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直会〜海上自衛隊 掃海隊殉職者追悼式@ 高松 金刀比羅宮

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前々回、冒頭に掃海隊殉職者79名の名前が刻まれた、
金刀比羅神宮の慰霊碑裏側にある金色の銘板の写真をアップしましたが、
それをつぶさに見た方がおられましたら、その中の一人に、
苗字しかない殉職者がいるということに気がつかれたかもしれません。

「後藤」としか記されていない隊員、あるいは保安員。

いつ殉職したのかはわかりませんが、碑石にその名前を刻む段階で
彼はその身元がはっきりせず、しかもそれからずっと、
判明しないまま今日まで来てしまったということになります。

もしどこかの段階でフルネームが判明していたら、必ず後からでも
プレートの空白は埋められていたでしょうから、これはつまり
当時の公的な資料に正確な姓名が記されていなかったばかりか、
他の掃海隊あるいは海上保安庁の関係者の誰も彼の名前を知らず、
さらにはそれを質すべき、そして追悼式に招待されるべき遺族の
居場所もわからないないままであったということなのでしょう。

戦後の混乱期であったとはいえ、そんなことがあっていいものでしょうか。
後藤さんの家族も、自分の息子や兄弟が亡くなったことを
ずっと知らないままだったということではないのでしょうか。

もし、万が一ですが、すでにそのフルネームが判明しているのにも関わらず
碑石の銘だけが手違いでそのままなのでしたら、一刻も早く、後藤さんの
正しい姓名を刻んで差し上げてほしい、と心から思います。

 

さて、令和になって初めての掃海隊殉職者追悼式が終了し、
わたしはバスに乗らず階段を降りて、直会の会場である
紅梅亭まで話しながら歩いて行ったのですが、とにかくこの日は
猛烈に暑く、後から大変後悔した、というところから続きです。

今まで参道途中にある資生堂パーラー「神椿」から登って行ったところ、
それから慰霊式場となる慰霊碑のある広場からバスの乗り場までは
よく知っていますが、慰霊碑から階段を降りて行ったことはありません。

この「虎屋」というのは、江戸年間に建てられた建物をそのまま使っている
讃岐うどんの本店で、江戸時代は金毘羅参拝者のための旅籠でした。

こちらは明治年間創業の旅館「敷島館」。
ホテルとしてリニューアルし令和元年8月にオープンするそうです。
(オープニングスタッフ募集のお知らせを見て判明した)

外から見れば旅籠だけど、中は近代的な最新設備、とかでしょうか。

寛永元年から創業の「金陵の郷」というお酒の醸造元です。
注連縄の下に丸いくす玉のようなものが下がっていますが、
これを「杉玉」といい、お酒ができると緑の杉玉を看板のように店先に吊るして、
それが茶色に変色していくことで「お酒が熟成した」という宣伝の役目を果たします。

この杉玉は十分に茶色いので金陵の郷はすでに熟成ずみ、というわけです。

ここもうどん屋さん。
「中野うどん学校 てんてこ舞」という名前がシュールです。

これ絶対、陸軍中野学校を意識してるよね。
「陸軍中野学校 テンテコ舞い」とか、昔のドリフのネタにありそう。

こちらも建物は年代物で、参道にある建物で一番古く、
1850年、江戸時代に経ち築150年というビンテージ。
調べていませんが、ここも昔は旅館だったのではないでしょうか。

さて、昼食会会場には早く着いたのですが、前記の理由でガーメントを車に取りに行き、
着替えをして会場に駆けつけたら、たった今挨拶が始まったばかりでした。

会費を払った時に席次表をいただいていたのですが、会場入り口で、

「カードお持ちですか」

「あー。いただきましたね確か」(汗)

バッグの中に手を突っ込んでごそごそやっていたら、いつもの、
わたしの守護天使といっても過言ではないウェーブさんが
素早くわたしの名前を席次表から見つけ出してくれました。

戸を開けると、杉本海将がお話の真っ最中<(_ _)>

「掃海隊殉職者追悼式は69回目を迎えますが、
令和になって(わたしにとって)第一回目となります」

という(ような)冒頭のご挨拶に耳を傾けながら席に着きました。

会食に先立ち、遺族の代表である岡崎氏がご挨拶されました。
その内容です。

「徳山防備隊の掃海隊員として機雷掃海作業にあたっていた叔父は、
昭和20年10月11日、大分県沖での任務遂行中、暴風雨の中遭難、
消息不明のまま、空っぽの白木の箱での帰宅となってしまいました。

なぜ暴風雨の危険な海に作業に出たのか。
当時の新聞には叔父の遭難二日前、10月9日、室戸丸が触雷沈没し
死者行方不明二百五十名の記事が、前日の10日には
台風接近の予報の記事が載りました。

11日の作業、そして遭難。

この室戸丸の事故が無理な掃海作業を進めたのでしょうか。

もちろん戦争のない世界が理想なのですが、
機雷、地雷、放射能兵器など、戦争後もあとあとまで
人々を苦しめる兵器がなくなりますように。
新たな追悼式などが行われないような世界になりますように。

私ごとではありますが、中学生くらいから
この追悼式に出席させていただきましたわが息子は、
自分でも海上自衛官を目指すことになり、
護衛艦「ひえい」「かしま」「まきなみ」などで勤務させていただき、
現在は自衛艦隊司令部でお世話になっております。

また皆様のお世話になることもあろうかと思いますが
よろしくお願いいたします。」

昨年、わたしは体験航海で「まきなみ」に乗艦しましたが、偶然にも
その時、中谷氏のご子息はそこで勤務しておられたと知りました。

わたしが到着した時、御膳の煮物の火はとっくに消えていました(´・ω・`)
手前にあるのは梅酒のようですが、梅ジュースです。
食事会ではお酒の類いは出ていなかったように記憶します。


そのご、食事会に出席されている遺族の方々の紹介が行われました。
殉職隊員の殉職日、乗っていた船、殉職者との関係を記します。

昭和20年10月11日「真島丸」 岡崎真文隊員 甥

昭和20年11月16日 海防艦「大東」(三名)

玉城福市隊員 長女夫妻 娘

宮地真二隊員 弟夫妻

中原善治隊員 甥夫妻

昭和21年2月18日「有幸丸」軍原時夫隊員 甥

昭和25年10月17日「MS14号」中谷坂太郎海上保安官 兄

 

「大東」の触雷沈没によって殉職した隊員の数は最も多い総員二十六名でした。


中谷坂太郎隊員が乗っていたMS14は朝鮮戦争の機雷掃海任務のため、
元山で触雷沈没しました。
この朝鮮戦争における掃海活動は、非公式ながらも、日本にとっての
戦後初めての「血と汗を流した国際貢献」だったということもできます。

朝鮮戦争で日本特別掃海隊が掃討したのは、北朝鮮の敷設した機雷でした。
元山に敷設されたその機雷によって、アメリカ軍の掃海艇1隻、
駆逐艦、韓国軍の掃海艇など4隻が立て続けに触雷大破し、
それによって機雷の脅威が大きくクローズアップされることになりましたが、
開戦後、カナダ、ニュージーランド、イギリス、オーストラリア、
オランダなどの国連加盟諸国から巡洋艦、駆逐艦が派遣されても

掃海艦艇派出の申し出はどこからもありませんでした。

つまり、その時掃海のできる艦艇はアメリカ海軍の掃海艇21隻、
そして日本で確認掃海に当たっていた12隻だけしかいなかったのです。

そんな状況で、当時高い練度を持つ掃海部隊がたった一つありました。

それが、瀬戸内海や東京湾口などですでに本格的な掃海作業に従事していた
海上保安庁の掃海隊だったのです。


マ元帥が決定した元山上陸に先立ち、米極東海軍参謀副長だった
アーレイ・バーク少将は、海保長官を呼び、現状を訴えて
日本掃海隊の協力を仰ぎました。

その際、バーク少将は、

「元山上陸作戦を成功させるためには多くの掃海部隊が必要であり、
国連軍が困難に遭遇している今、日本掃海隊の力を借りるしかない」

ということを述べたと言われます。

これに対し、吉田首相は、当時アメリカと日本との間に
掃海作業の契約まではなかったばかりか、そもそも
非軍事組織である海上保安庁を戦争下の掃海に派出することになるため、
気乗りしないというかむしろ否定的でしたが、ポツダム宣言を受諾したばかりで
まだ進駐軍の占領下にあった当時の日本で、特にマッカーサー元帥の命には
絶対的な服従が無言のうちに要求されていたわけですから仕方ありません。

結局、吉田首相は海保の掃海艇を朝鮮半島に送ることを決定したのです。

日本としては、講和条約の締結前で、国際的に微妙な立場にあったため、
掃海艇派出は秘密裏に行うことが暗黙のうちに決められました。


前述の中谷隊員が殉職した当時、日本政府では戦死者や戦傷者に対する
補償についての規則を全く定めていなかったため、事故が起きてから
日本側とアーレイ・バーク少将が相談し、殉職者には「とりあえず」
GHQからの弔問と補償金が出されるように取り計らわれました。

中谷保安官の葬儀は海上保安庁葬で行われましたが、家族はそれに出席しておらず、

「『米軍の命令による掃海だったことと死んだ場所は絶対口外しないように』
と言われ、瀬戸内海の掃海中に死んだことにしようと皆で申し合わせた」

と「苦心の掃海」には、兄の藤市氏の談として記されています。

会食が終わり、今軍事評論家としてもすっかり有名になられた
元呉地方総監伊藤俊幸氏と遺族の方々とが、和気藹々と記念写真撮影。

スマホを向けているのは呉地方総監部の先任伍長です。

終了後、飛行機の時間まで少し間があったので、「神椿」に車を走らせました。
この注意書きの字体は、山門にあった「不届き者」の告知と同じ筆跡ですね。

この「えがおみらいばし」は、くねくねした山道を通ってたどり着く駐車場と、
レストラン「神椿」を結ぶためだけに作られた陸橋です。

よくまあレストランのためだけにこれだけの大掛かりな工事をしたものだと思います。

「神椿」から眺める琴平の鬱蒼と茂った山の緑。
ご覧のように絶景のインスタ映えポイントです。

二階はカフェ、一回はちゃんとしたコースのレストランで、毎年、
呉地方総監部では、立て付けに先立ってここで会食を行うのが慣いとなっています。

冷たい梅ソーダで一息入れてから、空港に向かうことにしました。
「神椿」から下界に降りるまでの道は車もすれ違えないくらいの山道です。

途中にひっそりとお地蔵様の祠が現れます。

さらに進むと、二股に分かれる道の突き当たりに銅像が。
いつも通り過ぎるだけで何だろうと思っていたのですが、今回調べてみると
やっぱり坂本龍馬の像でした。

今回直会でお世話になった「紅梅亭」のHPによると、

当時の琴平は金毘羅と言われ御朱印地であり、隣接する村は天領でした。
当時の高松藩は無類の輩について取り締まる許可を幕府に願い出ましたが
許されなかったこともあり、当時の金毘羅は志士達の潜伏にも好都合で
あったと言われています。幕末には金毘羅へ、吉田松陰、森田節斎、高杉
晋作、桂小五郎など多くの志士たちが訪れたそうです。

また琴平に集中する金毘羅五街道の一つ伊予土佐街道を通って、
「坂本龍馬」も丸亀の道場へ通ったといわれています。

ということで、ここに龍馬の像があるようです。

羽田に向かう機上で見た、三浦半島越しに雲から頭を出す富士山。


戦後日本の啓海任務に身を投じ、道半ばでその人生を終えた
七十九柱の殉職者について、思いを致し、感謝を捧げ、冥福を祈る日が
また今年もめぐり来て、過ぎて行きました。

この日がくると、彼らがその命を贖って私たちに残してくれた安寧の日本を、
どうやったら後世に送り伝えることができるのか、彼らに恥ずかしくない
日本の国柄のために、ちっぽけなわたし個人にできることはないだろうか、
などといったことを、いつの間にか考えているのに気づきます。

せめて、そういう人たちがいた、ということを今に生きる少しでも多くの
日本人に知って欲しいと思い、ここでもお話ししている訳ですが、
広く物事を伝えることのできるテレビメディアは、それをしないどころか、
たまに取り上げたと思ったら、「国家権力の犠牲になった殉職者」という面のみ強調し、
下手すれば護憲の補強材料として利用しようとするので全く信用なりません。

今回もNHKのカメラが追悼式の様子を撮影していましたが、
わたしの隣の防衛団体の方は、わたしがそれをいうと、

「ちゃんと報道してくれればいいんですけどねえ」

と、全くあてにしていないといった口調で呟きました。

もし、この時の取材をもとにした番組を後日NHKでご覧になったら、
どんな内容だったかを当ブログ宛に教えていただければ幸いに存じます。

 


終わり


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