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ドラゴン・スレイヤー「屠龍」〜スミソニアン航空宇宙博物館

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スミソニアン航空宇宙博物館別館に当たるダレス空港の隣、
スチーブン・F・ウドヴァー-ヘイジーセンターに保存展示されている
航空機の中から、帝國陸海軍の軍機をご紹介しています。

冒頭写真を見て、わたしが本日テーマの屠龍と桜花を勘違いしているのでは、
と疑った一部の皆さんにお断りしておきますが、そうではありません。
散々機体の認識を間違えて、ここで指摘されるという前科を持つわたしですが、
さすがに屠龍と桜花を間違えるはずがないじゃないですか。

なぜこの写真を扉に採用したかというと、ここの「屠龍」はこんな状態なので、

なんとなく完全体の飛行機の方が収まりがいい気がしまして。


川崎 キ45改 二式複座戦闘機 「屠龍」

現地の説明では

KAWASAKI Ki-45 Kai Hei (Mod. C ) Type 2

TORYU (Dragon Killer) Nick

「龍を屠る」という日本語の意味をそのまま「ドラゴンキラー」とし、
連合国軍からの呼び名「ニック」を付け加えています。

アメリカではより直接的な「Dragon Slayer」(スレイヤーは虐殺者)
という言い方をすることもあるようです。

 "Kai" は「改」、”Hei" とは甲乙丙の「丙」を意味します。
甲乙丙を「ABC」と同じ型番の順番であるとして、「Mod. C」と説明しています。

「屠龍」はご覧のように、水上戦闘機「晴嵐」の翼の下に、
まるで庇護されるように展示されています。

日本語のWikipediaでは

「二式複戦の現存機としては、当センターが収蔵する
丙型丁装備(キ45改丙)ないし丁型(キ45改丁)キの胴体部分が唯一となる」

英語Wikiに記載されている現存機についての説明は、

今日現存するキ45改はたった一機である。
第二次世界大戦の後アメリカが、日本軍の航空機を「評価」するため
USS「バーンズ」に積んで持ち帰った145機のうちの一機で、
ペンシルバニアのミッドタウン空技廠にオーバーホールのため送られ、
その後オハイオのライト・フィールドとワシントンのアナスコーシアで
試験飛行を行ったのち、空軍からスミソニアン研究所に1946年寄贈された。
胴体だけが現在スティーブン・F・ウドヴァー-ヘイジーセンターで、
「月光」と「晴嵐」と並んで展示されている。

というものです。

補足すると、「バーンズ」が最初にアメリカにこれらの航空機群を
荷揚げしたのはバージニア州ノーフォークだったということです。

さらに博物館の説明を翻訳しておきます。

Kawasaki Ki-45は、第二次世界大戦の他のほぼすべての日本の戦闘機よりも
開発と運用に時間がかかりました。

設計主任だった土木武夫は、1938年1月にこの設計に着手しましたが、
量産機型は1942年の秋まで戦闘には投入されていません。

実戦に投入されることになると、キー45はすぐに米海軍の哨戒魚雷艇
(PTーパトロール・トルピード・ボート)や
地上目標の攻撃任務を負った搭乗員達にとっての脅威になりました。

「屠龍」はまた唯一戦時中に運用された帝国陸軍の夜間戦闘機です。

 

日本軍は1930年代半ばから後半にかけて、双発エンジンで複座の
重戦闘機のようなもの、さらに太平洋の戦場に投入するための
長距離戦闘機を必要としていました。

1937年3月、陸軍は多くの製造業者にそのコンセプトでの戦闘機を発注し、
川崎、中島飛行機、三菱はそれに一応手を挙げたものの、中島と三菱は
他のプロジェクトに集中するために競争から降りています。

結局、軍は仕様を追加情報で修正し、川崎に設計作業を受注しました。

指定は速度336mphの二人乗りの戦闘機。
2〜5000メートルの動作高度、および5時間以上の航続距離があること。
さらに軍はブリストル水星エンジンを指定しました。

SFUHセンターには展示されていない機体の部品も、また大切に
人類の遺産として保存されています。

機体から取り外した ハ102 空冷複列星型14気筒エンジン。
星型エンジンとはシリンダーが放射状に配列されたレシプロエンジンで、
これは最初の実験の後修正して換装されたものとなります。

1939年1月に、川崎は最初のプロトタイプを発表し、テスト飛行をしたのですが
速度は軍の要件を満たすには遅すぎたため、エンジンを取り替え、
エンジンナセルとプロペラスピナーを改訂しました。

これらの修正は最高速度を520 kph(323 mph)に高めましたが、
その後も胴体を狭め、翼の長さと面積を増やし、ナセルをもう一度改造、
そして武装を換装するなどの改造を繰り返しました。

スミソニアンには「屠龍」の翼を所蔵しています。
なぜ展示されている胴体に翼を取り付けないのかという気もしますが、
日本語のWikiの情報がある程度正しければ、これは展示機の翼ではなく、
別のもう一機の(丁型)飛行機のものだからという説明ができます。

翼部分は「ローン」つまり貸し出しされていることもあるそうです。

Miscellaneous Parts(ミセレーニアスパーツ)つまり「パーツその他」です。
アメリカで、「その他色々」という意味で「Misc」(ミスク)という言葉は
よく使われ、学校の「何でもいれ」にMiscと書いたシールが貼ってあったりします。

外側だけを展示するので必要のないのパーツは抜いてしまったようですが、
破棄せずにちゃんと残してくれているのはありがたいことです。

取り外してしまったコクピットのシートクッションもちゃんと保存してありますよ。
これらも展示はしておらず、倉庫に入ったままのようですが。

クッションの中身は綿のようです。
合皮の無い時代なので、シート素材は皮革のようですが、
だからこそここまで形態を保ったと言えましょう。

合皮は本当にすぐに劣化してしまいますからね。

川崎は1942年8月に最初のKi-45 Kai(修正版)を完成させました。
しかし中国戦線に投入されることはありませんでした。

同年6月、二式複座戦闘機は爆撃機の護衛として
中国で「フライング・タイガース」のトマホークと対戦していますが、
結果は惨敗、キティホークにも負け続け、部隊からの評判は散々だったそうです。

ただし、

多くの日本海軍の戦闘機とは異なり、「屠龍」は
乗組員の装甲と耐火性の燃料タンクを持っていました。

さすが、海軍の飛行機、特に零式艦上戦闘機は重量を軽くするために
搭乗員席のバックシートに穴まで空けて装甲を薄くしていた、
などという事情を踏まえていないと到底書けない文章ですなあ。

とにかく、対戦闘機戦では初戦散々だったこの「屠龍」が
もっともその威力を発揮したのは、本土防空戦における対B29戦でした。
龍を屠る者の名前通り、龍=B29を屠る飛行機となったのです。


SFUHセンターの解説の続きを翻訳します。

「屠龍」は通常20 mmと37 mmの重機関銃を搭載していました。

ニューギニア地域で連合軍の船団攻撃に投入され、第5空軍の
コンソリデーテッドB-24「リベレーター」爆撃機を攻撃しています。

日本軍は夜間戦闘機としてキ-45の派生系をいくつかを採用しましたが、
部隊でははこれらの「屠龍」を改造し、機体上部に、ターゲットの弱点である
腹部分の燃料タンクを斜め上向きに射撃するように取り付けられた
2本の12.7 mm機関銃に置き換えたりして非常に高い戦果を得ました。

「月光」にも取り付けられた「斜め銃」、「上向き銃」のことですね。

「屠龍」が特に効果的だったのは、エース樫出勇大尉を筆頭にした
精鋭ばかりで固めた山口県小月の防空部隊が運用した時であり、
その後、上向き銃を搭載する頃にはレーダーを使っていなかったこともあって
かなり苦しい戦いをしていたというのが事実のようです。

当初は二式複座戦闘機には「屠龍」という名前はつけられてなかったのですが、
北九州を防衛する防空隊の活躍が日本の一般市民に知られた結果、
樫出大尉のいた小月と芦屋の飛行戦隊を「屠龍部隊」と皆が呼ぶようになりました。

また彼らには被撃墜時には必ず敵機を道づれとする信念があったそうです。

昭和19年8月20日、B-29の邀撃戦において、屠龍戦隊は来襲した80機のうち
23機撃墜、被撃墜については3機未帰還、5機が被弾という損害であった。

同じ戦闘についてアメリカ側の記録では爆撃機61機のうち14機喪失、
そのうち航空機による損失が4機(空対空爆撃による1機と体当りによる1機を含む)、
対空砲火による損失が1機としており、日本機17機撃墜となっています。

この数字が正確で、このとき日本側が来襲機の28%を撃墜していたとすれば、
ヨーロッパ戦線での平均である来襲機の10~15%撃墜を大幅に上回り、
世界的に見てもこのときの防御率はトップクラスだったことになります。

 

この国土防衛戦についてスミソニアンの解説はどうなっているかというと、

1944年6月、2年前のドーリットル隊の攻撃以来、
日本本土に対する最初の急襲としてB-29 スーパーフォートレスが襲撃しました。
キ-45 「屠龍」を含む日本の迎撃機はこれらを迎え撃ち、
あるキ-45パイロットは8機のスーパーフォートレスを撃墜しています。

このパイロットが誰を指すのかはわかりませんでした。

1945年3月9日、米陸軍第20爆撃集団は焼夷弾による夜間の低高度攻撃を始めました。

日本では3月10日、つまりあの悪名高き東京大空襲です。

これらの任務は、アメリカの伝統的な高高度からの日中爆撃からの
急進的な離脱を示しました。

やんわりとぼかして書いているようですがね。
つまりそれまでは昼間にピンポイント爆撃していたのが、この辺りから
夜間の一般市民無差別爆撃に舵を切ったということですよ。

そしてこれをわざわざ進言したのがあのカーチス・ルメイですよ。
なぜか日本は戦後このおっさんに叙勲しておりますが。

日本は対空砲火と夜間戦闘機攻撃で反撃しました。
ニックの6つのSentais(グループ)が終戦まで故郷の島を守りつづけたのです。

 

アメリカ側の無差別爆撃をちゃんと書いていないあたりはともかく、
こういう視点から語ってくれると実にニュートラルな印象を受けますね。

さて、最後に、「屠龍」が戦後、アメリカ軍に接収され、
そこでのテスト飛行でどんな評価を得たかを書いておきます。
これらもスミソニアンのキュレーターの記述によるものです。

 

アメリカに輸送されてから2〜3ヶ月の間、「屠龍」は集中的に
ライトフィールドとアナスコーシアでテスト飛行を受けました。

陸軍のテスト飛行ではパイロットは

「ニックの地表での操作性は大変に悪い」

と報告しています。
窮屈なコックピット、過度の振動、そして視界不良に対しても低評価でしたが、
ただ離陸距離、上昇速度、飛行特性、進入および着陸、および操縦性は
すべて良好から優秀と言っていい、と高い評価を与えられています。

テストが全て終わった1946年6月、陸軍はイリノイ州パークリッジにある
スミソニアン協会の国立航空博物館(NASMの前身)博物館保管場所に
運ばれた「屠龍」は、現在世界で唯一の現存するその姿をここに留めています。

 


続く。

 

 


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