一連の観桜会行事が終わって一息ついたと思ったら、実はまだ
八戸航空隊の観桜会が残っていたのでございます。
八戸基地からこのお知らせをいただいたとき、
「なんと青森県では4月25日頃桜が咲いているのか」
とあらためて日本列島が南北に長いことを認識しました。
そういえば、東北では連休に花見と聞いたことがあったわね。
4月25日の八戸が3月末の呉と同じくらいの気温なのか、
そのことも全くわからないまま、ジャケットの上に羽織るスプリングコートを用意し、
前日やまびこ号に乗って八戸入りしたわたしですが、現地の暑いこと。
こんな蒸し暑い天気でお花見をするのか、と不思議に思いながら明けて翌日、
なんと雨が降っておりました。
昨日の蒸し暑さはつまり今日の雨のせいだったわけだ。
こういう天気になるとやっぱりさすがは東北だけあって、結構寒い。
前日に八戸入りしたのは、朝市に行きたかったからなのですが、
朝起きて窓の外を見るなり、
「やーめた」
と呟いてまたベッドに潜り込んだわたしでした。
ホテルから車で八戸基地まで15分くらい走ると到着。
正門で
「東門に回ってください」
と指示されてまっすぐな道をひたすら走っていくと、
会場となっている体育館に近い入り口に到着しました。
この少し前、陸自の八戸駐屯地勤務の経験のある自衛官から
「あそこの桜はいいですよ」
と聞いていたのですが、噂以上です。
旧軍の頃からある自衛隊の基地駐屯地は、そのほとんどが
敷地内に必ず桜の並木を持っているのが常です。
会場に着くまで片手で運転しながら撮りました。
今回は事情があって一眼でなくソニーのRX100です。
会場に思ったより早く着いてしまい、呆然としていると、
「もう少ししたら人がたくさん来るので、前の方でお待ちください」
とアナウンスがありました。
システム通信分遣隊のバナーが可愛い。
八戸航空基地隊のバナーは旭日に波頭、まるで大漁旗です。
そういえば旭日旗って普通に大漁旗に使われるわけですよね。
第二航空群のエンブレムにあしらわれているのは、
八戸の工芸品「八幡馬」(やわたうま)です。
鎌倉時代に、櫛引八幡宮で参詣者のお土産に売られるようになり、
今では郷土玩具として八戸のシンボルのようになっています。
第2航空群隷下の第2航空隊は、P-3C部隊である第21、第22飛行隊から成り、
コールサインが ”ODIN" (北欧神話の主神)であることから、
その横顔をあしらったマークをシンボルにしています。
ならばこのリボンで結ばれたのは、月桂樹ではなく、
ユグドラシル(世界樹)を意味しているということになります。
これはワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」の「神々の黄昏」にも出てきます。
自衛隊の体育館はどこも大変広く、二階にジムがあったりします。
もちろんお料理にサランラップなどかかっておりません。
それにしてもさすがは海上自衛隊、この豪華さを見るがよい。
尾頭付きの鯛が跳ねているような刺身盛りの形は、全国共通です。
おそらく第4術科学校でこのように習うのだと思われます。
そしてさすがは漁港の街八戸、刺身の量がハンパありません。
ほとんどツマなど必要ないくらい、魚身がぎっちりと盛られています。
自衛隊の宴会で油淋鶏は初めて見る気がします。
下が隠れるくらい玉ねぎと薬味がかかっていて美味しそう。
ここにいなり寿司が混じってこないのは東北だから?
お寿司も入れ物の底が全く見えないくらい。
本日も会費制でした。
八戸で会費制は初めてだそうで、というのも自衛隊全体で、
この新年度からそう決まったからということです。
ケーキはどうもケーキ屋さんのもののような気がしました。
シュークリームはざっと見たところ数が少なく、すぐ無くなりそうなので、
わたしはこれにのみ狙いを定め、宴会が始まると一番先に
シュークリームだけを確保するという先手必勝の策を取りました。
開始時刻30分前から次々と人が入ってきて、こんな状態に。
残念ながらわたしには自衛官(しかも数人)以外の知り合いが全くおらず、
アウェー感満点です。
近藤奈津枝海将補の前には名刺交換を求める人々が列をなしていました。
本日は大湊からやって来られたようです。
女性初の海将補であるだけでなく、昨年の12月の人事で、
女性初地方総監部幕僚長に就任されました。
開式となり、第二航空群司令、瀬戸慶一海将補がご挨拶をされました。
本日が観桜会でなく「意見交換会」となった理由の説明からです。
「先日洋上で発生した航空自衛隊所属F35戦闘機の墜落事故を受けまして、
この会を観桜会でなく意見交換会とさせていただきましたことを
ご理解賜りたいと存じます。
私ども八戸基地第二航空群と三沢基地第3航空団とは、
従来より共同訓練、または基地の相互使用などで大変深い関係があります。
この件は、私どもの仲間が事故に遭ったということで非常に残念に思っております。
私どもは事故発生直後から飛行機を上げまして
最大限努力し捜索した訳ですが、まだ操縦者が見つかっておりません。
この事故を受け私どもは同じ航空機を有する部隊といたしまして、
安全管理をさらに一層強化し、事故防止に全力をあげてまいります。」
ちょうど会場に共同訓練の時の写真が飾ってありました。
本日の観桜会が「意見交換会」となることは、少し前から
群司令に伺っていました。
私事ながら、事故の起きる前、海上自衛隊を通して
三沢基地訪問をさせていただく話になっていたのも、当然無期延期です。
群司令は、今年で10年目になるジブチでの海賊対策行動に
ここ八戸から航空隊が派遣されたことについても説明をされました。
「派行空」
という見慣れない(聞きなれない)派遣部隊名となっています。
第31次派行空は三ヶ月の任務を終え帰国しました。
昨年9月の開隊行事には、ご招待をいただいていたのですが、
まだ帰国しておらずTOだけが参列させていただきました。
なんと、アメリカ海軍のP-8が来ていたのか。
それにしてもP-1大きい。
ところで、P-3Cはオライオン、P-8はポセイドンと名前がついていますが、
アメリカとの関わりを絶って作ったためかP-1にはそういう
別名がないのがなんとも味気ない気がします。
国産だから、というんだったら神様の名前で「アマテラス」とか「イザナギ」とか、
「スサノオ」とかいっそ飛行機なので「ヤタガラス」とか。
「ショウキ」なんてのもいいなあ・・あ、本当にあったっけ、「鍾馗」。
閑話休題。
わたしは昨年同基地訪問の際に、P3-Cの整備を見学させていただいたのですが、
この意見交換会で、その時見学行程を組んでいただいた整備の偉い人にお会いし、
改めてお礼をいうことができました。
「エンジン換装のが格納庫に行ったときに行われたので、わたしたち、後から
わざわざタイミングを合わせて下さったのではと話していたんですよ」
「あの作業はもともとあの日にやる予定でしたので、朝見学の行程を組んだとき
ちょうどいいということで・・・タイミングは少し調整しました」
「いろいろ見せていただいた中で、あの工具専門のテーブルにはびっくりしました」
そのときの写真より。
小さな道具の一つ一つに置き場所が決まっており、元の場所に戻っていなければ
視覚的に確認できるという優れもので、置き忘れた工具などを
航空機が吸い込むことによって起こる事故を防ぐための工夫の一つです。
群司令のご挨拶で、空自の事故を受け、当航空基地でもより一層安全に配慮する、
というお話がありましたが、八戸基地では開隊から今日までの間、
航空機事故ゼロの記録を更新し続けています。
ボンベイ最後の日という映画がありましたが、Bombayのことです。
わたしは「ボム」爆弾の「ベイ」格納室なので律儀にボムベイと書いていましたが、
普通にボンベイでいいらしいことがわかりました。
それにしてもこんな東北美人が男ばかりの航空機整備の現場にいるなんて、
なんというかちょっとしたギャップ萌えではありませんか。
つい最近の訓練魚雷搭載作業、ということはこの女性メカニックはまだ
当八戸基地に勤務しておられるという可能性大です。
地震災害などで滑走路が被害を受けたとき、即座にこれを修復し、
航空機の派出を可能とするための技術も、訓練によって受け継がれています。
除雪隊員装備とともに記念写真。
雪かきも自衛隊の任務の一つで、全国どこへでも出動できます。
こんな任務にも女性隊員の顔が見えますね。
「行軍」という言葉がいまだにしっかりと残っている自衛隊。
防大や幹部候補生学校でも行軍は行われます。
十和田湖子ノ口から八戸航空基地まではグーグルマップで65.3km。
車でも1時間25分の道は、どのコースを行っても13時間かかります。
おそらく夜明け前から歩き続けて八戸には夕刻到着したのでしょう。
それにしても13時間歩き続けたとは到底思えないこの彼らの毅然とした様子・・・。
昨年7月には広報のため「すずなみ」が八戸に訪れました。
蕪島の清掃に八戸基地として参加。
全員が自衛官かどうかわからないので一応顔をマスクしました。
体育館で行われることが最初から決まっている行事でしたが、
一応最初の名目が観桜会なので、その日の朝撮った基地内の桜並木の写真もありました。
制服を脱がれたばかりの元呉地方総監発見!
池元海将はここ八戸でウィングマークを取られたということです。
その教育は「大変厳しかった」とおっしゃっていました。
知っている方にご挨拶もできたことですし、意見交換会は続いていましたが、
わたしはこの後八戸をちょっとドライブしてみたくなり、退出しました。
帽子が床に置いてある・・・。
体育館を出たところにある三本の桜。
盛りを一日すぎた桜色が緑色が一層鮮やかとなってきた芝生に映えて。
このトマソン構造物は防空壕の名残でしょうか。
八戸飛行場は昭和16年陸軍飛行場として開港し、陸軍少年飛行隊などが置かれていました。
構内のいずれの桜も樹齢を重ねたらしい大木ばかりで、これらは
まず間違いなく陸軍時代に植樹されたのではと思われます。
車で出口に向かいながら写真を撮っていると、誘導の隊員さんが
何度も何度も誘導棒をこちらに向かって振っていました。
途中で停車して窓を開けたりしてなかなか動かずすみません。
正門の前を通り過ぎるとき、桜並木の写真をどうしても撮っておきたくて、
正門前で車を停めて外に出て撮影させてもらいました。
ここから向こうはずっと桜の並木が続いています。
あと数日で御世変わりとなり、日本の多くの良民のみなさんが
平成最後の日々を慈しむように過ごしているであろうというこの日、
北の桜を愛でる会を催してくれた八戸航空基地と関係者皆さまに心から感謝する一方、
尊い任務中、事故に遭った一人の航空自衛官に思いを寄せる機会となったことを
この日の八戸の桜の色とともに決して忘れないでおこう、とわたしは思いました。