながら位置も角度も全く同じです。
江田島では、来賓があった場合必ずここで椅子を置いて写真を撮る、
とおそらく海軍時代から決まっているのではないかと思われます。
しかもこの後ろの赤煉瓦の収まり具合から察するに、
椅子を置く場所もきっちりと決まっていそう。
邸内の洋間には、「高松宮日記」の初版が置いてありました。
一術校長がそれを手に取って、
「兵学校時代のことも色々書いておられますが、
ご不満なども結構おありだったようです」
wikiには、
特別官舎で過ごし、授業の多くはマンツーマン教育を受けるなど、
特別扱いではあったものの、訓練および授業では、
他の生徒と同じように扱って欲しいと望んでいたと言われる。
初期の『高松宮日記』にも、特別扱いされることへの不満の記述が随所にみられる。
とあります。
一術校長は実際に高松宮日記をお読みになっているということでしたが、
何気なく手に取ってみると(当然ですが)日記は仮名使い旧文体で
(おそらく現代文に訳さず出版したのは忖度配慮のたまものかと)
思わず、
「これを全部読まれたんですか」
と失礼にも聞き返してしまいました。
このときに見た高松宮殿下江田島ご来臨の写真には、
高松宮記念邸の東側に洋風の朽ちかけた家が写り込んでいました。
江田島に進駐軍が駐留したとき、構内にはいくつか彼らのために
洋風の家が建てられ、この洋館もその一つだったそうですが、
現在では取り壊されてありません。
しかし、進駐軍の建築の中には今も使い続けられているのものあります。
高松宮邸の前庭から木々を通して赤い屋根が見えていますが、
これもそのひとつ。
こちらは現在第一術か学校長の官舎となっております。
この、木の陰に佇んでいる海曹さんの向こうの空き地に
取り壊された進駐軍の洋館が建っていました。
その向こうに見えているのは幹部学校長の官舎となっている建物です。
昔来たときにここに誰か住んでいるのではないか?
と疑っていたこの小さなお家ですが、今回聞いてみたら
「ただの物置です」
ここにはかつてテニスコートがあって、殿下が右手の斜面に作られた
階段を降りてきて週末テニスを楽しまれたということでした。
一般には公開しないことになっているので写真も最小に留めますが、
ここが一術校長の官舎です。
画面奥の崖の崩れ留めの左下枠の土には削ったような跡がありますが、
これなんとイノシシ君の掘った形跡。
イノシシを捕まえて猪鍋をすることもあるとかないとか。
左側にある池には鷺が鯉を食べに来るのでネットがかぶせてあります。
ここ江田島というのは結構な野生の王国であることがわかりました。
官舎は広大な二階建てなので、一階ではパーティをすることもできるそうです。
(おそらく進駐軍の司令官の官舎で、ホームパーティをしたのでしょう)
「こんなところに一人で夜寝るのって怖くありませんか」
と聞いてみると、即答で
「怖いです!」
((((;゚Д゚)))))))ヤッパリ
ところで怖いのは幽霊もですが、ここ江田島の自衛官の大敵は実はムカデです。
中畑前校長は実際に噛まれたことがあるということですし、
最近では、幹部候補生が急いで靴を履いたところ、
靴の中にムカデがいて((((;゚Д゚)))))
噛まれて病院送り、という大騒動もあった由。
ムカデは殺すとその臭いが他のムカデを呼ぶので、
冷凍スプレーで凍らせるとかいう話もこの訪問の際伺いました。
出るといえば、呉にもムカデはいて(というか地続きの古い家屋に出る?)
例えば、呉地方総監官舎。
元地方総監だった方に伺ったその壮絶な話は、安全な部屋は一つしかなく、
夏場その部屋を出るときには常に緊張していなくてはならなかったというもの。
仕事が終わって帰ってきた家でも気を張り詰めていないといけないって・・。
他の地方隊はわかりませんが、自衛隊の偉い人たちの官舎というのは、
歴史が古いとやっぱり色々とあるようで、例えばある鎮守府系地方隊の官舎、
夏以外は寒すぎて家の中でテントや寝袋で凌ぐそうで、それが嫌なばかりに、
理由をつけて他のところに住んでいたら、もっと偉い人から怒られたり、
我慢して住んでいたら体を壊したり・・・何か色々と大変みたいです。
さて、見学が全て終わり、もう一度赤煉瓦の生徒館に戻ってまいりました。
席次表が入り口に貼ってあります。
改めて二回の窓から外を眺めてみます。
舎前(防大と同じようにいうのかどうか知りませんが)の道と
建物が平行でないのは、この赤煉瓦が東西南北に対して
正確に向いて建っているからなのだそうです。
昔当ブログで取り上げた映画「あゝ海軍」で、兵学校教官の中村吉右衛門が
井上成美という設定の森雅之に、コーヒーをご馳走してもらうシーン、
あれは紛れもなくこの部屋で撮影されたことが確認できました。
はいその証拠写真。
窓の外の松の木の背が今よりかなりが低いですが。
(そういえば構内のどこかで「あゝ海軍」の撮影のお礼として
映画会社から寄贈された全身が映る鏡を見た記憶があります)
わたしたちの席は、この写真でいうとちょうど井上校長の座っているあたり。
午餐会のテーブルです。
この日は個人としてただ遊びに行ったとかではなく、
自衛隊にお役に立てる用事で幹部学校にお招きいただいたとはいえ、
午餐会の写真を公開するかどうかについては逡巡したのですが、
学校長から、このお料理の数々、特に
第一術科学校の給養の方々が腕によりをかけて調理された
とうかがったので、その力作を皆様にも見ていただくことにしました。
まず、術科学校にはこのような接待用の立派な食器が
用意されていることに感心しました。
刺身やしめ鯖の皿には本物のハランらしきものが敷いてあります。
この彩の良さ、見てよし食べてよしの一流料亭並みの御膳です。
献立表には第一術科学校(右側)と幹部学校のマーク入り。
刺身は新鮮、天ぷらは季節のものを使い抹茶塩で食べさせるという粋なもの、
野菜の煮物には蕗や筍があしらわれ、お吸い物はあさりです。
そして「お食事」は色も鮮やかな茶碗蒸し。
このような料理を作れる自衛官は海自にしかいないこと、
その給養員たちの育成は舞鶴の第四術科学校で行なっていること、
彼らの腕は確かで、おそらく自衛隊退職後も再就職先に困ることはない、
などという話とともに彩を目で楽しみながらいただきます。
お食事がすみ、御重を下げると、その下からはこのような
(給養のどなたかが描いたもの?)敷紙が現れました。
そこに運ばれてきた感動のデザート、これは手作りで、
餡子を白と桜の色に染めたお持ちで柏餅のように挟んだ桜餅。
本当に美味しくいただきました。
そして色々あって江田島を去るときがやってきました。
車の中から振り返ると、全員が敬礼で見送ってくださっていました。
帰るときにいただいた「お土産セット」には、今回の写真と冒頭のメダルはじめ、
海上自衛隊と江田島の資料、そして写真集が入っていました。
そしてちょっとレトロな「立体絵葉書」も。
江田島について深く知ることになったこの訪問、
関係各位の皆様方のお心遣いの数々に心からお礼を申し上げます。