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目黒・防衛省〜山本五十六の「遺書」

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今回の幹部学校訪問では所蔵するすべての書を見たわけではありません。
どうも、わたしが案内していただいたのとは違う階にもいくつか展示があって、
勝海舟や島村速雄などのものは見ることができなかったようです。

わたしとしては東郷平八郎の「聯合艦隊解散之辞」さえ見せていただければ
もう目的は果たしたと言った感があったのですが、もう一つ、
この山本五十六の「辞世」も、なかなか感慨深いものがありました。




征戦以来幾萬の忠勇無雙(そう)の将兵は

命をまとに奮戦し護国の神となりましぬ 

あゝわれ何の面目かありて見(まみ)えむ大君に

将又逝きし戦友の父兄に告げむ言葉なし

身は鉄石にあらずとも堅き心の一徹に

敵陣深く切り込みて日本男子の血を見せむ 

いざまてしばし若人ら死出の名残の一戦を

華々しくも戦ひてやがてあと追ふわれなるぞ

昭和十七年九月末 述懐


七五調でつづられたこの内容は、

「開戦以来、幾万もの比類なき忠勇の将兵たちは
命を的に奮戦し、護国の神となっていった
ああ、私は天皇陛下に面目が立たぬ
将官たちや戦友の家族に告げるべき言葉もない

我が身は脆いものだがこの堅い一徹な決心で
敵陣深く切り込んで日本男児の血をみせてやろう
若者たちよ、死を覚悟した最後の戦いをしばし待つがいい
私もまた華々しく戦って後を追うから」


エリス中尉の現代語訳ではこのような内容となります。

うーん・・・・。

確かに言いたいことは痛いほどわかります。
この実質的に「遺書」とされている山本五十六の言葉にを
あれこれ言うのは実に心苦しいのですが、それを割り引いても
なんだか・・・・・言わせてもらえば、陳腐な文章じゃないですか?

七五調でおさめるにももう少し気の利いた文章というか言葉選びがあるような・・・。
内容そのものも当たり前すぎて、つまり「わたしも後を追う」という一言を言うために
ありがちな文句をつなぎ合わせただけ、と言った感があります。

名文として名高い「聯合艦隊解散之辞」の後にこれを見ると、
まるで大人と子供くらいの文章としての成熟度の違いを感じてしまいます。
(と最初は思った、というマクラとしてお読みくだされば幸いです)

それはともかく。

そもそも、この書ですが、どういういきさつで世に出たのでしょうか。

幹部学校によって付記された説明によると、これは
「旧海軍関係者より寄贈された」となっています。



山本五十六聯合艦隊司令長官は、1943年4月18日、
ブーゲンビル上空で乗っていた機を米軍機に撃墜され戦死しました。
この戦死を「海軍甲事件」といいます。

いきさつを簡単に述べておくと、海軍が1943年4月7日ソロモンで行った「い」号作戦が一応成功し、
山本長官は自らショートランド島方面に視察と激励に行くことになりました。

その際、前線の各基地に、4月18日の分単位の視察計画が暗号電報で通知されたのです。
その暗号はアメリカ軍によって解読されていました。


・・・・しかし、後からなら何でも言えるとはいえ、いくら暗号でも「分単位」の計画を通達。
スケジュール通り襲ってくださいと言わんばかりの迂闊さに、今さら唖然としてしまいます。

一人くらい暗号が解読されている危険性を考える関係者はいなかったのでしょうか。
と思ったら、一人、城島高次という航空戦隊司令官が、

「前線に、長官の行動を、長文でこんなに詳しく打つ奴があるもんか」

と当時から憤慨していたということで、少し安心しました。
わたしがいまさら安心してもしょうがないですけどね。

しかも、海軍の微笑ましいまでのうっかりさんぶりはこれにとどまらず。
最近アメリカの資料で分かったことによるとこの暗号を討つ二週間前、
海軍は暗号を変更していたのにもかかわらず、
この長官の行動だけが変更前の古い暗号で打電されていたというのです。

だとしたら、これははっきりと打電を命じた「武蔵」の責任者と、新しい暗号を使うのが面倒で?
古いのをそのまま使った通信関係者の責任ということになりませんか?



ところで少し余談ですが、今回あるサイトで、

「アメリカは山本司令長官を真珠湾の立案者として憎んで処刑した」

と、何やら非常に感情的な復讐劇のようにこの撃墜を記述しているのを見ました。
まあ、確かにアメリカは真珠湾を「スニーキーアタック」として、国民にも憎しみを掻き立て、
戦意を高揚させていましたから、「憎んでいた」というのもあながち語弊では無いと思います。

しかし仮にも軍の戦略行動に対し「憎んで処刑した」はどうでしょうね。

憎むも憎まないも、前線に敵の最高司令長官が来ているというニュースが伝わり、
さらにある日、詳細な視察計画が暗号解読されたとしたら、
戦争している相手が、これを襲撃しようとするのは当たり前だと思うのですが。


ニミッツは「い号」作戦の前線視察の際にこの電文を受けて

「山本長官は、日本で最優秀の司令官である。
どの海軍提督より頭一つ抜きん出ており、山本より優れた司令官が登場する恐れは無い」

と言って殺害計画を進めさせたと言います。
もっとも戦争というのは国家の憎み合いには違いはないのですが、戦争の作戦遂行にいちいち
「憎んでいたから」と解釈を付けて意味づけする必要があるのかって話ですね。

このサイトはある地方大学の教授がまとめているようでしたが、この真珠湾攻撃の部分は
やたら「プライドが」「誇りが」「憎んで」「復讐」などという煽情的な文言が多く、
分析というにはあまりにもアメリカ側の「感情」に立ちすぎた「感想文」としか思えませんでした。
少なくとも「歴史」じゃないだろ、っていう。


というのは全くの余談ですが、というわけで、戦艦「武蔵」の電信員あたりがこの件の
「戦犯」ではないかと思われる徹底的なミスを犯したせいで、山本長官は戦死しました。


海軍はこの件を当初秘匿していました。

鈴木貫太郎がこれを聞いて驚き、嶋田繁太郎海軍大臣に
「それは一体いつのことだ」
と聞いたところ、嶋田が
「「海軍の機密事項ですのでお答えできません」
と官僚のような答弁をしたもので、普段温厚で寡黙な鈴木が
「俺は帝国の海軍大将だ! お前の今のその答弁は何であるか!」と
大声で嶋田を叱責したという話があります。


このことから想像するのですが、むざむざ司令長官を殺された責任を誰が取るのか、という点で
海軍内ではいろんな思惑が乱れ飛び、政治がそれを回避するために、
情報を抑えたり、あるいは報告の際、微妙に調整されたりしたのだと思われます。

そのため、山本長官の死亡状況すら軍医の検視結果でも明らかにされず、
報告が本当にそうだったのかすら歴史の謎になってしまい、いまだに

「即死だった」
「しばらく生きていた」
「第三者に撃たれた」
「自決した」
「機上戦死を演出するために遺体が撃たれた」


など、諸説が生きているありさまなのです。

その一因として、現場における検証で遺体の軍服を脱がせることすらさせなかった参謀がいたり、
軍医も粗雑な書類で単なる形式処理しかさせてもらえなかったという事実がありました。

日本の官僚的縦割り社会の悪いところが集約されているような話ですね。


さて、山本長官戦死後、遺品の整理のために「武蔵」の長官室の机の引き出しが開けられ、
そこから親しい者たちに宛てた「遺書」が見つかりました。

しかし、それがこの書であるかどうかは全くわかりません。

山本は、三国同盟締結の頃、つまり海軍次官の頃にもこの「述志」を認(したた)めており、
それが5年前、同級生の堀悌吉の子孫の家からみつかったという話もありました。
この頃は、三国同盟に反対し、国内での暗殺の危険があったためとされますが、
つまり、山本五十六は、海軍での人生を通じ、

しょっちゅう遺書を書いていた

ということのようです。



おそらくこの筆から数々の「遺書」は生み出されたのでしょう。

三国同盟の頃、つまり昭和14年に書かれた「述志」は、
この「述懐」より少し文言に装飾がみられます。



述 志

一死君国に報ずるは素より武人の本懐のみ、

豈戦場と銃後とを問はむや。

勇戦奮闘戦場の華と散らむは易し、

誰か至誠一貫俗論を排し斃れて後已むの難きを知らむ。


高遠なる哉君恩、悠久なるかな皇国。

思はざるべからず君国百年の計。

一身の栄辱生死、豈論ずる閑あらむや。

語に曰く、

丹可磨而不可奪其色、蘭可燔而不可滅其香と。

此身滅す可し、此志奪ふ可からず。

昭和十四年五月三十一日  於海軍次官官舎 山本五十六


これに比べると、冒頭の遺書には言いたいことだけを言うという
切羽詰まった感じが表れていると言えないこともありません。

なかでも、

将又逝きし戦友の父兄に告げむ言葉なし

という一説は、山本がいつも戦死した部下にはその家族に自筆で手紙を書き、
場合によっては自ら墓参に訪れたり、空母「赤城」艦長時代に、
艦載機1機が行方不明となった時は食事も通らず涙をこぼし、
搭乗員が漁船に救助されて戻ってくると涙を流して喜んだという逸話を知ると、
ただ単にありきたりの言葉を選んだだけではないということがわかります。

山本はまた、戦死した部下の氏名を手帳に認め、その手帳を常に携行していました。
手帳には万葉集、歴代天皇の詩歌や自作の詩がぎっしりと書き込まれており、
戦死者への賛美と死への決意で満ちていたということです。

終始一貫、この人物は戦争で死なせた部下たちのためにもいつかは自分も死ぬ、
と覚悟を決めていたのでしょう。


その死に対し、山本五十六を知る周りの人間は、愛人であった河合千代子なども、総じて
「敗戦を見ず、軍事裁判にかけられることもなく死んだのは本人にとって幸い」という評価でした。

たしかにもしこのとき戦死しなかったとしても、終戦後の極東軍事裁判でアメリカは、
おそらく司令長官として山本に、真珠湾の責任を命で償うことを要求したでしょう。

いずれにしても死は免れないと知ったとき、すでに「何度も死んでいた」山本五十六は
ためらいなく自ら命を絶ったのではないだろうかという気がします。















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