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Channel: ネイビーブルーに恋をして
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映画「海と毒薬」と九大「生体解剖」事件

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1987年作品です。
デイブ・スペクター氏が深夜再放送されていたこの映画を観て、何かに
「日本はお金が無いときの方がいい映画を作っていたみたいだ」
書いているのを読んで、思わず
「渡辺謙と奥田瑛二もわからんのかこの埼玉県出身のアメリカ人はっ!」
と突っ込んでしまったわけですが、デイブ・スペクターは、この映画を戦後すぐの白黒作品だと
思い込んでしまい、日本人俳優を見分けられなかったのかもしれません。
お金がないどころか日本がバブル経済に突入したころにこの映画は製作されたわけですが。


手術シーンにはスタッフの献血によって集められた血を実際に使い、
それだけではなく心マッサージのシーンに、保険所から譲り受けた屠殺予定の犬を使い、
それがため、動物愛護団体その他から抗議が殺到したというこの映画。
アメリカであの写実医療ドラマ「ER」が撮られる前に、医療シーンの映像リアリズムにおいて
この映画はすでに世界の先端をを行っていたわけですが、
つまりそのシーンがあるために、カラー映像の生々しさを避けたのかとも思われます。

原作は遠藤周作の「海と毒薬」。

ある男が自然気胸の治療のため寂れた医院を訪れる。
腕はいいが、なぜか虚無的な医師の様子に、男は興味を持つ。
ある日、男は、医師が街の紳士服店のウィンドウの前に佇んでいるのを見かける。

医師が凝視していたのは、外国人男性を模した、マネキンだった・・・・。


こんな出だしで始まる小説は、大戦中、本土を攻撃し撃墜されたB29の搭乗員が、
九州大学の医学部において「生体解剖」された、という実際の事件をモチーフにしています。

東京裁判についての本を読んでいると
「巣鴨にはこの生体解剖の手術に立ち会った看護婦が、唯一の女性戦犯として収監されており、
戦犯たちは興味しんしんで、中には塀越しにからかう者もあった」
などという記述があったりして、派生的にこの事件に興味を持ちました。
上坂冬子の「生体解剖 九州大学医学部事件」を読んだのも、この流れです。

勿論、この映画は文学作品がベースになっていますから、ノンフィクション的な手術の経過や
軍と大学の間にどのようなやり取りがあったかについては触れられません。

医学部の学生であった二人の青年が、この事件となる実験に立ち会い、戦後、戦犯容疑で
GHQの取調官から尋問を受ける過程で、生と死、そして罪と罰について考える、
その煩悶のさまがストーリーの焦点となっている文学作品です。

今や世界のナイス・ガイ、ケン・ワタナベも、このころは神経質そうな優男。
奥田瑛二は、本人いわく
「遅れてきた新人といわれ、当時、女の子にキャーキャー言われていた僕の、
俳優としての転換点ともなる作品だった」
つまり、かれが今日第一線の俳優として活躍している原点がここにあったと。
たしかにここでの奥田は、さらさらの長髪をしょっちゅうかきあげて悩ましげに海を見たりする、
いかにも女の子受けしそうな甘いマスクの二枚目ですが、
この立場に慢心しなかったのが、この人の賢明さではなかったでしょうか。

因みにわたしは、俳優、奥田瑛二のファンです。


この事件が世間の耳目を集めたのは、「生体解剖」という言葉の衝撃的な響きでしょう。
文字通りそれを解釈すれば
「人体を、その生命がまだあるうちに、つまり生きながら解剖した」
という、猟奇事件のようなまがまがしさを感じさせます。

世間には「生体解剖事件」として知られ、上坂氏の著書のタイトルにもなっているのですが、
事件当時、医学生として九大におり、手術を目撃していたためGHQの尋問を受けたという、
医師で作家の東野利夫氏は、
「汚名 九大生体解剖事件の真相」
という著書で、その「生体解剖」という言葉そのものに真っ向から異論を唱えています。

無差別攻撃を行い、軍事裁判にかければ死刑になるのが確実、とされたB29の搭乗員
6人の捕虜は、陸軍の命を受けて九大に送られ、実験的治療を施されて死亡に至った。

これが事件の概要です。
つまり、実際に行われたのは「生体解剖」(ヴィヴァセクション)ではなく「人体実験」です。
実際には研究途中であった代用血液としての海水の注入、肺の切除、心臓を停止させるなどの
「生還の不可能と思われる治療」がなされ、被験者は全員死亡したわけですが、
生身を切り刻んで「生体」解剖をした、という事実は全くありません。

東野氏は事の真相そのものを遥かに凌駕する誹謗や、はては「捕虜の肝臓を食った」などという
冤罪を投げかけられ、戦後の長きにわたって着せられた彼らの「汚名」を濯ぐために
この本を書いた、とその前書きで語っています。


この件は「BC級戦犯裁判」でその罪が問われました。
つまり、裁いたのは戦勝国側です。
アメリカ人の捕虜が軍事裁判を受けずに実験的手術の末死亡した。
東京裁判そのものが「戦勝国側の報復」であったという定義の上で語れば、
この件は「報復に値する犯罪」でしょう。
しかしながら、その東京裁判の定義そのものに果たして「正義」はあったのか。

死亡した搭乗員たちが、その前に本土爆撃を何度も行い、
無辜の市民がそれによって何万人も死亡していたという事実をどう考えるのか。

正式な裁判を経ずに殺したのが犯罪なのだとしたら、裁判どころか、無抵抗の日本兵を
捕虜にもせずその場で殺戮した連合国の兵士の行為はどうなのか。

米軍飛行士たちの死体を、臓器の収集のために解剖したということが犯罪なのならば、
沖縄で日本人の頭部を切断し、釜でゆでて骸骨を作成し、「記念」として自分の恋人に送った
アメリカ兵たちの行為はなぜ人道的な犯罪として問われないのか。

同じ戦争を戦ったのですから、叩けば埃の出るのは自分たちも同じなのです。

そこでアメリカと言う国が日本の戦争行為を糾弾するときの常套手段ですが、
自分たちの戦争犯罪を僅少なものにし日本のそれの方が悪質であったと主張するために、
事件に色をつけたり、数を捏造したり、という脚色を行うわけです。

この事件におけるそれが
「被告たちは捕虜の肝臓を料理し、それを宴会で食べた」というものでした。

この手術に携わった大森卓という陸軍の見習軍医が、捕虜の血を持って帰り、
「シラミ退治の薬に混ぜる」と言ったこと、そして遺体からなぜか肝臓を切り取って持ち帰ったこと。
大森軍医はその後無差別爆撃によって死亡するのですが、この行為からGHQが
「偕行社病院での宴会で皆が肝臓を食った」
という仮定を導き出し、尋問においてそれが厳しく各被告に問われたのです。

この検事の論告は「生体解剖」そして「人体嗜食」という、まるで猟奇事件のようなイメージを
マスコミに報道させることになり、案の定世間はこの誘導にまんまと引っ掛かります。

「悪魔の科学者」

これは、この事件で裁かれた人々に向けられたものではありません。
松本サリン事件直後、確証もなくマスコミが一個人を犯人だと決めつけていた頃に
あるスポーツ紙の見出しになったアオリです。
ムードと状況で結論ありきの決めつけをするマスゴミのセンセーショナルな報道によって、
一つの事件は時として推定有罪となることがありますが、この事件がまさにそうでした。

独立国となった平成の世においてもそうなのですから、進駐軍占領下のジャーナリズムに
この件を公平かつ冷静な「裁判」として報じることなど全く不可能であったでしょう。
果たせるかな、占領軍が、自国の犯罪の数々は棚に上げて捏造したとも言えるこの食肉事件を、
その占領軍の意を受けた当時のマスコミは大げさにリードしヒステリックに言い立てたのです。

この件で最初容疑をかけられた人々の供述書には、
「二つの皿があり、一つはご飯、一つには野菜、そして人間の肝の入っている皿があった。
看護婦が人間の肝臓を回した。肝臓は薄く切って醤油で煮てあった」
などという、実に真に迫った描写ががなされています。

しかし、このGHQの尋問を受けた者の証言によると、このやり方とは、

「脅迫的な自白を強要され『人間の肝など食べさせられていたら吐き出していただろう』
と言ったことを、本当に食べたように調書を作成させられた」
「肝を食ったとしても大した罪にはならないが、偽証するともっと長い重労働の刑になる
といわれて家族のことを考え口述書に署名した」
「肉体的脅迫の結果、精神的苦痛に耐えかねて虚偽のことを述べた。
後から撤回しようとしても聞き入れられなかった」

精神的な拷問による自白の強要の末、その証言を都合良くつなぎ合わせて調書を作成し、
それに強制的にサインさせる、というものでした。

この訴えは弁護人によって裁判に提出され、結局食肉事件の容疑者は全員無罪となったのです。
連合国による裁判がちゃんと法に則って機能していた、というのが唯一の救いといえます。

しかし、センセーショナルに騒ぎたてられ、世間に刷り込まれた猟奇事件としてのイメージは
いつまでも消えることなく、関係者はその残りの人生を懊悩と煩悶のうちにすごし、
人目を避け世間から身を隠すように生きなくてはいけませんでした。



この映画は、大学病院内の権力闘争を絡ませ、地位と今後の権力掌握を狙う教授が、
重要なオペに失敗した失点を挽回するために軍の要請を受ける、という設定になっています。
ここで大学関係者の関心は権力闘争の一点にしかありません。
食肉に関しては陸軍の野卑な軍人たちが冗談で
「肝を食ってみようかい」
と手術前に笑ったのを、まるであてこするように、医学生の渡辺謙が膿盆に乗せた肝臓を
「ご所望のものです」
と彼らの前に差し出し、軍人たちは鼻白む、という表現がされていました。


元をたどれば、この「生体解剖事件」は、陸軍軍令部の某が
「どうせ有罪で銃殺刑になる予定の捕虜たちだから、それなら、
戦時下に必要とされる研究の実験台にすれば、一挙両得、
捕虜にとっても銃殺されるより安楽な死に方ではないか」
と考えたことに端を発しています。

そうして陸軍がその話を大学病院に持ち込み、持ち込まれた医学者たちは
「どうせ処刑になるのだから」という言葉を免罪符にかねがねやりたかった人体実験を行い、
医学者なら普通にそうするように、遺体から標本のための臓器等を切除したのでした。

当時のジャーナリズムが猟奇的、野蛮、非人道的、残虐非道といった、
非道徳性の弾劾の側に立ってそれを報じた事件の裏には、しかしながら、
今日、どこをどう見ても個人的に裁かれなければいけないほどの悪人は存在しません。

この事件においては、確かに当初から科学者の良心が厳しく問われました。
しかし、裁く側のアメリカはさておいて、彼ら関係者が当時戦争の狂気のもとにあったことがまず、
糾弾するジャーナリズムの論旨から全く抜け落ちていたことを、我々は考慮するべきでしょう。

あの時代、あの切迫した状況で、
例えばあのB29の搭乗員の手によって日本人が毎日のように死んでいく中で
取捨選択の余地もなく、ただ目の前に突き付けられた出来事に対し、
それでも科学者としての良心そして倫理を堅持することは、果たして可能なのか。

そこにあるのは、ただ戦争の悲惨と、愚劣と、不条理。
そして、その不条理の中に在った者を、そこに無かった者が断罪することの虚しさに尽きましょう。

このB29の搭乗員に、たった一人生存者がいます。
そのマービン・ワトキンス氏(B29機長)に、東野利夫氏がインタビューをしています。
ワトキンス氏が語った最後の言葉は次のようなものでした。

「この事件の関係者の中で、まだ胸を痛めている方がおられたら伝えてください。
わたしは決してその方たちに悪い感情など持っていないということを。
死んでいった部下は可哀そうだったが、ナチスがやったような残虐な殺され方でなく、
麻酔をかけられて分からないようになって死んでいったのがせめてもの私の救いです」


虚無的な医学生戸田(渡辺)が、勝呂(奥田)が親身になって診ている学用患者の
「おばはん」について、こんなことを言います。

「おばはんが空襲で死んでもせいぜい那珂川に骨なげこまれるだけやろ?
けど、オペで殺されるんなら本当に医学の生き柱や。
おばはんもいずれは仰山の両肺空洞患者を救う道と思えば以て瞑すべしや」

「新しい実験するのに猿や犬ばかり使うてられへんよ。
そういう世界をもうちょいおまえも眺めてみいや」

ここで戸田の言う「どうせ死ぬ命なら、医学の礎として利用すべきである」という論理は、
ドストエフスキーが「罪と罰」で問うた強者の倫理とも言うべき合理主義です。

生命をその手で扱う医師が、ともすればそれを無機的に見ることは仕方の無いことかもしれません。
だからこそ医師とは、生命への畏れを人一倍持たずには携わるべきでない職業であるとも言えます。
しかしひとたび戦争のような異常な世界に置かれたとき、ただでさえ摩耗しがちなその良心を
それでも屹立することはやはり誰にとっても簡単なことではないでしょう。



ところで、この映画について調べてから、あることがずっと気になっています。
この映画の手術シーンで、保険所から譲り受けた犬が解剖された、という事実です。

映画の製作者は「どうせ保険所で殺処分される犬だから」という理由を言い訳にしたのでしょう。
「どうせ処刑される捕虜だから」
この事件の関係者たちの弁明と全く同じであることに、スタッフの何人が気づいたでしょうか。




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