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英雄フォン・トラップ少佐とトラップ家亡命の真実〜ザルツブルグを歩く

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さて、ザルツブルグの旅行記をお送りしていたつもりが意外なところで海軍軍人、
しかも潜水艦艦長の軍歴について紹介するという、当ブログ本来の
役目?を思いっきり果たすことができて大変嬉しく思っております。

さて、本編の主人公、トラップ少佐についてですが、正式な名前は

Baron Georg Johannes Ludwig Ritter von Trapp
バロン・ゲオルク・ヨハンネス・ルードヴィヒ・リッター・フォン・トラップ

です。
バロン(男爵)およびリッター(騎士号)を叙任されたため、名前にフォンがつきます。

騎士号は一般的に貴族階級のように生まれ持って家が相続しているものではなく、
例えば戦功を挙げた武人に授けられる勲章のような称号で、その場合は
「フォン」も一代限りとなるのかと思っていたのですが、たとえばトラップ家の
子供達も、男女全員が「フォン・トラップ」名を相続しています。

指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンの父親は騎士でしたが、もともと
カラヤン家は17世紀から貴族に叙せられていました。

さて、フォン・トラップ中尉は第一次世界大戦勃発後初めて
二度目となる潜水艦艦長職に就くことになりました。

 

1915年(35歳)潜水艦U-5の艦長拝命

SMU-5 Erprobung.jpg

前回艦長だったU-6もそうでしたが、このU-5も、進水の儀式は
彼の妻となるアガーテ・ホワイトヘッドが行なった潜水艦でした。

彼女は彼女は魚雷を発明したホワイトヘッドの孫で、妙齢の独身女性だったため、
新造艦進水式にこの頃引っ張りだこだったのではないかと思われます。

冒頭画像は、U-5の艦橋にいるフォン・トラップ艦長。

サブマリナー、フォン・トラップの本領発揮はこの艦長になって以降です。
年表にはありませんが、この頃もう彼は大尉に任じられていたと思われます。

まず、4月27日、オトラント海峡で、澳=洪海軍をアドリア海に封じ込める
作戦に従事していたフランス海軍の装甲巡洋艦「レオン・ガンベッタ」に、
フォン・トラップ艦長のU-5が、二発の雷撃を行いました。


レオン・ガンベッタ

雷撃された時、地中海において潜水艦の脅威が増大していたにもかかわらず、
「レオン・ガンベッタ」は護衛を伴っていなかったといわれます。

二発の雷撃で「レオン・ガンベッタ」は10分で沈没し、乗っていた821名中
ヴィクトワール・セネ少将を含む684名が死亡し、生存者は137名でした。

同じU-5で、トラップ少佐はこの年、イタリアの潜水艦「ネレイデ」も撃沈しています。

Regia Marina Nereide.jpgネレイデ

澳=洪海軍は偵察機によりイタリアの潜水艦「ネレイデ」の存在を確認し、
ゲオルク・フォン・トラップ艦長の潜水艦U-5が急遽派遣されました。

「ネレイデ」が浮上して停泊していた沖にトラップ艦長のU-5が沖に浮上すると、
まず「ネレイデ」は魚雷発射し、これを外したため潜水を試みました。
U-5は潜水中の「ネレイデ」に魚雷1本を発射し命中。
ネレイデは全乗員とともに沈没しています。

1916年(36歳)U14艦長就任

 An Austro-Hungarian wartime postcard of the submarine in Austro-Hungarian Navy service as SM U-14.U-14

前艦長の病気でU-14の艦長に就任したのがフォン・トラップでした。
彼が艦長になってから、U-14は爆雷を受けていますが、損害箇所の修理とともに
近代化を施したU-14を、再びトラップ艦長が指揮し、
世界最大の貨物線ミラッツォなど、11隻の撃沈記録を打ち立てます。

U-14はその後、艦長が二人交代しましたが、この二人をもってしても
トラップ艦長の戦績を超えることはできなかったということです。

U-14の、全てフォン・トラップ艦長の指揮による戦果をあげておきます。
これらの戦果は全て撃沈で、撃破はありません。

Vessels sunk while in command of U-14 DateVesselNationality  28 April 1917 Teakwood  United Kingdom   3 May 1917 Antonio Sciesa  Kingdom of Italy   5 July 1917 Marionga Goulandris  Greede   23 August 1917 Constance  France   24 August 1917 Kilwinning  United kingdom   26 August 1917 Titian

 United kingdom

  28 August 1917 Nairn  United kingdom   29 August 1917 Milazzo  Kingdom of Italy   18 October 1917 Good Hope  United Kingdom   18 October 1917 Elsiston  United Kingdom   23 October 1917 Capo Di Monte  kingdom of Italy

1918年(37歳)Uボート基地指揮官としてカッタロに転任

37歳で潜水艦隊司令というのは異例の昇進の速さだと思いますが、
トラップ艦長が打ち立てた戦果の賜物です。

潜水艦隊司令なのに少佐だったというのも、年齢が達していなかったからでしょう。

11月11日、第一次世界大戦終結

大戦中のフォン・トラップ少佐の撃沈記録は、総数12隻(45,668総トン)。

叙勲された勲章は以下の通りです。 

マリア・テレジア軍事勲章騎士十字章

レオポルト勲章騎士十字章

プロイセンの一級鉄十字章

オットー戦功章 

カール勇猛章等ドイツ領邦の勲章も受章

そして、これらの功績により、騎士に叙せられました。

 

ゲオルク・フォン・トラップ少佐は海軍の、いや国の英雄だったのです。

この軍歴と功績を踏まえた上であの映画の「トラップ大佐」を改めて見ると、
かっこいいのは外見と階級だけで、実に滑稽な演出によるカリカチュアされた
軍人像(例えば子供達に軍隊式に行進させたりとか)に当てはめて表現されており、
マリアはもちろん、子供達も、フォン・トラップ少佐の海軍の同僚も、
とにかく本人をよく知る者は一様にショックを受けたというのがよくわかります。

特に、海軍時代の少佐の部下の一人は、養老院でこの映画を初めて観て、

「フォン・トラップがコケにされているように感じ」

怒りを覚えた、とまで言っていたというのです。

しかも実際のトラップ少佐は、家庭においてはとても優しい人で、映画のような
軍隊式の厳しい教育パパとはかけ離れていたため、妻のマリアは、
映画製作中、何度も夫の描かれ方について脚本を書き換えるよう頼みましたが、
最後までそれは聞き入れられることはありませんでした。

 

繰り返しますが、家族ならずともザルツブルグの人々は、
「サウンドオブミュージック」という映画にずっと冷淡な目を向け続けました。

アメリカ人視点で語られている併合下のオーストリアについての描き方も、
ヨーロッパの人々がこの映画に反発する大きな原因です。

自由な民主主義国家のオーストリアを虐げるために併合したナチス、
そしてフォン・トラップはそのナチスと戦う善、のような描き方は、いかにも
善悪二元論で無条件にナチスを悪者にするハリウッドならではだと思います。

オーストリア併合・アンシュルスの現実は、決してハリウッドの善悪論などで
全てが語れるような単純なものではありませんでしたし、
もっと根源的なことを言えば、フォン・トラップはオーストリア軍人で、彼自身は

「オーストリア・ファシズムの立場からナチスと権力争いをしてその結果破れた側」
(wiki)

に立っていたに過ぎず、映画に描かれていたような「自由オーストリア対ナチス」
と言う構図は全く当てはまらないといえます。
もっとわかりやすく言うと、アメリカから見たならば、ヒトラーとトラップ、
どちらも同じ穴の狢と行っては何ですが、政治的方向性は同じくしていたはずなのです。

さらに皮相的な推察をさせていただければ、当時ヒットラーは、オーストリアの英雄、
フォン・トラップ少佐を客寄せパンダ的に我が方に取り込みたかったのに対し、
トラップはオーストリア人でありながら併合と言う形で祖国を裏切ったヒットラーを嫌悪しており、
かつ隷属的な立場に降ることを拒否し、亡命を決意したという見方もできるかと思います。

 

以上のことから、我々日本人は、トラップ一家が亡命したという結果だけを見て、
アンシュルスの実態に目を向けないままハリウッドの「歴史修正」を
単純に信じ込まされてきたという見方がなりたちます。

だとしたら、あの映画が歴史音痴の日本人に与えた「悪影響」は計り知れません(笑)


蛇足ですが、イタリアで「サウンド〜」が上映されなかったのは別の理由によるものです。

海軍軍人フォン・トラップは、彼らから見ると、自国の商船を何隻も沈めた極悪人で、
しかも、当時の同盟国ドイツに対し自由のために戦うという「善」として
英雄のように描かれているのが許せない!というのがイタリア人の見方だそうです。


何が言いたいかというと、こんな面倒臭い案件を、独善的なストーリーで
映画にしてしまうアメリカという国を、当事者含めヨーロッパの人々は
いかに苦々しく見ていた(見ている?)か、ということなんですね。

ヨーロッパ人に「アメリカ嫌い」が多いのも宜なるかなといったところです。


さて、ザルツブルグの通りにあった「サウンド・オブ・ミュージック」ショップですが、
つまり当時を知る人がいなくなって、観光客向け(しかも、あの映画のおかげで
昔から『聖地巡礼』に訪れる日本人は昔から多いとか)に稼ごうと考える
商売人も現れつつあるということなのでしょう。

誤解がないように書いておくと、オーストリア人はハリウッド映画は無視しましたが、

西ドイツではこの映画の9年前、トラップ一家の物語を題材とした映画『菩提樹』、
『続・菩提樹』が制作されており、ドイツ語圏でのハリウッド映画の不評とは対照的に
『菩提樹』は「1950年代で最も成功したドイツ映画のひとつ」とも言われている (wiki)

ということなので、トラップ一家が嫌われているというわけでは決してありません。


それより、当ブログ的に最後に触れておきたいのが、K.u.K、
オーストリア=ハンガリー海軍の消滅です。

もともと海のない国に生まれた海軍でしたが、第一次世界大戦に敗戦し、
1918年にオーストリア=ハンガリー帝国が解体されると、海軍の艦艇や軍人は
分裂した諸国や戦勝国へ分割されてしまい、消滅することになりました。

「一度消滅した海軍が復活した例は日本だけ」

と云われるように、オーストリアには以降海軍と名のつく組織はありません。

フォン・トラップ少佐が、それ以降の長い人生で、特にアメリカに亡命した後も、
海軍時代のことはもちろん亡命についても一言も語らなかったことが、
彼の深い悲しみと海軍消滅がその人生に落とした影を物語っているような気がします。

続く。

 

 


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