毎年5月の最終土曜日には、金刀比羅神宮の一角にある慰霊碑前で
戦後日本の周辺海域の機雷を除去し、海を警戒する任務中に
殉職した掃海隊員の追悼式が行われます。
前夜の掃海母艦「うらが」艦上でのレセプションの翌朝、わたしは
讃岐うどんはもちろん、朝っぱらからデザートにケーキまである、
四国で一番充実した(当社比)朝食バッフェをゆっくりいただき、
車にカメラマンのMかさん(仮名)と横須賀地方隊で仕事をしていたという
元ウェーブさんの二人を乗せて、金刀比羅神宮近くの料亭に向かいました。
紅梅亭前からは海自がシャトルバスで会場近くまで連れていってくれます。
バス到着場から慰霊碑のある会場は、階段を少し降りたところにあり、
年配の出席者も安心して参加できる仕組みになっています。
昨夜同席したお歴々とシャトルバスに同乗し、その中の
かつての呉地方総監だった方から、総監時代にそれまで途絶えていた
愛媛での「五軍神」(最初の組織特攻を行った関大尉ら)
の慰霊祭を復活させた、などという話を伺いながら来ました。
「ということは、もし〇〇さんが呉総監になっておられなかったら、
慰霊祭は復活することなく消滅していたかもしれないということですか」
「わかりませんが、その可能性はありますね」
同じ地方総監と言っても、決して事なかれ主義というのではないにせよ、波風立てず、
面倒臭いことはやらず、極めて無難に任期を全うして終わる人もいれば、
他の総監がやらないようなことに敢えて挑戦する人もいるということでしょうか。
一般の管理職にも言えることですが、部下からはおそらく前者の方が歓迎されるでしょう。
しかし、たとえそれで嫌われたとしても、退官後、これが私の為したことだ、
と胸を張って言える実績が一つでもあれば、それは指揮官として本懐を遂げた、
というものではないかと(外部者なので恐る恐るですが)言っておきます。
週末であることもあり、多くの良民が本殿を目指して階段を登っていました。
この茶店は、下から急な登ってきた人が、ちょうど少し休憩したいな、と思う
最初の絶妙な立地にあって、いつも繁盛しています。
山門の本殿寄りには「五人百姓」と呼ばれる金比羅名物、
加美代飴を独占販売している五つの店が屋台を出しています。
この飴はどう言った経緯か五人百姓しか売ってはいけないことになっていて、
この時も赤い毛氈に傘の飴売りが、通りゆく人に試食販売していました。
わたしの前を歩いていた追悼式参加者に試食の飴をさし出したお店の人は、
「いや、そんなん食べたら歯が取れてしまう」
と手を振って断られ、苦笑しています。
昨晩もご一緒したこの方は防大出の士官だったということですが、
なかなか豪快さんだったらしく、現役時代、
「警衛を殴ったことがある!」
と衝撃の告白をしておられました。
そしてその理由はというと、
「門が閉まってから入ろうとして塀を乗り越えただけなのに
泥棒呼ばわりされたから」
深夜に塀を乗り越えていたらそりゃ泥棒扱いされますがな。
「越中国富山」
こんな書き方をするところを見ると明治より以前の年間でしょうか。
全国から寄せられる寄進の石碑に書かれた文字を読んでいるだけで、
金刀比羅神宮の「ご威光」というものがひしひしと伝わってきます。
そういえば去年はここから儀仗隊が出てきたなあと思いながら歩いていると、
ちょうど音楽隊のメンバーが楽器を手に一列で現れました。
譜面立てなどはすでにセットされているのかもしれませんが、
楽器は置きっ放しにすることは決してできないので、その都度持ち運びます。
この日はこの時間から日差しはつよく、昨日よりかなり湿度が高くて、
わたしなどもすでにううんざりしていたのですが、自衛官はさらに
式典用の服装で、白とはいえ長袖ワイシャツに上着という重武装です。
ところで、「苦心の足跡 掃海」に、旧海軍の海兵団出身で機雷兵となり、
戦後幹部候補生学校6期で掃海作業に当たった人が書いていたことですが、
現在の掃海部隊に当たる旧海軍での機雷兵の海軍内でのヒエラルキーは低く、
「下から三番目」、つまり兵科では一番下だったそうです。
機雷兵の任務は、機雷、掃海、爆雷、火薬化工兵器の取り扱いなどで、
陸軍における「下から三番目」は工兵(今の施設科)だったとか。
それでは下から二番目は何かといいますと、陸海共通で、
輜重兵・看護兵
「輜重・看護が兵隊ならば、蝶々トンボも鳥のうち」
なんて普通に言われていたものです。
そして、一番下というのはなんだったと思います?
そう、それが
軍楽隊員
だったんです(T ^ T)
今では音楽隊はもちろん、掃海、施設科、輸送科、衛生科と全て
スペシャリストで、職業に貴賎なし、職種に上下など付けようがないのですが、
昔はとにかく歩兵と砲術至上主義だったので、機関科ですら
「罐焚き風情」なんて言われて兵科と差別され、
このことから「機関科問題」が生まれたりしました。
そんな究極の階級社会の中で、軍楽隊員に対する偏見は特に酷く、彼らには
海軍芸者
なんて蔑称が与えられていたということです。ドイヒー。
出席者はほとんどがバスで連れてこられるので、会場を間違うことはまずありませんが、
いつも追悼式会場の看板は階段のところに目立つように置いてあります。
もしかしたら、これは一般の参拝客の目につくところに置いて、
慰霊式の内容に興味を持ってくれるという効果を期待しているのかもしれません。
慰霊碑のある広場に続く道沿いには、掃海母艦「はやせ」の錨があります。
自衛隊初の国産掃海母艦で、1971年に就役後はペルシャ湾派遣時には
旗艦として活躍したのち、「うらが」「ぶんご」に道を譲り退役しました。
退役は2002年、実に31年間頑張っていたことになりますが、
こうしてみると、掃海母艦というのはある程度中身をアップデートして
結構長期間運用するものらしいですね。
会場入り口には追悼式に寄せられた各種電報が掲示してあります。
岩国の第31航空群司令、地本部長など内輪からのものも、
もちろん政治家からの電報もあります。
左上は、去年の追悼式で、掃海隊の殉職と安倍政権への批判という、
誰が考えても関連づけるのが不可能な二つの事案を、銀河点並みの
ウルトラC着地により見事に結びつけるということをやらかし、
会場の心ある人の顰蹙を買ったという伝説の小川淳也議員の電報です。
野党の小物議員が故意犯的にやらかした追悼式の政治利用(しかも言い逃げ)
とわたしは断言したものですが、こんなものでも地元の議員なので、
自衛隊としては招待状を出さなければならないらしく、今年は、
前日の艦上レセプションにもこの日も、女性秘書が代理で出席していました。
艦上レセプション会場で、これが小川議員の秘書か、と凝視していたら、
ご本人とバッチリ目が合ったのですが、次の瞬間逸らされました。
・・・・わたし、別に睨んでませんよ?
会場入り口には受付のテーブルが置かれ、そこで直会(追悼式後の食事会)
に参加する人は会費を支払って入場します。
そこには案内役の海士くんが控えており、席まで連れて行ってくれました。
御霊に捧げる供物はもうすでに霊前となる慰霊碑前に供えられています。
霊名簿を奉納し、献花を行う台が用意されているところでした。
各自治体(この追悼式の発起人となった元々の自治体)の首長から、
海幕長や群司令など自衛隊から、そして各種防衛協力団体、
遺族一同の名前で飾られた花は、白菊と白百合。
会場にはそこはかとなく百合の放つ芳香が漂っています。
会場がまだ準備状態なので、わたしは慰霊碑の背後に回って、
そこにはめ込まれた銘板を今回初めて写真に撮ってきました。
「発起人は掃海隊を出した港湾都市の首長」
と書きましたが、これを見ると兵庫県から以西の、ほぼ全ての港湾都市名が見えます。
この日献花された市長の名札の数はこの数に到底及びませんから、
発起には携わったが、現在では全くノータッチ、という市が増えているのでしょう。
そういえば、前呉地方総監の池海将が、
「殉職者慰霊碑建立に携わっていながら追悼式との関係が無くなっていたある市の長に、
今年は声をかけて出席(だったかな)してもらうことができた」
ということをおっしゃっていたのを思い出しました。
なお、一番左の世話人の欄に、
海上保安庁 航路警戒本部長 田村久三
という名前が見えますが、この田村氏は、兵学校46期卒、
海大を出てから東大で機雷兵器の研究を行い、海軍工廠で実験部員として
大東亜戦争中は艦政本部の掃海部長を務めた人物です。
戦後は第二復員掃海課長として、その後は海上保安庁の
特別掃海隊総司令官という立場で掃海隊を指揮して来られました。
本人が語らず、正式な記録にも残っていませんが、
元航啓会(元掃海隊員で組織された任意団体、呉資料館の開館をもって解散)
のある会員の証言によると、この人はある年の追悼式で、
「環境整備費として田村久三様から金一千万を賜る」
という立て札を目撃したそうです。
その当時、一千万といえば庭付き一戸建て住宅が賄える金額で、
それを見た元隊員は驚愕したということですが、田村氏の死後も、
田村夫人は金刀比羅神宮境内に四基の奉燈を行うなど、
夫の遺志を継いで寄付を行っていたという話もあります。
この慰霊碑建立を発案したのは呉航啓会で、会場入り口にある案内板などは
全て有志の浄財で賄われています。
今回は写真を撮りませんでしたが、この入り口の金属の案内板は
旧海軍工廠の技術を受け継いだ日新製鋼の最高級素材を使用して
作られたもの、という話です。
ブロンズの銘板の横には、掃海隊殉職者七十九柱の名前が打たれた
金色のプレートがはめ込まれています。
昭和27年7月7日に慰霊碑の除幕式が行われた時には、殉職者の総数は
77名とされていたのですが、その後、昭和20年10月11日、博多沖で殉職した
「真島丸」の乗組員のうち「顕彰漏れ」となっていた鈴木正男氏、
昭和38年海自37掃「はりお」で殉職した平井満海士長の2名が追加され、
79名の名前が記されています。
なぜ二人の認定が遅れたかというと、死亡理由が「訓練中」「移動中」というもので、
触雷などの直接の原因ではなかったことだったようですが、その後、
「危険極まる掃海業務にあっては、殉職者の叙位、叙勲や遺族への補償等の関係から
現場への進出、海域間の移動等、基地を離れての行動中の事故死も
掃海殉職として処理されることが決まった」
ため、新たに殉職認定されたという事情がああります。
早く会場に到着したものの、風がないこの日テントの下は大変蒸し暑く、
まだ開式まで時間があったので、茶屋に顔見知りの自衛官と一緒に行ってみました。
追悼式のたびにここで甘酒を飲むのが最近のちょっとした楽しみとなっています。
杖を持って今から本殿を目指す三人の若い男性が、同行の自衛官の
白い詰襟が珍しかったのか、声をかけてきました。
自衛隊にあまり縁がない層にとって、儀式用の自衛官の制服は
こんな機会でもないと見ることもないのかもしれません。
ちなみにこの時、同行した自衛官の告白?により、第1種夏服には
財布を入れるポケットはない、(あるいは財布は持たない)ということを知りました。
山門の脇に衝撃的な告知看板がありました。
つい最近参道にて、
「盲目の参拝者を突き飛ばした不心得者がいる」
との通報がありました。
十分お気をつけてお参りいただきますとともに、
目撃されましたら当宮社務所へご連絡頂きますようお願い申し上げます。
いやー・・・最近こういうプシコ案件(医療関係者用語)が
あまりにも多くありませんかね。
昔もそれなりに変な人の凶悪犯罪はありましたが、今はなんというか、
普通に見える人が実は、みたいなスリラー映画的な事案が目立つというか。
わたしたちは甘酒を飲みながら看板を読み、この件について話題にしました。
「不心得者って・・・そんなもんじゃないですよね」
「すでに犯罪ですね」
「しかし神社の境内で犯罪を犯すとは・・・」
それって日本人かなあ、とつい口に出してしまいましたが、正直、
昨今の犯罪続きの世相を思うと、必ずしもそうも言い切れない気がして、
日本人の一人として実に残念な気持ちになりました。
戦後日本の安寧のために危険な任務に従事した掃海隊殉職者たちも、
自分たちが命を賭してその復興に携わった祖国が、いつの間にか
こんな人心の荒れた犯罪の多発する国になったと知ったら、
さぞ情けない思いをすることだろうと思います。
さて、冷たい生姜入りの甘酒で喉を潤しているうちに開式の時間が近づきました。
そろそろ会場に戻ることにしましょう。
続く。